ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の邪魔2

 
  楽山の邪魔2
 
 幸福の科学とは何だろう? 楽山ブログ
 建造物侵入騒動の行方(「幸福の科学」広報チャンネルの動画と個人的な感想)
 http://mmknky21.blog.jp/archives/8996284.html
 2021年03月21日 ツイッター引用を含む。
  改めて批判。
 
 
勝手に言いたい放題言うのが、楽山の趣味であり、それゆえに、役に立たない曖昧な意見が、正当な雰囲気を出して、言論を乱すことになります。真実の追求という大切な問題に、思いつきだけの楽山の口が侵入して、迷惑を省みないという邪魔になっています。
 

*個人的な感想
前記事に貼った関連記事を読み、当該動画を見て、疑問に思ったところをつぶやいてみたので、それもここに保存しておきたい。

 
無反省・無責任の楽山の言は、本当に、余計な、つぶやき以上ではありません。真に受けると、真っ当な理路が、かえって混乱し、真実を見失うことにしかならないでしょう。
 
 

心機一転★こも楽山
@komo266
これは正論とは思うのだが、
各種報道では、藤倉氏はHSに批判的な記事を書いたゆえに、HSから出入り禁止されたことを裁判所は認めたとしてる。
そのため、これは「言論は自由です。でもHSに不利な発言をしたら、相応の責任をとってもらいます」と聞こえてしまう。。😰

 
言論の自由には、責任が伴うという当たり前のことです。それを、楽山は、不当だと言っているのでしょうか。ただし、言論の責任を果たすことは、言論においてなされるべきであります。言論したら強制排除、というのは、言論の自由を脅かす行為であり、明らかに不当なのです。
 
楽山は分からないのでしょうか。また的を外しているようです。不都合を無視し続けているのです。つまり、楽山は、自由と、自分勝手を、混同しているのです。
 
 

心機一転★こも楽山
@komo266
独裁国家では、移動、取材、写真撮影には許可がいるが、
日本は独裁国家ではないから、移動、取材、写真撮影は原則自由だと思ってたけど、これは間違いなのだろうか。
そりゃあ、権利者の了解を得るのがマナーだろうが、どんなところでもそうしなければならないというのは極論すぎるのでは?

 
楽山は、原則とは何かを書いていません。賛成でも反対でも公共の福祉に反しない限りにおいて自由であります。旅行で風景写真を撮るのは、大方、自由でしょう。「権利者の了解を得るのがマナー」ではありません。反対意見を言うのに、いちいち、そんなことできないからです。
 
許可の必要な施設や場所や秘密の場所はあるでしょう。そういうところでは、前もって、そういう表示をすることになるでしょう。そういう表示が為されていなければ自由なはずです。事情の詳細が分からないし、私のテーマではないので、この件は、ここまでとします。
 
 

心機一転★こも楽山
@komo266
教団側は施設内の平穏を乱されたかのように主張するが、監視カメラ画像を見る限りは、特に平穏が乱されているようには見えないというのが正直な感想です。
内部撮影については、信者数1100万以上と称する教団の実態を知る上で、人影なく閑散とした施設内の様子をとらえることに価値はあるでしょう。

 
上と同じで、画像だけで「特に平穏が乱されているようには見えない」と言うような、楽山のボンヤリ曖昧言語や、また「様子をとらえることに価値はあるでしょう」という楽山の主観の価値判断で決められることでもありません。
 
語る資格のない者が、自己中の主観で物を言えば、こういう勝手なメッセージになるということです。
 
 

*偏向してる?
もしかしたら、上のツイートを見て、「あなたは教団に批判的にすぎる」という感想を持つ人もいるかもしれない。
これについては、自分は次の二つのことを念頭に置いて考えをまとめているとこたえておきたい。
まず一つは、今回の件は次の流れの中で生じたものだということである。

