ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山が仕掛ける罠

何の魅力もないことをネチネチ書いてくる楽山が、また、キリスト教を否定するために罠を仕掛けてきたので、予定を変更して、おぞましい蛇と化した楽山を批判します。
 
 
  楽山が仕掛ける罠
 
 『信じない人のためのイエス福音書ガイド』中村圭志著
 2021年07月25日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/29925074.html
 
 
(ネットより)
中村圭志(なかむら けいし、1958年 - )は、日本の宗教学者、編集者、翻訳家。 北海道小樽市生まれ。北海道大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%9C%AD%E5%BF%97_(%E5%AE%97%E6%95%99%E5%AD%A6%E8%80%85)
ウィキペディア
 
なおも、キリスト教と信仰に、茶々を入れようとする楽山です。こういうところに、楽山の、自己愛性パーソナリティ障害(人格障害)NPDが表れてきたのです。自分の非を認めない、なぜなら自分は正しいから・・という命題が病質になっている評論家気取りの楽山です。
 
こういう人とは、いかなる議論も、交流も成り立ちません。付き合えば、恐ろしい徒労と疲労が待っています。そして、トラウマとして残るでしょう。楽山を全否定するしかない理由と根拠も、こういうところにあります。著者は、楽山に、悪用されています。スキを与えてはいけません。
 

*読み応えがある本
本書はタイトル通り、キリスト教の基礎知識を紹介するものであるが、「宗教について懐疑的な人の合理精神を極力尊重して」著されているところ、四つの福音書を横断的に説明し、それぞれの特徴と差異を明らかにしているところ、福音書の各場面についてキリスト教内における解釈とともに著者の考えも提示されているところは読み応えがあり、大変勉強になった。
以下に、本書のなかで特に印象的だった箇所と感想を書いておきたい。

 
「大変勉強になった」・・楽山は、勉強などしない人です。都合がよかっただけだと思います。
 

*悪魔の誘惑
まず著者は、イエスが受けた悪魔の誘惑(マルコ1、マタイ4、ルカ4)について次のように書いている。

エスの個人的体験をヴィヴィッドに見ていた人がいるはずもありませんから、これはあくまでも伝承的に創作された哲学的神話です。
(『信じない人のためのイエス福音書ガイド』中村圭志著、みすず書房、2010年、p.156)
 」
これは極めて現実的な読み方ではあろうが、「それを言っちゃあ、おしまいよ」という感じになっているのはおかしい。

 
伝承的に創作された哲学的神話・・その可能性がある、というところにとどめるのが、信仰者の態度です。それでも学ぶことはあるということです。神話、言い換えれば、お伽噺と断定してしまうと、神を決めつけることになり、背教ということになります。
 

*奇跡
著者は、奇跡物語についても容赦ない。

治療師があちこちでヒーリングをやっているとすると、治らなかった事例は忘れられ、治った事例は印象深く語り継がれるものでしょう。奇跡譚ばかりがたまってしまうのは自然の成り行きです。
(同上、p.165)
 」
奇跡は無かったと決めつけることからすれば、その元になる出来事は実際あったろうとしているところは柔軟ではあろうが、これだと奇跡の有難味が大分薄れてしまう感じがするのはさみしい。

 
これも、可能性の話です。このように、キリストの奇跡を、「治らなかった事例は忘れられ」るから、という可能性ではなく、決めつけるのは、早くこの問題を解決して、神を自分にとって既知の存在にしたい、というインテリ欲望の表れです。偽善者の楽山は、こういうエサに飛びつきます。
 
奇跡があったかなかったかについては、奇跡が神のわざであり、心の奇跡以外は人間には分からないことであることを知っているなら、物や肉体の奇跡については、・・分からない・・と正直に言うのが人間としての正答だと思います。無知の楽山が、こういうエサに飛びつかないようにしたいです。
 

*神義論
本書では、ユダの裏切り(マルコ14、マタイ26、ルカ22、ヨハネ13)に関連して、自由、責任、神義論にも触れている。

ユダの裏切りもまた、自らの意思、神の計画の両面から規定されています。ユダが神の傀儡だとすると、自分の行為の責任はないはずです。しかし、そういう解釈は許されないことになっています。
(同上、pp.204-205)
 」

 
紋切り型の理屈の解釈です。聖書は、心の書であります。人間の心によって理解するなら、ユダがどういう存在かは、神に任せる問題であり、やはり・・分からない・・というべきなのです。理屈だけを追うと、こういいう、楽山の罠にはまって、悪用されてしまいます。
 
