ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

サイコパス、カルト3

 
  サイコパス、カルト3
 
   『夜の哀しみ』三浦哲郎:抜粋
   http://mn266z.blog.jp/archives/22600729.html
   楽山日記(仮、倉庫) 再録+
 
 
良心の呵責を感じない楽山が、良心の呵責を感じないサイコパスについて語っています。自分は違うと、的を逸らすための、いわゆる予防線だと思います。楽山は、サイコパスです。罪悪感を感じることなく詭弁と嘘の罠で、自らの反宗教妄想を、読者に刷り込んでゆきます。
 
過去記事に加筆して投稿します。楽山がサイコパスについて書くのは、自分はサイコパスではないと言いたいようです。いわゆる予防線ですが、自分は違うんだという前提を印象付けようとしても、過去3年間の、無反省と無責任は、楽山の偽りを、既に、明らかにしています。
 

*悪役とサイコパス
本作の登場人物の中には、サイコ的なものが二人いる。聖次と克夫だ。聖次は自分のために人を利用し、用済みになれば捨ててかえりみず、その事に良心の呵責を感じないらしい。克夫もこれと大同小異で、人の弱みに付け込み、それを最大限に利用しようとする。人を苦しめることに楽しみを感じてさえいそうだ。

 
楽山は、サイコパスとサイコの違いも分かっていないようです。サイコパスは精神病質、サイコは精神病を意味します。前者は治す薬がありません。後者は治療薬がたくさん使われています。前者は人格障害であり、後者は病気であります。楽山は前者です。
 
サイコパスは、自己愛性、反社会性パーソナリティ障害を言うことが多いです。ヒッチコックの映画に見られるサイコは、主人公に幻覚・妄想があるようですから、サイコ(サイコーシス)、つまり、精神病のことでしょう。あと、サイコ何何、というサイコは、心理や、精神のことを言うようです。
 
楽山は、サイコパスと思われるシャロームの仲間です。お仲間として、シャロームの味方をしました。シャロームは、何でもいいから打撃を与え、相手を打ち負かすことを悦びとして、しょっちゅう、憎まれ口を叩き、悪口を言い、いろんなことをネタに、個人情報までバラしてきます。
 
実際には、"サイコ" という言葉は、混同されて使われていることがあると思います。
 

身から出た錆とはいえ、この二人に挟撃されている登世は、本当に気の毒だ。登世はこの二人に出会わなくとも結局は道をあやまったのかもしれないが、この二人と出会わなければ大過なく過ごせたかもしれないのだから、ここは同情しないではいられない。

 
楽山は、登世という人物について「出会わなくとも結局は道をあやまったのかも」「出会わなければ大過なく過ごせたかも」・・結局、何も言ってないのと同じです。登世に、現実の例としては、楽山に出会わなければ、無駄に疲れることなく、大過なく、学習を進められる人がいると思います。
 
楽山が、被害者に同情すると言うのは、自分は違うという予防線でしょう。シャロームとの連携は強くて、縁が切れることはないようです。キャラは変えていても、言おうとしていることの視野狭窄と異常性は、表れてきます。仲間か、一人の成りすましか、親族か、など、疑っています。
 
楽山が、サイコパスのことを、わざわざ書いてきても、サイコパスと楽山と共通するところは、隠したつもりでも、表したものに滲み出てきました。罪悪感がなく、無反省、無責任、不都合を全部他者のせいにする、などが、共通しています。
 

小説に限らず、映画やドラマでも、悪役はサイコ的な特徴を持っていることが多いが、そういうものを見るたびに、「相手がサイコパスだと気付いたら、即、逃げろ!」という教訓は本当だなと思わないではいられない。

 
「即、逃げろ」・・白々しく「本当だな」などと共感しているようですが、関わらず逃げるしかないという対象は、楽山その人に他なりません。客観を装って、共感して、それで、自分を対象から除外したつもりでしょうか。楽山は、こういう策略を弄するので、一生、怖いのです。
 
