ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

人間に分かる信仰

 
  人間に分かる宗教(キリスト教について)
 
 
「神の前に何を捧げられるというのか。」
「感謝と讃美を。それだけを。」
「いつから、神を褒めるような理解者となったというのか。」
「神の前に恥ずかしくない言葉を。」
「神の前に恥ずかしくないほど罪のない汝がどこにいるというのか。」
「では、どういう祈りが相応しいのでしょう。」
「ただただ、正直であろうと努めること。それ以外に何があるだろう。」
 
 
百人のキリスト者、クリスチャンがいれば百種類のキリスト教があるというのが、人の世なのでしょう。キリスト者とはキリストの教えを守る者ではありません。守ろうと努める人であり、守れないことを心の底から最もよく知る人のことだと思います。
 
そうでなければどうして罪を知りえましょう。どうして救いを知りえましょう。キリスト者キリスト者たりえないことを知ることによって初めてキリスト者たりうるのだと思います。非力ゆえに不可能が身にしみて、ようやく、人は、神の存在に気づくのです。
 
エスキリストは神であり神の子として信じています。そして神は聖書により、またその人個人の人生において人をいやし慰め励まし導かれます。そのことを否定しようとは思いません。個人的に否定できないからです。
 
ではいったい人は何者なのでしょう。感じることも考えることも人の自由です。しかし神の導きを知りうるものではありません。聖なるもの、例えば神の導き・聖霊・神のお告げ・預言などは、人があれはそうである、あるいはそうであったと決められるものではない。
 
喜怒哀楽・思想・行為がいかに信仰に始まるものであっても、それらはすべて不完全な人間としてのものであることを弁えるかぎりにおいて、人に許されている自由であります。そういう人生を過ごせるように、祈りの信仰があります。
 
いかなる修道も信仰生活も伝道も、人が聖なるものに近づくためにあるのではなく、また人が聖なるものとして高められるためにあるのでもなく、信仰は、ただ、人間が人間であり、人間として成長するためであります。
 
何よりも神の前に正直であることが必要です。疑いをもったならば、それを正直に告白し祈るべきです。背教の念をいだいたならば、それをいだいたと正直に告白するべきです。神などいないと言いたくなったら、そう言いたいわけを正直に告白するべきです。
 
キリスト者はそのために祈りという、温もりと潤いに満ちた時と所が、情緒的で人間的な手段が、与えられています。すべてを見抜かれる神の前に、人もまた何事も隠さず告白する権利を与えられており、またその義務を知るべきである。
 
嘘のない、飾らない祈りを、好み、人にそれだけを求め、待っておられ、聞いておられるのは神であります。隠す必要がなく、正直に、伝え、祈り願う同伴を得ること、それが信仰であります。
 
真実を祈り求めることと、奇跡を探して見つけようとすることとは違います。後者はすでに神のわざが人間の目の届くところに人間の手の届くところに人間の知恵の及ぶところにあるという思い上がりです。
 
さらにそれを見たあるいは得たと思い込むことは、かえって目に見えない奇跡をそこなうことになるでしょう。そしてそのようなところに悪魔は好んで隠れ住もうとするのです。
 
魔術を捨てるべきです。悪魔に住みかを与えてはなりません。神秘の思い込みから離れるべきです。日常を疎かにして聖なる答えを探してはいけません。聖なる答えを口に出来ると思ってはいけません。聖なるものを自らに擬するのをやめるべきです。それらは神の持ち物です。
 
人間は生きている限りどこまで行っても、どれだけ修道しても、人間であり、それ以上でもそれ以下でもない。それが人間の誇り、キリスト者の誇りであり、救われる民である証しなのです。
 
 

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              御前(みまえ)に
 
 
(2021年10月30日、再録+)
 
 
 
  欠落の矛盾
 
茶色に変色し
いびつに変形して
またひとつ
脳細胞が死ぬ準備を始めている
脳が最も豊かな
神経細胞を有していた間に
それらすべてを使ったことがあったのだろうか
脳細胞の死によって
精神機能に欠落があっても
気づかずに過ごしている
脳の欠落が
欠落した脳に分かるだろうか
残された神経のネットワークが
補ってくれるのだけが頼りだと
探し始めている
細胞はともかく
どこか欠けたところ
こころこころと
堂々めぐりしている
 
 
  無意味の意味
 
すべての人はそれぞれに
生まれてきた意味がある
使命さえある
私はそれに気づいていない
気づいていない以上
それは神様だけが知っている
ということだから今
私は考える動物として
生きる意味など持とうとせず
生きることは死なずにいること
くらいの無意味で充分だ
守らねばならぬ節というものがある
それがどんなに空しく
負の人生であろうとも
私はその虚無を愛さねばならない
 
 
 
 
楽山日記のコメント再録です。誰のコメントかは不明です。
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
「 
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 」
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。誰でもあることみたいに、一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を限定して存(ながら)えるしかないのです。
 
 
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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(古い記事は載っていません)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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