ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山は闇の中に

 
  楽山は闇の中に
 
 『朝の光の中に』溝部脩著
 2021年11月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/31210553.html
 
 
楽山が、いかに、美化しようとしても、楽山の体質は、言語を通して、楽山の卑怯と病質を表してしまうようです。
 
(ネットより)
溝部 脩(みぞべ おさむ、1935年3月5日 – 2016年2月29日)は、カトリック教会の司教でサレジオ会士。カトリック高松司教区及びカトリック仙台司教区の教区長を務めた。洗礼名は「フランシスコ・ザビエル」。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%9D%E9%83%A8%E8%84%A9
 

*概略
本書は溝部司教の説教集である。収録されている説教は、一、二頁と短く、読みやすいものが多いが、やや長く難しいものもある。
以下に、本書中で特に印象に残った箇所をメモしてみたい。

 
楽山は、いつも、メモするだけです。それで責任を逃れようとしています。表れてくるのは、楽山が、理路を正して自分の意見をまとめることが出来ないということなのです。
 

*聖書
著者は亡くなった司教様のことに思いを馳せつつ、次の言葉について触れている。

わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。
(黙示録2:19)
 」
これは心にじんと来る言葉だ。自分のことを理解してくれている存在があると思えば慰められる心持ちはするが、その一方で怖ろしくもある。

 
「心にじんと来る」・・楽山は、こういう単純な感動言葉を使いますが、真っ赤な嘘です。楽山に好都合だったというだけなのです。「怖ろしくもある」・・これも嘘です。そう思わせたいのでしょう。もし本当であるなら、今までの偽善と嘘と詭弁の履歴はなかったはずです。
 

*罪と救い
著者はイエス系図に罪を犯した者がいることを指摘しつつ、次のように述べている。

罪深い人間の子孫として、イエスが救い主として生まれてきます。アウグスティヌスではありませんが、罪のないところには救いがありません。わたしたちの罪深さ、ほんとうに深い人間のもつ罪深さ、これらを通してこそ、神の救いがあるのです。
(『朝の光の中に 溝部司教の説教より』溝部脩著、ドン・ポスコ社、2003年、p.64)
 」
罪があるから救いがあるというのは、悪があるから善があるというのと、どこか似た所がある。

 
罪があるから救われるみたいな話をして自己正当化したいようですが、罪があり、悔い改めるから救いがあるのです。悔い改めない自己愛性人格障害の自己中である楽山は、救いに該当しません。このように、話を進める前提に、既に、詭弁の躓きの石を置いてゆく楽山です。
 
「イエス系図に罪を犯した者がいる」と書いて、キリストの神性を暗に否定したい楽山です。本では「罪深い人間の子孫として、イエスが救い主として生まれ」という救い主の由来を書いて、超常のスーパーマンではないゆえに罪深い人間に、愛をもって共感できるということでしょう。
 
「罪のないところには救いがありません」とか、罪人が救われる、とか言ったことは誤解を招きやすく、早速、楽山は、罪があるから救われるから自分も救われるという詭弁として悪用しています。罪人の自覚が、救いを求める動機になるということであり、楽山にはないものです。
 
「悪があるから善があるというのと、どこか似た所がある」・・説明もなく、意味不明です。楽山のような作為の偽善という極悪があるから、その反対側に、善を考えられるという意味なのだろうと受け取っておきます。
 

そういえば、三浦綾子の『氷点』のヒロインは、自身の出生の秘密を知って悩んでいたのだった。先祖に不義を犯した者が一人もいない者はいないだろうが、それについてさほど気にせず生きられる人と、それらの不義が自身の中に潜んでいることを強く感じないではいられない人とでは、その生き方は全く違ったものにならざるを得ないのだろう。

 
楽山は、罪の物語を、他人事としてしか受け取らずに、何を言っているのでしょう。楽山は、不義も罪も偽善も全く気にしないでいられる自己愛性パーソナリティ障害NPDの生き方をしてきました。その道を行くつもりなら、このような題材で、何も書く資格はないのです。
 
「不義が自身の中に潜んでいることを強く感じないではいられない人」・・楽山は、いかなる悪も偽善も、感じないでいられるのだということが、今までの記事に表れてきました。確かに、罪深さを自覚する人と、自覚しない楽山では、生き方が全く違います。楽山は、根腐れになっています。
 