連続殺人期のような凶悪な犯罪者は、サイコパスである場合が多いと思います。楽山と同じように、罪悪感がなく、思いやりなどの高等感情が鈍麻していて、ケダモノのように、自分の利益を漁ります。自己中で、犯罪に結びつきやすく、パニックになると自殺もあり得るようです。
 
「即、逃げろ!」・・というのは、楽山やシャロームに対して言えることです。関わってはいけない人です。楽山は、シャロームと仲良しです。今後も一緒に、キリスト教とキリスト信仰を、おとしめてゆくのでしょう。言葉の表面に表れているより、はるかに、深い悪意を持っている者たちです。
 
罪悪感を感じないで嘘も好きなようについてきたシャロームと仲良しの楽山が、サイコパスについて書くのは、笑止、いや、身の毛のよだつような、恐ろしい悪意の企みです。サイコパスだからこそ、こういうことも、やってくるのでしょう。楽山が独りでやっていると思うと、実に、辻褄が合うのです。
 

現実のサイコパスは、小説や映画ほど分かりやすくはないだろうが、百人に一人はサイコパスだという調査もあるようだし、用心するに越したことはない。むやみに人に偏見を持ったり、差別したりするのはよくないことではあろうが、サイコパスの疑いがある人とは、距離をとるのが無難ではあるだろう。

 
「用心するに越したことはない」・・こういう、自分は関係ないけど・・みたいなことを平気で書けることが、罪悪感のない厚顔の極みであり、疑いを深くする結果になります。「距離を取るのが無難」と書いていますが、上では「「即、逃げろ」と書いていますから緊急性が不整合です。
 
「距離を取るのが無難ではあるだろう」と、「即、逃げろ!」・・この2つは、ニュアンスが違う?、いや、全然、違うと思います。私は、批判するようになってからは、一貫して、楽山には関わらないようにするしかないと書いてきました。
 

本作は、性に翻弄され、道をあやまった女の物語とも読めるが、サイコパスに利用され、破滅させられた、無垢な女の物語とも読めるだろうし、その意味で不倫ものではなくて、サイコホラーと言えば言えそうでもある。不倫ものには興味ないという人でも、サイコパスの怖さを知りたい人には、一読の価値ありである。

 
楽山は、他者の人格を、もてあそび、滅ぼすサイコパスですから、滅ぼされないためには、何よりも、楽山には関わらないことです。関われば、楽山のボンヤリ言語という曖昧な言い方に翻弄され、疲労し、戻れなくなる可能性があります。人格を破壊されるか、従属して、奴隷になるかでしょう。
 
私が言いたいのは、サイコパスの怖さを知る前に、楽山やシャロームなどの易坊類からは、近づかない、「距離を取る」、出会ったら「即、逃げろ!」です。他人事ではないのです。罪悪感がない、反省しない、人の言うことを受け取らない、自己中心、訂正不能ナルシシスト、という共通点があります。
 
 
  宏洋氏の動画を見てみた!
  http://mn266z.blog.jp/archives/22600860.html
  楽山日記(仮、倉庫)
 
 
自分のことは棚に上げて、他者の口を借りて、自己弁護したいのでしょうか。宏洋氏は大川隆法の息子です。楽山が、読んだ、見た、考えてみる、などというのを、信用しないでください。何かを、客観的に見て考える能力は、病質のために、楽山にはありません。一度も客観性の欠片も見せたことはないです。
 

*カルトはどこも一緒
この本はまだ未見なので、こういう動画を見ると読みたい気持ちが高まってくるなあ。
「カルトはどこも一緒…」という言葉については大いに共感する。紹介されてる書籍はまだ読んでないけど、他のカルト関連の本を読んでても、元信者さんらの言葉を聞いてても、そういう感想はもちますね。
カルトによって、その程度、言葉遣い、信仰対象などに違いがあったとしても、基本的なところは同じだなあと。

