ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の詭弁明

 
  楽山の詭弁明
 
 通知があったので見てみたけれど…
 (st問題を振り返る)
 2022年01月02日 楽山日記
 http://mn266z.blog.jp/archives/31646664.html
  を批判。
 
 
楽山は時々やることですが、ブログ記事は、長ければよいということではないという典型です。それと、私に問題があると固定しているので、st問題と言っていますが、楽山問題として、楽山を批判し、楽山の言を嘘と詭弁だと否定し、楽山に近づかないように、読者に、訴えてきているわけです。
 
キリスト信仰は、論理で語れるものではありません。ああだこうだの辻褄合わせは醜いだけです。聖書を読んで、神とキリストを主と仰ぐ気になるかどうかです。しかも、完成するのではなく、信仰者として、人間として、学び、成長する道を知ることなのです。その深みを、楽山は全く知りません。
 
楽山の、ブログとツイッターなどネット活動は、誰にとっても、益はないのに、丁寧語や、謙虚芝居によって、刷り込んでくるので、真面目な人が読んで理解しようとして、楽山と、まともに遣り取りなどすると、トラウマになりそうなくらい、病的な疲労を与えられるものです。関わらないでください。
 
 

*通知
ツイッターを見ていると、時々、st氏から通知が入る。
どうやら、コピペする時に「@komo266」の文字までしてるせいらしい。

 
私からの「通知が入る」と勘違いしているのか。メールやコメントは書いていないし、楽山との双方向など、とうに諦めています。楽山から直接のメールやコメントや、通知?が来ても、私は記事に書いて返すでしょう。
 
私が自分で通知?なるものを送れるかどうかくらい分かりそうなものです。楽山は、だんだん現実検討能力も低下しているようです。実感がなくなって離人症になりつつあるのでしょうか。それにしては、楽山の悪意は、嘘と詭弁とともに、治まることがありません。
 
通知?・・私は書いているだけで、通知?とか、するやり方を知りません。書いて公開しているだけです。ツイート自体を言っているのでしょうか、それは、ブログと同じく、私が気遣うことではありません。私の批判は、ブログが先で、メインです。
 
ブログやツイッターの「@komo266」については、楽山のツイッターからコピペして書くこともあり、ツイートの文字数の関係で省略することもあります。楽山には、サーバーから通知でも来るのでしょうか。こちらからサーバーに要請してはいません。
 
楽山は、理由を知りませんが、3つの中のツイッターを一つ、ブロックされているようです。注意・警告・ブロックなのでしょうか。もし、サーバーからの警告であるならば、私は、「@komo266」を、できるだけ、入れるようにしたいと思います。
 
 

*st問題を振り返る
通知が入ったので、ひさしぶりにこの問題の発端を思い出した。
st氏から楽山日記にコメントがあり、話をするようになった

 
およそ3年前の、数か月の遣り取りがあったという話です。楽山は、相手の意見を考えて反論弁明するのではなく、無視して、嘘と詭弁を弄する人です。しかも、分かっているような上からの雑言なので、とても異常な言い知れぬ疲労を覚えました。病質と直接の遣り取りをすると、そうなるのでしょう。
 
楽山は、双方向の、議論、遣り取り、意見交換の出来ない人です。宗教についても、意見交換するのではなく、いつも神不在の結論から組み立ててくるので、議論は成り立たず、疲労だけが積み重なります。それより悪いのは、信仰を全く知らないのに、神と信仰について知ったかぶりをする自己中であります。
 

st氏のシャローム批判を読んで、シャロームは悪い人だと思った
この後、シャローム氏とも話をするようになり、st氏がいうほど悪い人ではないと分かった
私がシャローム氏と仲良くしていたら、st氏は、シャロームと話をするな、話をするならシャロームの仲間として批判すると言い出した
こうしてみると、つくづくst氏は気の毒な人だと思う。

 
シャロームshalomは、楽山と同じ自己中であり、筆致だけ、牧師の立場に立ち、同じような丁寧語を使って、上から決めつけてきます。ゆえに、今も、楽山の成りすましではないかと疑っているわけです。楽山は、三文芝居好きの大根役者です。
 
