ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

隠された攻撃性3

 
  隠された攻撃性3
 
 
 神義論、弁神論について(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月07日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24263242.html
 楽山日記(LD)批判再録+
 
 
楽山は、またしても、神についての幼稚な疑問を投げてきました。誰も分からないということだけが、分かっている疑問です。弁神論は神義論とも言い、神の正しさの問題です。大事なこととして、信仰は、その疑問を解決して生まれるのではないということです。
 
楽山という人は、宗教には全くの無関係なところで、霊能者を気取っているだけで、信仰など持つ気もないなら黙っておればよいのに、著しく幼稚ないちゃもんを嫌がらせのように繰り返し書いてくるのです。
 
楽山には、分からないだけでなく、何度も繰り返し言って、信仰者と言論者を、疲労と混乱に陥れようという攻撃的な意図があるとしか思えません。楽山は、否定するために、分からないことを偏見で決めつけてきます。
 
楽山は対話を求めていません。また、私も、楽山のような、何も聞かず、受け取らず、嫌がらせだけを書いてきて、話の双方向の成り立たない人と、対話する気はありません。楽山は、人間としての身の程も弁えない底なしの愚か者です。
 
いい加減な楽山の言説を、いちいち批判して否定するのは、丁寧語に騙されて真に受ける人がいるだろうと思っているからです。その弱みにつけ込む人です。私は、私にできることをしています。批判記事を重ねて、楽山は、シャロームと同様、悪意と偽善の資料になりつつあります。
 
 

前々から、神義論、弁神論には興味があるのだけれども、本書でもそれについてチラリと触れていた。

一元論的あるいは汎神論的な見解によれば、悪は、他の一切のものと同じように、その根拠を神のうちにもたなければならない。そこで、もし神が絶対的に善であるとすれば、どうして悪が神のうちに根拠をもちうるのか、という難問が生じる。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.201)
 」
多神教的な世界を想定すれば、神々にはそれぞれ個性があって、善神もいれば、悪神もいる、温厚な神もいれば、戦好きの神もいるだろうから、そういう神々の影響下にあるこの世において正邪善悪のせめぎあいがあったとしても致し方ないことではある。

 
神々のせめぎ合いを「致し方ないこと」と言っています。神々の知り合いか・・ってことです。楽山は、引用の文章を、恐ろしく、幼稚な低次元の空想話にしています。「善神もいれば、悪神もいる」・・見たのか・・ってことです。呆れます。神と神聖を全然知らないから、こういうことが言えるのです。
 
 ※
 
神が、悪に与えた存在の根拠を、人が知り得る、知らないと気が済まない、という疑問は、悪と神の存在に無関心で、興味本位の遊びだけの欲望であります。神が悪の存在を支配しているとしても、その悪を神がどうするかは、神の意志によるのであって、神の意志が、人に分かるはずはないのです。
 
いったい、誰が、神の台所に行って、悪を何故どうして作ったのですか?悪をどう料理するのですか?などと聞けるでしょう。そのような者は、真理の絶対に対して、ただ、自らの不遇を、神のせいにしているだけなのです。
 
神の存在下で、悪が存在の根拠を持っていたとしても、人という地上の存在が、それを問いただして理解できるなどと思うのは、神の超常と同等に成り上がろうとする身の程知らずであり、虚妄であり、地上では、どこまでも、空想から詭弁に堕ちてゆくだけなのです。
 
地上の貧相な理屈で、神と超常の真理を語ることなど出来ないと弁えるべきです。聖書は、神の仕組みではなく、神からの恵みを、人がいかに受け取って弁えるべきかを表しています。
 
人は、神の意志を知り得るほど賢くはない!・・という弁えこそが、聖書の語ろうとしている第一義なのです。そこを受け取らない者には、信仰も、神の愛も、キリストの共感も、人の愛も、人の共感も、理解はおろか、人間性さえ理解できはしないのであります。
 
楽山は、蚊のような不全の知性において、ンンンンと空しい音を立てて、世界を飛んでいるつもりで、神がいるなら悪がなぜ存在するんじゃ?・・と言って、神を否定したつもりになるようだが、そういう理路は、存在しない妄想の出発点から、知恵を見せびらかすような虫の糞に過ぎないのです。
 
真実の知性は、真実の共感とともに、神には及びもつかない、という、人としての身の程を知っています。虚偽の知性は、自らの存在の箍(たが)が外れて全能と同等のレベルにいるつもりで、それこそ、自らの存在さえも理解していないということだから、信仰を理解することなど出来ません。
 
地上にいる私たち人間は、神に近づくのではなく、神との決定的な違いを学ぶのが、信仰なのです。聖書は、繰り返し、そのことを語っています。楽山の不届きについては、楽山の書いてきたことから推測し、楽山の書かなかった文脈から行間から臭ってくるものとして書いています。
 
 ※
 
楽山の言っている神は、「鬼滅の刃」のようなホラーアニメの視点です。だから、気安く、神もさまざまで、善神も悪神もあるなどと、多神教のお伽話と同様に言ってくるのです。つまり、小学生くらいの子供の空想と基本的に同じです。
 
「神が絶対的に善であるとすれば、どうして悪が神のうちに根拠をもちうるのか、という難問」
楽山が同意しているこの引用は、実態は、楽山が前から言っていた幼稚な神否定の考えです。楽山は、都合の良いことだけを、学者の名をもって、引用し悪用してきます。
 