*聖体拝領
著者はその昔、太平洋の島にやってきた司教や白人女性が、現地住民に食べられてしまった話をしつつ、聖体拝領の意義を説明している。
現地住民は、司教のような偉い人にあやかりたい、美人の白人女性のように美しくなりたいということから食べたのであるが、聖体拝領には次のような意味があるという。

ご聖体を戴く度ごとに、わたしたちはイエス様に同化し、大きく成長して、今度は自分を人々にあげられるようになるのです。
(同上、p.188)
 」
自分としては神の血と肉を食べるというのは感覚的にどうにも受け入れがたいものがあるのだが、この説明を聞くとその論理に関しては理解できなくもない。ライオンを食べれば、ライオンのように強くなることができるという風に、相手を食べることでその力を得ることができるという発想は分かるので。

 
現地住民に食べられることを「理解できなくもない」と言っています。とんでもない不祥事でしょう。「相手を食べることでその力を得ることができるという発想は分かる」・・気でも狂ったのでしょうか。それとも、キリスト教はそんな宗教だと、吹聴したいのでしょうか。獣性と悪意が全開です。
 
聖体拝領(聖餐式)のことを、楽山は、人食いやライオンの話におとしめています。やはり、うち続く偽善の作業のために、悪意も疲弊して、楽山の人間性を破壊しているようです。私は教会を離れてしまったが、聖餐式は、そのような儀式ではありません。
 
聖餐式は、キリストの犠牲の血と肉の、象徴的儀式です。楽山は、ふつう読めば分かることが、分からなくなっているようです。こういうことしか書けないのは、既に末期なのか。楽山のことをケダモノとは書いてきたけれど、本当に肉食本能だけの飢えた動物に堕ちているのでしょうか。
 
「ライオンを食べれば、ライオンのように強くなることができるという風に、相手を食べることでその力を得ることができるという発想は分かる」・・比喩だという明示もありませんから、根拠もないことを言う楽山は、正気ではありません。
 
 

 
どんな失言や間違いをしても、反省も訂正もしない、という楽山のような人間になってはいけません。そういう人間は成長しません。人間は成長するのが特徴ですから、訂正不能人間は、人間ではありません。そういう人は、関わる人々に迷惑をかけながら、混乱し劣化し崩壊してゆくだけです。
 
 

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             ケダモノ、本能?
 
 
(2021年11月23日)
 
 
 
  引き継がれ
 
ときに和み
ときに競い
ときに揺さぶり
ときに闘って
似ていても
相反していても
結局どこまでも孤立しており
いつまでも孤立していながら
引き継がれる力がある
 
微かな光を浴び
あるいは底知れぬ陰に沈み
あるいは叩かれて去り潰されて消え
あるいは独り獣道に迷い込んで倒れ
犬か鼠のように死んだとしても
 
信じようと信じまいと
それぞれは役割を担っており
そのそれぞれを刺激し賦活し
いつまでも秘密でありながら
引き継がれ押し出そうとする
大いなる力がある
 
だから心置きなく
時が来たら安らかに速やかに死ね
だから心置きなく
時が来るまで苦しみ抜いて生きよ
 
無数の苔むした躓(つまず)きの石の潜む
果てしない樹海へ
無数の肉食プランクトンの生息する
果てしない深海へ
押し出されて行け
 
 
  混線ラップ
 
ぎ・み・さ・わら
少しでいい
いがらっぽい毎日に
煙草のせいではなさそうだ
呪いの国 笑いの街角 箱の中
 
殺伐たる事件の数々
せめて明るいニュースで埋めて
メリットだらけのメッセージ入れて
 
無理な遊戯の化粧と愛想が
期待通りの笑みを浮かべて
飛びたい刃物の獣性を隠して
二十歳(はたち)過ぎても三十過ぎても
食えるのにまだ飢えている
 
 どんなに図体(ずうたい)でっかくても
 線が細いと長持ちしないぜ
 だって太い線はみんな完全
 感電・感染しているくせに
 罅(ひび)割れ漏電しかけているから
 下手に触ると怪我(けが)するよ
 
これはフィクションです
これはフリクションでガーガーガーガー
 
銃声とジェット機
走る背中を追い越してゆく
 
呪詛の国
笑って殺すか殺されるか
期待の未来の原稿読むか
うりゅ・ぎ・み・さ・わら・ぷりー?
これはフィクションです
水を水を水を水を
聞こえますか どうぞ?
 
 
※ 一行目は、一応、give me some water のつもり。
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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