ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

被害的・他罰的3

 
  被害的・他罰的3 その1
 
   楽山から見た st、shalom 問題を振り返る
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12547467881.html
   楽山日記(a)2019-11-21 に対する批判を加筆して再録。
 
 
楽山の詭弁と嘘がどんどん悪質になっているので、今回は、過去記事を加筆して再録です。反省を全くしない人というのは、自分を完全に問題の外に置きます。そして、今回のように、当事者であるにもかかわらず、「 st、shalom 問題 」と、平気で書いてしまうのです。
 
実際は、「st、楽山、 shalom 問題 」ということです。シャロームもですが、もちろん、今、いちばん問題なのは、楽山であります。私のほうは、批判を書いても書いても、まだ、足りないという経過が続いています。
 

*経緯説明
先日、shalomさんからコメントがあったので、何気にその方面について検索してみた。いろいろと見てみたが、どうもこれまでの経緯をまとめておいた方がよさそうに思うので、ざっと書いてみる。
なるだけ時系列に沿って書こうと思うが、はなはだ頼りないことながら、早くも記憶は薄れてきてるので、勘違いがあったり、事柄が前後したりすることもあるかもしれない。ご了承願いたい
というわけで、まずはこの辺りから書いてみる。

 
「はなはだ頼りない」という自覚があるなら、書かないことです。やっていることは図々しいかぎりですから、言っていることの釣り合いが取れていません。そのあとの、前もっての言い訳は、白々しい作為であり、見苦しい限りです。
 
要するに、楽山は、自分の書くことはめちゃくちゃだが、承知で読んで受け容れよ、と書いているようなものです。それは、結局、楽山の謙遜は芝居であり、見苦しい言い訳に過ぎないと、自分で言っているのです。この場合、勘違いの了承は、致しません。
 

・楽山ブログにstさんからコメントが入る。
stさんのブログを見ると、訂正不能はダメとか、教条主義でなく情緒が大切とか、共感できる考え方だった。

 
「・・とか」という言い方で語れるほど、楽山の意識の低さと理解の浅さが表れています。楽山から「共感」を得たということは、一度も無いと思います。楽山は、嘘ばっかり言ってます。
 
楽山は「共感できる」といっていますが、この後も、信仰の心を無視して、奇跡や超常の辻褄にこだわり、それが無いからと、神を否定しているのです。しかも、それを、繰り返し、書いてきます。ということは、つまり、「共感できる」は、楽山の大嘘だと言うことです。
 

・stさんがすごく落ち込み、傷付いている様子の記事が出る。
気の毒に思って、事情を調べてみると、ヨシュアという人からボロクソ言われたせいらしい。

 
やはり、嘘は全開のようです。ヨシュアは、個人情報をブログから引っ張り出してはダメ人間とか精神病とか言ったり、罵詈雑言ばかりを言うので、付き合えない人ですが、楽山と違って、ヨシュアは本性丸出しなので、こちらが傷つくことはないのです。落ち込んだことはないと思いますが・・。
 
同情に見せかけた楽山の、あざけり方なのです。こういうことを平気でやってくる人です。つまり、楽山の、白々しい同情芝居なのです。こうやって、人に気遣いを見せているようで、実は、自分の謙虚さをアピールしてきたのでしょう。約3年の履歴からは、全部、嘘ということになります。
 
直接、ボロクソに言うのと、同情めかして、他者の言うことを無視して、ネチネチしつこく同じことを書くのと、どちらが悪性度が高いでしょう。悪口は書いていないというつもりでいるほうが、善のふりをする偽善であり、より悪性度が高いのです。誠意と正直の欠片もない楽山です。
 

stさん側に同情、擁護。
ヨシュアさんは、st自由同一人物説を主張してきた。
・stブログで、shalomさんを偽善者などと糾弾する記事を出る。
偽善はダメとか、訂正不能はダメとか、それはそうだろうと思う。

 
シャローム批判の「記事を出る」(が出る、を出す)ではなく、シャローム批判なら、楽山と出会うずっと前から約8年間書いてきました。「偽善はダメとか、訂正不能はダメ」・・楽山は、訂正不能の偽善者です。三文芝居がすきな楽山と、シャロームの同一成りすましも疑っています。
 

・stブログで、shalom批判記事がつづく。
shalomブログをちらと確認するも、そこまで強く批判する理由はいまいちわからず。
でも偽善はダメ、訂正不能はダメとかは、それはそうだろうと思う。

 
楽山は、シャロームのお仲間だから、分からないと言うわけです。シャロームの味方ですし、こちらを否定してきたのだから、楽山もシャロームの仲間として、カルト的妄想を語る者として、批判の対象になります。
 
