ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の詭弁物語2

 
  楽山の詭弁物語2
 
 「私の聖書物語」椎名麟三
 2021年03月13日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28376626.html
  を改めて批判。
 
 
何も知らないし分からないのに、知ったかぶりをする楽山は、学習が成り立たないために、魔法のような宗教の思い込みに走っているのでしょう。共感がないために、理路も情緒も、意味も直観も、そして、真実も、言葉でごまかしてきたのです。
 
 

*私の聖書物語
先日、椎名麟三の本を読んでみようと思い立ち、「私の聖書物語」を読んでみた。自分には難しい本だったが、共感できるところも多かったので以下にメモしておきたい。

 
楽山は、「メモ」と書くことが多いです。謙虚だからでしょうか、否です。メモだから、責任負わなくていいと思っているのでしょう。そのくせ、言ってることは、偏向が甚だしいのです。
 
 

*愛すること

愛というものは、最後には愛しているというより仕方のないものであるからだ。愛は、愛それ自身をもってしか説明できないものなのだ。というのは、愛は、どんな理由も必要としないだけでなく、むしろすすんでそのような理由を拒むものであるからだ。 
(『椎名麟三全集15』「私の聖書物語」、椎名麟三著、冬樹社、昭和49年、p.344)
 」
愛がどうしたこうしたと言うのは気恥しいものであるが、このくだりを読んで、随分前に大恋愛中の友人がこんなことを言っていたのを思い出した。
「相手に、自分のどこを愛しているかと聞いたとき、ここが好きとか何とかいったら、それは本当には愛してないってことなんだぞ。本当に愛してたら、ここが好きとか、こういうところを愛してるとか、そんなことはいえないもんなんだ」
こんな彼が上の文章を読んだら、「その通り!」と喜びそうである。

 
エロス・性愛、フィリア・人間愛、アガペー・神の愛、のいずれのことを言っているのか、書いていません。「愛している」という台詞からは、エロス、性愛、恋愛のことを言っているのでしょうか。また、楽山の不備の言が始まっています。
 
楽山が、どう思うかを書いていません。分からないからでしょう。恋愛にもエロスだけでなく、フィリアも働いているわけですが、愛と性欲の区別がつかないのでしょうか。ならば、神の愛など分かるはずがありません。
 
「どこを愛しているか」ということではないと、わざわざ言っているのは、どこはチャームポイント・好み・魅力であって、愛という関係とは質が違うことを、楽山は知らなかったのでしょうか。楽山は、気恥ずかしいのではなく、真実を追求する言論において、ただ、恥ずかしい人です。
 

*自由と愛
また著者は、自由についても次のように書いている。

愛というものは、究極には理由のないものであるならば、自由というものも究極には、理由のないものなのである。
(同上、p.344)
 」
自由も、愛と同じく、ああだこうだ言っても仕方のないことなのだろう。ただ、ああだこうだ言っても仕方ないと分かってはいても、ああだこうだ言わないではいられないのだから仕方がない(笑)。

 
引用の理路も、愛=自由ではないのだから乱暴で不十分ですが、楽山は、引用しておきながら、またしても、説明を書きません。なのに、ああだこうだという文句だけは言ってくるのです。「仕方がない」は、何の説明にもなりません。これで勝手な書き方の弁解にはなりません。
 
散々、詭弁と嘘で、人を侮辱し、だまし、おとしめておきながら、何が「(笑)」なのでしょう。楽山には、何も言わないでほしいのです。偽善で腐った楽山の言論は、ノートにでも書いて、一人で笑っておればよいのです。
 
無反省、無責任、無神経、無理解の病的ナルシスト、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の言など、迷惑なだけで、誰のためにもならないからです。言ってみれば、楽山こそが、身勝手の典型になります。愛とは対極にあります。
 
訂正不能で、学習する気がなく、都合のよさそうな言葉だけを使い捨てで悪用してきて、結果、嘘と詭弁しか出してこないような、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。そういう者は、批判の対象にしかなりません。
 
 

*人間はすべて許されている?

