ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の猿真似芸

 
  楽山の猿真似芸
 
 『私と宗教』渡邊直樹編
 2021年10月09日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/30750556.html
 
 
楽山の、身の程を知らず、言葉の重さをはかることも出来ない人格障害が表れています。このようなやり方で、宗教、信仰、スリピリチュアル、政治、思想などを、好きなように、自分は分かるんだとばかり、吹聴してきました。何一つ、楽山自身のオリジナルはないのです。
 

*概要
本書は、宗教をテーマにしたインタビュー集である。インタビューを受けているのは、高村薫小林よしのり小川洋子立花隆荒木経惟、高橋惠子、龍村仁細江英公想田和弘水木しげる
金光教
個人的には、本書に収録されたインタビューの中で、もっとも情緒を刺激されたのは小川洋子のものだった。まず第一には、小川洋子の信じている金光教の「お取次」のやさしさである。「お取次」では信者の話を神様に伝えてくれるらしいのだが、その際はああだこうだとお説教をしないで黙って話を聞いてくれるらしい。これは信者からしたら有り難いだろうと思う。

 
「黙って話を聞いてくれる」人が大好きなのは、楽山に他なりません。何故なら、疑問にも、批判されても、楽山は、何も弁明できないからです。楽山自身に対して、やさしくて、楽山を無条件に盲信する人を、楽山は求めているのです。そのために、楽山は、こういう記事を書いてきます。
 

金光教は布教活動に積極的ではないという話も興味深かった。その理由は、「世界にはキリスト教が必要な人も、ユダヤ教が必要な人も、イスラームが必要な人もいる」「金光教が必要な人は向こうから来るという考え方」をしているからだというが、これは神を信じ、人を信じているからこそなのだろうと思う。

 
「必要な人は向こうからくる」でしょうか。何も知らされないで来るでしょうか。人間は伝える努力をするべきでしょう。楽山は、伝える言葉を持たないので、インチキや、三文芝居や、詭弁や、ウソまで言って、人を釣ろうとしてきます。だから、楽山は、こういう記事を書くのです。
 

*宗教を信じてるなんて…
他に刺激を受けたことはといえば、知的方面では、高村薫立花隆の話が愉快だった。
まず高村薫がいうには「宇宙のすべての存在というのは、目に見えないごく小さな素粒子が永遠に運動を続けている」「死んで灰になっても消えたわけではなくて、素粒子はどこか別のところに移動して、また消滅を繰り返す。これが私の中では仏教の「空・縁起」の世界にものすごく近いんです」とのことである。ものの材料となるものが何らかの法則によって離合、集散、構成、分解ということを繰り返しているというのはよく分かる。

 
小説家の高村薫と評論家の立花隆の、自ら証明したわけではないところの、物理学談義を広げているかのような話は、想像力を掻き立てる話として書いているわけです。したがって、そのまま、真理として分かる話ではありません。
 
こういう談義を、楽山のような、一気に偉くなりたいだけの自己顕示欲は、まるで、真理を得たかのような「よく分かる」という賛辞を送ります。これで、真理が分かったことにされては、たまったものではありません。
 
楽山は、自身の、蚤のような器に納まれば、神のような真理を得たと思う人だということです。楽山の浅薄さにすっぽり納まるので、楽山は分かると言っているだけなのです。つまり、幼稚な話以外には分からないということを、楽山自身が白状しているということになります。
 

立花隆の話では、宇宙全体のうち、光で認識できるのは4パーセント(望遠鏡で分かるのはその半分)、あとは光で認識できない暗黒物質23パーセント、暗黒エネルギー73パーセントだという。さらにこういうことに関心がある立場からすると、「宗教を信じてるなんていうのはばかみたい(笑)」なのだそうだ。これはさすがに言い過ぎではないかとは思うが、心の癒やしを求めるならともかく、世界を理解するためには宗教より科学の方がよく、これを反対に考えるのはどうかしているというのなら理解できなくもない。

 
持ち前のボンヤリ言語「理解できなくもない」という言い方で、楽山が刷り込もうとしているのは、結局、「宗教を信じてるなんていうのはばかみたい(笑)」ということでしょう。評論家の軽率な発言を、楽山は、自己の正当化と美化のために、悪用するのです。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDなので、罪悪感がなく、恐れを知りません。楽山が、有名人の発言を、ケースバイケースで重みを分けることもなく、専門分野の区別もしないで、大仰に褒めるとき、必ずと言ってよいほど、下種な刷り込みの狙いがあることを知ってください。
 
 

      f:id:stdsts:20211009234919p:plain

             真似をする猿の赤いケツ
 
 
(2021年10月10日)
 
 
 
キーワード: 真似
 
 
  末路に立つ
 
人が生きている
と言えるほどに
私は生きているだろうか
人が死んだ
と言えるほどに
私は日々死につつあることに
気づいているだろうか
ああ何という末路に立って
情の絡みをほどこうとしている
舌の痺れか
目の回転か
手足の不随意か
肉体は常同の仕草で
ところかまわず真似続けるのだ
人が生きている
と言えるほどに
私に殺すべきものがあったかどうか
 
 
  悪い奴め
 
好きなことをすればよい
今なら暇(ひま)はいくらでもある
いくらか貯(たくわ)えもある
 
好きなことをすればよい
テレビもある
バイクも車もある
足まである
 
好きなだけ影を踏みなさい
好きなことをすればよい
印鑑もある
パスワードもアドレスもある
家まである
 
好きなだけ光を取り込みなさい
何でも好きなことをすればよい
 
物があって範囲が決まる
場所があって動かない
免許があって限られる
 
それら皆かつては
手の届かなかった自由たち
 
暇はある時間はズレる
写真はいつも手配される
鏡はいつもこの眼を見ている
好きなこと好きなこと好きなこと
免許はいずれ無効になる
貯えはいずれ底をつく
手はいずれ後ろに回る
 
見苦しい真似(まね)はせず
文句は言わない人には温和に
ひっそり乱れて暮らす
衣食は倹約無精大好き
 
でも光に写せる影がない
影に成り立つ人がいない
光に倒れる影ばかり
影に潜む陰(かげ)ばかり
 
 
  祈り・最後の誘惑
 
最後の最後が訪れたとき
耳元で囁(ささや)く者がいるだろう
エスはキリストと呼ばれるほどに
偉大であったかもしれないが
そのイエス
誰にも真似のできないことを行い
真似のできないことを言ったがために
お前はキリストの幻想に騙(だま)されたのだ
 
未来があったとしても
過ごす間は耐えがたく
過ぎてしまえば束の間に過ぎない
もうこの歳で
良い未来が待っているとは思えないけれど
そんなこの世の未来以上に大切な
現在の希望を失うことなく
自分の過去と人生を
思い込みの不幸で塗り潰さないために
死を視ること帰するが如し
 
その囁きに対して
永遠の友なるキリスト
我が慕いまつる主
エス様になら騙されても構わない
 
父なる神の御手のうちに
壊されるのが望みである
と言えるほどの信仰だけを下さい
 
私を絆(ほだ)して下さい
そして離さないで下さい
 
悲しみだけではない時を
知るでありましょう
 
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html