 
「高まってくるなあ」「同じだなあ」は、楽山によくある甘い筆致です。楽山は、カルトはどこも一緒、という意見に共感するのだそうです。自らを憐れんでいるだけだと思います。楽山の体質は、カルトと同質であり、単方向の主張を繰り返して、蛇口から、邪悪な口から、出っ放しの汚水です。
 
私としては、カルトは違法行為に走る前日はカルトでないかと言えば、否ですから、その成立過程は様々だと思います。まだ、目立たないカルトがいっぱいいるだろうとも思います。だから、みな一緒ではないでしょう。楽山は、似たような体質ですから、弁護のほうに傾くのでしょう。
 
共通しているのは、社会悪に発展しうる現実離れの神がかりの教祖中心の信条、そして、訂正不能、罪悪感も捨てる、反省しない、根拠のない異常な確信、などです。妄想の定義に似ています。それらは、楽山の超常ホラー好みと、傍若無人、無反省、無責任、というのに、符合するのです。
 

*にがい顔
エホバの証人については、自分は、二、三の思い出がある。一つは社会見学のつもりで、王国会館に行ってみたときに、自分の隣りでにがい顔をして座ってた男性に「信者ですか」と聞いたら、ぶすっとして首を振っていたことだ。

 
カルトを、表情で区別できたという楽山の自慢話です。こういうことを言って、自分は大丈夫という印象を吹き込んでゆきます。楽山は、筆致によって、既に、訂正不能の、妄想性の、カルト性と、妄想性と、他害性を、証明しています。
 

そのときは、信者の奥さんに無理矢理つきあわされて、ぶすっとしてるんだろうと想像しただけだったが、今にして思うと、いい年した大人の男性が、みなが笑顔でいるところで、一人だけ不機嫌を隠そうともしない状態というのは、よほどのことだったろうなと、前以上にこの男性に同情してしまう…。

 
「よほどのこと」と言って済ませる楽山です。なのに、カルトの異常性なのに、「同情してしまう」のだそうです。カルトに属している状態で、同情は出来ません。同情するのは抜けるときでしかないでしょう。ことさら、あわれみや同情に見せかけた無分別な甘い書き方は、楽山によくある言語の破綻です。
 
それと、不機嫌を、カルトへの哀れみたいに書いているのは、根拠にもならない邪推の段階でしかないでしょう。何の言い逃れか、実に奇妙なことを楽山は書いています。感情が整理されていないのは、高等感情を学習し損なっているからでしょう。
 

マイコン
もう一つの思い出は、近所の本屋の店員さんがエホバの証人だったので、「輸血拒否っておかしくないですか」と聞いたら、微笑を浮かべつつ、ゆったりと頷き、「勉強すれば分かりますよ」と言ってたことだ。

 
カルトにおいて、恐らく、勉強は洗脳だろうと思います。否と言えない状況に置かれて、同じことばかり聞かされ読まされていると、分かったような気になるのでしょう。暗示でもあるのでしょう。楽山には、どういう思い出なのでしょう。似たような体質なので、忌まわしい記憶とは、言わないようです。
 
楽山には、自分はちゃんとしていて、中立であり、柔和であり、かつ、否定も肯定もしないから、責任は負わない、という、訂正不能の妄想的な固定観念があります。時々、言葉でごまかしますが、その前後に何の変化もないことから、いっそう、無反省と無責任が明らかになってきました。
 

ちなみに先の記事に取り上げた本だと、「今にわかるよ! もっと学ばねば!」というのは、マインド・コントロールで使われる常套句らしい。常識的にはおかしいことに思うかもしれないが、教義を学ぶと真実だと分かりますという風に、教義を学び、その通りに思考することを促す言葉。

 
やはり、カルトの勉強というのは妄想を学ぶことになり、閉鎖された環境で同じことを聞かされ読まされることなのでしょう。シャロームや楽山などのやり方として、丁寧語や、ボンヤリ言語で、婉曲的に暗示したり、印象を吹き込まれることもあるでしょう。親切そうな態度から、既に、罠は始まっているのです。
 

