ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の悪意2

 
  楽山の悪意2
 
 最近、よく見ているブログ
 2020年11月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27072994.html
 (一部省略)改めて批判。
 
 
殺伐とした記事が続いて申し訳ないです。我執だけが臭気と持ち味の楽山です。今回、楽山は、キリスト教を、新しい批判ではなく、またしても、同じ勘違いで書いてくるのです。人の言うことを、まるで受け取っていないことを、自ら表しています。
 
ずっと前に楽山が書いて、そういう言い分はキリスト教批判にはならないと言ったのに、また同じことを、昔の、針のとんだレコードプレーヤーみたいに、繰り返しています。こういうことをやって満悦する楽山は、訂正不能の一方的な病質者だから、誰も関わってはいけないと思います。
 
この記事に潜ませた悪意が、楽山の本性です。そして、またしても、他者のブログを悪用して、反キリストを表し、神否定を表しているつもりです。既に、読んで、問題外だったのに、まともなことを言えない者が、嫌がらせだけをしてきます。
 
数か月だまされて、そのあと、批判を始めて約3年、何も良きものの欠片さえ返すことのない、そこだけ、徹底している、いちゃもん屋の、議論不能の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)で、無反省・無責任で、書くことをやめられないままの、成長のない楽山です。
 
今回も、ずっと前に書いてきて、批判したことを蒸し返すというより、前のまま、何の進歩もなく同じことを、キリスト教批判の他者の言い分に、迎合する形で書いているだけなのです。自己愛性人格障害は、学習も成長もしないということです。
 

*神義論(弁神論)
最近、よく見ているブログで、神義論に関連した記事が公開されていた。。

・神と災害 - キリスト教の問題点について考える
 」
自分がこの矛盾に気がついたのは、スティーヴン・キングの『デスぺレーション』を読んだことが切っ掛けだった。この物語の主人公は、友達が交通事故に遭い、意識不明の重体になったことから、神は友達を守ることができたのに、そうしなかった、神は友達が事故に遭うことをゆるした、なぜ?と悩んでいたのだった。

 
楽山は、神が、ご利益的に人の都合に合わないことに、いちゃもんをつけて、キリスト教を否定していますが、神は、神秘であり、いつも、人が神の行為に納得できるわけではない、ということが、理解できない、というより、理解など、する気がないのだと思います。
 
人には成り立たないところの神の全能を考えるならば、むしろ、神の考える幸いと、人の考える幸いは、違っていて当然なのです。神の考える信仰と、人の考える信仰も、違っていて不思議はないのです。ゆえに、人間には、神を恐れ、キリストの愛に縋(すが)る信仰があるのです。
 
楽山が、神を否定するのは、楽山が、神をも、上から辻褄を追うように眺めているからであり、その楽山の辻褄は、ずっと、楽山の恣意に表れてきたところの、自己中による学習不能を経て、楽山の合理性?という低次元で、神も、超常も、霊も、宗教も眺める、という、身勝手で幼稚な話なのです。
 
神の合理が、人の合理によって、説明されることはありません。ゆえに、人は、この地上に不可避的に起こる不運と悲劇に耐え忍ばねばなりません。信仰は、むしろ、そのためにあります。神の合理を、物知り顔に讃美して満悦する信仰は偽物です。
 
神の非合理が、人の合理または非合理によって成り立つことはありません。ゆえに、人は、神を恐れる態度が必要です。楽山は、条件を出して、神の合否を決めており、信仰に一歩も近づいてはいないのです。神の非合理を豪語して、神を否定したつもりの思想は、稚児の譫言であります。
 
楽山は、稚児の譫言をもって、しかも、他者の勢いを借りる卑怯さで、実際には、実に惨めったらしく、神を否定するような、知ったかぶりだけの、楽なお山の大将を気取っている偽善者であります。読めば、楽山の高慢な姿勢は、神にも信仰にも縁はないだろうと分かるのです。
 
キリスト教の総ての救いは、人が、キリストの共感に支えられて、それゆえに、神の前に正直な祈りを捧げることによって、人ではなく、人の合理でもなく、神の御心の成就によってもたらされます。信仰は理屈ではなく、現実を生きるための希望であります。楽山は、外部の野次馬です。
 

神は善であるが、全能ではないとすると、悲劇があったとしても、神はそれを止めたくても止められなかったのだろうということで神の善性を疑うことにはならないが、神は善であり、かつ全能であるとすると、悲劇が起きたときには、「神は全能で悲劇を止めることができなのに止めなかった。なぜ? どうして?」という疑問を持たないではいられなくなる。
これは本当にやっかいな問題だと思う。

 
恐ろしいことに、楽山は、神を、人の論理で扱えると思っているようです。この時点で、楽山は、信仰には一歩も近づくことのない人となっています。だから、楽山は、信仰が「やっかい」なものに思えてならないのでしょう。「やっかい」と思うなら、何も書かないことです。
 
楽山が、神の行動方針を決めて、悲劇を止めるかどうかで、是非を決めつけているさまは、恐れを知らず、自らを高みにおいて、こともあろうに、神を、裁いていることになります。まるで、神にも、人にさえ、何の縁もないところの、虚妄の空間を徘徊する楽山です。
 
難しく飾って言っても、きわめて単純で、短絡した幼稚な理屈を、神に当てはめていることが自明であります。神は、楽山のような、やっかい者が、すっきりするように辻褄を合わせることはありません。疑問は、信仰者でもいだきますが、楽山には、ベースとなる人間性がありません。
 
楽山は、いちゃもん宣伝者であります。楽山の言は、神の意志と行為を、人が説明を受けて納得いかないと信じないということですが、そのような説明好きな?神?のあり方など屁のようなもので、そういう神ならば、私は、信じることはなかったでしょう。
 