 
楽山の、言いたい放題の無知で無恥な言論も、流れの中で明らかになってきました。楽山は、自分の流れだけは、分からないようです。今回も、他者の悪の追及だけをして気分がよさそうです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)らしく、自己満足が全てなのです。
 
 

当初は、幸福の科学藤倉善郎氏とは、極端に険悪な間柄ではなかった。職員の里村氏と藤倉氏とのおもしろい掛け合いもあったように思う。

 
具体的に書かずに、「おもしろい掛け合いもあった」ことが、険悪ではなかったことの根拠になるでしょうか。裁判に関わる問題を、まことに、法に関わることについて、自分の欠点にはまるで気づかず、楽しみたいだけの評論家気取りの楽山は、面白半分の、雑談か冗談のような言い方で書いています。
 
何よりも、根拠が示されておらず、結論からの主張を言い張っているだけなのです。現状に居合わせたのなら、あるいは、詳しく情報収集したのなら、そう書くべきですが、そうではないのでしょう。裁判を裁くなら、裁判相当の根拠が必要です。
 
他人事を、趣味で扱って、好きなように言って満悦する楽山の自己愛性病質が表れています。流れに乗って漂流するしかない者の、ちょっと見ただけの無根拠の思い込みだということでしょう。楽山には、裁判を云々する資格も能力もないと思います。
 
司法の流れがおかしいと言って根拠を示せないなら、ブログ記事としては、自分の持っている思想からの根拠を書くべできですが、そういう一貫性のある思想を、楽山は、まるで持っていないのです。結局、楽山は、揶揄しか書けないのに、評論家気取りで、印象を刷り込んでくるだけなのです。
 
なお、趣味のブログであるなら、控えめに書いているかと言えば、語尾だけ「ように思う」と書いて、実際は、断定することを面白がっているのです。野次馬評論では、真実の追求の邪魔としているだけになります。今までも、無反省と無責任によって、何事につけ、雑言を書いてくるだけでした。
 
 


①本件公訴提起は公訴権濫用にあたるか
→弁護人は本件の公訴提起は(中略)公訴権濫用にあたり公訴が棄却されるべきである旨主張する。しかし、(中略)弁護人の主張は採用できない 
・やや日刊カルト新聞: 「曖昧な判決」「報道の自由は死んだ」建造物侵入事件で執行猶予付き罰金判決を受けたジャーナリストが弁護団と会見
 」
自分は専門家ではないので的外れの感想になってしまっているかもしれないが、藤倉氏への施設立ち入り禁止は批判的言論の封殺、報復であろうことを認めながら、今回の件は公訴権濫用ではなく、施設内に立ち入ってもならぬと結論づけるのは、どうにもつじつまが合わず、捻じれがあるように思えてならない。

 
専門家でないなら、一ブロガー発信として、的外れにならないような書き方をするべきです。自己愛者の楽山には、それが出来ないのです。分かっているような書き方をして、「自分は専門家ではないので的外れの感想になってしまっているかもしれない」と書いても、とても臭い言い逃れに過ぎません。
 
裁判所が、必ずしも正しいとは言いませんが、事件ごとにバランスを取っているということはあるでしょう。それが正しいかどうかは、楽山のような自己中の単純命題で出来ている思考には判断できないことです。事の重大性を、何も考えず、大きなテーマに、外野から、無遠慮に書いている楽山です。
 
極めて幼稚な考え方として、司法は、いつも、同じ側の味方をしなければならない、という決めつけの先入観的な定理があるようにも思われます。楽山は、病的自己愛からの思いつき以上のことは、理路が拡散して、まともな思考ができず、進めば進むほど破綻してゆく生業です。
 
 

この件はこれで終わりではなく、まだ続きがあるようだが、この判決は改められる可能性はどのくらいあるのだろうか。どうなるかはわからないが、この件は引き続き注視していきたいと思う。

 
楽山は、いつも、かっこつけて、出てきては、もっともらしいことを書いたつもりで、そのたびにピント外れだけが明らかになってきました。注視すると言っていますが、今まで、不注意な記事とツイートばかり書いてきたのです。真実追求において、楽山の破綻した理路は邪魔になるだけです。
 