「偽善はダメ」「訂正不能はダメ」という言葉に「それはそうだろう」と、実感もなく肯定しています。この軽さが、楽山の特徴の一つです。高等感情が鈍麻しているので、実感をもって書くことが出来ないのです。楽山も、嘘とボンヤリ言語の偽善者だからでしょう。
 
高等感情とは、共感、思いやり、罪悪感、などです。しかし、楽山の目的は、自分は分かっている人アピールです。丁寧語で、中立を装う偽善です。だんだんと本性を表します。この辺の楽山の筆致も、読み返すだけで、うんざりします。「それはそうだろう」と、顎と口を突き出すイメージです。
 

・shalomさんが楽山ブログに来る。
stさんの批判記事を見ていたので、悪い人かと思っていたら、話してみると、わりと普通。
ときどき、stさんに向けて皮肉めいたことをチクリというので、これが問題視されているのだろうなあと思い、注意すると素直に応じる。
いつぞやは、皮肉か何かを言ったことで、stさんに謝罪し、そのあと、負けるが勝ちといって舌を出すようなことをした。案の定、stさんは激怒。
言わんこっちゃない。

 
「謝罪」のち「負けるが勝ち(笑)」とは、シャロームの白々しい嘘の一例です。シャロームの恐ろしさは、反省しない、自己中心、訂正不能の神がかり人間離れの妄想信仰などです。だから、これは、付き合い上、無礼だったという話ではなく、シャロームの体質を表している重大なことです。
 
最近、シャロームは、何度か、私のライブドアブログに、説得力のないコメントを書いてきました。私は、改めて批判を返しましたが、シャロームは、それを受け取って返すことの出来ない人です。妄想信条に染まったものは、こうなるということです。
 
楽山については、人間的な感情の鈍化と、読み書きの理路の拙劣さが、今まで目立っています。子供の作文のような記事をもって、宗教と信仰と真実を扱うので、いつも、的を外しています。この楽山の記事も、タイトルからして、真面目に話す自覚などないことが表れています。
 
霊が分かるっぽい → 超常も分かる、自分は特別な存在、神に文句をつけて否定したつもり、これら総て、超常妄想であり、書くものを読めば、大嘘だとバレています。
 
神の存在については、人は、肯定も否定も証明できません。希望として信じて、生きる縁(よすが)にするかどうかなのです。
 

たしか、この頃、shalomさんは皮肉を言うことについて、あんまり酷い言われようなので、皮肉の一つも言いたくなるというような説明をしていた。
当時はそれでも止めといた方がよかろと思ったけど、今はそりゃそうだろうなと思う。

 
シャロームshalomは、あまりに、ひどい言いようでした。はぐらかし、言い逃れ、言い訳、詭弁と妄想教理、という間違ったことばかり言って、こちらの指摘に全く答えません。8年間、ずっとそうです。なお、シャロームは、罪は悔い改めなくても許されると言い、偽牧師だと判明しています。
 
楽山も、シャロームも、罪悪感がないところが一致しており、仲間だが、むしろ、一人の成りすましではないかという疑いが生じているわけです。
 
>・stさんの執拗なshalom批判はつづく。<
 
8年間、今まで、そして、これからも、シャロームが書いてきたら批判を続けて、広く知らせるほかにないのです。シャロームは、反省も学習もしないからです。
 
私の批判が「つづく」ことを、いちいち書いているようだが、これは、しつこい、という印象を与える刷り込み、すなわち、印象操作に当たります。
 

はじめのうちは、記事を公開したら、それに批判があったとしても、ある意味当然だろうとか、shalomさんの記事に対して、stさんなりの感想を書いてるんだろうと考えていたものの、shalomさんの発表する全記事に噛みついてるようなのは、ちょっとどうかとも思う。

 
感想ではありません。批判ですから、本人が変わらない場合、読者に警鐘を鳴らすために続くことになります。シャロームは、記事を書くたびに、惜しみなく偽善を表してきました。ちょっとどうか・・どころではなく、楽山とシャロームは、ともに、一般にも有害な病質を持っています。
 
この辺りから、楽山の、いやらしい丁寧語による本音が表れています。楽山の言は、丁寧で、もっとも、まとも、という印象を吹き込んでから、こちらを、あんまりでしょう、と否定してゆく印象操作と刷り込みです。
 

stさんに対して、批判のやりすぎをそれとなく注意してみたり、北風と太陽の話を振ってみるが、反応はいまいちなので撤退する。
以後、折を見て、批判のやりすぎはよくないという話をするも、効果なし。それどころか逆ギレの気配あり。おそろし。

