ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山は邪悪に満ちている

 
  楽山は邪悪に満ちている
 
 『世界は邪悪に満ちている だが日本は……。』
 日下公人、髙山正之著
 楽山日記(LD) 2021年10月16日
 http://mn266z.blog.jp/archives/30826219.html
 
 
神を恐れない楽山が、神の怒りを買うシーンのようです。まことに、身の程を知らないということが、いかに、災いであるかが、表れています。本人は、何をしているのか、まるで気づいていないのです。しかし、その分別も思慮もない軽口が向かっている先は、神であります。
 

本書は、アメリカや中国などの悪辣さを指摘しつつ、日本の美点を強調しているものだが、キリスト教についても随分と厳しく批判をしており、その中には自分の知らなかったこともあったのでその一部をメモしておきたい。

 
キリスト教について悪口を並べているのは、楽山です。批判と違って、汲み取れるものが何もありません。楽山の悪辣な本性が、もはや、悪意だけの詭弁となって表れています。読むほどに、楽山に欠けている人間性の大事な部分を、逆に読み取るべきでしょう。
 

まず本書では、欧米人の残虐さは聖書の影響があるとしている。

彼らは、主がモーセに命じられたとおり、ミディアン人と戦い、男子を皆殺しにした。
民数記31:7)
 」

 
神の裁きであり、その厳しさは、筆舌に尽くしがたいものがあります。このような話は、絶対ではない人間に、絶対正義の存在である神を恐れよということを表しているのです。キリスト教について、やさしい神ばかりイメージするのは、間違いです。旧約聖書から、神への恐れを学びます。
 
モーセ預言者であり、神の意志を代弁している役割です。それを欧米人の残虐さに結びつけているのは、誰よりも冷酷で、温もりも潤いもない楽山その人です。何か個人的な憎しみを発散しているような記事になっています。神を、怨念の具材とする楽山は、狂っています。
 
神はこんなに残酷なんだよぉ・・とばかり、楽山は吹聴したいようですが、その楽山は神を恐れていないから、こういうことが書けるのです。神を恐れず、即ち、絶対正義の存在を恐れない者には、何を言っても無駄です。
 
ゆえに、批判は、こんな酷い人がいるから、楽山を読んでも、決して、真に受けないように、近づかないように、という警鐘を鳴らすためにあります。神に対する信仰とは真逆の、そして、悪魔に奉仕していることに悦楽をおぼえる、サディスティックな欲望が、楽山の記事に表れています。
 


直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。
民数記31:17-18)
 」
後の方はモーセの言葉であるが、彼らはこういう考え方に馴染んでいるから、女はプレゼント、ボーナスという発想が生まれ、「慰安婦天皇陛下からの贈り物だ」という日本的には理解できないおかしな発想も出てくるのだという。

 
歴史上、略奪・暴行によって、女性が戦の犠牲になるのは、恐らく、世界中であったことだと思います。つまり、歴史の負の遺産であります。モーセも、その時代の戦争のあり方から自由ではなかったということです。
 
楽山は、今、残虐であり、共感も愛情も知らず、反キリスト・反宗教・背教者として、預言者をおとしめることに必死です。恐らく、笑いながら、自らの不能・不全の裏返しとして、残虐行為を楽しむ部類の人間でしょう。
 
恐らく、戦争でも起こったら、いちばん残酷なことをするのは、思いやりなどの高等感情を失うのではなく、元々、持っていないために、冷血漢に徹することの出来る、楽山のような輩です。それが、神と預言者を、恐れもなく、心を受け取ることもなく、こき下ろせる理由です。
 

またスペイン人の南米における残虐行為の背景には、先住民にキリスト教を布教して受け入れたら理性の持ち主といえるが、受け入れなかったら猿と同じだから奴隷にしてよいという教会からの回答があったという。

 
このように、歴史上の一部のキリスト教徒の過ちを、得意げに吹聴して、今のキリスト教をも否定するのが、楽山の快感なのです。つまり、一部の悪い例をもって、全体を否定する詭弁となっています。卑しい煽動者は、多く、このような詭弁の悪意ある辻褄を振り回して印象を植え付けてゆきます。
 

