ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の危険思想2-2

 
  楽山の危険思想2-2
 
 『安楽の門』大川周明
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25578706.html
 
 
楽山の、親孝行から国家信仰への誘導、宗教を国家に帰する極端な右翼思想が、長~い引用とともに、剥き出しになっています。楽山は、丁寧語で書いている分、より陰険で狡猾で過激な右翼思想屋だと思います。とても危険だと思うのは、書いてあることに、理路も節操もないことです。
 

*母
著者自身はどのような宗教を信じているのかといえば、母が本尊であるという。

私は、吾母を念ずることによつて一生を安楽に暮らして来たのである。それ故に『汝は何うして安楽に暮らして来たか。』と問はれるなら、私は即座に『母を念じて暮らしたからだ。』と答える。
(同上、p.62)
数年以前に天満天神・阿弥陀如来八幡大菩薩を本尊とする母の信仰を簡単平明なものと考へた私が、一層単刀直入に母を本尊とすることによつて安心を与えられることになつたのである。
(同上、p.210)
 」
母が本尊だと言われると、正直「なんじゃそりゃ?」と思わないではいられないが、どうやらこの話にはもっと奥行きがあるらしい。少し長いが、話の筋道が分かるように引用することにする。

さて一家の先祖が其家の神として崇められるやうに、多くの家族が相結んで部族を形成するやうになれば、諸家族の共同の先祖として信仰される部族神が、各家族の先祖よりも一層高位の神として崇拝される。そして其頃には先祖以外にも色々崇拝の対象が現れ、人間生活の宗教的一面が次第に複雑になつて来たので、茲に専ら祭祀を事とする一個の階級がうまれるやうになつた。次で多くの部族が一つの国家に統一されるやうになれば、部族全体の祖先が国祖として国民崇拝の対象となる。多くの国家では、内外幾多の原因から、建国当初の精神が中断又は断絶したために、国民の国祖に対する宗教的関係も自ら消滅せざるを得なかつた。其等の国々では、国民の生命の本源たる国祖を認めず、直ちに宇宙全体の本原たる神を父と仰いで居る。唯だ日本の場合は、建国当初より今日に至るまで、国祖の直系連綿として国民に君臨し、民族の歴史的進化が一貫相続して中絶しなかつたので、国祖の精神を永遠に護持する天皇に対する国民の関係は、今日尚ほ鮮明に宗教的である。それ故に天皇に対する『忠』は、その本質に於いて父母に対する考と同一である。忠孝一本と言はれるのは其のためである。それ故に日本人の場合は、子女としては親に考なること、国民として天皇に忠なること、そして一個の人間としては天を敬することが、三者一貫せる『敬』の具体的発言であり、従つて日本人の宗教である。
(同上、pp.200-201)
 」

 
楽山は、まとめることが出来ないようです。
「国祖の精神を永遠に護持する天皇に対する国民の関係は、今日尚ほ鮮明に宗教的である。それ故に天皇に対する『忠』は、その本質に於いて父母に対する考と同一である。忠孝一本と言はれる」
・・右翼思想の宣伝でしょう。
 
人間に不変な者などありません。神が不変でも、人は変わります。それが、改善、発展、平和、幸福につながるかどうかで、思想は、評価されるものだと思います。最初から不変なのは、神域であり、それは、人間の知るところではないのです。
 
神の全能と人の不完全を、混同する向きは、いたるところにあります。以前、シャローム shalom が、似たようなことを言っていました。"日本教" の話です。こういうところを見ると、やはり、楽山とシャロームは、つながっていると感じます。尊敬と信仰は、同じでしょうか、否です。
 
人間は、自分の言動の影響を、影響がなくなるところまで追うことは出来ません。ゆえに、良かれと思って傷つけるということが起こります。だから、人間は、できることをして、結果を反省することで成長を期するわけです。そういうことをせず、理解も出来ない者が、大口をたたいています。
 

