ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の亡者ぶり

 
  楽山の亡者ぶり
 
 「キリストを信じうるか」岩下壮一著
 2021年11月13日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/31127394.html
 
 
(ネットより)
岩下 壮一(いわした そういち、1889年9月18日 - 1940年12月3日)は、カトリック司祭・哲学者。大正から昭和初期の日本カトリック教会の精神的指導者と言われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E4%B8%8B%E5%A3%AE%E4%B8%80
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDだとバレているのに、それゆえ不感不応で、立場も状況も考えずに、病質に支配されて、文章を、誰のためでもなく、自己満悦のためだけに書いてきます。まともに受け取って交流などしたら、忘れられないほどの異常な疲労を受けることになります。
 
批判されながら、反論も弁明も修正も出来ないまま、遠慮もなく、学者と肩を並べたい自己顕示欲だけで、読書自慢をしてきます。こういう人が、いちばん、真実の追求を妨害し、信仰の敵となる、という見本のようです。病識がないことの、最も悲惨な有り様です。
 

*まえおき
『信仰の遺産』に収録されている「キリストを信じうるか」を読んでみた。その大まかな内容と感想を書いておきたい。

 
楽山の書く内容と感想を信頼しないでください。何が本当で何が嘘か、ということではなく、正直なことなど書いたことはないと思います。根拠は、一度も、はっとさせるものを感じたことがないということです。楽山は、難しい本を読んだ分かっているということにしたいだけです。
 
楽山は、インテリ気取りで、大好きな専門書をも読んだことにして理解したことにして、言葉を並べてきます。常識的理路も持っておらず、ゆえに、反省せず、責任を負う気もありません。他者を無視するゆえに、それで罪悪感を感じていないだけです。だから平気で、執拗に書いてくるのです。
 

*前提
まず著者は、神が人として現れたことを信じる前提として次のように書いている。

吾人の態度は、冷淡なる科学者のそれとは異なる徹頭徹尾宗教的要求に基づく求道者のそれたることを要する。吾人は神語り給うや否やと心を澄ませ耳を傾けて聴かんことを欲せねばならぬ。
(『信仰の遺産』岩下壮一著、岩波書店岩波文庫〉、2015年、p.37)
 」
信仰は科学ではなく、精神的なものであるから、相応の精神的態度が必要となるというのは自分にもわかるように思う。

 
楽山は何も分かっていないと思います。今までの約3年の経緯から、まず、楽山には、おのれを空しくするところの「宗教的要求」がありません。したがって、求道も、自分の都合のよいことを求めているだけです。楽山は、心を澄ませることが出来ませんし、誰にも耳を傾けることがありません。
 
自己愛性人格障害の楽山は、人間らしい心が無く、代わりに我欲の欲求だけに支配されています。自我以外のものは、都合よく利用するか、都合が悪いものは無視してきたのです。つまり、精神的な異常が、治療するすべもなく、うごめいているだけなのです。
 
信仰は科学ではありませんが、人間的な知性と感性による理路と情感が必要です。正常ならば、誰でも持っているものです。今まで、そういう良心的な内実を、楽山に見たことは、一度もありません。「狼と少年」のように嘘を吐き続けて信頼度ゼロであり、しまいに狼に食われるのかもしれません。
 
楽山の書くところの、謙虚そうで、やさしそうな、学問しているふうの筆致に、だまされないでください。信頼しないでください。楽山が求めているのは、真実ではなく、自己満足だけです。そのために、文章を組み立てて、陳腐なことと妄想を、知性的に見せかけてきます。
 

*認識
著者は上の観点から自由主義神学などを強く批判している。

高等批評がその誇りとせる歴史的考証や博言学的穿索を以てキリストの神秘を探らんとせるは、水面に映る月影を掬して天上の明月を掌中に納め得べしと夢想せるに異ならぬ。
(同上、p.41)
真に宗教的なるもの、神的なるものへの了解を欠く人々が、福音書の宗教的意義を認識し得よう筈はない。
(同上、p.38)
 」
宗教的意義および神秘を知るには、科学的方法ではなく、霊的態度、宗教的精神をもって向き合う必要があるという論理はわかるように思う。

