ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の低格化

 
  楽山の低格化
 
   神はいるのか、いないのか?
   (『あさっての風』三浦綾子著)
   2022年01月10日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/31726712.html
    を批判。
 
 
楽山は、坊ちゃん、えらい、とでも言われたいのでしょうか。幼小児期から、物心が自己愛に置き換わって、信仰もないのに、救い、救われる幻想を見続けて、とても醜い垂れ流しの自我を、人前にさらして、恥を知らなくなりました。そして、厚顔無恥の凶暴性を表し、増悪ています。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の恐ろしく狭い視野で、論理遊びをしている楽山です。自分を見ないで生きていると、自分を排泄することしか出来なくなります。そこに、人間はいません。人無きがごとく、独り言を書いて、学問しているような自己陶酔に巣食い、巣食われるのです。
 

*偶然?
前記事を書いたあと、何気なく三浦綾子のエッセー集を開いてみたら、こんな文章があった。これはまさに前記事でテーマにしたものである。こういう偶然があるから読書はおもしろい。

神の実在を証明できないということは、神の不在も証明できないということにほかならない。
証明できないものを「ある」というのも、「ない」というのも、実は同じく非科学的なことなのだ。もっとも科学的な言葉は、
「神はいるか、いないか、どちらかです」 ということになろう。
(『あさっての風』三浦綾子角川書店〈角川文庫〉、昭和52年、p.71)
 」

 
「神はいるか、いないか、どちらかです」・・当たり前です。どんなものもそうでしょう。神と神の存在を云々することの空しさを伝えているように思われます。楽山は、共感性がなく、深い考察が出来ないので、言葉面だけで、単純な命題として受け取っています。楽山の傍迷惑な低格化が進んでいます。
 
読めない、理解できない、理路がない、感受性がない、それでも書き続ける楽山は、無理の人となり、不感の人となり、不応の人となって、自らの内界の疎隔体験を、何やら、超常に解脱した悟りのように、思い込んだのでしょう。人間から遠ざかり、ガグガグと軋み外れる様相を呈しています。
 

*可能性
「神はいるか、いないか、どちらかです」というのは、その通りなのだろう。
しかし神がいる可能性と、いない可能性は半々ではない。

 
「半々ではない」・・なぜ、そんなことが、楽山に分かるのでしょう。つまるところ、自分は特別に偉いんだと言っているのと変わりありません。「半々」ではなく、皆無という言葉が当てはまるのが、楽山の言の中身です。楽山らしく、まるで実感のない文章が続きます。
 

たとえば神の存在は人類が何千年かかっても証明できておらず、現代では自然の成り立ち、人類の起源など、多くのことが神を持ち出すことなく説明できるようになっている。

 
楽山は、神の証明という虚しいことを蒸し返し、人の話など聞いてないことを表します。すごく単純に、お気楽に、科学の大問題を取り上げて、「人類の起源」「証明できるようになっている」などと言っています。真理も真実も、オモチャのように扱って遊んでいるのは、楽山という髭の生えた幼児です。
 

これらを考慮すると、神がいない可能性は非常に高く、いる可能性はほとんどないと結論するのがもっとも理性的な態度と言えるだろう。

 
「神がいない可能性は非常に高く、いる可能性はほとんどない」・・すごいです。呆れます。何をもって「言える」のでしょうか。楽山は、何も示していないのです。楽山は、空をちぎって食べるのでしょうか。自分の思考の不毛と不在を語り続ける楽山です。理性のない楽山の信頼度は、既にゼロです。
 

とある人は「神がいるのか、いないのかは分からないが、多分いないと思う。だから自分は不可知論者ではあるが、限りなく無神論寄りの不可知論者である」と言っていたが、理性的な人ほどこれに同意する人は多いのではないだろうか。

 
無神論寄りの不可知論」は成り立ちません。ないことと、知りえないことは、全然違います。前者は、否定であり、後者は、人間の能力の不完全を表します。楽山が、いかに、神と信仰の否定の言葉を漁っているかが分かります。論ではなく、涎(よだれ)です。お腹の空いたケダモノの所業です。
 

「神はいるか、いないか、どちらかです」と考える時は、前記事にある思考のトリックにはまりこまないよう気をつけることが大事である。

 
「神はいるか、いないか」を理屈で考えること自体が、考えて答えが出ると思うこと自体が、楽山の、人をだますための思考のトリックなのです。楽山の仕掛けた、とても安っぽい罠にはまることのないように、お願いします。楽山は、書くたびに破綻が進み、安さ、軽さ、薄さに、退行してゆくようです。
 
 

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                落ちる、堕ちる
 
 
(2022年01月11日)
 
 
 
  残照
 
窓からこぼれてくる
残照を
拾おうとしている

拾おうとした
あの日
抱きしめた偶像が
崩れていくのを拾おうとした
真っ白になった目の前で
ぽたぽた落ちて広がる
失った熱を引きずって
ぬるりと臭気の中で
足場がなくなるのを
切り裂いたものだと知った
 
もう二度と真っ白になれない
残照
残したもの
もうとっくに沈んでしまった
もう暗い
もう遅い
もう遠い
今は
あの山の向こうにでもあるんだろうよ
あの日壊れたものは
今も壊れたままだけどね
 
 
  泣きべそ
 
笑いの中に花が開いて
その花を閉じたところに
人の手がほんの少し触れて
さらにそれを
自分の手で強く握り締めてしまったから
泣きべそがポロポロ
落ちている次から
次へ違った
いびつさになっているだけなんだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
どこまでも、誤りを認めず、ゆえに、訂正不能の妄想となり、そこに、人格を、どっぷり嵌って、精神機能の代わりとしているのが、楽山です。そこで慢心してしまうと、楽山=妄想という人生になります。自分だけ成り立ったと思うことで慰めとして、口走ることが、いかに恥ずかしいか、気づかないのです。
 
 
 
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