神という全能の御方の力を信じていないから、結論を自分で決めつけてしまうのでしょう。わからないと言えなくなるのです。我を張ったがゆえに、それは、そのまま、楽山のような病質者のご馳走になります。楽山のような悪魔性の反キリストは、自尊のために他者の自尊が大好物なのです。
 
この記事には、信仰に楽山のような悪魔性が仕掛けてくる罠と、信仰者にとって、信仰について、餌食となる思考と、逆説的に、あるべき本来の思考が表れています。「さみしい」は、そのまま、反キリスト楽山の、ほくそ笑みと思うべきです。罠を仕掛けてくるのが、楽山という反キリストです。
 


そもそも人間の対局として設定された絶対神なるものが、謎めいた存在です。絶対神が万事お見通しであるのならば、人間は自分の悪に責任をとる必要はありません。しかし、原理上、そういう解釈は許されません。ユダの場合もこれと同様です。
(同上、pp.205-206)
 」

 
典型的な教条的解釈です。著者は、神の原理を知っているとでもいうのでしょうか。「人間は自分の悪に責任をとる必要はありません」・・何を言っているのでしょう。それは、神の前に、正直に告白できる人だけです。著者は、赦しのことを忘れたのでしょうか。
 

「そういう解釈は許されないことになっています」ということからすると、やはりここは微妙な問題であり、深く突っ込んではいけないところなのだろうか。
宗教にタブーはつきものだし、これも仕方のないことなのだろうが、「そんなことは考えてはいけません」と言われると、余計に興味がわいてくるから困る。

 
神について、ああだこうだ、だからいない、だからいる、などという解釈は、神の全能を持たない人間には、基本的に、できないことと知るべきであります。そうでないと、楽山のような反キリストが、喜んで、タブーがあるのか・・「余計に興味がわいてくる」などと、勢いづいてきます。
 

*犠牲
十字架の意味については次のように説明されている。

イエス・キリストの死という犠牲の供物によって、債務を帳消しにしたのです(ユダヤ人はもともと犠牲獣を神殿に捧げることで罪を祓っていたので、これはその延長上にある発想です)。
(同上、pp.208-209)
 」

 
このような教理話で、疑問に答えようとするから、心の無い教条と呼ばれ、かつ、温もりも潤いもない、平板で、深い情緒を持って人を動かすことのできない理屈となって、盲目的な信徒をうなずかせ、楽山のような背教徒を喜ばせることになります。
 

自分はこの発想については、当時のユダヤでは律法を守れなかったときは犠牲(汚れていない清らかなもの)を捧げることで罪を赦されたことから発展して、人類の罪が赦されるには、汚れのない清らかな神ご自身が犠牲になる以外になかったという論理に至ったと理解しているけれども、正直言ってこれにはどうしても違和感を覚えてしまう。

 
ああすれば、こうして、という、まるで取引のような、楽山の屁理屈話になっています。信仰を支えるのは、キリストの言動全体がもたらす愛と共感であり、不十分ながら、信仰者の、キリストへの愛と共感であります。楽山は、幼稚な小学校レベルの理屈で信仰をオモチャにする欠格人です。
 

「神様は血を厭い、殺生はよろこばない」という感覚が心に染み付いているせいか、神殿で殺生をしたり、血を流したりしたら、赦されるどころか神罰がありそうに思えてならないのだ。たぶんこれは自分が神道的な文化のなかで育ったためなのだろうが、キリスト教には共感するところも多々ありつつも、こういうところには異文化を強く感じないではいられない。

 
よろこばないが、神は裁きとして、人の思惑を超えたことをなさる御方だから、恐るべき存在です。そういう神への恐れが、芸能ファンレベルに堕ちている傾向が憂慮されます、そういうことだから、巷ではアーメンソーメンなどという揶揄もされるのでしょう。
 
神を愛するのは、愛することが赦されるのも、愛するようになるのも、キリストゆえであります。キリストこそが、神の、人に対する愛を、具現化した御方であります。そのことを、十字架は語っているのです。楽山の取引話は、糞尿の価値もありません。楽山は、エイリアン的な異世界人です。
 

余談ながら、神の体を食べ、血を飲むことで清められるという発想も自分にはよくわからない。肉食を避け水によって清められるというならわかるけれども、神の体を食べ血を飲むというのはすごく怖いし、清さ美しさを感じるのは難しいのだ。ここもキリスト教のうちでどうしても合点が行かない部分ではある。

