ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の反宗教2

 
  楽山の反宗教2
 
 『アメリカの宗教右派』飯山雅史著
 2020年08月08日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25812949.html
  を改めて批判。
 
 
楽山の反宗教思想は、まず、宗教の本質を全く理解していないのに、宗教を客観的に見ている自分を気取ることから始まり、それが、楽山のスタンスになっています。そういう卑怯な立ち位置は、どこにも正当に存在しないのです。悪意の産物だからです。
 

この本は、アメリカの宗教事情に興味があったので、タイトルにひかれて読んでみたのだが、序盤ではアメリカの宗教史のような体裁で、長老派、バプチスト、メソジストなど各教派の成り立ちや社会的歴史的な立ち位置について語られている。
また過去の大きな出来事としては、20世紀初頭に進化論などの近代科学や高等批評という聖書分析とどう向き合うかという議論がなされ、それらを受け入れる主流派(多数派、近代主義者)と、あくまで聖書の言葉をそのまま読もうとする原理主義派、両者の中間に位置する福音派にわかれた(プロテスタントの大分裂)のだという。

 
宗教は、思想となり、教条主義となり、イデオロギーとなって、多くの弊害を生んできました。しかし、それは、人間の不完全性から生まれた罪の性質であり、宗教そのものの意義を損なうものではなく、むしろ信仰を受け取る人間の側の修正を促す必要を表しているのです。
 
楽山のような者が、手持ちの、半端で偏った、偏見と先入観に満ちた知識で決めつけて否定することこそが、信仰を最も損なう害悪です。楽山の知識は、宗教と信仰を語る上で、何の役にも立たず、ただ、楽山の攻撃性を満足させるだけのために積まれているものです。
 
人間には、不完全であるゆえに、罪の性質を常に持っています。そこから、様々な過ちを犯します。しかしながら、それゆえにこそ、逆に、赦しと救いにつながる宗教、そして、心と命を支える信仰が必要になるのです。
 
その罪の性質を、自らに少しも認めようとせず、ゆえに、何の共感もなく、悪い材料だけを持ってきて宗教をおとしめているのが、楽山であります。聖書においても、心無い者は、悪魔としての役割しか持ってはいなかったのであります。
 
そういう悪意だけの役割を、自己愛という魔物を原動力にして、実践しているのが、楽山であり、善に見せかけた悪意の存在であります。まさに、その類似は、聖書にあるところの偽善者であり、一見まともに見せかけていても、心を失った詭弁と戒律と教条の悪鬼なのです。
 

千年王国については、主流派や福音派はキリストの再臨は千年王国の後だとする後千年王国説の立場をとり、人々の努力によって千年王国は達成可能とするなど楽観的だが、原理主義派はキリストの再臨は千年王国より前だという前千年王国説の立場をとり、人々の努力によっては千年王国は実現できず、人々は「ただ、悔い改めてキリストの審判を待つしかない」(p.61)として悲観的傾向が強いという。

 
悪意だけの楽山が批判をしようとすると、人間的な欠陥が表れてきます。すなわち、人間離れと現実離れの話しか言えないということです。誰が、千年王国と再臨があるから信仰をもつ、などという幼稚な動機でキリスト者になるでしょう。
 
それぞれが、悲観的傾向ではなく、現実の悲しみから、救いと癒しを求めているのであって、楽山の空想話などは、たとえば、靴の端にゴミが付いているからお前は悪者だ、と言っているようなものです。誰が、千年王国の立場を待つというのでしょう。楽山の固陋(ころう)の嘘八百です。
 
楽山は、人の信仰を、ゴミも靴も人格も、いっしょにしている妄想患者なのです。そして、一方で、楽山は、何の努力もしないし、自らのゴミにも罪にも不完全性にも、全く気づかないという、すっとぼけの病的ナルシストなのです。
 
ねじけて腐った根性で、読書家と批評家を気取っている楽山は、理解力と共感力の欠如から、また、何をやってもうまくいかないという現実の当然の悲観的傾向から、怨念の固まりになっているだけのルサンチマン(負け犬根性)で、宗教と信仰を、訂正不能の我執から貶めているだけなのです。
 
(ネットより)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%9E%E3%83%B3 
 
ルサンチマンは、多く、カルトのベースとなる心性です。そして、努力せずに、一気に、偉い人~悟った人~バランスのとれた人~ひとかどの人物のつもりで自慢したがる根性です。アンチを気取る楽山は、むしろ真逆の、そういうカルトの性質と、むしろ、符合しています。
 

中盤以降は宗教と政治のかかわりについての記述が増え、宗教右派は1960年代の行き過ぎたリベラル傾向に対する反発から活動を活発化させ、政治的影響力を強めたものの、近年はピークは過ぎてやや停滞気味になっているとしている。本書は2008年の出版なので、この部分は現在でもそのまま受け取ってよいかどうかは慎重であらねばならぬが、さて著者の見解は妥当だったというべきかどうか…。

