ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の逃避と堕落2

 
  楽山の逃避と堕落2
 
 『〈霊〉の探究 近代スピリチュアリズムと宗教学』津城寛文著
 2020年08月17日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25920191.html
  を改めて批判。
 
 
楽山の、本当にお気楽な空想の世界です。そこに現実逃避して、誰かが、褒めてくれるのを待っているのでしょうか。褒めてくれるのは、シャロームのような偽善者の世辞でしかないでしょう。
 

本書は面白かったのですぐ読めた。

 
気安い書き方です。今まで、楽山から、本の理解が伝わってきたことはありません。
 

全体の流れをメモしてみると、序章では近代スピリチュアリズムの始まりとその概要について説明されている。「同時的に起こる諸事件」として「一八四八年の共産党宣言」とハイズヴィル事件、「一九一七年のロシア革命」と「ファティマのマリア出現」(p.13)などについての考察や、死後生存の有無の議論と高等スピリチュアリズムの思想性の議論の違いを、シェイクスピアは実在したか否かの議論とシェイクスピア作品の中身の議論の違いになぞらえている箇所は個人的にはツボだった。

 
つまり、楽山は、またしても、すぐ読めたなどと強がって、自慢して、字面の項目を並べるしかない楽山自身の、理解不能をあらわにしています。そして、"ツボだった" と、どう気に入ったのかを言えずに、言葉面だけの賛辞を書いています。
 

1章では「比較宗教学の祖マックス・ミュラーの著作」とモーゼスの「霊訓」はその主張のみならず文章表現さえも類似性が認められることを指摘し、その理由を探求している。本章で例に挙げられている部分を見る限りにおいては確かに著者の言う通り両者の考えは似ている。ただ両者に類似性が認められることについて、著者の考えはややスピリチュアリズム的に過ぎるように感じられた。

 
大雑把なあらすじの項目のようなものを書いています。楽山は、詳しいことが書けないのです。"ややスピリチュアリズム的に過ぎる" ・・これで伝わるものは不明です。理路と共感によって中身を説得力をもって説明することが出来ないのです。
 
読書して、理解・洞察・共感が足りなければ、良心がある人は、どこが分かって、どこが分からないかを、記事にすることが出来ます。なのに、楽山は、読めた、ツボだ、としか書けません。そこに、楽山の自己愛性人格障害らしさが表れています。
 
出来ないことを、出来たかのように言う障害は、体質的なものでしょう。読めたと言って、本人は、自己顕示欲を満足させるかもしれないが、思想において、一見、読解を装う態度は、邪魔であり、迷惑であり、悪影響でしかありません。
 

2章ではスピリチュアリズムと心霊研究の間における争点…霊言を語っているのは霊なのか、それとも「媒介者」の一部である潜在意識、第二人格などなのかという問題や、守護霊という存在について語られている。

 
今までの、霊言、霊、媒介者、潜在意識、第二人格、守護霊、総て、楽山の空想で受け取った言葉です。誰も本質を理解できない代わりに、誰も否定できない、曖昧なことを言う以外に、楽山には、自分で主張する手段がないのです。だから、現実から、さらに、離れてゆくのでしょう。
 

3章では臨死体験がテーマになっているが、キュブラー=ロス、ムーディに対する批判が紹介されているところは面白い。その理屈は、治療現場では臨死体験直後の患者が、怖ろしい体験をしたと証言することがある、しかし好ましくない記憶は時間が経つことで抑圧されることがある、キュブラー=ロスらは治療現場にはおらず、したがって臨死体験直後ではなく、一定の時間が経ってから証言を集めることになっている云々ということらしい。これが本当なら、二人が語る以上に怖ろしい臨死体験は多いということになるだろう。

 
楽山は、結局、その臨死体験を認めているのでしょうか、それとも、時間がたってから証言を集めるのだから、本当かどうか分からないと言っているのでしょうか。
 
楽山は、「二人が語る以上に怖ろしい臨死体験は多い」と言って、否定していないので、前者のようです。全体に理路が不整です。自分が満悦するためにだけ書いているからでしょう。楽山の、恐ろしい・・は、興味の婉曲表現かもしれません。
 
常識的には、楽山は前者で、真実は後者ではないかと思われます。患者の臨死体験だという発言によって、臨死体験だと証明することは困難です。こういう超常現象は、根拠のない世界の話だから、楽山は、繰り返し刷り込んでゆくしかないのでしょう。本気にしないほうがよいと思います。
 

4章ではホイットンやワイスの前世療法、ケイシ―のリーディングやカルマ説、シルバー・バーチ、マイヤーズ(霊)、カルデックの輪廻説などが紹介されている。ブラヴァツキの死後、その名をかたる霊が生前の輪廻に関する自説を撤回したエピソードにも触れられている。

 
楽山は、努力せずに、反省せずに、さすが出来る人と言われたいので、どんどん不思議話をつぎ込んでくるでしょう。やさしい人と思わせ、考える人と思わせ、読書家と思わせ、実際に使っているのは詭弁と嘘ですから、それ以外、何も言えなくなってゆきそうです。
 

終章ではスピリチュアリズムと神智学オカルティズムとの対立と議論に触れつつ、両者の差異について説明されており、

 
神智学と来ました。しかもオカルティズムだそうです。楽山が好きそうな言葉です。さらに、楽山が、自分は分かるんだと、いちばん言いたい言葉なのでしょう。しかし、今までの楽山の記事の、いい加減さや、詭弁が、それを全否定しています。
 