 
こういうのは誤解というより、悪意による愚かな曲解です。キリストの血と肉の聖餐は、キリストが犠牲となったことの象徴的な儀式ですが、楽山は、実際の飲食のように、揶揄してくる教条主義の狂気であります。不治のようで、訂正不能で、治せる者もおらず、薬もありません。
 

*反省とゆるし
著者によると、反省とゆるしについては、マルコ福音書とルカ福音書ではちがいがあるという(マルコ2、マタイ9、ルカ5)。

マルコのイエスは無条件的に(つまり相手に反省を求めずに)人々を赦して歩いているように見えますが、ルカになると倫理的反省を条件にしています。
(同上、p.167)
 」
聖書を確認してみるとこうある。
「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マルコ2:17)」
「イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31-32)」

 
どうして、キリスト者なら、罪人を招くのに、当然だから、悔い改めが省略されていると解釈が出来ないのでしょう。罪人を招くのは、罪の赦しによります。罪の赦しの大安売りなどするわけがないのです。
 
それよりも、はるかに重要なのは、正しい人を招くためではないことです。神の前に、正しい人は、一人もいないからです。
 

マタイ福音書はマルコ福音書寄りのか書き方であること、マルコ福音書がもっとも早く成立していたろうことなどからすると、悔い改め云々はルカが後から付け足したものにも思えるが、後から付け足されたからといってイエスはそんなことは言っていなかったと断言はできぬことではある。はたして
現実のイエスはどちらの考え方をしていたのだろうか。

 
まるで、興味本位に、嬉しそうに「イエスはどちらの考え方をしていたのだろうか」と書いています。これは、今までの経過から、揶揄であり、笑って書いているのです。よくよく読んでください、楽山は、「どちら」と、勝手に二者択一にしています。楽山は、極めて狡猾な詭弁屋です。
 

世の中には、はっきりしたこたえを見いだせない問題が山ほどあるものだけども、これもそのうちの一つのようだ。

 
はっきりした答えが見いだせないのは、今も、楽山が、のうのうと書いていられることです。信仰者でもなく、知らないことなのに、救いの「す」の字も与えることが出来ないのに、疑問と否定だけを書いて、病質の自覚がなく、正常な人間性がないとしか思えません。楽山は、恥を知らないのです。
 

*まとめ
本書は、著者が「はじめに」で触れているように、「信じる信じないをとりあえず棚上げして、懐疑的な視点を保ったまま宗教の言語に(ここでは福音書の言語に)接触できる場を提供すること」を目的としている著述なので一部の熱心な信者には歓迎されないかもしれないが、信者ではない一般人が客観的現実的な視点からキリスト教を知るという点では有用であろうし、タイトルにある通り信じない人(非信者)には是非ともお勧めしたい一冊である。

 
懐疑の視点を保ったまま、というところの、対象は、自らの解釈であり、それは、誰もが持つべきものです。解釈が完成することはなく、そこを、悪魔性が、取り入ったり、わなを仕掛けたり、揶揄したりするのです。
 
したがって、引用された本書は、「信者ではない一般人が客観的現実的な視点からキリスト教を知るという点では」全く有用ではなく、さらに、楽山のこの記事は、その欠点を突いてくるような悪だくみを持つ偽善の反キリストの言であります。罪の自覚のない楽山は、害にしかなりません。
 
いつもそうですが、楽山の言は、いちゃもんを言ってくるが助けにはならない、反キリスト・反宗教の偏見の捏造者であり、誰も助けることが出来ないのに、いつも妨害を企んで、いつもお高くとまって、神さえも俯瞰できるような態度を取る、実は、スッポンポンの裸の王様の垢すりであります。
 
楽山の、もっともらしい言葉を受け入れないでください。本性は、人が苦しむのを見て笑っていられる男です。救いの言葉をあげつらっては、なんの質量もなく、からかっているだけです。楽山に近づくと、異常な疲労~病気になります。決して、相手にしないでください。
 
 

       f:id:stdsts:20210726002157j:plain

               罠を仕掛ける者
 
 
(2021年07月26日)
 
 
 
