ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

受け取るべきこと2

 
  受け取るべきこと2
 
 
Q.
 
キリストは
いわれなき罪のために十字架につかれました。
パリサイ人たちは悪い奴です。
彼らが憎いです。
 
A.
 
何を言っている。
キリストを殺したのは私たちだ。
そうあってはならないから
キリスト者は祈っている。
 
そのことを、神は既にご存知であるのに、どうして、信じることを、分かっていることにしてしまうのか。信仰者は罪深くて不完全であるのだから、神の前で、知っている、分かっている、見えている、守っている、・・これらは、信仰自慢である。分からないという正直さを、神の前で持つべきである。
 
 
キリストの言行録で、私たち人間が感動できるのは、キリストの愛に溢れた洞察力と共感力だと思います。何度も言ってきたことですが、物や肉体の奇跡の話は、驚きこそすれ、今の時代、物や肉体の奇跡は滅多に起こらないという現実があるのだから、信仰の中心にはなりません。
 
数々の奇跡のみに注目して、いつか起こる、いつか起こると、物や肉体の奇跡ばかりを祈り願い待ち望んで、それで人生が終わるのがキリスト者ではありません。魔法を願って思考停止することを、神は人に求めるでしょうか。神は人を考える存在として造られました。
 
奇跡頼みは、私たちの日常において、考えるべき様々の課題から目を逸らすことになりはしないか。奇跡の話ばかりして讃美しまくり、信仰者の弁えとしての神への恐れを全く無視している者を見ると、人格を自ら破壊して、まるでケダモノのような卑しさを感じます。
 
物や肉体の奇跡は、人間にとって、わけのわからないことです。即ち、真似のできないことであり、心掛けようのないことであり、誰でも与えられる恵みとして期待するほうが無理ということです。努めようもないことなのです。
 
また、情欲の聖句や、敵を愛せよ、など、守れもせぬ教えを、できるだけで守っている気分になっていると、旧約が伝える神と人の絶対的な違いや、新約が伝える神格が人格に与えるものを、疎かにしかねないと危惧しています。
 
冒頭に書いたように
私たちが受け取って感動し共感できるのは
魂あるいは心の奇跡と呼んでいるもの
即ち、救われた人々との交流において表されたところの
キリストの洞察と共感(=愛)である。
私たちが受け取れるもので
私たちに分かるのは
それ以外にはないと言ってよい。
 
キリストの愛と洞察と共感を受け取れば
私たちの中で確かに生きてくる賜物となり力となるだろう。
 
このことは人間という存在を考えるとき
必ず、思い考え、さらに憧れてよいことである。
どうしてそのことに心を砕かないのだろう。
 
物や肉体の奇跡のことは
心のままにしかならないものとして
私たちも御心のままにと祈るほかはない。
 
私たちは自由意志を与えられているのだから
教えや聖句について
今の自分の受け取ったと思うものを
固定するべきではない。
 
私たちは成長することで
堕落に対抗することが必要であり
それが可能になるためには
聖書についても、読んだとき聞いたとき
分かったつもりになることを避けて
正直な心で疑問は疑問として保留にしておくべきだ。
いつか本当に分かって感動するまでは
というより地上に生きている間は
理解が腐敗することのないように
訂正不能にせず、保留にしておくべきだ。
 
私たちは
神の言葉を即座に理解するほど優秀ではない。
さらに私たちは
理解したつもりのことを不変に保持することは出来ない。
心は、揺らぎ、移り変わり、場合によっては腐敗する。
 
神には起こらない不安定が起こるのが人間であり
風を追うようなものとは、私たちすべての人のことである。
その証拠は、私たちの、死すべき定めにおいて明らかである。
 
私たちの成長は、
成就しても限りあるけれども
それさえも
神の前に、飾ったり、偽ったりする者には
決して達成されることがない。
 
日々、精いっぱい正直に神に告白し祈ることで
はじめて、ようやく、達成に方向付けされるだろう。
 
 
私の言うことを取るも取らぬも読む人の自由です。
しかし、取る、あるいは、取らない、ということを、
今、決めてしまうことも
不完全で罪深い私たち信仰者の成長のあり方ではないと思います。
もし心に残るなら、時に、考えてほしいと思います。
 
悪口に、悪口だけを返すことのないように
侮辱されて、侮辱だけを返すことのないように
憎まれて、憎しみだけに固まることのないように
自分の快楽原則のみで他者を無視するようにならないために
迫害されて、お返しに、害することのないように
自分を守るために、神の名によって、硬く自閉することのないように
悪しき刺激を受けても、心がいつまでも乱れていることのないように
攻撃されても、神の復讐だけを願う生き方にならないように
被害的念慮と他罰的念慮に凝り固まることのないように
神の裁きを求めることが、人の人への復讐祈願にならないように
神を信じることが、他者を呪うことではなく、解放であるように
 
主の御名によって祈っています。拝。
 
 
(私個人の祈り)
 
どうか母をお守りください。
どうか兄をお守りください。
今は亡き父とおばちゃんたちが安らかでありますように。
私が愛する人々と私が思っている人々をどうか守り導いてください。
 
年を重ねるごとに心身の衰えが目立ってきました。
御心ならば、私の痛みと苦しみを取り去ってください。
わが罪をお赦しください。
この罪人をお赦しください。
どうか離れないでください。
 