相手を、さんざん、おとしめて、「気の毒」と哀れみ言葉を書いてくるのは、傲慢な偽善者の特徴であり、常套手段であろうと思います。まだ、通用すると思ってる・・。学習と成長がない者は、同じことを繰り返して自らの堕落と怠慢を表します。・・バレてるのに、よく書いてくるものです。
 
 

*同一人物?
 通知ついでにツイートを見てみると、どうやら最近は佐倉哲氏と楽山は同一人物だと疑っているらしい。<
 
ブログ記事に書いて、それをツイッターにコピペしています。シャロームについても同様ですが、佐倉哲と楽山は筆致と理路の欠陥が、よく似ているので、同一人物の成りすましをを疑っています。狂ったネットマニアの楽山は、他にも成りすましが多いのではないかと思います。楽山は得意なのです。気持ち悪い。
 

なぜそんなことを考えるのだろうか。佐倉哲氏の知力も人物も、楽山より遥かに上なのは誰の目にも明らかだろうに。

 
佐倉哲を褒めていますが、都合のよい人をベタ褒めするのは楽山の特徴です。成りすましなら自分を褒めていることになります。佐倉氏が言っているのは、楽山とほぼ同じの幼稚な屁理屈です。佐倉氏のプロフィールは、どこにあるのでしょう。あっても、あの文章では、全く信用は出来ませんが。
 
 

*的外れ
st氏は相変わらず的外れなことばかり書いてる。
佐倉哲氏は事実と論理によって意見を述べている。だからこれを批判するには、まず事実誤認や論理破綻を指摘することが肝要である。
これをせずに事実や論理を脇にどけて、自らの信仰観を開陳したところで的外れで、独りよがりなものにしかならない。事実と論理による議論と、好き嫌い、信じる信じないということは別の話なのだ。

 
「事実と論理によって」・・二千年前の宗教的事実は、確定できず、永遠に不明です。それは、話として、人の生ける糧(かて)になるか、その説得力があるか、という判断の理路になります。楽山も佐倉哲も、キリスト教を理解しているとは到底思えず、説得力は皆無です。子供の理屈遊びは通用しないのです。
 

*分からないということ
st氏は、人には神や聖書のことは分からないと言いつつ、佐倉哲氏の神や聖書に関する判断は間違っていると言うことに何の矛盾も感じないようだ。

 
佐倉市と楽山は、よく似ていて、聖書を考える入り口で、既に、大きく間違っているからです。楽山には、心の真実を受け取る器がありません。成長が止まっているために、小学生ののような辻褄合わせしか考えられず、人間ならば持っている共感も罪悪感もないのです。だから、ことごとく、的を外します。
 

普通に考えれば、人には神や聖書のことは分からないのであれば、st氏にも神や聖書のことは分からないことになり、佐倉哲氏が神や聖書について何を書いたところで、その正誤は判断できないという結論になるだろう。

 
私が、分からないといったのを、何も分からない全否定だと決めつける詭弁です。聖書は、神の関わる書として、人が全てを理解するのではなく、そこから生きる糧を見つけるために読むのです。楽山は、心が無いゆえに何も受け取ることがないので、神と宗教について何も書くべきではありません。
 
こういうところを見ても、楽山は、読書が出来ない人だと思います。だから、これも、あれも、読んだ読んだと、都合のよい字面を漁っては引用して箔をつけたいのでしょう。そして、ますます、学習も成長も出来なくなるのです。
 

またさらに踏み込んで言えば、人には神や聖書のことは分からないのであれば、「人には神や聖書のことは分からない」ということさえも分かるはずがないことになる。つまり「人には神や聖書のことは分からない」ということは、それ自体が矛盾しているのだ。

 
楽山のような理論家気取りだけの詭弁屋は、命題として表層を取り上げて、得意になります。聖書理解は、人間として、良き訪れ(福音)受け取ることです。したがって、ここで、楽山の辻褄理解と、聖書の命の理解が、全く別物であることがバレているのです。
 

st氏はこういうことをすっ飛ばして、神や聖書のことは分からないものだとしつつ、佐倉哲氏など他人の神や聖書についての判断は間違っていると批判するのだからおかしい。

 
私がすっ飛ばしているのではなく、楽山が大事なことを、楽山の我執に従って、間違った受け取り方で、間違った否定を、間違った妄想として書いているに過ぎません。こういう屁理屈を相手にしていると、病的な人格破壊へ向かう疲労を味わうことになります。どこまで執拗な害毒なのでしょう。
 