  蛇と蛭と鼠の人
 
誰しも蛇の腸管や
蛭(ヒル)の下垂体と鼠(ネズミ)の甲状腺
ぐらいは飼っているものである
 
強い蛇を飼っていれば
いつも毒を吐いているので分かりやすい
しかし多くは鼠が摂食の抑制を掛け
さらに蛭が吸血の抑制を掛けるので
面と向かっては毒を控え
蛭が丸くなり鼠が蠢(うごめ)き出すとき
本人がいなくなったところで
活性化した蛇の舌をぺろりと出して
さりげなく口臭のような毒を吐き
人の印象を吹き込む
意識的か無意識にか
思わず或(あ)る時か
という罪の軽重は
人には測り難(がた)い
 
奸計(かんけい)と小細工を弄(ろう)して世渡りをするような
最も凶悪なホルモン性の動物は
その測り難さを利用する
 
(2000年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
佐々木敦
@sasakiatsushi
·10時間
「文脈をちゃんと読め」という言説には「なんでわざわざ読まなきゃならないんだ」で返されるし、そう返されても仕方ないのがSNSなのだと思う。問題は事実ではなく感情のフックであり、理屈ではなく憤懣の一時的解消なのだから。だから「本当は違うんだ」と釈明しようとする努力は正否を問わず虚しい。
午前9:06 · 2021年7月25日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/sasakiatsushi/status/1419086529167720453

 
引用元を批判するつもりはありません。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害(人格障害)NPDのために、こちらの書いた文脈を読むことが出来ません。また、自分の書く文脈を組み立てることが出来ません。代わりに、狡い詭弁と嘘を使って、まともに見せかけてきます。
 
楽山には、羞恥心、深く悔いる気持ち、罪悪感、しんみり悲しむ心、などの、高等感情がありません。だから、批判に答えることも弁明することもせず、平気で、人を笑ったり、新しい反キリストの記事を書いたりができます。楽山の感情は、恐らく、あざ笑いと憎しみだけだろうと思います。
 
楽山の表現は、「憤懣の一時的解消」だから、「「本当は違うんだ」と釈明しようとする努力は正否を問わず虚しい」ということです。楽山を決して相手にしてはいけません。楽山は、人を傷つけることで、自らの、人並み以下の頭脳を誇り、自負心を満足させるのです。
 
楽山が引用するのは、こういうことはいけないですね、私は大丈夫ですけど、という、免罪符のようなものですが、嘘です。今まで、ずっと、楽山は、自分に当てはまることを人に向けてきました。まるで、ことの是非を、早い者勝ちで決めるかのようですが、そのような方法はありません。
 
そういう楽山ですから、自己正当化の手段を選ばないと言えるでしょう。他者の発言も、本の言葉も、都合がよければ、引用し、利用し、悪用して、偽の知性と整合性を捏造する人です。もはや、精神衛生上の病原と言っても過言ではありません。どうか、どうか、近づかないようにしてください。
 
楽山は、口を開けば、薬に見せかけた毒を吐いてきます。思慮深さに見せかけた作為の欺瞞です。人を、人とも思っていません。この2年余り、批判を続けて、まともに返してきたことがないのです。そういう批判されている状況を、完全に無視できる訂正不能の思い込み自分カルトなのです。
 
上にあげた高等感情は、人間を人間たらしめる必須の性格なのですが、楽山には、それがなく、どうやら、人間性を失った欲望動物のように思われます。自己顕示欲、自己愛、自己中、無反省、無責任、無神経、無理解の、冷血漢が人間性を装う記事に、どうか、だまされないでください。
 
正体を知れば、吐き気がして、二度と会いたくないと思うのが、楽山です。他の人々が巻き込まれないように、こちらは批判を続けています。楽山は、厚顔無恥で、いつも平然としています。結局、良心がないのだろうと思います。複数のHNに成りすましている疑いもあります。
 
今まで、3人を批判してきました。
シャロームshalom:数年間だまされた後、約10年間、批判してきました。現在、所在不明です。罪は気にしなくていい、悔い改めなくてもいい、などと言っていた偽牧師です。
易坊:シャロームとともに、ヤフー時代の私のブログを荒らしてきました。
楽山:数か月だまされたのち、2年余り、批判しています。反キリストで、一貫した思想もないくせに、キリスト教否定と肯定の記事を好きなように書いて、断定していないから責任はないと言い張っていました。右翼に傾倒しています。
 
この3人は、キャラを変えてはいるものの、独立しているのではなく、シャロームと易坊、シャロームと楽山は、仲間のようです。また、自己中、無反省、訂正不能など・・、という病質的ナルシストの特徴を持っており、同一人物の成りすましを疑っています。
 
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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