ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の霊格?と人格2

 
  楽山の霊格?と人格2
 
 信仰心と霊格の関係(ツイッター
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25971633.html
  を改めて批判。
 
 
書けば、根拠もなく、自分を高める婉曲ボンヤリ言語になる楽山です。こういうのは、自分の正体を言わないで自己正当化してくるだけですから、中身を見ようとするだけで、疲労だけを与えられることになります。理非ではなく、恐ろしい因業なのです。
 

少し前に、『シルバー・バーチの霊訓(一)』の記事で、信仰者より唯物論者の方が霊格が高い場合があるという話を書いたけれども、同じ意味のツイートを見つけた。
https://twitter.com/CaIrx4KSwAxAIYO/status/1295284416194007040

 
ここに、神を信じない人でも霊格の高い人がいると書いてありますが、自分がそうだ・・とでも言いたいのでしょうか。しかし、当然ながら、楽山のように、神を信じないで、霊格どころか、人格も最低という人もいるわけです。
 

宗教や思想によって人のことを決めつけてはいけないというのは常識ではあるけれども、それを徹底するのは案外に難しいものだ。かくいう自分も、自分と異なる宗教や思想の持主を過小評価しがちなところがある。

 
宗教や思想以外にも病的人格によって人を自分より低く見て決めつけて書いてくる楽山のような者もいます。そういう者は、理路も感性も無いので、そういう者に過小評価されることには何の意味もありません。評価そのものが、出来ない人なのです。自分の評価だけ、有頂天なのです。
 

たとえば自分は政治的には保守であるし、新興宗教にはあまりよい印象を持っていない。だからどうしてもリベラルな人や新興宗教には厳しくなってしまうし、評価も低くなりがちだ。公平であろうとしてもそれはなかなか難しい。

 
政治的な立ち位置を言っているようですが、楽山に立ち位置はありません。自らを過大評価しているだけの者には、立っておれるようなしっかりした足場はないのです。したがって、楽山に、保守も革新もありません。今も、最低の自惚れが、楽山を動かしているだけです。
 

政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識などといったものは、後天的なものばかりでなく、先天的、本能的な部分もあるのだろうから、個人の努力だけでどうこうできることではないのだろうけれども、たとえそうだったとしても、公平であろうという努力は続けたいものだと思う。

 
楽山は、いかなる思想も、その中身を理解することも、自らの意見を組み立てることも、出来ない人だと思います。それで、「政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識」をいっしょにしていますが、それぞれ、異なる感性と知性が必要な、別の分野です。
 
楽山は、自分を飾る材料として、字面だけで、意味を理解していないから、なんでもかんでも、いっしょに見えるのでしょう。そして、無知蒙昧の、とてつもなく思い上がった山上の快楽の奇態を晒してゆくのです。
 
訂正不能の偏見に凝り固まって、いつも、この記事のように、自己正当化を刷り込んでくる者の信頼度はゼロです。努力の跡は、楽山の記事のどこにも見当たらず、自己正当化の詭弁だけが、いつも、手垢で丸めた紙くずのように、並んでいるという経過です。
 
楽山の、根拠をまるで示すことが出来ず、丁寧語で、良さそうに、ごまかしている詭弁と誘導の筆致を、覚えてほしいと思います。今までの批判の経過から、少なくとも、楽山は、普通でも正常でもなく、特記するべき的外れの悪意の人です。
 
無反省の自己中になると、公平などというのは最初に無視されていますから、言葉の字面だけを振り回すようになります。その手段が、刷り込みと誘導のための見かけの丁寧語、すなわち、根拠のない婉曲のボンヤリ言語です。
 
そして、ときに、反省や努力などの、言葉だけ書いておけばいいという自覚しかないところの、トホホ言語なのです。
 
こういう人が、正しいつもりで言っていることは、言論と思考の障害物でしかありません。
 
キリスト信仰では、人間は不完全であり罪深いことを自覚するのが信仰の始まりですが、楽山は、恐らく、はっきり断定することが出来ないことから、どの考えも肯定も否定しないのが正しいと思っているのでしょう。それで、賛否両方なら何を言ってもよいという言い方で責任を負わないのです。
 