 

*心象風景
st氏には、この世には良心のない人がいっぱいいるように見えているらしい。こういう考え方をしているのであれば、被害妄想が強いのも仕方ないのかもしれないなと思う。

 
楽山は、良心未発達の自覚がないことが、表れていますが、要するに、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。「この世には良心のない人がいっぱいいる」のではなく、楽山に良心がないと言っています。一般化の詭弁です。的外れも、いいとこです。
 
 

*願望
これは、st氏がどういう願望を持っているかが、よく分かるツイートだ。
st氏は自身のことを「単一の信仰者」としていることからすると、これは願望だけでなく、独りぼっちで孤立している自身の投影もあるのだろう。

 
こういう侮辱で傷つけようとする楽山の悪意です。私は「独りぼっちで孤立してい」ます。しかし、楽山の、この発言は、孤独に生きる人への侮辱です。しかも、私の言論が、その投影だと言っています。投影のような心理学の用語を、気安く使って、人を見下しながら、楽山は、自らの墓穴を掘ってゆくのです。
 

また、st氏は上の文章のように、ちょいちょいおかしな文章を書いている。以前は、意図的に詩的に凝った書き方をしているのだろうと善意に解釈していたけれども、改めてこの手の文章を見てみるとどうもそんな単純なことではないかもしれないな。

 
例示できないのですね。楽山は、お粗末な感傷的な詩を書いていましたが、感性を鍛える学習ができないのでしょう、読めたものではなかったです。なのに、身の程を弁えず、思いやりもないために、他者すなわち私の詩をけなしています。楽山は、書けば、ほぼ全部、おかしな文脈をでっちあげて満悦するのです。
 
 

*現実
st氏はまた的外れなことを書いている。正解はこうだ。
×「長期に渡って批判されても平気なのはおかしい」
○「長期に渡って誹謗中傷され続けたら、その異常性には誰だって気付くし、無視するようになるのは当たり前だ」

 
批判と誹謗中傷を同一視する詭弁です。批判を無視するのが当たり前だと言っています。楽山は、自分の言う通りでないと、誹謗中傷と見なして、無視が当たり前、と思って生きてきたのでしょうか。ならば、従わない人を、ことごとく悪と見なすわけだから、もはや頭がおかしく、人間でさえないと思います。
 
箇条書きと、○×で、理屈を並べて、私からの批判を、誹謗中傷と印象付けたい楽山です。こういう自己愛からの無理解だから、私の批判は、楽山を変えるためではありません。楽山という変質者に、誰も近づかないように、楽山の偽善と詭弁の有り様を、ずっと書いています。
 

ところで、マリア氏はこの間こんなことを書いていた。
相手にすると、だめなのよね。
一人相撲させるしかない。

 
楽山は、対立すると、このように、他者の言を借りてでも、おとしめてきます。楽山に相手にされることなど、とうに諦めています。楽山の独り相撲に、決して付き合わないように、一般に、また特に、クリスチャンに、呼びかけたいのです。けっして、楽山を、相手にしてはいけません。
 

(まだ追いかけて批判してた - マグダラのマリアの部屋)
ヤフーブログ時代を振り返れば、とあるクリスチャン氏やmine氏のようにコメントにはすべて返信する人であっても、st氏のことはスルーしていただろう。易坊氏、こうさん氏、ヨシュア氏など、st氏と議論した人たちであっても、みんな去って行っただろう。
st氏はもういい加減、現実に気付いてもいい頃ではなかろうか。

 
自称マグダラマリアと自称ヨシュアは、キリスト教に似せた偽クリスチャンのカルトです。易坊は荒らしです。こうさんも荒らしです。私のヤフーブログを荒らしてきました。神の教えを守って完全になれるという真逆の勘違いがありました。
 
こういう人(たち)も、楽山の成りすましの可能性があるのです。根拠は、みな自己中発言~暴言しか言えないからです。あと何日と呪ったりもします。保身のために、神もキリストも利用して、命懸けみたいな筆致で描くことがあります。
 
