ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の妖怪フェチ2

 
  楽山の妖怪フェチ2
 
 
スピ系、幽霊、霊感、そして、妖怪を愛することについて、趣味にとどまるならば、批判する必要はありません。しかしながら、楽山は、リアルの人間関係においては、人の意見を聞かないで自分の言い分だけを図々しくネチネチと、超常の筋書きを並べ続けるという性癖があります。
 
それが、アドラー教(アドラー心理学)の宣伝となり、スピ系讃美、反キリストとなっていて、さらに、深いテーマについて書いてゆく思慮と弁えを持たないで、雑に、乱暴に、評論家気取りで書いてきたので、一般の読者を毒する誘導として批判対象となり続けています。
 
この記事では、人間よりも、妖怪好きの楽山が、はっきり表れています。楽山が、人間のことを深く考えることをしないのに、妖怪という空想の産物に向かう嗜癖が明らかとなっています。
 
真摯に、かつ、謙虚に、深いテーマを考える、という姿勢を持たず、いかなるテーマも、人をひたすら誘導し、だましてゆく、傍迷惑な人食いのカルト妖怪みたいになっているのが、楽山です。
 
その分、人間性を軽視し捨ててゆく慢心だけで書いてくる人間離れの鈍い記事は、決して一般に語られる面白い妖怪話として読むことは出来ません。
 
 
 『日本現代 怪異事典』朝里樹著
 2020年08月20日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25953756.html
 
 

先般ひさしぶりに図書館に行った際、タイトルにひかれて手に取り、しばらく前に映画で見て以来ずっと気になっている隙間女を調べてみようと開いてみたら、五十音順だけでなく、類似怪異、出没場所、使用凶器、都道府県別の索引も完備されていて驚かされた。仕事の丁寧さ、細やかさは有り難くもあり、どこかおかしくもある。

 
隙間女という妖怪のことが、ずっと気になっているそうです。楽山は、今まで、宗教について書いてきた、おおよそ、偏見と芝居としか思えないような曲解について、何も訂正しないままであります。
 

せっかくなので隙間女は五十音順ではなく、出没場所索引で探してみることにすると、「隙間」という項目はすぐに見つかった。隙間には隙間女だけでなく、隙間男というオバケもいるらしい。人間社会が男女平等になれば、それに連動してオバケ社会もそうなるということか? 他には、三センチお化け、隙間の目、ヒラノといったオバケもいるようだ。こんなにオバケがいるんじゃ、隙間はうっかり覗いてしまわないようにこれまで以上に注意しなければならん(笑)。

 
うっかり覗いてしまうどころか、人間性を失うほどに、超常と霊に、のめり込んでいる楽山です。霊が分かるっぽい自覚の楽山にとって、趣味ではなく、空想と思いつき以外、語れるものがないのです。そのような在り方で、人間の弁えを持たないで、霊と超常と妖怪について語るのは異常です。
 

赤毛のアン」には、アンがあそこの森にはオバケがいると想像した結果、それが本当のように思えて怖くてたまらなくなり、森に近付けなくなる話があっておかしかったが、自分はいい年したおっさんであるにもかかわらず、隙間女の映画を見てからは隙間の向こうにある闇のことをあれこれ想像しては怖がるというアンと大して変わらない失敗をしているのだから恥ずかしい(笑)。

 
「失敗をしているのだから恥ずかしい(笑)」というのは嘘です。恥ずかしいなら書かないでしょう。楽山に恥ずかしいという悲しみの情があるなら、今までの経緯から、このような記事を書いて「(笑)」でくくることは出来ないはずです。楽山は、違います。
 
「失敗」「恥ずかしい」と書いて、「(笑)」でくくる楽山です。聖書の悪魔が悲しまないのに似ています。そして、退けられても、退けられても、誘惑を仕掛けてくるのにも似ています。
 
 
 『江戸の怪談 絵事典』近藤雅樹監修
 2020年08月20日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25954173.html
 

前記事で書いた『日本現代 怪異事典』のケセランパサランの項を見たら、ケセランパサランについて「江戸時代にはすでに語られた記録があ」(p.147)るというので、江戸時代の怪異譚に興味がわき、本書を見てみた。
子供向きの本なので怖くはないし、誰でも知っている怪談が紹介されているのではあるが、改めてそれらを読んでみると、主人から虐待された女、夫から毒を盛られた女、男に襲われ殺された女、恋い慕う男に煙たがれ嘘をつかれた女など、かわいそうな女の話がやたらと多いのには驚かされた。

 
楽山は、他者を下に見て、憐れみと和みの独り芝居に興じ、詭弁を盛っては、ボンヤリ言語で人格破壊へ誘導し、平気で嘘を吐くなど、怠惰の毒性が、やたら多いのに驚かされます。楽山の柔らかく見せかけた詭弁と誘導は、だまされて食べると毒饅頭に匹敵するでしょう。
 