当たり前に考えてみれば、その宗教の教義を学ばなければ分からないというのは、ようするにマイコンされなければ分からないということなんだから、分からないままでいるのが正解なんだけども、教団の中にどっぷりつかっていると、この辺りの常識を見失ってしまうのが悲しいところだ。

 
どこまで宗教をけがしたら気が済むのでしょう。宗教を学ぶことを「マイコンされ」ることだと言っています。こういう印象操作が、信仰など知りもしない楽山の得意技のようです。自己愛性人格障害者は、自分の経験だけで判断し、完全であるかのように、恐ろしく狭窄した視野から決めつけてきます。
 
ボンヤリ言語で婉曲的に吹き込まれるときには、印象または先入観として植え付けられるです。楽山が、しばしば、曖昧表現で言って、いつのまにか、何かを否定し、何かを植え付けようとするのも、印象操作という暗示で吹き込むやり方です。
 
楽山は、アドラー教(アドラー心理学)の影響を受けています。宣伝者かもしれません。それは、気に入らないことは無視しましょう、という信条であり、今も、訂正されておらず、今も楽山を支配していると思います。ゆえに、ずっと、その通りに、人を、だましています。
 
楽山は、気に入らないこと、都合の悪いこと、失言などは、まるで無視して、無かったことにします。自分は悪くない、全部、相手が悪い、ということにして悪口を接着剤のようにネチネチ書いてきます。無視と単方向の、訂正不能の体質です。
 

教団内では、教義に則って考え、行動する人ばかりなんで、そういう人たちに囲まれていると、自分からすすんで教義に染まり、みなと同じになりたいと思わないではいられなくなるとか。

 
楽山は、シャロームの味方です。「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」というキリスト教とは真逆の信条を持つ凶悪偽善カルトのシャロームを、熱心な信仰と褒めて、味方したのです。これは事実だから、何度も言うことになります。
 
シャロームについては約10年間批判していますが、楽山と同様に修正不能で、楽山同様、人間性が破壊され、不都合を覚えていません。そういう凶悪なシャロームと縁を切ろうとしない楽山を、信頼できるはずはないのです。楽山は芝居好きですから、シャロームと楽山は同一人物?という疑いがあります。
 

マイコンはカルトに限らず、大なり小なり至るところに存在するという見方もあるけれども、カルトのように一般常識から極端にズレたことを正当と思わせるというのは、巷によくある誤解、偏見、先入観の類とは大分ちがうし、本人にとっても社会にとっても悲劇だし、ここは気をつけなければならんと改めて思う。

 
マイコンは至るところにあるといっても商品の宣伝ではなく、精神と人格を虫食むマイコンということですから、あってはならないものです。また、楽山は、ことの重大性を考えない安易な短絡を書いています。楽山は、最初から、誘導するつもりで書いているのだと思います。
 
楽山は、カルトが社会にとっても悲劇だと言いながら、私が、楽山やシャロームをカルトだと指摘したことには、悪口を返す以外、何も反応しないし、弁明も出来ません。これこそが、都合の良い情報だけを選択していて、逆に、カルト被害者を装う軟派カルトのやり方であると、前に書いたと思います。
 
共感を装って、言い逃れをする楽山は、カルト被害者ではなく、軟派カルトの加害者です。のんびり、まったりした話題を提供しながら、読書自慢して、分かっているふうの知的で柔和で中立な人間を装うので、押しの強い硬派カルトより、気づきにくい分、さらに厄介になる可能性があります。
 
カルトではないかという目で見てゆくと、相当、白々しくて気持ちの悪いことを言っていることに気づくでしょう。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、人が騙されるのを見て、快感を感じているのでしょう。
 