日本では忠孝一致になるという話は聞いたことはあるが、敬天も一致するとはおもしろい。今風にいえば、忠孝信が一致するということだろうか。母を敬し、信じることから、先祖崇拝に発展することは分かるが、それが忠孝信の一致にまで行くとは驚かされる。こういう理屈は愉快な心持ちがする。

 
楽山は「愉快な心持ち」だそうです。楽山は、右翼の宣伝マンなのでしょうか。国家や慣習で、宗教や信仰を決める傾向は、大いに悪用されてきた歴史があります。心のない楽山は「理屈」と言って、「忠孝信」のないところから、それを説いたつもりで、満悦しています。
 
信仰は、個人と神の関係であり、何でもいいのではなく、聖書によって、示されています。そのための、愛と共感が、楽山には皆無なのです。だから、宗教と信仰について、楽山には、黙っていろと言いたいわけです。
 

*神のイメージ
著者による神としての母は、次のようなイメージであるらしい。

私は『下獄の際には仕方がないと諦めた。』と言つたが、その諦めは、私が心の中で『母上、私は監獄に往つて参ります。』と挨拶しただけで、いとたやすくついた。それは三度とも其通りである。わたしのこの挨拶と共に、慈母の悲心、一瞬に山川百里を越えて、まつしぐらに私の身辺に飛到する。わたしが何事をも頼まないのは、母は私の求める一切を知り尽くして居るからである。赦せと願はぬ前に、母は私を赦して居る。暗いと嘆く前に、すでに燈明を用意して居る。淋しいと訴へぬ前に、すでに私を慰める。いや、吾母は私が求めようともせぬものまで与へてくれる。その証拠には、慈母の悲心を吾身に感ずるその瞬間に、私はもはや何ものをも求めなくなる。何ものをも求めなくなるのは、その場合の私に最も必要なものが与えられるからである。そして此の求むるところなき心こそ、もっとも安楽な心である。
(同上、p.46)
 」
意外なことに、これは自分の神のイメージと似てる。というより同じだといってもいいくらいだ。

 
楽山は、要約も出来ず、長いと読みづらいということも考えないようです。
 
楽山は、何でも赦して、何でも与えて、受け入れる母性に、神のイメージをいだいているようです。この母上には、楽山に書くのをやめるように言っていただきたいものです。
 
「慈母の悲心を吾身に感ずるその瞬間に、私はもはや何ものをも求めなくなる。何ものをも求めなくなるのは、その場合の私に最も必要なものが与えられるからである。そして此の求むるところなき心こそ、もっとも安楽な心である。」・・この部分は、母=神なのでしょうか。
 
この部分は、言葉上、キリスト教の、神信仰と似ていても、人間の母は、神とは違います。したがって、人間は、過ちを犯すことがあります。
 
愛する息子が、楽山のことですが、自分カルトとなって、理路もなく、情緒もなく、名のある人の言葉を恣意的に悪用して、他者の意見を無視して、それを、神?になぞらえるとき、息子に対して、何でも正しいと支えてくれる母の愛は、依怙贔屓の偏愛の域を出ないのです。
 

自分と神のイメージを共有する人はどこにもいなそうだと思っていたが、先行者がいたというのは嬉しい。やはり自分が思いつくようなことは、とっくに誰かが考えているということなのだろう。いつも思うことではあるが、この世に新しいものはないというのは本当のことなのだろう。

 
先行者がいた」・・気持ち悪いです。自分と同じレベルの人が著者だ、という自慢になることを、楽山は、考えないのでしょうか。それとも、承知の上で、自慢しているのでしょうか。どんどん、堕ちてゆく楽山です。書くほどに、そうなってきたのでしょう。
 
楽山が、"この世に新しいものはないというのは本当" だと思うなら、どこにも響かない自説を振り回すことはしないでほしいものです。楽山の書いたものに、独創的で、良い影響を与える、と言えるものが、どこにもないということが根拠です。
 
楽山は、上のほうの引用のような母の愛には、恵まれていないのかもしれません。ゆえに、楽山は、引用したイメージだけを讃え、自分が母に、どういう愛を向けたかを語っていません。それに、神のように絶対に正しい愛の母はいないと思います。
 

