ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

虫のように迷惑3(2)

 
  虫のように迷惑3(2)
 
    2019年11月12日
   『神は妄想か?』の感想つづき
   http://mn266z.blog.jp/archives/22036873.html
   楽山日記(仮)
 
 
楽山の、幼稚で、未発達の、神への決めつけが表れています。それは、神を、頭の中の筋書きだけで語れるという楽山の、恐れを知らぬ傲慢なのです。楽山は、神を鼻先で、いじくって遊んだのだから、信じるとか信じないとかの段階ではないのです。
 

たとえば神は絶対であれば、人の行いによってその判断が変わるはずもなく、もし人の行いによって救う救わないの判断が変わるのであれば、神の判断は人に依存していることであって絶対ではないことになってしまうだろうし、

 
楽山は、神を、自らの堕落した頭の中に、安いイメージの存在として描き、神の不変を勘違いして遊んでいます。神は、人の知恵で、ましてや、楽山などの浅知恵で測れる御方ではありません。神と人は、依存ではなく、双方向であり、神の絶対が人に及ぶだけという単方向ではありません。
 
神は、人を全て見ておられるというのが信仰の弁えです。楽山は、絶対という言葉を、悪用して詭弁でキリスト信仰をおとしめています。理解の欠如した者の発言です。つまり、神は、楽山の言動も全て見ておられますから、その虚偽と悪意を見逃すことはないということです。
 
神は、全知全能ですから、既に、総てを承知の上で、人の成り行きを定めているわけです。神は、人に依存しているのではありません。信仰の救いを求めている人が来て、ご自身の前に正直な告白を捧げるのを待っておられるのです。楽山は、その機会を、ことごとく故意に逸してきたのです。
 
神を、高慢な人間の辻褄だけで考えていると、楽山のように、低劣な疑問に陥るだけになります。邪悪な罠に堕ちているのは、楽山であり、机上の拙い思路で、いちゃもんだけを繰り返している、その口は、神の敵たる何者かに寄ってゆく邪悪の、もはや、代行者のようです。
 

それに神の愛が無限であればその愛は人の行いによって左右されるような小さなものではなかろうし、だいち人は先天的な資質、環境などが整ってこそ…もっといえば神による支援、導きがあってこそ善行が為せるのであって、

 
神の無限を、いつも無限の愛だけを注いでくる、という楽山の気安い神?道楽実験室からの暴言です。恐らく、楽山やシャロームは、神の愛のひとかけらも知らないままで終わるのでしょう。神のほうの辻褄合わせを、楽山はするつもりなのでしょうか。あまりにも愚かです。
 
神と人は、双方向です。人が祈り、神が導きますが、それで、人に、すぐに神の意志を確定的に理解できるようなものではありません。人は全知全能を知りえないからこそ、信仰者は、その存在と可能性を唯一の希望として生きるのです。
 

人が独力で善行を為せるし、それによって自分で自分を救えるというのはいささか傲慢にすぎるように思えなくもない。そんな風にいろいろと考えると、行いによって救われるというのは何かちょっと違う。

 
知る限りでは、独力で何の善行も為しえていないばかりか、人を惑わすような臭い言葉ばかり婉曲的に書いて、人を怒らせて快感を覚える楽山です。ベースの感情は、不機嫌と嘲笑いで、シャロームと同様だと思います。楽山のインテリ気取りの丁寧語に、だまされてはいけません。
 
既に、行為義認というのは、パリサイ人の戒律主義として否定されていることも、楽山は、学んでいないようです。キリスト信仰においては、信仰義認しかありません。恐らく、楽山は、自分の言動が、いかなる信仰にもならないために、逆切れして、神を、貶めているのでしょう。
 

神様を信じるのも大事ですが、行いにも気をつけましょう、善い行いをするように努めましょうというのであれば了解できるけれども、行いによって救われる、行いがなければ救われないというところまで行ったら行き過ぎだろう。個人的には知行合一的な考え方には魅力を感じないこともないけれども、それを人に可能とし、自分だけでなく他人にも義務づけるかのような発想は無茶だと思う。