いくら、返しても、返す文章に、書くたびに、自己中が表れていること、楽山は、気づかないのでしょう。他者のことを言っても、自分を振り返ることのない病質者の特徴です。こういう筆致、そして、この現実、楽山だけは、気づかないのです。人格障害というのは悲惨です。
 
 

*自己愛
ところでst氏の自己愛の強さは、ツイッターをチラ見しただけですぐ分かる。
ブログ更新のお知らせをツイッターで流すだけならまだしも、st氏は自己のブログ記事をツイッターにコピペして、拡散、保存している。一回だけならまだしも、記事更新のたびにそんなことを繰り返しているようだ。しかも長文記事をそうしてる。よほど自分が大好きなのだろう。

 
邪悪で哀れな自己中である楽山の情報を敷衍(ふえん)したいのだから、ブログからツイッターにコピペしています。拡散したいのです。楽山に何を責める正当性があるというのでしょう。ここにも、全ての規範を自己愛性人格障害の視野からしか判断できない楽山です。
 

そういえば、st氏はシャローム氏からコメント削除されたことを、何年にもわたって怒り続けていたのだった。論争中にコメント削除されたら怒るのも無理はないけれども、何年にもわたって怒り続けるとしたらそれは病的にすぎるだろう。

 
大事な発言について、承認せず、削除するのは、大いに、信頼を失わせることになります。論争中ならよくて、長期にわたるのは悪い、という性質の違いはありません。楽山は、こちらを「病的」だと言っています。自分が言われそうなことを相手に向けるのは、楽山とシャロームの常套手段です。
 

st氏の自己愛はこんな風に屈折したところがあるし、それだからいつものように自己の問題を他に投影して、楽山は自己愛性人格障害だと強弁することになっているのだろう。気の毒な人である。

 
これも同様に、自分が言われている自己愛を、こちらに向けています。違いは何でしょう。楽山は、全く根拠を示せないのです。結論で、悪口だけだから、説得力など、書けるはずもないのです。ゆえに、楽山が、こちらに向ける悪口は、楽山に返ってゆくブーメランとなってゆきます。
 

こう言っては何だけど、st氏は他人のことをとやかく言うより先に、まずは自分の問題と向き合った方がいいと思う。

 
これもそうです。何が「何だけど」なのでしょう。他人の中の、きわめて異常な楽山や所在不明のシャロームだけを、今は、特に楽山を、批判しています。とやかく言われている被害の自覚だけしかない楽山に、病識も罪悪感もないことが分かります。だんだん高慢の地獄が酷くなるようです。あわれです。
 
楽山は、キリスト信仰について、とんでもない詭弁でデマと偏見を宣伝しています。ゆえに、批判対象として、私が生きて書ける間は、批判が止むことはないでしょう。直接コメントなどで遣り取りなどは、病原である楽山に対して、私の精神衛生のために、しないつもりです。
 
 

◇◆ 追記 2022.1.2 ◆◇
*理由
ついでだから、st氏から長きにわたって誹謗中傷されても平気な理由も書いておこう。
まず一つは、何度も書いているようにst氏の書くことは的外れなことばかりだからだ。人は図星を指されると過剰反応してしまいがちだが、的外れな悪口は無視しやすいものだ。はじめは怒ったとしても、それが続けば相手にするのも馬鹿らしい心境になる。

 
楽山は、好意的なお世辞めいたコメント以外は、的外れと感じるのでしょう。批判と悪口の区別もつかない人です。楽山には、反応できる図星はないと思います。楽山には、真実も図星も真摯な見解も、何もないから、無反省、無責任、無視、無理解でいられるのです。
 

もう一つは慣れの問題だ。議論慣れしていない人であれば、st氏の口撃にたじたじになる場合もあるかもしれない。でも自分の場合はそれなりの議論経験があるので、くだらぬ悪口には慣れてるのだ。

 
楽山は、詭弁慣れ、嘘吐き慣れしているだけで、議論の、理路も、経験も、能力も、分別も節操もありません。無視だけを返してきます。楽山本人の欲望だから、インテリ気取りで、独り芝居で、邪悪に慣れて、平気で嘘と詭弁を、今日も、並べているのです。
 
