ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

神と信仰メモ2

 
  神と信仰メモ2
 
 
なぜ、神の存在を信じる人がいるのでしょう。
 
この地上には、どうあがいても、自分の思い通りにならない悲惨なことがあるからです。しかも、いつどこで、生まれても生きても同じだろう、と思うに至った者がいる、あるいは、いたからだろうと思います。
 
そうして、今は、どうしようもない地上の汚れのうちにいる人の目には隠れて見えないが、悲劇の背後には、総てを統べる摂理を含む存在がいるのだろう。その御方は、人間に共感する御方であることが、聖書に書かれています。
 
そして、その御方、即ち、神は、今は隠れているけれども、完全なる真・善・美を携えて、同伴して見ておられるのだろう。私たち人間を無視してはおられないが、その御方には、われわれとは別の、我々が今考えても分からないような、計画があるのだろうと思うに至るのでしょう。
 
信じる人は、決して、いちゃもんのような、自分勝手な欲望に都合よく当てはめて決めつけたのではなく、生きるために悩み苦しんだ結果として、絶対者として、その御方を必要とし、望んだのだろうと思います。その凄みが、神という存在を、今に伝えているのでしょう。
 
そこから、人を理解しながら、人を超えている存在として、全知全能・絶対完全・永遠不変の存在を、固有の「神」という名で呼ぶようになったのではないかと思われます。即ち、神は、その名で、人が呼んだとき既に、人に解明できたり、存在や不在を証明できるような、安い存在ではないということです。
 
その存在を知ることは、不思議が起こらなければ直ぐ離れてもいいような物や肉体の奇跡ゆえではなく、人間の心の深みに残る、人間にとって、いちばん大切な、共感の同伴というあり方をもって、人の心に消えようもなく残ったゆえに、人々は、信仰の救いと呼ぶようになったのでしょう。
 
神という存在を、人間が自らの限られた有限の存在世界から、自らの持ち合わせた人間の安易な理屈と知識だけで、超常のホラーのような物語におとしめて、机上の辻褄合わせで、神?は良いとか悪いとか、存在とか不在とか、決めつけることが、いかに、的外れであるかを分かってほしいと思います。
 
信仰は、善悪を判断する道徳ではありません。美醜を判断する美学でもありません。正邪を判断する正義の軸でもありません。全能者が、全能者のあり方で、神の前に正直な人を救うために、人を愛するために、存在する摂理を知ることです。
 
真善美が一体となる完全なる神が、寛容と慈愛と共感をこめて人に与えるのは、人間には届かない完全な真善美ではなく、完全なる神の義でもなく、ただ、神の前で、精いっぱい正直な祈りの告白だけで、不完全な人が、そのまま善しとされて生きるための信仰の義であります。
 
 

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      無明(むみょう)に注ぐ光
 
 
※ 
 
宗教にも無宗教にも非宗教にも反宗教にも、実に、嘘の、詭弁の、誘導の、印象操作の、鼻の曲がりそうなインチキの安い屁理屈で、神に、いちゃもんをつけて、人間の良心から神の存在に気づく直感の道を妨害しようとしている者がいます。
 
彼らは、神という存在を、そして、信仰を、安っぽい理屈で、揶揄したり、おとしめたり、侮辱したりしますが、彼ら自身には、何を解決する力量も、誰を救う力量もないのです。文句だけが執拗な彼らこそ、この地上のホラーであります。
 
信仰者は、神からのお告げかどうかを知らされることはなく、信仰者が安穏に暮らせるとは限らない地上で、人間として正直に反省し成長する意志をもって努めることで、いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
(2021年01月18日、同日一部修正)
(2022年01月20日、加筆修正)
 
 
 
 『易(えき)入門』黄小娥著
 2022年01月19日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/31826613.html
 
 
やはり、楽山は、努力より、占いが当たることを望むのでしょう。短い記事ですが、さらに、褒めるだけの文章ですから、空疎としか言えない干からびた感想で、何のアドバイスにもなっていません。こういう文章を書いてくる厚顔が楽山の持ち味としか言いようがなく、ネットの屑となっています。
 

何年か前に易経に興味を持ち、いくつかの関連書籍を集めてはみたものの、どれも難しくてずっと積読状態になっていたのであるが、先日思い立って、それらの中でもっとも初心者向きらしい本書を開いてみた。

 
初心者に向けて、こういう本を読むとよい・・みたいな書き方をするのは、読解力のあるする専門家のすることです。楽山に、読書の勧めを書く資格はありません。あらゆる本を曲解して、キリスト教と信仰について、度外れた偏見を持つに至った楽山です。
 

一読して、本書が易の入門書として高く評価されている理由がわかった気がする。まず文章は平易で分かりやすいし、六十四卦の説明では冒頭に卦の意味を一言で提示してあって有り難い。実占のエピソードは、初版は昭和36年なのでいささか時代を感じさせるところはあるが、どれも印象的で記憶に残るものばかりである。おかげ様で未済まで興味を失うことなく読み進めることができた。

 
「易の入門書として高く評価されている理由がわかった」といって、専門用語の説明もせず、難しい書に見せかけても、「平易」「説明」「有り難い」と、「印象的」「記憶に残る」「興味を失うことなく」など、具体性のない褒め言葉だらけです。いい加減な読書感想文の典型でしょう。
 

恥ずかしながら自分は、易経を読もうとして乾の途中で挫折したくちである。こんな自分でも最後まで通読できる入門書を執筆してくださった著者にはただただ感謝である。
『易(えき)入門』黄小娥著、裏
ちなみに、こちらは裏カバーである↑
著者紹介を読むと、著者は本当にすごい人のようだ。

 
楽山の記事に付き合うのは、時間の浪費です。それこそ、人生の貴重な時間を、どぶに捨てるようなものだと思います。批判以上では、楽山に関わらないでください。「ただただ感謝」「すごい人」・・読書感想文になっていません。感想を問われて「よかった」と言って、先生に怒られる小学生みたいです。
 
楽山は、故意なのです。一生懸命書いても、足らざれば、見せるのを控えるか、発表しないで置くか、むしろ、足らざる自分について考えるべきですが、楽山は、自己顕示欲から、人のためになるかのような、教えるような筆致で書いて、拙く短い文章では書けないテーマということに、気づかないのです。
 
 
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省と学習は、人間に必須のことです。それが出来ないならば、人間ではないと言ってもいいようなことなのです。なのに、楽山は、「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などという、まるで実感のない、ふざけたことを言っています。できることさえ、しないで、笑う人です。
 
 
 
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