日本でキリスト教系の女子校が多い理由は、「母親がキリスト教徒になれば娘もキリスト教徒になる。娘がキリスト教徒になれば、やがて孫もキリスト教徒になる」というたくらみがあるのだという。

 
キリスト教系の女子校について、私は、よく知りません。楽山が、詳しく知っているとも思えません。つまり、おとしめるのに都合のよい材料と思ったら、無遠慮に持ち出して「たくらみ」と言う楽山こそが、恥も知らず、企むために発狂峠を越えているわけです。人間じゃないです。よだれです。
 

マヤにおける布教活動では十字架ではなく、マリア像を用いたそうで、その理由は先住民たちの儀式(心臓を取り出す)は残酷だと批判したら、磔刑だってそうじゃないかと反論されたので、十字架像は隠さざるを得なくなったからだそうだ。

 
マリア信仰を持ち出して、これで、キリスト教批判になるでしょうか。否です。いちばん残酷な冷血漢が思慮もなく持ち出してきた話には、信仰の本質の欠片も表れてはいません。このような話をしても、楽山の汚い自慰行為に過ぎないということです。
 
楽山は、キリスト信仰について、何も知りません。楽山は、誰も救えません。楽山は、自分教の薄汚い精神病質性カルトに過ぎません。
 
十字架は、キリストが被害者であり、これをもって罪の贖い、そして、罪人への究極の共感を表しているのです。
 

本書にはこの他にもさまざまな批判が書いてあるが、残念ながら自分は無知なので、これらの批判の真偽、妥当性を判断するのは難しい。本書で語られていることがすべて本当であったとしたなら非常に残念なことだと思うばかりである。

 
ボロクソに言っておきながら、「自分は無知」「妥当性を判断するのは難しい」「本当であったとしたなら」という無責任が通るでしょうか。否、はてしない愚かさであります。楽山の、反キリストぶりが、制御を失って、それでも、ボンヤリ言語で責任回避しようとする偽善を覚えてください。
 
楽山における人格破壊は、これからも、進行するでしょう。肯定的に関われば、人格破壊が待っています。もはや、最小限の分別も持っていない楽山に、ブレーキが外れて自分が何を言っているか分からない楽山に、どうか、関わらないでください。身と心を、楽山から守ってください。
 
 
 
  わがままではなく自己中
 
 自分の意見を言うのはワガママなのだろうか?
 幸福の科学とは何だろう? 2021年10月16日
 http://mmknky21.blog.jp/archives/11505846.html
 
 
詭弁が体質となって、日々、それを書くことが自慰行為となっている楽山です。
 

ツイッターを見ていたら、「自分の意見を言うこと」と「自分の意見を押し付けること」の違いを説明しているツイートがあった。
20211014 (2)自分の意見を言うことはワガママではない
https://twitter.com/takeheart_d/status/1422209357425516549

 
意見を言い、他者の言うこと聞き、考えて、必要なら修正し、学習するなら、成長につながりますから、わがままではありません。しかし、楽山のように、他者の言うことを無視し、考えず、修正せず、学習もしないなら、わがままというより、自己中であり、邪悪であり、迷惑~害毒です。
 

以前、私が自分の意見を言っただけで、「ワガママだ!」「自己中だ!」と非難してきたHS信者がいて呆れつつも不思議に思ったりもしたのだが、多分この信者は上のツイートにあるように萎縮した考え方をしていたのだろう。

 
楽山は、誰からも、自己中だと言われるべき人です。そいう言わない人は、楽山の嘘と詭弁の丁寧語にだまされて、楽山に盲従しており、知性と感性が鈍麻してゆき、結果として、人格を破壊されることになります。楽山は、それを好んで企んでいる人です。
 

HSでは、エル・カンターレへの絶対的な帰依を求めているので、その信者はエル・カンターレとは独立した自分独自の意見を持つことをワガママ、自己中、高慢として抑圧しており、だからこそ私が自分の意見を言ったことをもって、ワガママだと非難せずにはいられなかったのだろう。