そういう不思議な話の記事ばかり集めて性懲りもなく字面だけ披露してくる楽山は、相当なインチキだと思います。楽山は、根拠のあることが言えないから、根拠が無くてもいいような分野で、格好をつけたいのでしょう。
 
神智学について:
(ネットより)

神智学(しんちがく、英: theosophy)とは、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神とむすびついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとするものである。神知学、神知論、接神論とも。
神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するものであり、神あるいは超越者が叡智的性格をもち、宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができるとされる。
グノーシス派、新プラトン主義、インドの神秘思想などにも神智学的傾向がみられるが、狭義には以下の二つのものを指す。一つは、17世紀にヨーロッパで顕在化した近代の「キリスト教神智学」の潮流であり、もう一つは1875年に設立されたインドに本部のある「神智学協会」の思想である。
後者は近現代に新たに創出された体系であり、両者には共通点もあるが、系譜上のつながりはない。通常、神智学と言えばニューエイジ(現在のスピリチュアル)、大衆的オカルティズムの源流である神智学協会に関するものを指すことが多い。
 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%99%BA%E5%AD%A6
 
「神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するもの」ではなく、人知を超えた霊的認識?を扱っているわけです。科学ではないと思います。まるで、カルト思想の源流のようです。こんなことがウィキペディアに載っていることが、不可解です。
 
「宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができる」・・むしろ、これが、オカルトではないかと思います。
 

ここで著者は「説明を透明にするため、あらかじめ筆者の位置を明らかにしておくと、私は「高等」と呼ばれるスピリチュアリズムの思想文体に親近感をもつ一方、オカルティズム(神智学を含む)のそれには所々に違和感を覚える」(p.195)云々と信仰告白? をしている。本書の前半部分からすでに著者の文章にはそのような雰囲気は感じられてはいたが、それを明言するというのは生真面目な方なのだろう。こういう著者の文章であれば、他の文章もぜひ読みたいと思う。

 
引用元著者は、スピリチュアルに親近感を持つが、オカルト神智学にはところどころに違和感を持つ、と書いています。それで、楽山は、著者は生真面目な人だから、ぜひもっと読みたいと書いています。何か「透明に」なったでしょうか。霊感商法のような話に、楽山は興味があるのでしょう。
 
著者は、宗教学者のようですが、保身か、安全弁のつもりで書いているのでしょうか。スピリチュアルを既に認めているのであれば、学者とは思えません。実証も、実験も、一般的には出来ず、みな、特殊な個別の場合しかないのがスピリチュアルでしょうから、学問の体を為していないと思います。
 
だから、楽山のような、自己顕示欲だけの劣悪な宣伝者が寄ってくる隙が出来てしまうわけです。根拠も、理路も、説明も、要らないからです。超常という現実離れの世界に興味を持つ人は、現実に希望を見い出せない人なのでしょうか。
 
どんな境遇でも、希望を求める人間らしい心があれば、希望につながる多くの道しるべがあると思います。ただ、自己愛が過ぎて反省力や罪悪感が育たない人には分からないでしょう。
 
人間離れしてゆくと、人間らしい感性も思慮も失ってゆきます。そういう人を、ずっと批判してきました。もはや、他者の意見を無視し続けるような楽山をどうしようというのではなく、楽山みたいにならないように、楽山には近づかないでくださいと、批判を続けています。
 
楽山という自らの人格をも破壊して行く者が書き続けています。楽山は、ますます、考えることをやめて、幼稚になり、退行してゆくのでしょう。批判は、ますます単純で白々しいペテンの詭弁になってゆくでしょう。
 
 

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            退行するお伽噺(おとぎばなし
 
 
(2020年08月19日)
(2021年08月27日、再録+)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
 
  夜から夜明け
 
電灯の下
影になって
不眠の夜をおとなしくあきらめていた
 
夜明けに先立って始まる
カエルの声と
ニワトリの声と
どんな都合でないているのか
遠くから取り巻かれているように
飢えたもの
耐えられないもの
死にそうなもの
おびただしい
遠い叫び
それほどさっきまで
夜は静かだったのだ
 
オートバイに乗って
出かける頃には
もうカエル聞こえない
ニワトリも聞こえない
 
壊れつづける機械といっしょになって
朝の騒ぎにまぎれていく
ひとつと数えられない
覚えられることもない
命のまわりを走りぬけた
命の後を行く
死んだように
かつて夜は静かだった
 
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
昔々のHSなら、イエスをトップとした白色霊団が現代医療を指導している、ワクチン開発には光の天使が関係しているとして医療関係者にもっと信頼と尊敬を向けたろうに、
今のHSは、現代医療を全否定しているようで、白色霊団に対する信頼、尊敬はないみたいですね。もっと信仰を大切にしたいものです。
午後9:47 · 2021年8月25日
https://twitter.com/komo266/status/1430512232530464775

 
楽山は、昔の霊団?なるものを、よしとしているのでしょうか。「医療関係者にもっと信頼と尊敬を向けたろうに」・・正気でしょうか。それとも、楽山は、アンチだと言っていましたが、是非が分からなくなっているのでしょうか。平気で、嘘を吐いているのでしょうか。
 
「信仰を大切にしたい」・・白々しい嘘です。楽山は、信仰と宗教を、好きなだけ、おとしめてきましたが、その根拠は、小学生レベルのご利益主教の知識によるものでした。つまり、楽山は、全く整わない反キリスト・反信仰です。また、平気で、嘘を吐いています。
 
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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