 
史実や理屈だけでは、キリスト信仰を語れないことを、著者は言っているようですが、それに対して、楽山は、「霊的態度と宗教的精神」を並べて、「論理は分かるように思う」と言っています。何も分かっていない証拠です。楽山の自己顕示は、心の救いを、超常の論理にしてしまいます。
 

*信仰
さらに著者は、信仰は神のみによるのではなく、人の意思も関係しているとしている。

聖書の語を以て云えば「信仰は神の賜物」である。人が信ずるのではあるけれども、同時に信じさして頂くのである。
(同上、p.40)
神その恩寵によってこれを受け容るる人に御自らを啓示し給うのである。之に対する人間の態度は、信仰と依存のそれの他にはあり得ない。恩寵による神の啓示と之に対する吾人信仰と、この二者の契合する処に於いてのみ、キリスト信仰は成立しうる。
(同上、p.41)
 」
神は絶対であるとすると、すべては神の意思によるのであり信仰も例外ではないとするのが一等筋が通っているように思える。これと比べると神は絶対であるが人は自由である、信仰は神のみによるのでなく、神の恩寵と人の意思において成立するというのは若干理屈の通りがよくない。

 
神の絶対を勘違いしている楽山に近づかないでください。信仰者となるためには、聖書から学び、自分の意志によって信仰を告白します。だから、自由意志は必ず必要であります。楽山は、信仰が神の操り人形になることとでも思っているようです。
 
「通りがよくない」などと言っていますが、高慢で訂正不能の妄想的思想と理路しか持っていない楽山に、通りがよくなることはないでしょう。譫言(うわごと)のような幼稚さを、学者ぶって書いてくる愚かな詭弁に、だまされないでください。発展性が微塵も感じられない幼稚な偏見です。
 

ただ絶対と自由の両立、心の平安、自助努力の推奨など様々なことを考えると後者の考え方を闇雲に否定するわけにもいかなくなる。思想のみで判断するか、思想のみでなくその影響等も考慮して判断するかで結論はだいぶ違ってくるものだけども、これもその例か…。

 
「闇雲に否定するわけにもいかなくなる」と言っていますが、もう十分に、言葉を違え、理路を違え、勘違いを押し出しているわけです。「思想のみで判断するか、思想のみでなくその影響等も考慮して判断するか」・・意味不明です。思想を考えるときに、その影響を考えるのは当たり前です。
 

*印象
著者の文章は知的であり、かつ気迫がみなぎっていて、それを読むだけで思わず背筋を伸ばさないではいられない心持ちにさせられる。内村鑑三の文章もこのような圧力があるけれども、著者の文章もそれに似ている。

 
「気迫がみなぎって」「思わず背筋を伸ばさないではいられない心持ち」・・中身とは関係ない褒め言葉は、白々しい世辞に過ぎません。ちょっと言います・・バカか・・。理解できないものだから、褒めときゃええじゃろ・・ということになってしまいます。早く書くのをやめてほしいです。
 

その内容については、宗教的真理は宗教的態度によってでなければわからない、神は信仰によってでなくてはわからないというもののようなので、肩透かしをされたようで少しく残念ではある。

 
楽山に、透かされるような肩はありません。元々の人生が嘘に満たされると、理路は詭弁に固定され、直感は鈍麻して、恥を知らなくなるのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPDの末路です。楽山は、努力もせず、真剣さも見られないのだから、分かるはずはないのです。
 
誰とも、世辞以上の交流も議論も成立しないであろうことが、楽山の文章に表れています。人間として考えることが出来ない者には、永遠に信仰は理解できません。楽山は、書くことで、自分に信仰の道はないと言ってるようなものなのです。
 

これだと神は現実存在ではなく、精神的な存在であるから、一定の精神的態度をもたなければわからないということであり、神の非存在を否定しきれていないようなので…。

 
楽山は、神を「精神的な存在」にしてしまいました。しかし、楽山に、まともな精神がないことが、今までに明らかになっています。まともな精神ならば、神の存在を、人間の言葉で限定するようなことはしないのです。分からないことをごまかして、○○的存在?にしてしまう・・笑止です。
 