自分が抱いている神のイメージは、母性的な存在だという自覚はあったが、本書を読んでさらにその自覚は強まった。「赦せと願はぬ前に、母は私を赦して居る。暗いと嘆く前に、すでに燈明を用意して居る。淋しいと訴へぬ前に、すでに私を慰める」という部分は、まさに「祈らずとても神や守らん」ということでもあろうし、かたじけなさに涙こぼれる心持ちがする。

 
まえにも似たようなことを言っていましたが、軽々しく神に母性を当てはめる楽山です。祈らなくても守ってくれる神?を欲しているようです。神を恐れない身勝手な者は、何でも自分で作り出してきます。その神?が、何でも与えてくれるからと、また、自己中の正当化です。
 
そして、「涙こぼれる心持ち」などと、いつもの、感動芝居で、心にもないことを言ってきます。こういう楽山の白々しさは臭気を持つようです。放屁のようです。今までの経過から、嘘だと思います。むしろ、そこに、楽山の詐欺性と反宗教が、証拠として表れてくるのです。
 

それにしても、このくらい貪りから離れたら、さぞ心穏やかであり、神への感謝によって心は満ち、強いてどこかの宗教にしがみつく必要もなくなるのは当然だろう。自分はこういう心境とはほど遠いが、いつかは辿り着きたいものである。

 
神が人に与えた節操を知らずに、勝手に、"神への感謝によって心は満ち"、しかし、宗教は不要と言っている自己矛盾です。楽山が辿り着くのは、多くの被害者によって裁かれる詐欺的偽善者の末路の心境でしかないでしょう。
 

*全体の感想
大川周明については、前にも書いたように東京裁判での奇行から、あまりよい印象は無かったので、その著書を読んだり、人となりを知りたいという気にはなれなかった。でも本書を読んでみると、その宗教観にはさして異論もなく、よく了解できた。もしかしたら自分は、大川周明に対して、いわゆる食わず嫌い状態になってしまっていたかもしれぬ。

 
「よく了解できた」などという気安い肯定は、最初から、まるで工程のように決まっていたと思います。過激な右欲の思想家である大川周明は、知能の高いナルシストだったのかもしれません。楽山は、知能の高くない病的ナルシストだと思います。
 
こういう人が、高い知能にあこがれると、ろくなことはないのです。自己愛性パーソナリティ障害NPDが、原因なのか、結果なのか、不明瞭になっていますが、今、病的ナルシストとなっていることは、明かと言ってよいでしょう。
 

本書の中で、自分がもっとも強い印象を受けたのは、上の母に重なる神のイメージと、親孝行が絶対的な神への信仰につながるという理屈だった。親に感謝すれば、親を育んだ先祖への感謝となり、次にはその先祖を育んだ民族神、さらには国の神への信仰となり、最後には絶対の神への信仰に行き着くと…。なにやら修身斉家治国平天下のような雰囲気もないではないが、自分にはこの考え方は分かり易くていい。

 
なんて単純なのでしょう。もろに、個人の自由を無視した右翼思想になっています。300万人の日本人の犠牲を出した戦争の歴史を学んでいない証拠でしょう。残酷な心性だと思います。結局、国家主義の「民族神、さらには国の神への信仰」を勧めています。
 
神への信仰が、あとだそうです。すごい身の程知らずで、信仰知らずだと思います。しかも、「親孝行が絶対的な神への信仰につながる」そうです。楽山のスタンスが、はっきりしてきました。そして、立場が崩壊しても、言い続けるのでしょう。立場も挫折も、関係ない自己満悦の楽山でした。
 

人は神によって万物の霊長としてつくられたのであるから、自然を管理、支配する権利義務があるというよりは、自分が今あるのは両親、祖先のおかげであり、両親、祖先があるのは民族や国のおかげ、民族や国があるのは自然のおかげ、自然のあるのは神様のおかげ…という具合に、両親、ご先祖様、自分の生まれ育った土地の神、民族神、国の神、自然の神、絶対神…天地一切のものに感謝をささげるという方が、自分には合っている。

