ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の限りない悪意

 
  楽山の限りない悪意
 
 『あさっての風』三浦綾子
 2022年01月15日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/31779016.html
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、書く衝動を抑えられないようです。楽山の書いたものは、誰を救うことも、誰かの糧になることも、全くないのですが、楽山は、書ける人、物を言える人を、気取ってきます。これほど無反省で無分別の醜態は、病質でしか説明できません。
 

*概要
これは三浦綾子のエッセイ集である。キリスト教の信仰について書かれている箇所もあるが、副題に「あなたと共に考える人生論」とあるように、おおむね人生について語られており、善く生きようとする人であれば、宗教の別に関わりなく、誰もが興味を持って読めるものになっている。

 
誰とも、独りでも、考えることをしない楽山です。楽山は、学習できず、偏見と先入観しかありません。その結論から、嘘と詭弁を書いて、だましてきます。誰もが読める本も、楽山だけは、曲解して、自分の都合に合わせてゆくのです。楽山には、興味をもって読めるなどと、人に勧める資格はありません。
 

自分の場合も本書を読んで、さまざまなことを考えさせられたのではあるが、ここではそのうちの三点ほどメモしておきたい。
まず一つは、日記についてである。自分は三浦綾子の本に触発されて日記を書くようになって二十年以上は経つのであるが、迂闊ながら、その本のタイトルを長らく失念したままだった。

 
楽山は、いったい、何歳なのでしょう。20歳の若者に成りすましたり、学者に成りすましたり、今度は、「日記を書くようになって二十年以上」だそうです。プロの詐欺師ぶりです。そして、楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、不治であることを示すことになるのです。
 

でも今回それが本書であることが分かった。自分は、本書に収録されている「日記のない青春への疑問」を読んで、日記を書き始めたのだった。このことを確認できたのは再読の御利益かな。

 
嘘だと思います。そのような正当な動機は、悲しみを知っている心からしか生まれません。楽山は、まさに、それを失っているのです。動機を確認して、それを「御利益」などと言っていることが、傍証になるでしょう。楽山は、大方、言ったことのどこかに、偏向した世界の用語を漏らします。
 

*夢
もう一つは、神秘体験についてである。著者の夢には色や匂いがあるそうだ。いつか硫黄山の夢を見たときは、目覚めた後の室内も硫黄臭かったという。また睡眠の前後には種々の幻覚が見えるともいう。不思議な話だ。

 
楽山は、著者の信仰を、夢や幻の神秘体験の超常信仰でしか語れないようです。有名人に対しても、遠慮もなく、貶(おとし)めを制御しない楽山が、他者一般に、中庸であるわけがありません。今となっては、自己中からの狂気に近い悪意で、他者を決めつけ、おとしめてくるので、決して、関わってはいけません。
 

そういえば著者のエッセイで、虫の知らせについて書いたものを読んだ記憶がある。ある冬の夜、凍結を防ぐために水道の蛇口を開きっぱなしにしてたら、なぜか突然水が止まり、少ししてまた水が流れ出したときがあり、同時間にさる方が亡くなっていたのが後で分かったというような話だったかと…。著者はオカルト的なことはあまり書かない方だとは思うが、不思議なことがあるということまでは否定はしないということなのだろう。

 
著者が「あまり書かない」神秘体験を、楽山は取り上げて、信仰は超常を思い込むことだというイメージを刷り込もうとしてきます。不思議なことも、日常の不思議なことも、ときに起こり得ます。しかし、楽山のような、あげつらって、他者を、獲物を得たケダモノのように、貪(むさぼ)る衝動は、異常です。

もはや、ただの意見発表とは違います。真実を追求する人々を滅ぼしたいという衝動です。ルサンチマンという不遇に対する憎しみの発露なのでしょう。楽山は、みじめです。こういうことを、ずっと、続けておれば、自らの知性も感性も、自らの悪意によって食い尽くされてゆく道理です。
 

*人生論
三つ目は著者の人生論には大いに賛成できるということである。宗教観、信仰観については、自分はキリスト教徒ではないこともあってか必ずしも賛成できることばかりではないのではあるが、人はいかに生きるべきかということについては素直に肯けることばかりである。この点、自分にとって本書は人生について様々なことを教えてくれる、とてもよい本である。

 
楽山は、誰からも、真っ当な影響など受けることはありません。他者の意見から有意義なものを受容する精神が既に壊れています。楽山は、自己愛性人格障害のフィルターを通してしか見ないのです。楽山を、決して信頼してはいけません。どうか、楽山の丁寧語の嘘と詭弁に、だまされないでください。
 
楽山は、どこからも評価されないゴミ溜めから単方向に排泄してきます。詭弁は、詭弁臭を、嘘は、言葉の腐敗臭を、悪意は、悪臭を放つようになってゆくということです。こちらは、楽山から出てくる悪意の文章を、どこが臭いか、どこが悪意か、その都度、指摘して書いてゆくだけです。
 
楽山は、人を傷つけて悔いない体質的異常者です。他者を下に見て満悦する人です。「人それぞれ」「自分を貫く」「意見を言ってはいけないのですか」と言っていましたが、すべて詭弁です。だまされないでください。3つの言葉は、責任感のある人間についてであり、異常者に当てはまることはないのです。
 
 

      f:id:stdsts:20220115235335p:plain

          深い闇に蔓延(はびこ)る者
 
 
(2022年01月16日、再録+加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自己愛性人格障害者は、世辞や嘘が習慣になっていますが、素直さ正直などは一切ありません。どんな卑怯なことをしても罪悪感を感じません。策略だけで、だまして生きています。楽山は、他者を平気で無視できる心性なので、自らの無知と無恥に気づかないのです。悲しみを知らないからです。
 
 
 
  蛇と蛭と鼠の人
 
誰しも蛇の腸管や
蛭(ヒル)の下垂体と鼠(ネズミ)の甲状腺
ぐらいは飼っているものである
強い蛇を飼っていれば
いつも毒を吐いているので分かりやすい
しかし多くは鼠が摂食の抑制を掛け
さらに蛭が吸血の抑制を掛けるので
面と向かっては毒を控え
蛭が丸くなり鼠が蠢(うごめ)き出すとき
本人がいなくなったところで
活性化した蛇の舌をぺろりと出して
さりげなく口臭のような毒を吐き
人の印象を吹き込む
 
意識的か無意識にか
思わず或(あ)る時か
という罪の軽重は
人には測り難(がた)い
奸計(かんけい)と小細工を弄(ろう)して世渡りをするような
最も凶悪なホルモン性の動物は
その測り難さを利用する
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html