ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

NPD・カルト(再録)

 
 NPD・カルト(再録)
 
 
  NPDについて
 
 
私は、人格障害の専門家ではありませんが、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)を批判してきました。そこで、気になっていたのですが、会話などで、ナルシストだなあ・・と言う場合のナルシストと、自己愛性人格障害は違うということです。
 
自慢好きは、文字通り、よく自慢をする人のことです。しかし、相手が真剣に悩んでいたり傷ついていることに気づいたら、すぐ、真面目に対応できる人です。自慢好きは、自慢したい気持ちが勝っている人で、これはNPDではなく、性格に過ぎません。修正可能だからです。
 
ですから、自己愛性人格障害については、"病的ナルシスト" と呼ぶことにしています。NPDは、人格障害ですから、基本的に、訂正不能です。真面目な対応をする気持ちがありません。人格の中に、思いやり、羞恥心、後悔、自責、反省、責任感、罪悪感が、欠如しています。
 
NPDは、人格障害の中の、サイコパス反社会性人格障害、精神病質)と、同根です。不祥事を全て人のせいにします。自慢しますが、人に認められるために努力したりはしません。当然のことだと思っています。だから、否定されると、反省はせずに、怒り、恨むだけです。
 
NPDは、知能は正常と言われますが、実際は、知性と感性の両方に欠陥を生じます。自己愛に慢心して学習をしないからでしょう。思春期を過ぎてからは、精神的に成長しないのかもしれません。だから、難しい用語を好みますが、中身は、小中学生かと思うほど、拙劣です。
 
拙劣だと言うことを、どう見抜いたらよいでしょう。幼稚だとも言えます。もっともらしく書いているけど、独自の発想や洞察が皆無で、読んで、はっとさせられることがありません。学術用語を好んで使いますが、誰でも書けそうな、月並みで、いい加減な書き方をします。
 
NPDは、学習をしないし、その必要性も感じない、さらに、学習の仕方も分からないし、学習と成長という概念を理解していないかもしれません。全体に、概念の把握が、とても未熟です。そのために、思考の視野が狭く、言葉を、深みのない単純な "感じ" でしか受け取っていないようです。
 
それで、知ってるつもりになり、自己顕示欲が強いので、語りたがります。心優しい人は、それを受け入れてしまい、遣り取りを続けます。続ければ続けるほど、精神的な距離が近くなればなるほど、異常に疲労するか、あるいは、従属者になって、元の健全な人格が破壊されてしまいます。
 
 
  カルト2
 
 
ここでは、単に新興宗教という意味ではなく、カルト的で邪悪な信仰観と思想~妄想という意味で書いています。伝統宗教の中からも生まれてきます。邪悪なカルト、あるいはその芽は、人間らしい感情を、ひたすら、捨て去ることを志向し目的としているということです。
 
カルトは、奇想天外な妄想的な主張をもって、いつも目立って豪語している者たち、というだけではなく、しっかり伝統宗教と呼ばれる中に住んでいて、内心では自分に従えと豪語したい欲求を持っている者たちも含みます。
 
例えば、悲しみへの共感、慈愛に満ちた温かい心、そういったものを持たないか無視して、それどころではない、もっと大事な真理を知れ、と豪語する欲求を持っているのです。そして、おおよそ、人間という存在を、情感をもって考えていないような教条の理屈で人を誘おうとします。
 
伝統宗教は、カルトとは無縁だというのは、間違いです。まさに、その伝統宗教に似せて、さらに派手な妄想の衣をまとって宗教の前線に出たがっているのも、邪悪なカルトなのです。ただ、見かけだけ、丁寧や敬虔を装う場合もありますから、要注意です。
 
キリストは、人間を洞察し、人間らしい心に反応し、共感して、働きかけてくださいます。そのことは聖書において明らかです。
 
カルトと、良心的な宗教を区別には、カルトの人間離れ、そして人としての身の程を知らぬ神がかりを、見つけること以外にはありません。しかし、邪悪なカルトは、区別がつきにくいように曲げてくるのです。その際に使われるのが、讃美の連打と、うわべだけ丁寧な言葉面なのです。
 
キリストを熱心に信じている者の中で、キリストを熱心に決めつけている者がいて、最も見分けの付きにくいカルトの根っこになっていることがあります。
 
区別する方法は、一言でいえば、信仰の熱心さではなく、信条の正しさでもなく、ただ "修正可能" であるかどうかの一点になるでしょう。それは、そのまま、"悔い改める心" があるかどうかに、つながってくるからです。
 
神のもとにあっても信仰者は不完全な人間ですから、間違いを犯す可能性を認めて成長したいのであれば、修正可能を重んじるはずです。それを不必要と思って、完全あるいは十分という気持ちでいることは、カルトか、カルトになってゆく可能性が強いのです。
 
丁寧で優しい、この態度に安心しないでください。邪悪なカルトも処世術として似たような態度を、うわべだけ身につけています。
 
さらに邪悪なカルトが、こう言っとけば間違いないと思っている処世は、述べたように、ひたすら神を讃美することです。一方で、伝統宗教を、否定したり、凌駕し包含しているように見せかけることもあります。
 
