ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山とは何だろう2

 
  楽山とは何だろう?2
 
 成人式のスピーチ問題について、信者の反応は…?
 幸福の科学とは何だろう?ブログ 2021年01月19日
 さまざまな情報を集めつつ、幸福の科学とは何であるのか考えてます。
 http://mmknky21.blog.jp/archives/8440108.html
  抜粋して改めて批判します。
 
 
楽山は、批判され続けていながら、それには全く答えず、反論も弁明も成り立たないまま、別の他者を批判しています。まるで、批判など無視していいよ・・ということを前提に書いているようなものです。まとも芝居をして、自己顕示欲を満たしているだけですから、説得力は皆無なのです。
 
ネズミのように逃げ隠れしている者を許していいはずがありません。楽山批判は、約3年間に及びますが、悪口・嘘・詭弁・嫌がらせ・当てつけ、などが返ってきただけで、まともな返しなど出来たことのない楽山です。悪意の臆病者、卑怯者、病質者と判断しています。
 
 

*論点
前の記事において、この問題の論点はおよそ三つあるのではないかと書いたが、もう一度書くと、それはこのようなものだ。
信仰告白は是か非かという信教の自由の問題

 
一見、自由だと答えそうですが、反社会的思想であったり、嘘と詭弁だらけであったり、言いっぱなしで無反省・無責任であったりすれば、批判されて当然であります。楽山がその典型です。まさに、妄想的なデマを振りまいて、責任を負わないことで、信教の自由を侵しているのが、楽山です。
 
論点云々と言論者を気取っていっていますが、楽山に理路や説得力など成り立ったことはありません。宗教人でも信仰者でもない病的自己中体質の楽山に「信仰告白は是か非かという信教の自由の問題」を語る資格はありません。楽山は、偏見と先入観で、信仰をおとしめてくるだけの荒らしです。
 
 

成人式において特定宗教の宣伝は容認されるかという政教分離の問題

 
反社会的な迷惑や反人道的なものでなく、強制的でないならば、儀式と宣伝は、可なのでしょうが、楽山は、人の迷惑を省みず、嘘と詭弁を使いまくるので、決して容認してはいけない存在です。ですから、楽山が誰かを批評したり批判する資格はないのです。誰が主催しているかにもよると思います。
 
 

信仰告白のために人を騙していいのかという道義上の問題

 
丁寧であいまいなボンヤリ言語と、同情を引くための芝居であるトホホ言語によって、人をだましているのが、楽山その人であります。そのベースは、妄想的確信となっているところの、宗教は、いい加減に信じて、信じ過ぎないようにする・・というもので、宗教を分かっていない証拠となっています。
 
宗教と信仰は、外見で派手と地味があっても、絆(きずな)の有無であり、あるかないかであり、信じ足りないということも、信じ過ぎるということも、ないのです。楽山は、何も分かっていないので、加減できるという妄想的視野狭窄を来たしているのです。信仰を測れると思うことが既に症状であります。
 
邪悪な宗教は、超常の力を身につけるために、人間性を捨てろと命令します。そして、超人になれると吹聴してきます。楽山は、宗教を批判しているように見せかけながら近づき、霊が分かるっぽい?自覚をもって、誘導するところの教祖願望~妄想の人です。
 
反対を書いて、その後、賛成と受け取れる祈り芝居などをしてきて、そして、断定していないから責任問題は発生しないなどと、成り立たない言い訳をする、というような楽山こそ、成人として、常識人として、成り立たず、道義上も、宗教上も、害悪と偽善に塗れている偽善者であります。
 
そして、一切、反省も訂正もしないのだから、いかなる寛容の精神をもってしても、その因業を続けることなど容認してはいけません。楽山に善意を向けることは、楽山の悪意を促進し、よって、人格鈍麻~破壊を、近づく人にもたらすでしょう。「人を騙して」いるのは、楽山のほうです。
 
つまり、楽山は、一人前の正常な成人ではないということです。かといって、薬などの治療が効くわけでもない病質者なので、何らかの和解も期待できず、治療によって改善可能な精神病についての考え方も成り立ちません。自己愛と自己顕示欲に支配された精神病質だという判断です。
 
楽山は、いかなる悪と偽善を行っても、罪悪感を感じないだろうと思います。優しさに見せかけた丁寧語にだまされないでください。楽山は、打てど響かぬ男です。決して信用しないでください、相手にしないでください、関わらないでください、近づかないでください、という批判記事を書いてきました。
 
いかなる場合も、人を騙していいわけはありません。また、成人式については、誰が催しているかが問題となるでしょう。国が催すならば、政教分離が必要だと思います。政教分離をすることも、しないことも、当然、責任が付いて回ります。無責任な楽山に云々する資格はありません。
 
 

私見ながら、HSとその信者は、信教の自由の問題についてうんぬんするが、あとの二つについてはまったくといっていいほど語らず、そもそも関心がないようだ。

 
私見ながら」と評論家口調ですが、楽山は、信教の自由の問題についても、また、上に述べたように、政教分離の問題や詐欺的言論について、批判の対象になることはあっても、批判者になってはいけない人です。最低限の道理も道徳も弁えていないで、どうして、他者を批判できるでしょう。
 
 

一方、アンチ側は、あとの二つについて議論することが多く、信教の自由の問題についてはそれほど語ることはないようだ。信教の自由を認めないというのではなく、それは当然と認めた上で、あとの二つについて問題ありとしているのだ。