 
また楽山の臭いボンヤリ言語ですが、楽山は、小学校の道徳のような、甘くて、いい加減な言い方をしないと気が済まないようです。しかし、大人は、むしろ、それでは不十分だと分かるから、深い洞察を求めて、小学校レベルの言い方をしなくなるのです。楽山には、その成長が見られません。
 
表面的な行いよりも、神は、その心をも、余すところなく見ておられると考えるべきでしょう。楽山は、小学校レベルにとどまっているのですから、ここに書いたりしないことです。それとも、親身になって、誰かに、ほおずりでもしてほしいのでしょうか。
 
ふつうは、こんなことをするのはいけないだろう、神が赦してはくださらないだろう、という行いがあります。それが、キリストに敵対し殺したパリサイ人の行ないのような偽善であります。拙劣で悪意で出来ているような文章を、まともぶって書いてくる楽山も同様でしょう。
 

ついでに恥ずかしながらもう少し自分語りをすると、自分は元々は宗教の教えは実践しなくては意味がないという考え方をしていた。その頃は、ヤコブの手紙にすごく共感したのだった。上に提示した「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)という言葉など。

 
信仰を語っても行いが伴わないのは偽善ということですが、楽山は、善意を気取って、反信仰を語って、善行もないのだから、悪+偽善ということです。同じことを繰り返す厄介となっている楽山は、宗教の教えを実践したことがあるとは、到底、思えません。
 
現に、小学生レベルの軽口で、邪魔ばかりしているからです。楽山については、よくこんな白々しいことが書けると、ずっと呆れています。楽山の言は、大根役者の三文芝居であり、楽山の実質は、正義とも信仰とも真実とも正反対です。これほど偽善性の高い嘘吐きが楽山なのです。
 
楽山の持ち物は、嘘と詭弁と三文芝居、ベースに、自己愛、無反省、無責任、無理解、共感と洞察の欠如など、信仰に反することばかりです。ゆえに悪い行いだけが伴ってきたのです。楽山が為すべき悪でないものがあるとすれば、神とキリスト教について何も言わず書かないことだけなのです。
 

でもその後、自分には実践は無理じゃないかと感じるようになった。三浦綾子のエッセーで、聖書の一節を徹底的に実践してみることを推奨しているものがあって、自分なりにそれっぽいことにチャレンジしようとしたものの全然だめで、自分の至らなさを実感してからは、今度はパウロの言葉に感動するようになったのだった。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ロマ3.20)など。

 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
3:19
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。 
3:20
なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
 (ローマ3:19-20、新約聖書
 
楽山の信仰?実験室での実践は、リトマス試験紙だけのような安い思考実験だと思います。楽山には、今までの文脈から、良心と呼べるものを感じたことがありません。くだらない軽口で、邪魔ばかりしてくる楽山です。要するに、楽山は、自らの怠慢と自己中を正当化したいだけなのです。
 
教えを実践しようと努める信仰者は、自分の至らないことを知っているので、このような軽口は叩かず、できることをします。楽山からは、体験談ではなく、真面目を装いながら、その実、ヘラヘラ笑って見せびらかす自己顕示欲だけを感じます。
 

ただ自分は無宗教なので、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)という考え方はよく分からない。宗教を信じて、それゆえに自分は救われたと実感して歓喜している人はいるし、自分もそういう感覚を味わったことは無くもないので信仰によって救われるというのは分かるようにも思うが、信仰のみによってしか救われない、信仰が無ければ救われないという風になるとちょっと分からなくなる。

 
信仰の無い人が救われるかどうかは、神に任されていることです。誰も分かりません。神が、信仰がない人を導いて使命を与えることがあるかどうか、人が、肯定も否定もできるわけではありません。楽山の宗教観は、極めて稚拙なものであり、視野が狭く、柔和さが皆無であると分かります。
 