私は、楽山が、いつも自己顕示欲と自己正当化を出して、キリスト信仰だと言い張るシャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という、とんでもない真逆の決定的な偽信条を肯定して、シャロームに味方したときから、カルト、あるいは、カルトの手下か仲間だと判断しています。
 
 

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               笑顔で欺く者たち
 
 
(2020年01月07日)
(2021年01月14日、再録+)
(2022年01月21日、再録+加筆)
 
 
 
  群衆の中に
 
たくさんの頭が見える
それぞれ上下に弾みながら
喧騒のはずなのに
音がしない
ときおり顔が半分
見えたり隠れたり
顔はそれぞれ違うのに
笑顔も泣き顔もない
その中に自分もいたような気がする
でも通勤ラッシュの経験はない
学生の頃か
何かの列
何かの群れ
思い出せない
これからの行く末の一齣(こま)を
垣間見たのかも知れない
 
 
  美しい表情
 
人間の表情の中で一番美しいのは
笑顔だと思っていたことがある
しかし愛想笑い・軽薄な笑いや
悪意に満ちた笑みもある
嘲笑や
謀(はかりごと)がうまくいったときの
ほくそ笑み
 
どんな無益なことでもいい
仕事・学術・研究と呼ばれなくてもいい
何かに夢中になって
興味と
苦悩の色さえ入り交(ま)じった
一途なときの表情が
今は一番美しいと思っている
大真面目な漫画の落書き
誰にも読まれない滅裂な文章を書く夜
血が上り巡り巡る孤独な机上の空想は
冷血の川下へ寒く流されて
賽(さい)の河原の石積みに崩れながら
なおも求めつづける熱意によって
直(ひた)向きに凍り続ける顔
 
本当の楽しみは
誰からも与えられず
誰にも見えないもの
冷血の俎(そ)上において燃え上がり
常同行為のうちに焼け落ちる作業場だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のやっていることは、嘘と詭弁による、精神の詐欺だと思います。犯罪としての金銭目的の詐欺をしているかどうかは知りませんが、犯罪に結びつく可能性は大だと思います。気持ちよく、得意になりながら、だましてきたのでしょうが、いつか、返されるときは来るのです。楽山と議論してはいけません。
 
「ウソの国」が私のブログのタイトルですが、嘘の国に住む良心皆無の楽山が、私のブログの嘘の悪評をまき散らす可能性がありますので、気をつけてほしいです。荒らし的反キリストの楽山は平気で嘘を吐く人です。私はキリスト者(クリスチャン)で、嘘は書かないように、努めているつもりです。
 
楽山の、語尾などを曖昧に書く丁寧語を、ボンヤリ言語と呼んでいます。語尾を断定していなくても、悪意と作為の詭弁は文脈に表れます。否定を書き肯定も書いたから責任問題は生じないと言っていた楽山の文章は、紙やすりのような刷り込みと誘導に満ちています。受け入れると血まみれになるでしょう。
 
楽山は、対等の議論が出来る人ではありません。議論などする気はなく、相手の意見を受けて、考えて、返すということが出来ません。楽山は、自分の訂正不能の妄想を、一方的に、繰り返し並べることだけが目的なのです。その丁寧語で、なんとなく正しそうだと、認められるように誘導するペテン師です。
 
波風のないところに、批判は生まれません。現在所在不明のシャロームは10年、楽山は3年、批判しています。その前に、コメントの遣り取りがあって、とんでもない不感不応のまま決めつけを書き続けていると分かったのが、この二人です。彼らこそ、疲労だけをもたらすエナジーバンパイアなのです。
 
楽山は、批判に答えられないくせに、当てつけの投稿を重ねて、自己正当化してきます。返したつもりでも、悪口以上ではなく、性懲りのなさが自己愛性人格障害を表します。気晴らしに過ぎず、気晴らしにならず、不整の人格を、ますます表して、いわば、逃げながら石を投げている姿勢です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
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(古い記事もインポート済み)
 
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