なんだかこういう話ばかり読んでいると幽霊は怖いというより、かわいそうになってくる。小さかった頃は、大人が幽霊はかわいそうだというのを聞いても、その意味はさっぱり分からなかったが、今になってようやく分かってきた気がする。

 
楽山は、楽山自身も人間性を失って似たようなものだから、幽霊が怖くはないでしょうが、かわいそうだと言っています。かわいそう、という感情は、楽山にはないと思います。そういう言葉があるから、人間らしさの芝居として使っているだけでしょう。つまり、あざ笑いなのです。
 
「分かってきた」を真に受けないでください。今までのことから、楽山に、悔い、悲しみ、あわれみ、共感、反省、などの深い情はないと思います。そういう言葉があることだけを知っていて、人間味を装う芝居をしているのでしょう。しかも、幽霊に向けているのです。
 

本書の第4章では、「稲生物怪録(いのうもののけろく)」が紹介されているが、主人公の屋敷で家具が空中を飛び回るポルターガイスト現象が起きたり、さまざまな人物が物怪退治に訪ねてくるだとか、現代の視点からみてもエンターテイメント性が抜群の物語となっている。

 
このように、楽山が興味を持つのは、面白おかしいことだけだと思います。ポルターガイストにも、恐らく、幽霊にも、超常現象にも、気楽なエンターテインメント性だけを求めていると思います。そして、それと同じ見方で、宗教と信仰を語ったつもりになるという愚かさです。
 
今まで、偽宗教と反宗教を書き、右翼に賛同し、心霊のことをいっぱい書いておきながら、何ごとについても、製作者や著作者の意図にかかわらず、実感をもって受け取ることがないのだろうと思います。ゆえに、何も理解できないので、でっち上げるしかなくなっています。
 
言ってみれば、楽山は、平面に生きているようなものです。そこが世界だと思って、得々と語りますが、傍から見ると、聞くに堪えないほどの偏狭で、一面的な視野が、表れてくるだけなのです。楽山が鈍麻しているのは、そうでないと、楽山は、恥ずかしさに昏倒してしまうからでしょうか。
 

当時はこういう話がウケていたのだとすると、今も昔もアクションホラーのファンは沢山いるということなのだろうな…。

 
やはり、ウケる、といった安易なことしか書けないのでしょう。今も昔もアクションホラーのファンはたくさんいると思いますが、それを書いて何を言い得たつもりでいるのでしょう。人間らしい心を持たない楽山も妖怪フェチに過ぎないのです。楽山のホラー好きは、人生の誤変換です。
 
楽山は、まともに見せかけて書いて、はっきりした主張をまとめることが出来ません。なぜ、この記事を書いたかも、分かってはいないのでしょう。楽山は、記事を書いて、まともぶることだけが、満悦につながるのでしょうか。
 
丁寧語で、やばいことも強いことも派手に書いているわけではないとしても、その丁寧で抵抗のないような文章の曖昧な感じこそが、楽山の狙いであり、受け入れると、知らず知らず、余計な、煤のようなものがこびりついて残って溜まってゆく、という詭弁なのです。
 
付き合っても、何も得るものがないというのは、こういう、楽山と、楽山の生産物であります。楽山という詭弁屋で嘘吐きのペテン師は、実際には、アクション、ホラー、スピリチュアル、宗教、信仰など・・理解も体験もしていないのです。
 
宗教、特に、キリスト教の信仰について、楽山は何も分かっていません。理路も発想も直観も直感もありません。楽山は、分かってなくても、根拠が無くても書けるのが、超常的な心霊の世界だと思っており、あとは、有名人の著作から言葉だけ貼りつければいいと思っているのでしょう。
 
そういうことだから、どんなテーマも、趣味のエンタから、思想・宗教・政治などという重要なテーマまで、みな、安っぽい駄弁か繰り言レベルで書いてしまうのでしょう。こういう人と付き合うと、結局、一種異様な、侵襲性の高い疲労だけが残り、それによって人格が摩耗してゆきます。
 
宗教を考えることは、人間を考えることです。信仰を持つことは、よりよい人間に成長することです。楽山のように、宗教のつもりで超常ばかりを語ることは、関わる人を、宗教と信仰の真実から遠ざけることです。ゆえに、批判し否定し続けることが必要なのです。
 
 

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             妖怪フェチ
 
 
(2019年08月22日)
(2021年08月31日、再録+)
 
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
 
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  叫ぶ男
 
山頂で叫ぶ男の
叫びを追いかける
耳で追えば
木霊(こだま)となって返りながら
遠ざかるばかり
何を叫ぶのか
男は誰なのか
男は何をしでかしたのか
叫んだ後は・・・
追い方はありそうなのに
足でも目でも頭でも
叫ぶ男に追い付くことはできない
 
しかし無謀にも
その男にではなく
その叫びになろうとした
もう一人の男を
聴きたいと待っているのだ
煤けた胸の中を木霊して
空っぽになるくらい揺さぶって
音ではなく
話でもなく
もはや叫び声でもなく
声にならない人の響きを
つかまえたくて仕方ないのだ
 
 
(昔の作)
 
 
 
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