「馬鹿らしい」「的外れ」「くだらぬ悪口」と進めています。中身はないが、楽山は、気持ちよいのでしょうか。楽山の言い分は、品のなさによって、マイナス言葉に置き換えられてゆくようです。楽山は、一切、根拠を示せないまま、感情と結論だけの貧弱な文脈になってゆくようです。
 
「議論経験があるので」・・思い込みだけです。「くだらぬ悪口には慣れてるのだ」とバカボンみたいに言うが、だったらどうして、こんな長くて、根拠のない嘘と詭弁の悪口を書いてくるのでしょう。人格崩壊が近づいているのでしょうか。だとすれば、ますます危険です。決して関わらないようにしてください。
 

あとは信頼というのもある。私はリアルの世界で高い評価を得ているわけではないけれども、幸いにある程度の評価はしてもらっている。

 
いったい、誰が、評価するというのでしょう。関わっている人がいたら、目を覚ましてほしいです。評価などあり得ないと思います。だまされている人が今もいるのでしょうか。仲間褒めか、成りすましのことか。今も、世辞の丁寧語で、だまそうとしているのかもしれません。身の毛がよだちます。
 

だから社会に対して、見る人は見てる、分かる人には分かるという信頼感があり、たとえ誹謗中傷されても、世間の人たちがそれを信じてしまうのではないかと心配することもないのだ。

 
好意的に評価されることを自慢する楽山ですが、だまされている人が今もいるということです。恐らく、誰からも信頼されなくなりつつあり、文章が、中身もなく、誇大で過剰で妄想的です。だまされる対象がいなければ、だますことは出来なくなります。まさに、私は、それを目標として書いているのです。
 

それから…承認欲求が希薄だということもあるかもしれない。自分はぜひとも人から好かれたい、そのために何かをしなければいけないという気持ちはさほど強くない。自分を評価しない人がいても、それは仕方がないと思える。たぶん親から十分に愛情をもって育ててもらったお陰なのだろう。

 
また、嘘を吐いています。何の権力もなく、だますことで満悦してきた楽山は、まるで、悪い政治家の語るリップサービスみたいです。目的もなく、中身もなく、ただ、うわべの承認欲求しかないのです。楽山は、こういう嫌がらせをしてくるほどに、我欲の権化です。
 

もっと考えれば、誹謗中傷されても平気な理由はもっと思いつきそうではあるが、とりあえずはこんなところである。

 
楽山が、批判に対して平気なのは、羞恥心、罪悪感、自責の念、共感、・・などの、受け取るための高等な感性が、欠如しているからだと思います。楽山は平気なのでしょう。何らかの公の強制力か、被害者の暴力的な復讐の対象にならないあいだは。・・今日も、ツイッターにコピペする予定です。
 
 

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            嘘と詭弁だけを用意する遠吠え
 
 
(2022年01月03日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
いかに実態が暴かれても、これだけ白々しい嘘が吐ける楽山です。人間で在りたくないもかもしれません。楽山は、超常の預言者か教祖になりたいのでしょうか。私は、楽山の言が、全ての人によって、否定されることを祈り願いながら、日々、キリスト者として、できることをしているだけであります。
 
全能と言われる神は人に対して、できるだけの正直だけを求めておられます。正直ということを、一切持たない楽山の異常な有り様は、反キリストそして偽善者の典型として検証されるべき大事な問題です。楽山の嘘と詭弁と偽善の有り様を知って、決して近づかないようにしてほしいと思っています。
 
嘘を吐いて人をあざむき、詭弁で人をだまし、幼稚な屁理屈で自己正当化の言い逃れをしてくる楽山は、最低の男です。いちいち理路が捏造されています。こういう人は、ある意味、暴力を振るう乱暴者よりも酷いのです。暴力は、大方、その時その場ものですが、詭弁は人生の正道を滅ぼしてゆくからです。
 
恐らく、楽山の周りの人も、そばにいる人も、楽山を、説得も、制止も、出来なかったのでしょう。約3年あまり批判されて、ろくに返せないのに、まだ、平気でいられるわけだから、いったい、どれだけ、良心と神経が、欠如しているのだろうかと思います。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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