 
上の続きで、楽山の思想が表れています。つまり、正体がバレています。楽山という右翼は、国の神信仰であるならば、何でも感謝し、国のために命を失ってもいいと言うのでしょうか。歴史の史実としては、空襲で母を失った人が大勢いるはずですが。
 
これだけ大きいことを言った楽山は、国のために何をしてきたのでしょう。ネットを、じわりじわり、荒らしているだけす。楽山という万物の霊長は、他の万物の霊長の生活も人生も命も、どうでもいいのでしょうか。右翼過激思想屋、楽山の暴言であります。
 

本書を読むことで、こういう自分の宗教感覚を再確認できたのはよかった。本を読んでいて、これは反対だ、これも反対だと批判ばかりが心にうかんでくると、何でも反対屋になったようで気が滅入るが、共感できる箇所がたくさんある本を読むと、何やら自分が素直な人間になったようでなかなかいい気分だ。

 
再確認したのだそうです。怖いことです。共感という言葉を使っていますが、上の思想、共感の対象になるのでしょうか、素直と言えるのでしょうか。テロリストにでもなるつもりでしょうか。戦争を望んでいるのでしょうか。それで、何か、偉い地位にでも就きたいのでしょうか。
 
楽山の妄想です。それだけです。空想屋・妄想屋・偽善者・詭弁屋・自己愛性人格障害者に用意される椅子は、ギャング以外、電気椅子以外、どこにも何もありません。決して、楽山に近づかないでください。楽山から、身を守ってください。
 
明日、もう一つ、大川周明の記事を再録+加筆して投稿します。
 
 

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             妄想思想の不健康な暴発
 
 
(2020年07月22日、同日一部修正)
(2021年07月25日、再録+加筆)
 
 
 
  暴走の自由
 
総てが自由に走り始めている世界で
自由の勢いに任せて
うっかり死の命令形を
口から滑らせたばかりに
自分が死に定められていることを忘れて
年々歳々変わり果てていって
買ってくれる人も気にとめる人も
少なく遠くなってきて初めて
にわかに慌て始め
追ったり縋(すが)ったり
が当然ながら無味異臭の世界から
境界へ限界へ果てへと向かってゆくのだが
そのときには既に遅いでも早いでもなく
刺青(いれずみ)のように刻み込まれた
実は誰も属してなどいない
群れの柵(しがらみ)の
土産(みやげ)物の辿(たど)る宿命として
命令・暴力・暴走の終着近く
発した死が折り返して
迎えに戻ってくるのは
まさに人とその産物の自由なのである
 
(2000年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
論語みたいな考え方ですね。
論語:里仁第四 〔18〕 父母に事えては
https://blog.goo.ne.jp/yusuke1012/e/deed6219f86d72062b745a0b97caa9f8
引用ツイート

HJ_oekakiman
@hj_oekakiman
· 7月22日
二世の皆様へ。
例え、教会で何か気に入らない事があったとしても、ご両親がいわゆる狂信的で、窮屈な思いをした事があったとしても、それでも御父母様を批判する書き込みはするべきではないと思います。
このスレッドを表示
 」

 
事える(つかえる、仕える)
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
楽山は「論語みたいな考え方ですね」と書いて、何が言いたいのでしょう。この記事の上のほうで、信仰を貶めて、国が先、神が後、と言っていたのは楽山です。楽山という右翼の暴言者、国粋主義者、日本主義者、国家主義者は、国を守るだけでなく、神を軽んじ、他者を無視しています。
 
楽山は、人それぞれ、個人の自由、などを強調して、自らの自分勝手なエゴイズム・自己中・自尊過大・自己愛を正当化していますが、他者の個人の自由を認めていないことが明らかとなっています。親に孝、君に忠を主張して、斬られるのは、自分だけに忠孝の楽山自身なのです。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、その場その場で、思いついたことを節操もなく、よだれのように垂れ流してきますが、責任を負わず、反省しないので、主張に一貫性が全く見られません。楽山に対して、批判目的以外では、近づかないでください。もはや精神衛生の問題なのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
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(古い記事もインポート済み)
 
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