無宗教のみならず、反宗教・反キリストの楽山が、何故、知ったかぶりをして、聖書や本の言葉などを書いてくるのでしょう。分からないなら、求めるべきであり、信仰者の言うことを聞くべきであり、文句を言える段階ではない。ここに、自己愛性人格障害が、如実に表れているのです。
 
宗教について「そういう感覚を味わったことは無くもない」・・ボンヤリ言語の嘘です。楽山は、訂正不能の慢心が酷いので、分からないなら、もはや、書くべきではないと思います。楽山は、信仰などなくていい、救いも必要ない、という自身の妄想を正当化しているだけです。
 
楽山の、いつもの到達点である、ああでもないこうでもない、結論がまるで出てこない、というボンヤリ言語の話になってきました。それで、断定していないなどと言い、まともに見せかけ、中庸に見せかけ、かつ、責任は負わないのだから、たまったものではないのです。
 
楽山の、ボンヤリ「無くもない」「そういう感覚」というのは、恐らく、カルトやカルト的な人に見られるところの、冷たいのに押しだけ強い薄笑いの悟り顔の慢心だろうと思います。既に、とても気持ちの悪い筆致として、楽山の書く文章に表れているものです。
 

上にちらと書いたように、神が絶対ならその判断は人の行いのみならずその思いにも影響を受けることは無かろうし、その愛が無限であるならその人の能力を超えて到底実行できないようなことを救いの条件として設定したりはしないだろうと思うので…。

 
神と人の関係が信仰です。楽山は、神がいれば、人が何もしなくても何でもオートマチックに、うまくゆくはず、という妄想を語っています。神は、人に出来ないことを求めてもいません。そんな神は、どこにもいません。そういう神は、楽山の心に長らく巣食っている悪魔のことでしょう。
 
救いの条件は、正直な祈りだけです。しかし、自己愛性人格障害厚顔無恥の楽山の手にかかると、とんでもない自己中解釈になってゆくので、楽山を全否定してゆくしかないのです。正直の欠片もない男、楽山、何のために生きているのでしょう、分かりません。
 

なんといったらいいか、大概の宗教は救いについて何らかの条件を提示しているものであるし、神を偉大とすればするほど無宗教にならざるを得ないような感じがする。神を信じるほど宗教は信じられなくなるというのはおかしな理屈のようでもあるけれども、自分はどうもそうなってしまうようだ。

 
また、神?実験室の話です。神と人は双方向というのは、何度も書いてきたことですが、楽山は、人の意見などどうでもいい人なので、全く学習効果がありません。書くことと教えることだけに、満悦するというのは、シャロームと同じです。ゆえに、成りすましを疑っています。
 
決めつけはよくない、という記事も書いた楽山が、神を決めつけています。また、「神を偉大とすればするほど無宗教にならざるを得ない」・・楽山の妄想は、大方、意味不明です。楽山の鼻の穴の中にでも汚い基準があるのでしょうが、肯定も理解も、されることはないものです。
 
「神を信じるほど」・・楽山は、一度も、神を信じたことはないと思います。楽山の、どの記事にも、信じていることが表れたことはないからです。つまり、楽山は、平気で、嘘を吐く、恐怖のナルシストです。決して関わらないでください。
 
上の「大概の宗教は救いについて何らかの条件を提示しているものであるし、神を偉大とすればするほど無宗教にならざるを得ないような感じ」・・このお粗末な宗教観・信仰観は何なのでしょう。楽山教でしょうか、楽山狂でしょうか。
 
キリスト信仰に、取引のような条件はありません。神との契約は、信じて拠り所とする契約です。神の前に、祈りにおいて、正直でさえあれば、信仰は、成立します。信仰をねたんで、正直の欠片もなく、自らの不全を認めない楽山の、これは、埒(らち)もない不満と憤懣の糞便であります。
 
楽山は、自分が一番偉大だと思っているから、神に嫉妬でもしているのでしょうか。そして、神が偉大であれば、ではなく、神を偉大とすればするほど無宗教になる、と言っています。どうして、人が、ましてや、楽山が、何も知らないのに、神を偉大とするかどうかを語れるのでしょう。
 