 
批判のやり過ぎ、という刷り込みになっています。そして、本性を表し、「おそろし」という、とても幼稚な、無根拠の決めつけが表れています。詭弁屋が、真実追求や批判の話をすると、こうなるという例でしょう。「おそろし」・・は、楽山の詭弁に表れる作為のほうです。
 
このように、丁寧語で、作為的に、話の筋を、変えてゆきます。楽山の、詭弁や、そしてカルト思想の宣伝のやり方なのでしょう。楽山は、北風でも太陽でもなく、忍び寄る暴風雨とでも言うべき存在です。卑怯な裏の細工しかできない者の特徴です。詭弁、おそろし。
 
批判は、相手に反省を促すためと、この人は異常だから誰も関わらないほうがよいということを一般に広めるためと、2つあって、楽山とシャロームへの批判は、明らかに後者です。
 

・易坊さんとstさんの議論のとき、stさんの応答がおかしかったときがあった。当たり前のことが伝わっていない、ありえない勘違いというか、そんな感じ。
易坊さんは、ほらこれだという風に示してたので、こういうことは過去にもちょくちょくあったっぽい。

 
「ほらこれだ」って何なのでしょう。これで荒らしの易坊が正当化されるのでしょうか。いつの話が分からない、遣り取りの例示も出来ないことを上げて、具体的に発言を引用せず、「ちょくちょくあったっぽい」という刷り込んできます。吐き気のするようなボンヤリ言語の誘導です。
 
「応答がおかしかったときがあった。当たり前のことが伝わっていない、ありえない勘違いというか、そんな感じ」・・楽山は、根拠を示すことが出来ません。例示すれば私が反論することが分かっているからでしょう。決めつけ、印象操作、刷り込みだけを熱心に続けています。
 

・shalomさんがサイクリングして楽しかったことをコメントしてきたことがあった。これに対して、stさんは、あなたにはそんなお気楽なことを書いてくる資格はないとか激怒してた。

 
文脈から、全く場と文脈にそぐわないことをシャロームが言ったのだろうと思います。また、シャロームは、確かに、今も、気楽な日常話をする状況ではありません。楽山は、私が批判していることを承知の上で、私が異常だという印象を刷り込んできます。
 
とても気色の悪い筆致と文脈ですが、私を怒らせようとしているのか、それとも、とにかく悪いのだ、という決めつけを読者に貼りつけたいのか、楽山が理路を追わない人であり、とても議論など出来ないような、当てつけ臭い煽動者であることを自ら表しています。
 
ケチな煽動家は、ふつうに、こういうやり方ですから警戒してください。言い方を選ばないので、近づかないのが一番です。これで、楽山は、恥ずかしくないのです。恥も罪悪感もないからでしょう。これも、おそろし。
 

またshalomさんは、ご親族が骨折した話をコメントしてきたことがあった。これに対するstさんの反応は、shalomは同情を引こうとしているという糾弾だった。
私は、いくら意見対立がある相手だとしても、それとは関係なしに、日常の楽しかったこと、不幸などについては、「楽しそうで何よりだ」「気の毒に、大事にしてください」みたいに普通に応答するもんだと思ってるので、stさんの態度は理解不能ではあった。

 
普通の人は、お互いに意見を受け取って反応している場合は、意見が対立しているときでも、普通にやり取りできるでしょう。同じことを言うのは、聞いてないよ・・というに等しいので、ふつうは、わざわざ相手の怒りを増長するようなことだから、避けるでしょう。
 
楽山の、心にもない世辞の言い方が例示されています。楽山は、恐らく、怒り心頭に発している相手にも「気の毒に、大事にしてください」ということが、やさしさだと思っているようです。実際は侮辱に他ならず、ここから、楽山が、良識かの節操が、まるで成り立たない人だと分かるのです。
 
楽山は、そういう状況など、まるで考えることの出来ない人で、状況を弁えず、ふつうの、いたわり言葉が、どこでも通用すると思っているのです。こういう状況での憐れみは、侮辱になる、という交流の弁えのない人だから、前に、楽山は、そのうち、殴られるだろうと書いたことがあります。
 
楽山も、シャロームも、こちらの意見を受け取らずに、自分の言いたいことだけを言います。そういう状況で、普通の応答をするのが正常だと思うことのほうが異常です。この記事の、楽山の文章がそうです。同情言葉が、どんな場面でも通用すると思い込んでいるらしい楽山の未熟です。
 
シャロームは、世辞の挨拶と、けなしを、同じコメントの中に書いてくることがあります。そこからも、シャロームが、人間感情を、まるで理解していないことが分かります。付き合い・交流・対話のセンスがないのです。自分のほうが上だと、根拠ではなく、余裕を見せてきます。
 