 
楽山は、宗教と信仰そのものの本質について、まるで語る言葉を持っていないために、超常のことゆえに誰も否定できない想像~空想話か、このような、政治との関係をもって、専門用語を使う評論家気取りで、現象だけを論(あげつら)って、宗教を批判しているつもりになるのでしょう。
 
本質を知らずに、ここでは政治の話をして、悪口だけを刷り込んで、広めようとしてくる楽山には、反宗教・反キリストの、悪意だけの、いちゃもん屋という評価しかありません。何度も、何度も、人の顔に、首筋に、鼻くそをなすりつけてくるような汚らしさは、嫌悪感と疲労をもたらします。
 
ひょっとしたら、それが目的かもしれません。もはや、人間としての、一人一人に大切な、好ましいプライドや、正常な尊厳など、楽山には欠片もなくて、ゆえに、他者にも認めなくなったのでしょうか。悪い噂だけを言いふらして、おとしめて自己満悦するサディストぶりが表れています。
 
宗教の政治への影響には、色濃く、人間の不完全であるゆえの罪性が表れてきます。しかも、それは一部の極端な例として明らかになるでしょう。楽山の言は、楽山の暇つぶしや、いちゃもんの材料にはなっても、宗教批判の根拠にはなりません。
 
楽山の言に、いつも欠けているのが、そういう、物事の、"本質への洞察" なのです。これがないところには、いかなる批判も成り立たず、ただただ、程度の低い悪口にしかなりません。的を著しく外しながら、宗教と信仰を語る楽山に、耳を貸さないでほしいと思います。
 
一部であり、極端な例ですから、全ての信仰が間違いということにはなりません。さらに、間違いは、いつも、人が犯すものです。その典型としては、偽善という最悪のものを、楽山その人が、今、次々に、表しているわけです。
 

アメリカの宗教事情というと、中絶反対のために婦人科医を殺害しただとか、レイプによる妊娠であっても中絶を禁ずる法律がつくられただとか、進化論を学校で教えるのに反対する人々がいるなど、驚かされるニュースが多いし、よく分からないところがあるのだが、本書を読んでその背景がいくらか見えてきたようでありがたい。引き続き同一テーマの書籍を読んでみたいと思う。

 
こういう人間とは思えない蛮行に走る事件が起こることはあります。人間らしい宗教と信仰ではなく、カルト化している場合です。そして、体質的に、批判されて返せないものだから、執念深く、いちゃもんだけを、的外れにつけてくる楽山は、カルト的煽動者と言えるでしょう。
 
どういうカルトなのか、いつまでも、失禁のように続く無反応の記事が、いずれ、それを表してゆくでしょう。楽山は、宗教にこだわると、こんなことになるんだよ、という、悪い例だけを挙げて、いかにも煽動家らしく、煽っています。
 
しかし、一方で、キリスト教をほめる話も書いてきました。この否定した、褒めたり、という相反する2つのことから、楽山の言は、信頼度ゼロとなり、どちらも嘘であり、残っているのは、過大な自尊からの我執の衝動的な発露でしかないと分かるのです。
 
信仰者の罪は、いつも、人が、教えの本質を曲解して、犯すものです。
 
一部の極端な例を、宗教の本質であるかのように、こわいですね、とばかり言いふらす下種の根性が、分別を欠いた、楽山の生業なのです。
 
宗教と信仰のもたらす良きものを、その本質を、楽山は、いっさい知りません。知りえないものだから、いわれなき復讐のように、汚物を投げては、これが宗教だとばかり、いい気になっています。この見苦しささえも、無反省で、高等感情のない、楽山本人だけは、感じないのでしょう。
 
楽山の言うことを、その一面においても、いっさい信頼してはいけません。楽山は、空っぽの本質の、醜い性根の炎症性の皮として、詭弁と誘導だけは卑怯な方法を知っているのです。決して、関わらないように、近づかないように、警戒してください。
 
 

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               反面、鬼
 
 
(2020年08月09日)
(2021年09月29日、再録+)
 
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  時間
 
あらゆるものは
見ているときだけ
そこにあった
信じられる
ぎりぎりの線を
歩いていた
言葉に迷い
逆説におぼれた
命に限りがあり
さかのぼれば
やはり物心という
始まりという限りがあった
長い長い時間の中で
ほんの短い間
存在する命
どんな生き方をしても
どんな死に方をしても
生きている間だけ
時間は存在し
そこにあって
過ぎてゆく
 
私の時間は
限りある存在を
うまくやり過ごす術をもたず
信じられない
ぎりぎりの線を迷いながら
知覚するときだけ
そこにあって
ありとあらゆるものが
そのときだけ
私に関わっていた
その大切な関係を
無視した分
私は不連続に
唐突に年老いていった
 
 
  森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを解きたくて
 
 
(昔々・・)
 
 
 
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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