この祈り、主イエス・キリストの御名を通して
御前にお捧げいたします。アーメン。
 
(※ 御心、御名、御前の、御は「み」と読んでいます。)
 
 

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                 祈り 音信
 
 
(2020年03月10日)
(2022年03月22日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの胸
 
風通しのよい胸だ
ほとんど風化している
どんな風が吹き抜けたのか
吹き抜けた風は
今どこに
見知らぬ野原で
草を揺らしているのか
昔懐かしい人の前を
一瞬でも通り過ぎたか
答えようもない問いが
ぽっかりあいた胸の中で
ときに胸をひらひらと揺さぶっている
 
風通しのよいことが
気持ちよいとは限らない
空っぽの胸はウソの胸
吹き抜ける風はウソの風
通いなれた道を通り
なじみの街を過ぎ
風化した穴に
今も聖なる心と
聖なる血を求めて
ため息で祈る
 
からっぽになりたいです
 
 
  涙
 
暗幕の下に賑わう目と目
代価を払って買った涙
計算機は壊れない
ガラスは割れない
安心して夢見る少女
愛情を運ぶトラック
何の保証もなく
世の中は便利になった
 
唇に青い瞳を
真昼の星に輝きを
汗をまき散らして変転する太陽
耐えた腕が鳴らす独裁
 
別れたのは父と母であったか
妻と夫であったか
親と子であったか
結ばれたのは残された国境
未来への合唱と
泣きながら遠ざかる沈黙
 
ビルの窓に反射する
まぶしい笑いと
人波の上に
今日も
代価を払っても買えない涙が
 
 
  これで息
 
ごはん炊いて
ラップに包んで
冷凍する
これで数日は息抜きできる気分
 
悪いこころ集めて
これこれと反省して
お祈りする
これでしばらくは息吹き返す気分
 
悲しいこころ集めて
じっと乾く涙を待って
目を閉じる
これでほんの少し
ため息つける気分
 
良いこころ集めて
あれこれと考えて
わからないと気づく
これでこれからも虫の息
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
嘘と詭弁で妄想を刷り込んできて、人を偽りでだましてきた罪を、「反省。とほほ」と言い、ここでは「一種の、人間の性」で済まそうとする楽山を、許してはならず、赦してはならず、放置してはならず、同じことを続けさせてはならないと思います。
 
楽山は、悔い改める日は来ないかもしれません。しかし、私たちが、悔い改めない楽山に、操られる日が来てはなりません。楽山が、何らかのカルトを始めたり、嘘で人をだましたり、嘘を吐いて何らかの偉そうな地位についたりしてはなりません。その時の被害は、今より遥かに大きいからです。
 
 
 
ツイッターに書いたこと:)
 
私は、数か月、楽山と直接の遣り取りをしました。人格が壊れそうなほど、異常な疲労と徒労を味わいました。人生で初めてです。よって、以後今まで3年余りは、直接の遣り取りを禁忌として、こんな異常者がいると知らせるためにブログとツイッターを利用しています。その間、判断が覆ったことはありません。
 

st氏が自分はブログやツイッターに楽山批判を書くが、楽山は出入り禁止(書き込み禁止)とした事実は変えることはできない

 
楽山は、遣り取りするだけで害を及ぼすからです。犯罪者や害虫や猛獣や危険物と同じ扱いになります。家には決して入れずに、警戒情報を発しています。
 
 
どうか、楽山に、関わること、近づくこと、応答すること、一切、しないでください。ご自身の精神衛生のためです。楽山は、嘘と詭弁で、人を振り回し、疲労させ、壊してゆくサイコパスです。3年間、変わることのなかった判断ですから、人間レベルでは、結論といっていいと思います。
 
私は、努めて、できることをして、それ以上は神にお任せします。人間は、できることを精いっぱいすることが使命、そして、そこまでが能力なのです。楽山は、病質者であり、公共の害毒~病原です。
 
 
 
 幸福の科学は、宏洋氏に勝訴したそうだ。
 2022年03月20日 幸福の科学とは何だろう?
 http://mmknky21.blog.jp/archives/13861206.html
 

物事は一方の言い分だけで判断してはいけないというのは本当だと改めて思う。

 
HSについての記事のようですが、楽山は、自分の言い分だけを、ちょいと書いて、他者の意見を無視し続けています。そういう人が、上のように書くことは、実に、白々しい。楽山の言うことは、いたるところに自己正当化の詭弁が含まれてくるということです。印象操作による刷り込みと言います。
 
当たり前の道徳を書いて作為を隠すのが、楽山の気持ち悪い筆致です。今までも「人それぞれ」「人は人、自分は自分」「意見を言ってはいけないのでしょうか」などと書いて、自分の身勝手を正当化するなど、はっきりした主張をせず、ほのめかしてきました。一般的なことを、個別に印象付ける詭弁です。
 
正面から物が言えない半端者は、このようにして、憂さを晴らすのでしょうか。それとも、暗示によって、人を操る教祖願望の表れでしょうか。いずれにしても、個人でも、組織の一員であっても、まともに付き合ってはいけない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山です。
 
今まで見てきたことから、楽山は、理論家を気取りますが、まともな思考の理路が拙劣です。かつ、深い共感を持ちません。思索できず、感受できず、分かっていると思わせて、インテリを気取り、詭弁と嘘で信頼を得ようとします。遣り取りを続けると、結局は、一種異様な疲労を味わうことになります。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp/
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
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