キリーロフは、小さいとき見た木の葉について話す。それは日光に葉脈がすいてキラキラと美しかったというのである。スタヴローギンは、それは何の意味だい、とたずねる。勿論意味なんかない。キリーロフは、そう答えて、人間はすべて許されているのだというのである。
(同上、p.361)
 」
これは、ドストエフスキーの「悪霊」についての文章である。
「悪霊」は、ウン十年前の夏に汗をかきながら読んだ覚えはあるものの、その内容はきれいさっぱり忘れてしまっているので、上の文章については自分は何も言えない。
でも、「人間はすべて許されているのだ」という言葉には、はっとさせられた。これは前々から考えているテーマなので。

 
今までの経過から、楽山語の「人間はすべて許されているのだ」は、何をしてもええじゃろ・・ということです。なお、キリスト教においては、許される、ではなく、赦される、であります。許可ではなく、赦免であります。それを、楽山は、何でも許可、何をしてもいい、ということに、すり替えています。
 
引用の文章は、それだけでは分かりにくいと思います。何もまともに考えることの出来ない自己愛性病質者の楽山の解説は、すべて恣意的です。自己正当化と自慢だけをしたいだけの詭弁なのです。ならば、楽山は、何も言わず、日光に血管が透いてキラキラしておればよいでしょう。
 
 

*信仰と許し
許しについて、本書では次のような文章もある。

キリストを信じない人にははなはだ申し訳なくて申し上げかねるのだが、その人さえも実はキリストにおいて救われてあるのである。また私に叱責の手紙を下さった熱心派の方々にはまことにお気の毒であるが、イエスをキリストとして信じられなかった私も、驚いたことにキリストにおいて救われていたのである。その事実が私をいつも震撼させるのだ。
(同上、p.401)
 」
宗教では、信じれば救われる、悔い改めれば許されるという具合に、許され、救われるには一定の条件があると説くことが多いのだが、著者はそれとはちがう考えらしい。

 
楽山は、「信じれば救われる、悔い改めれば許される」という言葉の意味を全く理解していないことが、今までに明らかになっています。自己顕示欲の知ったかぶりだけで書いています。どうか、真に受けないでください。悔い改めない限り、救いと感じることはないのです。条件ではなく真実です。
 
疑いがあっても、信仰が全くないわけではない、という意味かもしれませんが、楽山は、それを、反キリストでも、何をやっても許される、という恣意によって、ねじ曲げています。このような話の進め方をすること自体が、既に、反キリストの宣伝者以外ではないということです。
 
 

ちなみに自分も、信仰や悔い改めなど、何らかの条件を満たしてはじめて許され、救われるというのではないように感じられる。それらによって許され、救われるというよりも、それらによってこそ許され、救われていることに気づくことができるというのが本当ではないかと思うのである。

 
今度は、条件という言葉だけで、楽山は、信仰を、教条主義にすり替えています。ベースが理解が皆無の楽山からは、「本当」は生まれず、嘘と詭弁しか生まれてこないのです。自分の罪に気づかず罪を認めない者は、救いに気づくこともないのです。信仰は、罪が赦されて生きる、という救いだからです。
 
楽山は、悔い改めもせず、反省もしないで、救われているつもりなのでしょうか。それこそ、宗教と信仰を悪用する自己顕示欲の誇大妄想の悪夢であります。ますます、ふてぶてしくなり、ひどくなっています。信仰にも理路があります。楽山は、議論可能な理路を持っていません。
 
 