楽山は、何でも言うことを聞いてくれる奴隷のような童話の神を所望のようです。全ての、恐らく、楽山の悲劇を止めてくれる都合のよい神でないと信じないのです。こういう御利益信仰の在り方は、現実によって全否定されるものです。楽山の都合で守ってくれる神は、どこにもいません。
 
安っぽい楽山は、宗教を考えても、安っぽく、幼稚で、なんでもかんでも、うまくいかないと信じないぞ、という、自己中の言い分に過ぎないのです。呆れたへっぴりの卑しさです。「やっかいな問題」と思うなら、書かなければいいのに、自己顕示だけのために書いてくるのです。
 
まさに、楽山のような反キリストが、いかなる愛にも、いかなる救いにも、感じるところがなく、逆に、自身の堕落を、神のせいに、宗教のせいにして、悦に入るような、この世の真善美にも、神の与える信仰の義にも、永久に恵まれないであろうルサンチマンの不細工を表しているのです。
 
楽山は、この地上に、良きものを何一つ見いだせずに、世の中を、人を、神を、キリストを、恨み続けているのでしょう。楽山は、書くたびに、潤いも温もりもない、殺伐とした、下手くそな、お絵かきの幼稚さだけを見せてきます。その惨状が楽山の精神世界なのです。
 
そして、その実質のない、みすぼらしい知性と感性を、反省することもなく、学ぶこともないまま、自慢げに、丁寧語の芝居で、人をだます行為を、もはや、やめることが出来ないでいるのです。こちらの言ったことを、何一つ受け取らないで、自分の言い分だけを繰り返しています。
 
しかも、ずっと、自分の言葉を持たず、まとまらず、学習せず、他者の、字面だけ都合のよい言葉を悪用することしか出来ません。何かを追求する意志もなく、楽山は、最初考え始めたときから一歩も進んでいないのではないかと思います。
 
楽山の言は、例外なく、下劣です。正直言って、何というクズだろうと思います。やっていることは、小蝿の所業です。いくら真面目そうに装っても、本気、真剣、真摯、誠意、という言葉から、最も遠い人です。自分を省みないで思い上がる者は、こうなるという見本です。
 
楽山が満足するような、宗教も、思想も、この地上にはありません。楽山は、現実を認識しないために、現実の地上に、現実離れした空想だけを当てているのです。だから、最初のQ&Aから、いつまでも卒業できないのでしょう。信じないなら、信仰について語らないでほしいです。
 
楽山には、人間的な潤いと温もりがありません。その欠損を自覚することも出来ません。「反省。とほほ」など、自覚に類する言葉を使ったとしても、何も変わらない前後関係と文脈から否定されています。物わかりが悪いのに、字面だけ、まともを装う楽山に、だまされないでください。
 
楽山にあるのは、悲しみでもなく、思いやりでもなく、冷笑と憎悪だけです。楽山が何か言ってきたときには、私のように批判する人以外は、返さないでください。決して楽山に近づかないでください。結局、楽山は、人をだまして、地獄への道連れにしたいだけだろうと思います。
 
 

      f:id:stdsts:20211129234610p:plain

              道連れを求める闇
 
 
(2020年11月23日、同日一部修正)
(2021年11月30日、さらに修正して再録)
 
稚児(ちご、ややこ)
譫言(うわごと、せんげん)
ルサンチマン ≒ 弱者に募る怨念。負け犬の遠吠え。自省しない妬み根性。
 
 
 
  時の筈
 
こんな筈(はず)ではないと嘆いても
朝起きたら朝起きた分だけ
いわれもなく理不尽に
訪れてくる昼を待つことになり
同じように夕を夜を待つことになる
だからといって
朝も昼も眠って夕を迎えれば
ますます理不尽ということになって
こんな筈ではないと嘆くのだが
もともと時間は来るのにも去るのにも
いわれなどある筈(はず)も
示す筈も必要も必然もないもので
ただ留まることを知らないという道理に
適(かな)うだけの
筈を誰にでも取りつかせている
 
 
  夢より勝手に
 
まだ生きてたの
と言うのだ
かつての好ましからざる同僚が
まるで家畜を見るような目で
悪し様に言うのだ
もちろん夢の話だ おぞましい悪夢だ
いったいどんな思惑(しわく)が見させたのか
室温十四度の部屋で
汗をかいて目が覚めた
朝だ 夜は眠れたということだ
しかも晴れだ
何と裏腹な・・・こんな目覚め方
窓もドアも開けていないのに
蠅が一匹部屋の中を飛んでいる
 
まともなパターンの睡眠
悪夢のうちに取れましたと
日記に書いて落ち込んで
またベッドに入って
ふて寝して一日を過ごすか
 
嫌だな 夢にまで負けるなんて
気晴らしに出かけたからといって
どうなるものでもないが
二十日間ずっと眠っていたオートバイ
タンクの汚れをざっと拭(ぬぐ)って
起こして 逃げるとしよ
 
まとわりつく夢を振り切って
かつて衝突して骨折した防波堤のある
海沿いの道へ 晴れた春の海が
待っているということはないのだが
それで我が身の汚れが
拭えるわけでもないのだが
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
殆ど動物の反射のように、覚えた弁明の言葉を並べても、一切、弁明になっていない楽山です。悪意が、いずれ自分を破壊してゆくのを待つしかないのでしょうか。とはいえ、こちらは、疲労と徒労という被害を既に被っているので、さらに広がるのを防ぐために、批判を続けるしかありません。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
ツイッターには、
 ブログ記事を抜粋して投稿したり、リンクつけたりです)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html