カルト的で未熟な精神と、訂正不能の超越意識で、客観的に書けると思っている病質者ほど、厄介なものはないということが、今回も、うんざりするほど明確に表れているのです。人の言うことを聞かずに、言い張る、ということが続いている楽山には、正義感ぶるほど、罪と悪と偽善が、バレてゆくでしょう。
 
カルトの元信者というのは、カルトから抜けて、カルト批判者として、回復した人間性を発揮してゆくのでしょう。しかし、楽山は、元HS信者と言いながら、霊が分かるっぽい自覚から、自身のカルト妄想へと悪化し変性しているのです。楽山の言は、陰気な執着以上に整ったことがありません。
 
しかも、楽山の思想は、主張すれば、人を疲労させ、傷つけるだけですから、真面目な人間関係を持つことが出来ないのでしょう。好きなように、その都度、別の複数のHNで成りすましているようです。年齢・職業不詳で、隠していますが、恐らく、リアルならば、ひどいことになっている人です。
 
つまり、楽山の人生は、心霊大好きなだけで、自分は特別と思いたいための、反宗教と、右翼思想と、無神教カルト妄想とを、浮浪者のように、さまよい歩いているのです。楽山は、自らの不遇から、敵意・悪意だけを育ててきたのだろうと思います。
 
楽山は、いろいろなことに、インテリ評論家気取りで、自己満悦から口を出してきます。私は、その楽山の口出しが、楽山の人格障害による身の程知らずの症状であり、無反省で、無責任な、偽善の悪趣味であることを、3年余り、追及し、批判しています。
 
 

    f:id:stdsts:20220325234407p:plain

         自己中無神教カルト教祖願望
 
 
(2021年)
(2022年03月26日、再録+加筆)
 
 
 
  神の非存在証明?(抜粋)
 
この世で人は見えざる神・聞こえざる神に祈りを捧げることができます。
 
ある日死にました。そしてあの世あるいは天国へ行きました。そこで神に会いました。もうこの世を離れ聖なる領域に召されたのだから神に会っても何の不思議もありません。
 
しかし神に会っているその場において、さらに見えざる神・聞こえざる神に祈ることができます。それゆえ今会っている神は偽者ということになり、その世界に死があれば死んで、経緯はどうあれ、さらなるあの世・さらなる高次の世界へ行ったとします。そこでまた神に会います、しかしそこでもやはり見えざる聞こえざる神に祈ることができます。
 
この神も偽者と、さらに高次の世界へ・・でも同じことの繰り返し・・どんなに高次の世界へ行っても本物の神に会うことはできません。本物の神の姿を見ることも声を聞くこともできず、それゆえ神の御旨・真意を知ることもできません。これは実質的に神は存在しないことと同じではないか。
 
もうお気づきと思いますが、以上述べた神の非存在証明モドキは明らかに詭弁です。何故ならこの世にいたときと同じ意識で考えることを前提としているからです。死後にあの世や天国があるとしても、そこで人がこの世と同じ意識や思考を持ちうるという保証も法則もないのです。
 
「御使いのようなもので・・・」というキリストの言葉もあります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
 22:29-30
エスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。 復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。
 (マタイ22:29、新約聖書
 
  (抜粋)
 
垢のような慈愛と善意は
容易に偽善と悪意に変わる
私の眼の色は容易に変わる
しかもどちらかではなく
しばしばそれらは混ざり合っている
眼の色は容易に濁る
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、嘘と詭弁を書いて、バレると、さらに詭弁をつないで書いて、詭弁に詭弁をつないで、ついには、荒らし根性剥き出しの破綻した雑言を繰り出し、馬脚を露(あらわ)わしてきました。嘘吐きを「人間の性」なんて成り立ちません。自らの病的体質を、人間共通のものにして正当化する幼稚な詭弁です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html