ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信仰と確信2

 
  信仰と確信2
 
 
信仰と確信は対立軸だと思います。信仰の反面教師が確信なのでしょう。
 
信仰は仰ぎ、確信は見下ろす。
 
信仰は、神と人の関係そして契約。
確信は、人の思い込み。
 
確信は、信条や信念と似るが、人が神の意思と行為についての疑問と不都合から目を逸らして無視し、自己においても他者に対しても、それらを排除してゆく。確信は詰まるところ自分信仰なのだ。
 
信仰に信条はない。
信仰に、固定して訂正不要となるような確信はない。
信仰は疑問を排除しない。
 
人は不完全である。
人の言葉も不完全である。
人の思考も不完全である。
 
目を見張ることはあるし、瞬きはするが、わざと目をつぶったりはしない。
信仰は信じるところを知らない。確信は信じることの罪を知らない。
 
信仰は信仰者にとって不可避であり、よってきたるところを知ることが出来ない。
確信は人の業であるのに、由来を聖書と神に帰して、人ならぬ者になりたがる。
 
信仰は文章化しにくく、経験の情緒と思考によっても、伝わるとは限らない。
確信は文章化しやすく、明文化することによって、宣伝・伝染されることをむしろ目的とする。
 
信仰は信仰の罪深さを自覚し、しばしば痛感するが、
確信は確信の罪深さを、自覚しないから確信となるのである。
 
信仰だけでなく確信も、誤って「信仰」と呼ばれることがある。
 
信仰は「信仰」と呼ぶことに不全感と恥ずかしさを伴うが、確信は確信であるから堂々と「信仰」と名乗るだけでなく、信仰に対しては「ふっ、何を言っとる」と小馬鹿にしながら、ときには敬虔を装って慇懃無礼な態度で押さえ付けてさえ来るだろう。
 
信仰は心を揺さぶり、安定を許さないだろう。
揺るがない信仰とは、忍耐力のある信仰のことであり、訂正不能ではない。
 
確信は安定を求め、不動を誇ることになる。
 
信仰は恐らく確信を否定することによって、ようやくその一部を暗示のように表現するだろう。
 
なお信仰と確信は罪深さによって同居していることもあり得る。心の内部にも対立軸があるということだ。確信は常に信仰を覆い隠して表され、人前で明らかと見られることを好む。
 
信仰は常に、確信を打ち砕かれるところに、ひっそりと生まれるだろう。
 
 

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             信仰と確信
 
 
(2013年02月26日、同日一部修正)
(2021年12月16日、再録+)
 
 
 
  ただ

無料=ロハ=只の ただ
無駄・普通=徒の ただ
唯一の ただ
あるいは責任逃れの但し書き
利用条件
保証内容
そんな自信も確信もないことだから
つい付け加えてしまう ただ
守ろうとして
捨て去っていることに
まるで気付かない
ただ は ただ
まだ気付かないでいるものがあることを
告げながら 教えてはくれない
 
 
  実存的にたとえると
 
千人殺した者を
英雄と呼ぶのは
百人殺した者たちである
百人殺せない者は
落ちこぼれたり
いじめられたりして
そのまま消えていくか
せいぜい数人を殺して
刑務所に入ったつもりで
おびえている
 
一人も殺してない?
いや確かに百人殺した
何故なら「まだこれからだ」
「負けるものか」と思っている
 
そのようにして勝ち負けがあり
勝負があり
戦いの結果があり
生死があり
次から次へ死が見過ごされ
数え切れない死の種がまかれ
数え切れない生が摘み取られ
英雄がいて
凡人がいて
凡人にもなれない人がいる
これを健全な社会という
 
ところで
かつて百人殺した私だが
今から何人殺せるだろう
心細い
何故なら「もうよかろう」
「負けた」と思っている
 
(※ 何人殺した・・は、競争社会の比喩です。殺されてもいる?。)
 
 
  昼夜逆転
 
部屋の明かりを消して暫(しばら)くすると
夜から差し込む微(かす)かな光と
待機電源の光と網膜の暗順応のために
天井や窓の輪郭がうっすらと目に映る
 
見るべきものは何処にある
目を開けたり閉じたりを繰り返し
やっぱり眠れないと
明かりをつけて一服すれば
もうすでに2時間ほど経っている
 
また明かりを消して横になる
また朝までの同じ繰り返しのうちに
想うことといったら
昼間ずっと起きていられるのは
月曜日だけという睡眠リズムが
ここ2週ほど続いていることや
次第に目立ってきた顔の紅斑のこと
醜い顔だ皮膚の老化かアレルギーか
もしや紅斑性狼瘡(エリテマトーデス)
ではあるまいか・・・取り留めもなく
 
もっと見つめるべきもの
どこへいった どこへやった
衰えた羽(はね)をゆっくり揺らしながら
死は招かずとも来るものと
穏やかに止まっていたはずなのに
いったい何処を飛びたがっている
今さら病気を気にするなんて
と心のうちに苦笑する
 
毛虫も未だ見ない
寒い日が続いている
独り男が独り笑みする
蛾(が)のような夜である
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
「人それぞれ」「自分を貫く」・・これらが容認されるのは、自立した自我を持ち、責任ある大人の場合です。楽山は、責任を負わず、反省もしないのに、この2つを自己正当化に悪用してきました。自己愛性人格障害は、徹底して他者を無視するので、責任という概念がないのかもしれません。
 
同じようなこととして、「意見を言ってはいけないのですか」・・これも、同様です。真実の追求などの大きなテーマにおいて、楽山のような、言ったら言いっぱなしで、後は、何を言われても無視するような者に、意見を言う資格はないのです。
 
 
 
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