推測ですが、例えば、命題Aについて、否定せず、一理ある、と言っておきながら、非Aや反Aについても同様であるなら、結局、何も語っていないのと同じであり、また、何も受け容れていないということでもあります。そんなもので、だましてくる楽山を、信用してはいけません。
 
楽山の視野には、暫定的を承知で、その時その時の判断をするのが人間らしいし、主張を変えたときには、ちゃんと修正したというメッセージが、ときには、謝罪が、必要だという人間の必然的な視野が欠けているのです。恐らく、真剣には、何も考えていないのだと思います。
 
それで、ねちねちと、宗教や思想に、クレームを入れて、成り立たないことを主張したり、それを知っている?自分が、自分で、中庸かつ冷静な言論者気取りのような自覚になって言い続けることは、それを公表してきます。
 
他者が読んで受け入れてしまうと、その先に刷り込まれる影響が、楽山ん本人に起こっているのと同じような鈍化のプロセスを通して、人格破壊の病因となってゆく危険があります。楽山の無反省と無責任は、受け入れることで伝染します。
 
 
 信者との問答は難しい
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25971873.html
 
 
この記事は、HSについて書いてあるようです。しかし、楽山の破綻が表れているようですから、抜粋して、批判してゆきます。
 

これは、「生き神様信仰や個人崇拝はおかしい」というHSの問題を指摘する意見に対して、「神を信じることは尊いし、師に学ぶことは正しい」という一般論で返すというパターンだが、信者とアンチの議論ではこういうことが頻繁にある。
自分は気が長い方だとは思うが、さすがにこんなことの繰り返しには疲れたし、いちいち注意するのも面倒くさくなったよ(笑)。

 
他者を、面倒臭くさせ、疲れさせ、傷つけ、壊してゆくのが、楽山です。今さら、改めて書くのではなく、早く書くのをやめることだけが、世の中のためです。
 

ちなみに、このズレの原因は、信者が自分の信仰を客観視できていないことにあるように思われる。

 
いちばん自分を客観視できない自己愛性妄想の楽山が言っています。こういう、病識のない、見え透いた自慢を書いてくることで、自信ありげに見せかける狙いでしょう。
 

楽山「教祖(大川隆法)は神だと崇拝し、妄信して、自分を見失ってはいけない」
信者「(大川隆法総裁は仏陀である。仏陀のような)きちんとした師の弟子となり、きちんとした指導を受けることは正しいことだ。(それにもかかわらず、仏陀である)師に学ばず、(その教えに逆らい、否定するために屁理屈を積み重ね、詭弁を弄し)自分勝手流で学んだ気になってはいけない」

 
屁理屈、詭弁、自分勝手流、・・まさに、楽山の持ち物です。
 

本来なら、カッコ内の思いは特殊であるから、それが真であることを証明しつつ語らなければならないのではあるが、信者にはそれは特殊でも何でもなく、まぎれもない事実に思えているのだろう。だからそれが真であることを証明することなく、当然のこととして自説を主張するのだろう。

 
楽山は、HS信者の思い込みを理路で分析しているつもりの文章を書いていますが、そういうことで、変わる人は殆どいないだろうという、いつもの、ネチネチ、くどくど、という、楽山の言い分を書いているだけです。( )内が、楽山の補足のつもりでしょう。
 
楽山は、自らの主張について、一度も、証明できたことがありません。嘘と詭弁だからです。そういう人に、証明を・・と言われるのは、気の毒、不運としか言いようがありません。
 

この辺りの問題が解決されない限り…つまり信者がHSの信仰から離れるか、それはかなり特殊なものだと自覚しない限りは、こういう対話のズレは解消できないだろうと思う。

 
真否と是非という重要な問題を、特殊という自覚に、ズレを解消する問題に、すり替えています。楽山が、解決してこなかったのと似たような問題を、他者に投げているのです。楽山は、誰よりも対話のズレがあり、殆ど通じないレベルであり、偏見と先入観だけなのです。
 