*神義論

神が、キリスト教のいうように全能だとするならば、アダムとイブが禁断の木の実を食べたのも神のせいである。何故なら人間の一切やこの世の一切を決定しているのが神であるなら、禁断の木の実を食べることも神において決定されていたことにちがいないからだ。だがもし禁断の木の実を食べるということだけは、神の決定から逃れ出ていて、神の知らないことであったとするならば、そんなぼんくらは、神でも全能でもあるわけはないではないか。
(同上、pp.370-371)
 」
これは上と同じく、自分には興味深いテーマだ。
神は全能であるとすれば、どうしても考えないではいられないことなので。

 
興味深くはありません。神の全能を、自分の都合と辻褄に引き寄せる妄想です。自分勝手を許す神ではありません。このように、幼稚な言いがかりだけが、楽山からは出てきます。神の意志と行為を、現実に合わせて云々する能力を人間は持ちません。神は上の絶対、人はその下の相対的存在です。
 
このように、楽山と同じような、いちゃもんを言っているように見える小説家の言を、楽山は、フルに利用し悪用してきます。楽山の言い分は、神が、楽山にも分かるような都合のよい辻褄の合う言動をしないなら信じないということです。
 
信じなくて結構、邪魔をしないでください。既に否定されたのに、また、平気で書いてくるのが、楽山の病質であります。ゆえに、いつ見ても、理路も感性も深みもないのです。進歩と成長がなかったのかもしれません。
 
(ネットより)
椎名 麟三(しいな りんぞう、1911年10月1日 - 1973年3月28日)は、日本の小説家である。
・・・
1950年(昭和25年)、キリスト教へ入信。日本基督教団上原教会にて赤岩栄牧師から洗礼を受ける。以後キリスト教作家として活動。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8E%E5%90%8D%E9%BA%9F%E4%B8%89
 
楽山の引用と解釈は、神の辻褄が分かるなら信じる、という、楽山の自我の完全欲の言であります。自己中は、罪を認めず、不祥事を全部他者のせいにしますから、分かることもないでしょう。信仰は、自らの完全を否定することから出発します。
 
人間は決して完全にはなれず、神に希望を託さなければ愛も癒しも希望もなく、楽山のような謀略者に食い殺されてゆくだけです。ゆえに、価値観を、この世に置くのではなく、最終的結果を、神に任せる道が、信仰です。辻褄が合わない世界だからこそ、不完全を自覚する人は、神を必要とするのです。
 
神が分かるなら、信じる必要はないのです。楽山のような完全欲の病質的ナルシストは、自己満足が得られないと気が済まず、いくら批判しても、同じようなことを書いて、疲れさせてきます。信じないのは楽山の勝手ですが、誰かに影響を与えようとする意図は、これもまた、悪夢のようなものです。
 
早く過ぎ去ってほしいと思います。楽山は、人間性を破壊する悪夢です。どうか、楽山にだけは、関わらないでください。関われば、楽山の他害性によって、徒労となり、疲労し、地獄を見て、人間としての思考も情緒も失ってゆくでしょう。それが、楽山の病質です。
 
 

*信じないけれども信じている

「それが実に全くほんとうに困ってしまうんですよ。お前は信じているんだとおっしゃるなら信じているんですし、信じていないんだとおっしゃるなら信じていないんだからです」
「どちらがほんとうなんだ!」
「ところが全く困ったことにどちらもほんとうなんです。つまりその二つは、実に平和に共存しているわけなんですよ」
(同上、p.374)
 」
これは奇跡を信じるか、信じないかという話であるが、著者のなかではこの二つが「平和に共存している」そうである。

 
「これは奇跡を信じるか、信じないかという話」ではありません。キリストに共感するか、キリストを好きになるか、という話なのです。楽山の勘違いは、人間にとって、どこまでも世迷言です。楽山は、話にならないことばかり言っています。
 
楽山は、おびただしい嘘と詭弁で、他害と破壊を及ぼしても、その自覚、即ち、病識がないのです。楽山には、平和もありませんし、共存もありません。信仰もありません。自我の欲望を追いかけ、その結果、訂正不能の悪夢を見ているだけです。
 
 