神を、楽山の机上で扱えるオモチャにしてしまう、これが、楽山の恐ろしい決めつけです。「感じがする」と書いていますが、だまされないようにしてください。ひどいことを言っているのを、曖昧な言い回しでごまかしながら、やんわり、ぼんやり、刷り込もう、吹き込もうとしているのです。
 
恐らく、楽山には、思想など、何もないのだろうと思います。楽山は、何物にも染まらないと自慢したいのでしょう、しかし、最も悪い者に、染まってきたようです。ゆえに、中立の立場を気取って、尿失禁ばかりしています。誠に失礼な男なので、礼をとることは止めています。
 
人に出来ないことを、神は、人に、救いの条件として設定するでしょうか。明らかに否であります。全能の神は、人の不完全を既にご存知だからです。人が感受して、人が考え、人が出来るという信仰が、何も出来ない楽山によって惑わされないようにしてください。
 
偉大 → 無宗教、信じる → 信じられなくなる、という、おかしな理屈、と結び付けてくる楽山は、これからも、おかしな理屈しか言わない妄想粘着の子供レベルであり、しかも、宗教の敵、キリストの敵、総ての真面目に生きている人の敵です。
 
楽山は、噂話レベルのような小便臭いこと以外、何も書いてきませんでした。難しい本や、有名人の名前は、自己顕示のために利用しているだけだと思います。反宗教、そして、反キリスト、嘲って笑うゲーム感覚、というシャロームと同じ有り様になっています。
 
そして、楽山は、前に書いたところの、否定と嘘と嘲りのスパムとなって、人を怒らせて悦びとするサディスティックな面だけが、目立ってきました。自己愛性パーソナリティ障害NPDからの、良心のない自己中に支配されているサイコパスというところでしょうか。
 
 
私は、時に、厳しい喩えを挿んで書いていますが、私自身が、バランスのとれた中立で柔和なキリスト者でありたいとは、思っていても出来ないという自覚から、このような、ゴミ虫のようにネットに巣食う者を相手にしているのだろうと思います。楽山は、何の糧にも参考にもなりません。
 
人間は、バランスの取れた中立で柔和なキリスト者でありえないのです。その自覚のない楽山は、バランスを保って批判することが全くできないところの、言葉でだまそうとする卑劣さであり、あちこち這い回ってゴミ虫のようにエサを求めています。
 
間違っていても、本気で、罵詈雑言を言っている人は、ひどいと分かる分だけ、まだ、楽山よりはマシなのです。楽山は、そこを隠しています。暴けば、きれいなもの、よいもの、すぐれたものなど、何ひとつなく、真っ黒な炭か闇だと思います。
 
つまり、何より、バランスが取れて中立で柔和だと見せかけて、人を騙すのが、彼らゴミ虫のような者たちの特徴だからです。(実際のゴミ虫は、ごみ溜めによく見かけられ、新鮮な死肉や、寄ってくる他の虫などを食べるそうです。)
 
楽山やシャロームなどの、ゴミ虫のようなカルト思想宣伝者は、もし権力を得たなら何人でも人を害するでしょう。ゆえに、社会悪のサイコパスだと判断しています。ゆえに、多くの人に、広く知らせる必要があります。そのために、批判の必要性が生まれます。
 
彼らには現実での無知によって、どうしようもない欲求不満があると思います。そのための深い怨念によって、暗くて見えにくいところに侵入して、邪悪を潜ませて仲間を増やしたがっているのです。彼らは、反動のように尊大に高く舞い上がって、さらに、自らを無恥に導いてゆくのです。
 
無知から無恥へと誘導する企みに、だまされないでください。楽山は、丁寧語とは裏腹に、とても野蛮な心性をもって、何を言われても平気で、同じインチキを続けられる病質者なのです。
 
 

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                   害虫
 
 
(2020年11月15日、同日一部修正)
(2021年11月26日、再録+)
 
 
 