信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
信者「書籍を自己流に読んだだけで分かったつもりになってはいけない。きちんとした師から、きちんとした指導を受けることが大切だ」

 
自分勝手な解釈、自己流というより自己中、いずれも、楽山の持ち物です。さらに、楽山は、「きちんとした師から、きちんとした指導を受けることが大切だ」と言って、自分はきちんとしていることを、暗に宣伝しているところです。やはり、教祖願望があるようです。
 

どんなに正論を語っても、アンチを批判しても、ブーメランになるばかり

 
(ネットより)
「ブーメラン」の意味は「悪口や批判などの発言が、自分にも当てはまっていること」です。玩具のブーメランと同じく自分がした発言が自分に返ってくることですね。
https://meaning.jp/posts/1670
 
一例をあげると、↓
 

信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
アンチ「大川隆法は、イエスが主と呼んだのは自分(エルカンターレ)のことだと主張してますね。聖書のどこにそんなことが書いてありますか。自分は仏陀であるとか、仏陀も生まれ変わるとしてますが、仏典のどこにそんなことが書いてありますか。仏教もキリスト教も正式に学んだことがないのに、自分勝手解釈をして分かったつもりになってるのではありませんか」

 
信者が自分勝手を戒めたら、アンチの相手から、自分勝手を指摘された、という例示のようです。どちらが楽山なのでしょう。アンチのほうでしょうか。楽山は、どちらでもなく、自分が、いちばん、客観的だから、偉い・・と言っているだけなのです。
 
今まで、自分勝手な、妄想的で、先入観的な、小学生レベルの、幼稚な解釈で、キリスト教をおとしめ、中庸を装ってきたのは、他でもない、楽山なのです。つまり、「仏教もキリスト教も正式に学んだことがない」のは、楽山その人です。
 
ブーメランと言いながら、楽山は、自分に返ってくる、自分にも当てはまる、ということが、理解できないのだと思います。それは、自分について考える、自分に当てはめてみる、ということをしてこなかったからでしょう。
 
対話になっていないような気もします。どっちが批判者なのでしょう。ひょっとして、独り芝居だろうか、全部、独り芝居ではないだろうか、誰にも相手にされないものだから、独り芝居をして代償している自慰行為ではないだろうか、などということも考えています。
 
シャロームも楽山の成りすましだとしたら、二人同士の無条件賛同の事実も頷(うなず)けます。さらに、成りすましについては、以前から、楽山やシャロームなどの易坊類が一人ではないかと疑っています。ネットの性質上、証明されず、また、否定もされていないということです。
 
もし一人の成りすましだとしたら、ひどく荒廃した精神の詐欺師ということになります。いずれ、私のほうが先に死ぬでしょうが、どうか、ずっと、決して、近寄らないでください。待っているのは疲労と破壊だけです。
 
 

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              霊が零となる日
 
 
(2020年08月26日)
(2021年08月28日、再録+加筆)
 
 
 
  小枝
 
木の幹に知らぬ没落
嘆いている御婦人の笑顔
懐かしく見苦しい
さり気なくいとおしい
 
報いはやがて来るでしょう
握りしめた手を折らないように
そっと太陽を隠しましょう
忘れるためではなく
許すためでもなく
やがては枯れる木の皮の
はがれて落ちる日のために
 
捧げるものは嘘の光
痙攣の祝福を浴びて
孕みましたか そろそろ
霊に水気をはらいましたか
 
木の幹のまわり
子供達が駆けていきます
 
見て見ぬふりのあなた
 
木の幹に腕を曲げ
涙拭く姿勢の小枝
太陽のいたずら
嘘の町
子供らは駆けていく
 
 
  知らない町
 
昔、駆けていった子供らが
大人の顔で帰ってくる
 
知らない町へ行ったらしい
蝶々追いかけていた子供らが
花を咲かせておいた
その一輪を
その匂いを
また蝶々が追いかける
 
知らない蝶々は
区別がつかない
知らない子供らは
知らない大人になる
花を知らない大人たち
匂いをかいでごらんなさい
においに覚えがないのなら
今ここは知らない町です
 
 
(かなり昔の作)
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
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