これは自分も同じだ。奇跡なんかないだろうと思いつつ、奇跡が起きたら起きたで、そういうこともあるだろうとさほど抵抗なく受け入れることはできる。

 
楽山は、奇跡が起きても起きなくても、平気でいられるそうです。その奇跡は、恐らく超常現象としての奇跡でしょう。楽山は魂の奇跡を知りません。楽山には、霊が分かるっぽい?という妄想的発想は起こっているだけで、本当の救いの奇跡は起こらないでしょう。
 
楽山の言から明らかなのは、楽山のように偏向し腐敗した心には、心の奇跡など起きようがないということです。起きないのは仕方ないが、他者の心の奇跡と目覚めを、邪魔するのはやめるべきです。誰も、楽山のようになってしまっては、ささやかな幸福さえも失ってしまいます。
 
 

あれこれ見て、あれこれ考えた上で、どうやら神は存在しないようだと結論づけたとしても、神を信じて祈ることにさして抵抗はない。

 
白々しい嘘です。逆説の哲学者シモーヌ・ヴェイユじゃあるまいし、存在しない神に祈る楽山の正体は、信仰を欠片も持たないで、だますために、祈り芝居の記事を書く詐欺師です。神は存在しなくても、神を信じて祈る・・明らかな矛盾律です。実際、祈ってなどいないと思います。
 
祈ることに抵抗がないそうです。それは、楽山が嘘を平気で吐く異常者だからです。祈りを何と思っているのでしょう。祈りは、神への唯一の音信です。神は、人の総てを見抜きます。楽山は、神を何とも思っていないから平気なのです。楽山は、嘘を平気で吐くように、祈るのでしょうか。笑止です。
 
楽山は、おのれの自我が神を、物か人のように、机上の対象にする怨念のような異常な確信から、この軽さで、神も、上から眺めて、信じてやろう、祈ってやろう、自分は何でもできるから・・とでも言うのでしょうか。黙っておればよいものを・・、何も知らないのに語ることの、おぞましさです。
 
 

我ながらおかしなことだけれども、こういう矛盾は平気である。何かの本で野蛮人かどうかは矛盾に無頓着であるかどうかによるという話を読んだ記憶があるが、この基準からすればどうやら自分は野蛮人であるらしい(笑)。

 
楽山が、こういう矛盾に平気なのは、自己愛性パーソナリティ障害だからです。逆説的真実も何もなく、自慢したい、ひとかどの人物と見られたい、特殊の霊的境地がある、分かっている、という妄想に、酔い痴れて生きているのが、楽山であります。楽山の平気は、正常人には成り立ちません。
 
 

*人であり、神であるということ

荒本さんの反逆は、イエスを神として、人間であることを捨象したキリスト教に対する反逆だったのだと思う。私は、イエスをキリストとして信ずる者であるが、キリスト教界のことはあまりよく知らない。だがおそらく荒本さんの反逆したくなるようなものが、少なくとも荒本さんの所属していた教会にあったのではないかと推測されるだけだ。ただ荒本さんは、そのイエスの人間を強調しすぎたのである。
(同上、p.439)
 」
著者によれば、荒本さんは「熱心なクリスチャン」でありつつ、「イエスが、人間であってなぜわるい、とか、マグダラのマリアに恋愛していてなぜわるいとかいって、キリスト教の偽善は、イエスを神の子とするためにイエス人間性を無視していることだ」と主張して教会から離れ、マルクシストになり、「アンチ・クリスト」という論文を発表するようになった人であるが、やがて病に倒れ、最期のときには「おれは、神を信じていたのに…」と言い残していったという。

 
キリスト教の偽善は、イエスを神の子とするためにイエス人間性を無視していることだ」・・楽山とは全然違って、椎名麟三という人が思考するキリスト者であることが表れています。私も教会からは離れていますが、おかげでか皮肉にか、楽山という偽善者を、人間として批判することが出来ます。
 