 
楽山は、言うだけで、返せない人なので、議論も、コメントの遣り取りも、成り立ったことはありません。ただ、だまされた人が、だまされている間、楽山を、まともだと思っているだけです。柔和で中立を装うペテン師に、もう、だまされないでください。私も数か月だまされてから、批判に転じています。
 
 

信仰告白は自由ではあるが、成人式においてそのような行為を容認するのは政教分離に反するのではないか?」「信仰告白は自由ではあるが、そのために人を騙してもいいものであろうか?」など。
あとはアンチ側には、いわゆるゲリラスピーチをした青年の将来を案ずる声が散見されるのが印象的である。

 
(ネットより)
政教分離原則(せいきょうぶぶんりげんそく)は、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則をいう[1][2]。また、教会と国家の分離原則(Separation of Church and State)ともいう[3]。ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し、広義には「君主」や「国家」を指す[4]。世界大百科事典では「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と定義されている[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%95%99%E5%88%86%E9%9B%A2%E5%8E%9F%E5%89%87
 
要は、政治は、宗教に対して、中立・不介入ということでしょう。また、そういう不当な介入を戒めてもいると考えるならば、自分の罪や偽善を省みず、平気で、柔和・中立芝居をして、宗教やカルト批判をしている楽山は、言論を歪曲する煽動者であり、むしろ、言論の自由を乱す者と考えるべきです。
 
ですから、楽山は、批判の対象となるのであって、批判や評論の主体となる資格はありません。楽山は、中立に見せかけて、心霊による教祖願望に執着があり、丁寧語のボンヤリ言語と、芝居のトホホ言語によって取り入り、単方向だけの理屈で、誘導し、だましてきます。しかも無反省かつ無責任です。
 
 

*提案
信者氏らは、信仰告白こそが最優先であって、そのために嘘をついたとしても、政教分離に違反したとしても大した問題ではないと考えていそうだが、世の中は大半が信者ではないのだし、信仰告白のためなら嘘があっても政教分離に反しても構わないという考え方が通るわけもない。信者氏にはこの辺りのことについてよく考えてみてほしいと思う。

 
世の中の大半は、楽山の支持者でも賛同者でもないのだし、信仰告白というより妄想による反信仰の実体と実態についても、楽山の嘘と詭弁は、当然、批判されてゆくわけです。楽山という最も悪質な個人カルトは、自らに対する批判には答えず、他者を批判し、他者に教えようとする変質者です。
 
楽山は、批判されて、長々と自慢げに返してきたときも、嘘と詭弁のいちゃもんしか書けない人でした。楽山は、分からないことでも、平気で嘘を吐き、平気で詭弁を弄します。総ては、作為なのです。人の助けになろうとする気はなく、能力もなく、人を操って満悦したいだけなのです。
 
楽山の、自らの偽善と悪を無視した宗教批判など「通るわけもない」のです。楽山は、他者を批判することで、結果として、自らの害悪を証明してゆくことになるでしょう。楽山は、何も考えていない自己中なのだから「よく考えてみてほしい」などと、人に言う資格もないのです。
 
以前から "反省" とか "トホホ" とか書いて、反省している柔和な人柄が伝わると思っていることも、笑止であり、記事の流れの時系列や前後の文脈に反省が表れたことがないから芝居だと分かるのです。わざとらしい卑下をしても中身がなく、変わることのない高慢が、楽山を否定しているのです。
 
言葉の内実の代わりに連想されるのは、反省とは裏腹なニヤニヤした自己満悦の笑いだけなのです。「共感」なども言葉だけです。実際には、共感できない体質と性格が指摘された流れの中では、狙いだけが際立って、白々しくて見苦しく、滑稽でさえあります。
 
楽山が、自らを改めることがないのに、人に改めるように言っているのは、精神機能の良心という大事なところが欠損した体質が固定してしまって改まらない著しい継続的非道なのであります。楽山は、言論者ではありません。だまされないでください。楽山の言うことを受け取らないでください。
 
 

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           ブーメラン: 偽善は偽善者に返ってくる
 
 
(2021年01月26日)
(2022年02月03日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
最近は、楽山の "ブーメラン現象" が激しいです。楽山が何か書くと、それは楽山のことで、楽山にぴったり当てはまる、ということになっています。楽山の笑いは、楽山を笑っており、楽山の悪口は、楽山を罵倒するでしょう。そういう目で見ると、だんだん、楽山が、実に滑稽に見えてくるのです。
 
楽山の言は、尻を拭いた後のトイレ紙のようなものです。その表面を丁寧語というクリームで被っても、いったい誰が、何の役にも立たず、キレイにもならないウンコまみれの紙を近づけられて喜ぶでしょう。リアルはもちろん、ネットでも、鼻をつまみながら強力に流す以外にないのです。
 
 
 
  白い目のピエロ
 
薬をのむ
白い目のピエロが現れる
鉛のような倦怠が襲ってくる
長いトンネルの無為にふらつく
暗闇で見る幻に
縫合の糸をかける踊り
血を抜いた
平気な顔をして笑う好褥の皮膚
その傷から生えてくる
歯を抜いた
血の味 細菌の熱をのどで飲み込む
昔のんだ鼻血の味が残っている
拳銃と注射器の危うさに
火の粉とガラスをまき散らす
白い目のピエロ
何度も身を引いて
しばらくすると戻ってくる
静まりかえった舞台で踊る
曲もなく詞もなく拍手もなく
そのたびに眼が白くなっていったという
不眠に遊び
白髪を覆い隠して
笑うために ピエロ
また薬をのむ
脳に回った毒が笑う
泣く
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
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http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、ブログ記事をリンク)
 
 
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