  蜘蛛を殺さなくなった
 
木造の家にはしばしばいる
あの大きな蜘蛛(くも)だ
巣を張る様子も見かけず
天井や壁や床に
じっとしていたり
這っていたりする
 
昔は殺虫剤をぶっ掛けて
丸くなるまで殺していた
気持ち悪さに鈍感になったのか
それどころではない気持ちでもあるのか
殺すまいと思った。
 
ある日玄関のドアを開けると
内側の壁に張り付いて
こちらを向いている
至近距離
そっと軽く足に触れてみる
数歩は素早く後退(あとずさ)りしたが
それ以上逃げようとしない
 
生まれて初めて蜘蛛に自分から触った
 
蜘蛛は
「何しはりますねん」
とでも言っているかのように
まだこちらを見ている
 
なめられているのか
馴染(なじ)まれているのか
ひょっとして眠っているあいだ
顔中を這い回っているのでは・・・!?
洗うたびに赤くなる顔
剃刀(かみそり)や
電気シェーバーにさえ気触(かぶ)れて
髭を剃るたびに出血して
爛れる口の周り
荒れて硬く脆くなった皮膚
 
いっそぐるぐる巻きにして
血を吸ってみよ
毒でも入れてみよ
と思い切ったときから
大きいのも小さいのも
蜘蛛を殺さなくなった
 
 
  風を追う
 
来し方を振り返れば
風を追うようなものだ
行く末を眺めれば
風を追うようなものだ
今日一日を大切に・・・といっても
今日一日がいちばん近くて
今日一日がいちばん身に沁みて
今日一日がいちばん辛(つら)くて
危なくはないのか
(だからこそ→GOTO5行目)
という狭いループを抜け出して
少しく広い息
 
いずれ滅びることは分かっている
塵(ちり)に帰ることも知っている
犯した過ちは訂正できないのに
逝った人は戻って来ないのに
いつどこでどうなるかなんて
まるで分からないのに
独り姥捨山(うばすてやま)に坐って
どうして此処(ここ)に居るのかと
首を傾(かし)げるように
何ゆえか悔い
何ごとか案じて
風に追討ちを食らっている
気息奄々(きそくえんえん)
誰の吐息か
誰の呼気か
今吸い込んでいるのは
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

★こも/楽山日記3
@komo266
ついでに、感想をもう一つ。
遠江批判には、遠江氏の意見に異論を述べるというより、意見を言うこと自体に反対するものも目立ちますね。
意見を言うなら公開でなく、こっそり言うべきだ、議論になるようなことは言うべきでない、みたいに。
HSには、秘密主義で密室政治が好きな人が多いのかな。
2021年11月25日
https://twitter.com/komo266/status/1463826795795410944

 
私は楽山の体質からの嘘と詭弁を批判し続けています。したがって、上のような、一見、私とキリスト教に無関係なツイートにも、楽山の体質が表れているなら批判対象となります。ここで、楽山は、下記のことについて反対しているようです。
 
楽山「意見を言うこと自体に反対する」に反対・・意見を言うのは言論の自由です。しかし、言論の責任が伴います。その責任を負わない人には、言論の自由も資格もないのです。ずっと前から、受けて答える理路を全く持っていない楽山の、無反省、無責任は、明らかになってきたのです。
 
楽山「議論になるようなことは言うべきでない」に反対・・何のために意見を公開するのでしょう。公開され議論の対象にならない言論はないと思います。楽山は、自己満足か詭弁で刷り込むために書いてきます。つまり、議論しない、逆らうな・・と言っているような楽山です。
 
楽山「秘密主義で密室政治が好き」に反対・・楽山こそ、言うには言うが聞かない、という単方向ゆえに、正当な受け答えが全くできません。つまり、根拠も価値もない妄想を、公開して、まるで神秘のように修正不要に見せかけるところの議論不能のペテン師なのです。
 
意見を言う自由、ということを、全く自己中の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、責任を無視して発信することを、正当化しようという楽山の詭弁なのです。そういう立場というのは、まさに、自分を神の座に置いているようなものなのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根が治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという詭弁の言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。「だよなあ」どころではないのでう。
 
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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