キリストを、人間かどうか、決めつける必要が、断定する根拠が、能力が、人間の、いったい、どこにあるというのでしょう。そこが間違いなのです。また、キリストの、人間への共感性を否定したら、信仰は、おしまいです。楽山のような、超常狂いだけのカルトになってしまうからです。
 
キリストの人間性を無視することは、超常奇跡信仰であり、人間が受け取れるものを見失ってゆく袋小路への堕落であります。なお、経験上、私が通っていた教会をはじめ、まともな教会は、キリストの人間性を無視したりはしません。教会もいろいろであります。
 
恐らく、キリストの人間性を無視する教会には、楽山に似た訂正不能の外道者がいるのでしょう。そういう者は、どこにいても、真実を、人々から遠ざけてゆきます。教派にもよるでしょう。聖書は、カルトの喜びそうなネタが満載です。人間は不完全な人間であることを忘れてはいけません。
 
キリスト者でもなく、必要な知識も理路もなく、信仰など持ったことがなく、教会外にいて、減らず口だけをたたいているのが、楽山その人であります。どれだけ、信仰を語る圏外にいても、自己愛性の病質者は、身の程を知ることがなく、弁えることがないのです。
 
 

著者は、イエスは人であり、神であるので、どちらか一方の見方に偏することに注意喚起しているようであるが、近頃の自分の関心は、信仰上のイエスより、歴史上のイエスに大きく傾いているので耳に痛い話ではある。

 
先ず、楽山は、信仰上のイエスを知りません。むしろ、憎んでいると思います。だから、知りもしないのに、無神論関連の本から、信仰をけなし、信仰関連の本から、信仰を揶揄してくるのです。聖書から、人間としての真実を受け取らず、史実性だけに傾いて、信仰を理解することはありません。
 
歴史上のイエスに傾くなどと平気で言っているのが、思慮が浅いのに思い上がっている証拠です。歴史上のイエスは、二千年前ですから、いつになっても、詳細は不明であります。過去は、いかなる資料によっても、その資料の信憑性が問われ続けます。人間としての真実は、今、必要なのです。
 
大切なのは、聖書が、超常奇跡ではなく、人間に何を伝えようとしているか、ということです。それに、信仰もないのに、キリストの史実だけを追い求めることは、世界で一番の徒労であり、無駄であります。楽山が、いかに幼稚で問題外であるかを、楽山が表しています。
 
 

*これから
椎名麟三の本は、以前、とあるクリスチャンから勧められて一冊読んだきりだったのだが、今回改めて読んでみると難しくて分からないところもあるが、著者独特の思考と語り口によって様々なことを教えてくれ、読みごたえがある。つづけて他の著作も読んでみるつもり。

 
楽山は「難しくて分からないところもあるが」「読みごたえがある」のだそうです。この軽さと浅さが、楽山の特徴であり、厚かましさであり、本気の無さであり、自己顕示欲の権化であることを表しているのです。
 
楽山が、どれだけ、本を読んだといっても、信用しないでください。自分に都合のよい言葉を漁(あさ)っているだけの楽山が、真の読書をすることはないのです。本に学ばないで、自分の言い分を、肯定してくれそうな言葉面を探して検索しているだけです。
 
そうして、楽山は、勘違いの妄想を、詭弁によって、ごまかして書いてくるのです。楽山の言は、丁寧語で書いてくる分、少しばかり、人を誘いますが、注意してください。楽山は、理路を学び、信仰を知っている者からは、石にも砂にも値しない、嘘との偽善の有害物です。
 
キリストが、なぜ、手加減せずに、パリサイ人という偽善者を、あそこまで厳しく否定したかが、楽山という偽善者を通して、表されています。現代にも通じる警告であり、教えであります。
 
私は死んで何も言わなくなっても、神は、いつまでも偽善を黙って見ておられる御方ではないのです。このことが、一見、空しいように見えても、臨死において、キリストが、父なる神が、与えるところの、最終的な平安であり、救いであります。
 