 
楽山は、自分独自ではなく、自分快楽原則の意見だけを持っており、我がまま、自己中、訂正不能、高慢、傲慢、偽善者、嘘吐きの、ペテン師です。ボンヤリ丁寧な筆致と、同情を引くためのトホホ言語に、だまされないでください。能力もないのに、無反省・無責任に、教えたがる変質者です。
 

信者は「HSは自由な団体だ」と誇るけれども、実際はこのようにパワハラ加害者や毒親と同じやり方で信者を支配していることに早く気づいてほしいと思う。

 
楽山は、個人カルト教祖的な人格であり、自己愛性人格障害、自己愛性パーソナリティ障害NPDであります。毒親となりパワハラが出てくるのは、もっと、うまくいって奴隷が増えてからでしょう。楽山には、正常な、親意識も、パワーも、ありません。恐ろしい疲労だけを与えてきます。
 
楽山は、詭弁と嘘と妄想とを駆使して、だましてきます。個別のことで全体の印象操作をする・・などというやり方です。罪悪感がありません。思いやり、共感などの、高等感情がありません。平気で嘘を吐きます。ネトウヨです。独自の発想も理路も感性もありません。
 
詭弁が体質となっている楽山です。それが、楽山の生存の悪知恵であり、それしかなく、言い知れぬ疲労と徒労ともたらすので、決して、相手にしてはいけない病質者です。
 
 
 
※ 聖句:詩篇
 
 (詩篇64:5-7)
彼らは悪い企てを固くたもち、共にはかり、ひそかにわなをかけて言う、
「だれがわれらを見破ることができるか。だれがわれらの罪をたずね出すことができるか。
 われらは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」と。
人の内なる思いと心とは深い。
しかし神は矢をもって彼らを射られる。彼らはにわかに傷をうけるであろう。
 (旧約聖書
 
昔から、悪と偽善のパターンって、似たようなものだったようです。楽山や、悪い政治家が、常套手段としている隠蔽と偽装は、昔からあって、その心も、そのパターンも、そんなに変わっていないということでしょう。
 
だから、例えば、孫悟空が、どんなに飛び回っても、如来様の手の内から出られないのと同じなのでしょう。また、ある意味、現象としては、自業自得で、災いを及ぼせば、巡り巡って、結局、自分に返ってくるということでもあるでしょう。
 
 

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             自慰の照り返し
 
 
(2021年10月17日)
 
 
 
キーワード: 狂
 
 
  感動
 
山の頂に立って
そこから空を飛べとは言わないし
山を移せとも言わないが
もう少し感動させてくれないか
 
目頭を焼いて楽園を追われ
いや捨てて日没へ去れと言うのか
選民を押し潰した被愛の傀儡よ
 
伝わらないことを誰のせいにする
読み方が悪い
書き方が悪いはよしてくれ
賛美も聞き飽きた 十字架を
重い荷物にたとえる愚は
異言を放つ教祖様方
 
溢れるほどのブドウ酒
産みの苦しみに快感を束ね
満腹の上に飽食を重ね
発酵しすぎた唇が
開く赤い闇が
パンのみにて生きるものにあらずと
ずいぶん酢を噛んでいる
 
異臭の迷路から
生まれた詩の永遠が
死の永遠へ昇天する刹那
信仰は迷いさまよい漂いただ酔いながら
久しぶりに口ずさむ
古い讃美歌に泣いて
復古、復古と愛人を呼ぶ
素直すぎる狂気の沙汰だ
 
 
  神と私(わたくし)
 
真理は神にある
人にあるのではない
それを知るところから宗教が始まる
それを「知っている」と言うところから邪教が始まる
 
真実は神による
人によるのではない
それを知るところから信仰が始まる
それを「知っている」と思うところから狂信が始まる
 
言葉は神による
人によるのではない
それを知るところから謙虚が始まる
それを「我がもの」と決めるところから虚言が始まる
 
人には人に
限られた真理
人には人の
知るべき真実
人には人を
生かす言葉
与えられ、蓄えられ
泉のように湧き出づる
 
そうではありませぬのか
主よ
 
そうではないのか
ことばよ
 
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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