神を誉めまくることの不自然さを知ってほしいです。利害において関係ないと思うから、負担がないから、邪悪なカルトは誉めちぎることが出来るのです。
 
邪悪なカルトは、本気では神を信じていないので、神はこの世とは関係ないと思っている気安さだから大仰に讃美します。そして、そこが、信仰としては、致命的でもあります。
 
邪悪なカルトの特徴:
1.人間離れ、神がかり、現実離れ、夢物語、超常・霊能志向、などを好む。
2.修正不能、訂正不能。ゆえに、不感不応不変という主張。
3.気安い真理への道、誰でも信じれば分かると言う。
4.人間の温もりとは関係のない辻褄合わせ。啓示や聖霊、など超常を持ち出してくる。
5.信じることの忍耐を、あらゆることについて無条件に無根拠に説く。
6.最後には、ただ信じよ、信じないと滅びる、と脅迫する。
7.死もやむなし、というような、破滅的な末路を預言または暗示する。
8.サイコパスに似て、罪悪感、深い悲しみの情感が欠如している。
 
 
なお、最近話題になることの多いスピリチュアルと呼ばれるものについて、伝統宗教は何を言えるだろうと考えてみると、人間の中で霊感の強いとされる人がいることを宗教は否定する根拠を持たないということがあります。
 
その場合、キリスト信仰の立場から言えば、人間性というものについて、どれだけ大切にしているかという点だけが関心事となるでしょう。真っ当な信仰は、人間性を深めてくれることがありますが、決して、人間性を捨てたり疎かにはしません。
 
超常についてどれだけ語られても、それがキリスト教内部で話題となっても、人間は超常を支配できないのだから、根源的に、超常を人間が扱って、生き方を左右することはできません。超常に左右されるような救いは、神のわざであって、人の手に負えることではないからです。
 
どれだけ理想的で有益そうな超常であっても、人間の現実を超えているのだから、人間が超常を語ることは、お伽噺や、言葉だけで飾ることと変わりはないのです。完全な善も正義も真理も、人間が地上で手にすることはありません。完全絶対・永遠不変は、全知全能の神のものであります。
 
人間にとって、感じることが出来て、考えるテーマとなるのは、人間の存在と尊厳と、その深い情感や思考と思想といった内実であり、人間の問題だけが、感受して、共感できて、それなりに深く考えるべき、また、考えられる、そして、考えるに値する問題なのです。
 
 
知らないことについて見栄を張って、知ったかぶりをして保身に走るのではなく、知らないことについては何を言われても、おふざけではなく、阿呆になれる、即ち、無知を自覚できる人間は、信頼できると思います。自分のプライドつまり自尊心のために来ている人ではないからです。
 
阿呆になれる、という性質は、誰とでも共感関係を作る可能性を持っている、という点で、広い器なのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、阿呆になることが、おふざけ~悪ふざけの芝居以外、出来ません。
 
 
お祭り騒ぎと楽しみだけなら、サイコパスだって、殺人犯だって、盗人だって、詐欺師だって、捕まっていなければ、笑うでしょう。楽しみだけを語る口には、注意したほうがよいのです。
 
本当の友情とは、悲しみに共感できることです。そこから、成長も生まれるでしょう。
 
 

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              非人間性の脅威
 
 
(2018年01月31日)
(2021年11月09日、再編集して再録+)
 
誉める(ほめる、褒める)
阿保(あほ、あほう)
 
 
 
  取返しのつかないこと
 
理屈ではない理屈ではない
と理屈をこねまわした私の非は認めよう
私は争ったのだろうか
ひとりひとり違っていていいはずのことを
私は傷つけたのだろうか
 
ひとりひとりが譲れない一線の上に
危うく温めている薄い卵膜を
私は傷つけてしまったのだろうか
 
そのために君が生み出すことさえ
ここでは止めてしまうというのなら
私は行くよ 今は
逝くのでも去るのでもない
進んでいるか退いているかも
同じ過ちを繰り返したかどうかも
かまわずに行ってしまうのだ
 
君が今フンと鼻で嫌悪して
脱いだ靴を叩いて泥を落としているか
それともこの秋に枯れかけて
さらに駄目押しみたいに
除草剤を撒かれた草のようであるか
私は知る由もない
 
ただ君の卵膜には発条(ばね)があるはずだ
だから私も無事ではない
しかしその弾性のために
私がどこへすっ飛んでいくのであろうと
私は行くよ 冷たい
飛礫(つぶて)を受けながらでも行くのだ
 
ぼろぼろになって ちぎれちぎれになって
どれが手だか足だかも
わからずに行ってしまうのだ
明かりを消した手の影のように
すっと潔く陰に消えたりはできないんだ
 
 
  病人の四季
 
一人の病人が言う
夏は電気代と油汗を秤にかけて
口を開けて顔をしかめる
冬は電気と灯油代
肩をふるわせ布団にもぐりこむ
春と秋は
夏と冬の行方に戸惑っているうちに
あまりにも早く過ぎる
この国の四季は厄介だ
おかげで病気になった
 
別の病人が言う
あなたは病みすぎている
暑さと寒さと
暖かさと涼しさが身にしみる
生きているからだ
窓の外を眺めてごらんなさい
みんな生きている
この国の四季は素晴らしい
おかげでまだ生きている
 
別の病人が小さな声で言う
次の季節を迎えられるだろうか
今の季節に楽しめるものを探すのが精一杯
 
 
  君ではない
 
痺れた手に持てと言う
折れた足に立てと言う
軟化した脳に思い出せと言う
忘却を描けと言う
色を無くした眼に彩れと言う
音を無くした耳に踊れと言う
泡を吹く動かぬ口に語れと命ずる
それは紛れもなく君自身だが
咄嗟(とっさ)
君ではない
 
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の根深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。 
 
 
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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