楽山が「神の非存在を否定しきれていない」のではなく、楽山に○○的と決められるような神ではないということです。信仰は、生きて学ぶ道です。「神の非存在を否定しきれていない」・・楽山固有の詭弁であるのボンヤリ言語の、面倒な書き方ですが、楽山には否定も肯定も出来ません。
 
"霊が分かるっぽい" ようなことを書いて、訂正不能になって、インスタントに神を知ろうとする楽山には、信仰は、何の縁もないのです。楽山は、どんどん、支離滅裂になってゆきますが、その巻き添えにならないようにしてください。決して楽山に関わらないでください。
 

自分としてはこれよりは、もし神が真に実在するのであれば、精神的態度のいかんによらず、科学的探求を徹底することによってその真に実在することを確認し得る時が来ないとも限らないという方が了解しやすく思う。

 
神は人知を超えていることも、受け入れられないほど、楽山の自己愛性人格障害は進行しているようです。危険だと思います。関わっている人がいたら、直ちに逃げてください。神について「通りがよくない」楽山は、さらに崩壊して、反社会性のサイコパスに通りがよくなるのでしょうか。
 
「確認し得る時が来ないとも限らない」・・"ないとも限らない"・・楽山の典型的な婉曲表現、つまり、ボンヤリ言語です。この言い回しに、だまされないでください。間違っても、謙虚な表現などと思わないでください。無反省と無責任の楽山の詭弁です。
 

神は人の心の中にのみ存在するのだとすれば、神を知るには特定の精神状態にならねばならぬだろうが、神は人の心から独立して存在するなら、精神状態に依存せずともその存在は知り得るだろうから。

 
神を知るのに「特定の精神状態」など要りません。前から言っていますが、人間らしい温もりと潤いがあれば、つまり、悲しみへの温かい共感があれば、神の恵みは受けられるでしょう。楽山には、それが決定的に欠損しています。楽山の記事を読めば読むほど、そう思います。哀れです。
 
普通の理路も分からないのに、「神は人の心から独立して存在する」なら「精神状態に依存せずともその存在は知り得る」などと、どこまで、楽山は、天才学者気取りなのでしょう。すっ飛んだ誇大妄想です。心が無く、長期にわたって嘘と詭弁を弄してきた報いでしょうか。
 
 
神は、人を、人の心を、人の生き方を、全知全能をもって、余すところなく、見ておられる、というのが、信仰の立場です。ゆえに、人は自らの罪と不完全を知り、恐れ、救い主に共感することで、神の前に、正直に祈ることを覚えます。
 
 

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            冒涜の行方(ぼうとくのゆくえ)
 
 
(2021年11月14日)
 
 
 
  祈りを知る
 
祈ったからといって直ちに
悲しみが喜びに変るとは限らない
苦しみが消えうせるとも限らない
でも奇跡的に変るかもしれない
でももっと奇跡的に
悲しみや苦しみが
それだけではないものに変る
祈る相手がいるという幸い・・・!
 
この世の人はそれを気休めと言い
心理的効果と言い捨てるかもしれない
聖なる働きと解釈するのも
否定し無視するのも
人の自由だ勝手だ
どちらも証明は出来ない
でも祈りは
生きた働きをもって返されるなら
証(あかし)としては
それだけで十分である
だから信じる
祈りが聞かれていることを
だから信仰する
すべては御心のままに
 
 
  狭く細い道
 
近づくことはあっても
交わることはないかもしれない
ときに休み
ときに耐える
狭い狭い道
 
素朴な不信仰
本気の弱音
本音の泣き言
ときに痛いほど
薄い胸に落ちて
抉(えぐ)るように沁みてくる
 
辿(たど)る経緯は違っても
それぞれの細い道
苦難の果てに見出した
薄明かりの細道を
違うからといって
どうして否むことができようか
 
日々の糧(かて)のように
あたかも等しく
水のように注がれる
弱々しさを抱えて
 
どうして希望を捨てられようか
いつかそれらが総て
広い広い一つ所に通じていて
栄光に包まれるという希望を
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録
 (1.が誰のコメントかは不明)
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
 

 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 」
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。人間共通の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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