 

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              視野の無い嘘吐き
 
 
(2021年)
(2022年03月15日、再録+)
 
 
 
  人が生まれて
 
人が生まれて
罪が生まれた
人が増えて
罪に罪を重ねた
言葉が生まれて
嘘が生まれた
心にもないことを言い
心にあることを隠した
 
虐げられた救い主のように
人は長い間
ウソの中から真実を見つけなければならなかった
人は長い間
ウソを並べて真実を表わさなければならなかった
産みの苦しみは
楽園を追われたときから
長く
長く続いた
 
「罪は決して許されることはない」
「あなたの罪は許された」
二つの言葉は
言う人と言われる人によって
正しかったり間違っていたりする
反対だったり同じだったりする
 
 
 
  楽山のツイッターですが
 

なんだか、こんな話を聞くと、もーれつに読みたくなってくる。
トンデモ本は好きなので(笑)。
https://twitter.com/komo266/status/1370643221932503044

引用ツイート
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
 · 2時間
実は、ずっとやりたいと思ってたけど、まだできてないことがある。それは、この本を論評すること。
以前ざっと読んだのだが、あまりに言っていることが無茶苦茶で、かえって霊言の胡散臭さが際立つ名作だったww 
https://amazon.co.jp/dp/4823301730/ref=cm_sw_r_tw_dp_MH9SE7PTQKTN06P94X83
https://twitter.com/asasfjgg/status/1370612569895960581
 」

 
引用元を批判するつもりはありませんが、引用することで、どんどん、他の批判者を、自らの偽善の正当化に巻き込んでゆく、トンデモ的外れの楽山です。いつも、楽山は「(笑)」なのでしょう。楽山は詭弁を弄して、発言の責任を負わず、人を、疲労させるだけの人です。
 
自分の落ち度についての問題も、その指摘も、これだけ無視して、ふつうの人を気取ることの無理を感じることなく、笑って、明るい言葉を発していられるというのは、ふつう考えられないことです。楽山の、嘘と詭弁と、反キリストの言と、無反省・無責任を批判しています。
 
霊が分かるっぽいと言っていた楽山が、ブログ記事とツイッターで、馬脚をあらわしてゆく成り行きです。楽山に、他者の言を引用する資格はないと思います。理由は、真実を追求する資格のない病質的偽善者であり、楽山自身が、真実を裏切り続けているからです。
 
いちばんおかしいのは楽山であり、おかしいことを言ってきたのであり、その楽山が、他者に向かって、おかしいなどと意見を言う資格はないということです。今までの3年間の楽山批判が根拠です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自分を見る目を持たず、外界を見る目を持たず、固定した幻想の視野を持ち、バランスのとれた人格の固定して夢想だけで、関わってもいない世界に口を出し、受け入れられないと逆上して荒らしてくる楽山には、どう考えても、生育歴によらず、否定だけしか返せないということです。
 
 
 ※
 
またしても、楽山系が、私のツイッターの「通知」欄を荒らして、楽山の悪行を強調しています。楽山系が、どれだけ低劣であるかを表しています。楽山は、知っているのでしょう。ゆえに、楽山は、本性が荒らしであることを自ら証明しているということです。
 
複数のHNで、私のツイッターの「通知」欄を荒らしている者たちがいます。楽山の、成りすましか、仲間でしょう。楽山の学者気取りも、これでトンデモになり、楽山が単方向の荒らしであることを証明しています。断末魔とでも言うべきでしょう。いつかは、バレることだったのです。
 
「通知」欄の荒らしの書き込みが困るのは、好意的な書き込みの中に混じっていて、紛らわしいからです。荒らしは、楽山と同じようにコピペで書いてきて、自身の意見はわずかで、あとは悪口や当てつけだけのようです。削除できないのかな・・、まあ、相手にはしないほうがいいと思います。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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