実際には、しばしば、楽山とシャロームは、全く状況に合わない世辞を入れてきます。これが異常だと理解できない楽山は、まことに異常であります。葬式で、お愛想の笑顔を向けるようなものです。事故現場で、事故に気をつけましょう、と言うようなものです。
 

私も、けっこうな批判屋ではあるけど、さすがに議論テーマと関係ないことまで激怒したり、批判する気にはなれないので。
これがいわゆる坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというものかと思ったりもした。

 
楽山は、批判者ではありません。詭弁屋、そして、煽動者です。今までの文章から、楽山に理路を整えた批判は出来ません。整っているかのように見せかけ、被害者に見せかけることだけですが、それらは、ことごとく失敗しています。
 
つまり、私が、憎しみだけから批判している、という印象操作です。「思ったりもした」・・作為が分かれば、この砕けた婉曲表現は、とても汚い悪意の筆致です。
 
このように、全くの自己中心の身勝手で、楽山もシャロームも決めつけてきます。だから、直接の遣り取りより、彼らの言い分には、批判記事を当て続けてゆくことが必要なのです。
 
 
総ての言論には、「と思う」がついてきます。人間の主張ですから当たり前です。それを、省略せず、ちゃんと書くべきだと言って、わざとらしく、語尾を曖昧にしたり、砕けた言い方にしただけで、責任から逃れられると思っている楽山は、未熟な破綻者としか言いようがありません。
 
オウム真理教、HS、統一教会アドラー教などは、既に大きな組織であり、個人が批判しても抗うことは難しいでしょう。しかし、これらは、名も知られているし、トラブルも起こっていて、公から目も付けられ警戒されていると思います。
 
ですから、楽山の自己愛的超常気取りとか、シャロームの妄想的偽キリスト教などのように、個人ブログで、おかしなことを言っているカルト的偏向者は、個人~小集団レベルの間に、変だと思った別の個人が批判することが可能であり、必要であり、批判する意義もあると思っています。
 
 

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                 詭弁、詭弁
 
 
(2019年11月23日、同日一部修正)
(2020年11月28日、加筆して再録)
 
(2021年12月09日、再録+)
 
何度でも再録することになるかもしれません。
 
 
 
  持っている
 
君は鷲の目を持っている
君は犬の鼻を持っている
君はコウモリの超音波を持っている
上手に障害物をよけながら
しかし君は
人間の脳を持ってしまったから
君はただの人になった
 
君は翼を失った鷲だ
君は足を失った犬だ
君は安物のコウモリだ
風に折れながら
しかし君は
人の心を持ってしまったから
君はただ人間になった
 
 
  沙汰
 
地獄の沙汰も金次第
かどうかは知らないが
病気の沙汰も金次第
老後の沙汰も金次第
にはなりそうな時代
老人は僕らのために死んで下さい
といった意味にとれそうな
川柳が新聞に載っていた
という記事が新聞に載っていた
その「僕ら」もやがて老いれば
新しい「僕ら」に「死んで下さい」
と言われる日が来るだろうに
 
世論を気にしながら
政(まつりごと)が進められる時代
弱者切り捨ては先ず
社会の同情を引きにくいところから始まる
高齢者の次は精神障害者だろうか
老いたくて老いたわけではない
病気になりたくてなったわけではない
という叫びが聞こえてきそうな
殺伐とした日々
寒々とした毎日
毎日次々に捨てられる新聞
 
 
  以ての外
 
看護婦さんが薬を持ってきてくれた
「外見たですか?雪ですよ」
と頓着のない彼女らしい笑顔で言った
 
「君は郵便受けの新聞の有無も
門柱の横に置いてある雪だるま
とは言えないが二つの雪玉も
見なかったんだね玄関横の庭の足跡も
ガスや浄化槽の点検なら足跡が
三つ四つということはないだろう」
などと言ってはいけない
 
「いつだったか君が来たとき私が眠ってしまって
気づかなかった後で近くに
公衆電話もあったのに薬を持って帰って
わざわざ病院から嬉しそうな声で
電話をかけてきたが
あれは私がその前の時の薬が足りなかったと
言ったことへの腹いせだとは思いたくないよ
今日はどうもありがとう」
などと言ってもいけない
 
私は被害的なところがあるし
彼女はからっとした性格でよく笑う
 
在職中は外来でよく苛ついて
彼女に当たったがビクともしなかった
だから外来というストレスにも耐えられた
 
私はもはや廃業中かつ療養中
薬をわざわざ持ってきてくれたんだ
何も言えやしない
「あ・・・ああ」だけ
それで「お大事に」と
すでに帰る姿勢の彼女はあっさり帰った
 
くくっと笑いながら
(人間の唐揚げ)
などと思うなど以ての外だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
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(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
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