楽山の言う神は、矛盾のないことが人間にも分かりやすい神で、人間が何もしなくても幸せを与えてくれる神なのです。そのような勝手な者に対して、神は、そうですかと、ご利益を恵んだり、いちいち分かりやすく説明するでしょうか。否であります。
 
こういうことは、考えれば、ふつうに推測できそうな話なのですが、幼稚な楽山にはできないようです。無神論と呼ばれる無神教カルト信者も出来ないのでしょう。楽山は、たぶん、こう言われても、なお、性懲りもなく、いちゃもんをつけてくるのでしょう。
 
キリスト教の神は、聖書から全能ですから、人類を全体として見るだけでなく、人間一人一人を見て、その個性も、その発言も、その行為も、個別に、漏らさず見ておられます。そのことについて、根拠を人に示す必要のないところの、在って在るものとして、神を信じる者は、恐れをもって受け入れます。
 
楽山のような欲張りで勝手な人を納得させるために、神が、いちいち矛盾がないように摂理を整えることも、いちいち説明してくれることもありません。だから信仰なのです。愚かなナルシストは、どこまで思い上がっているので、神聖から遠く、かつ、神聖を否定してゆくでしょう。
 
神にとっては、地上には、キリスト者になりそうな、あるいは、救いが必要になりそうな、砕かれた魂を持つ敬虔な人がいっぱいいるわけですから、楽山のような不満と否定と苦情で出来ているようなナルシストにかまうことはないのでしょう・・くらいは、厳密でも完璧でもない人でも推測できるわけです。
 
楽山のような人は、神は矛盾するとか疑問だとか言い張って、人を惑わしながら、自己満足するような恵みがないことに、さらに不平不満を募(つの)らせて、キリスト者を何とかして貶(おとし)めようとして、気づきもなく年を取り、時の流れの飛沫として消滅するだけです。
 
自分の都合に合わせた神?を見下ろして考えているだけなら、戒める神への信仰もないわけですから、無反省に終始して、思考も感情も崩壊してしまうだろうと推測されるわけですが、楽山は分からないのです。楽山が、その通りになっていること。
 
楽山が引用しているこの神についての疑問には、この地上では、人間に答えなど分かるはずもない、ということを、常識のない楽山は、まるで分かろうともしないのです。楽山は、ただ、自分は、神・上・紙を語るインテリだ!と、片手にアニメの広告を眺めながら、おめいているのです。
 
つまり、楽山は、神を信じる気など元々ないということです。ということは、楽山は、神を茶化したいだけの荒らしみたいな存在です。良識ある人が、付き合える相手ではないのです。大真面目な学者口調が、楽山の欲望と悪意です。
 
悲しみ多く苦しみ多きこの世界に、それでも生きてゆくために私たちは生まれています。楽山のような者が、安直な思考で、洟垂れ(はなたれ)安穏を貪る者に惑わされてはいけません。
 
多神教的な世界を想定」・・楽山が、いかに神を軽く想定しているかが分かります。
「善神もいれば、悪神もいる」・・楽山が、いかに神を軽く見ているかが表れています。
楽山は、底なしの、身のほど知らずの傲慢、そして、泥酔した自己満悦の愚か者です。
 
これが「この世において正邪善悪のせめぎあいがあったとしても致し方ない」ことの説明になるでしょうか。何の実感も伝えていません。まさに、楽山のような反キリストに答えられる問いではないのです。楽山の昨日も今日も明日も、詭弁を弄しているだけに終始するのでしょう。
 
 

でも愛と義を有する唯一の全能の神のみが存在すると仮定すると、その神はこの世の悪を一掃する能力を保持しつつも、それをしないのはなぜだろうという疑問を持たずにはいられなくなる。

 
楽山は、このような、最初から答えなど得られない問題にこだわって、安い理屈で、神などいない、いたら、おかしい、という悪態を吐きながら、自分は一段高所から神と世界を眺めている慢心にどっぷりつかりながら、ますます人間としての感受性を鈍らせながら、ぼんやり一生を過ごしたいようです。
 
だから、毎回、同じことをグダグダ書いて、何の努力も成長もしないのでしょう。そして、信仰者を侮辱し呪い続けるのでしょう。真面目に信じる信じないのは自由、いちゃもんは批判対象です。
 
神が、楽山の酸っぱい納得のために、全能の力を振るうことはないと思います。救いは、それを必要とする人に、意味を持ちます。だから、楽山は、人格的成長がない間、宗教については、愚痴とクレームを言うことに終始するのでしょう。
 
 

神にはある種の計画があり、あえて悪をそのままにしているのだろうという推測もできるけれども、そういう場合であっても児童虐待事件などをみれば、どんな計画にしろ、その完遂のために、愛ある全能の神が小さな子供を救おうと思えば救えるのに、それを見殺しにするというのはおかしな話であるし、もしその計画の実現のためにはどうしても子供の犠牲が必要だということであるならば、そういう神は愛深き神というよりも、ホラー映画に出てくる、自分の目的のために無垢な子供の血を欲する悪魔に近いということにもなる。

 
先ず、考えることの順序が、著しく間違っています。楽山は、神を頭の中の前提にして、おのれの理想と要求を出して、これに沿わないからダメと、まるで、神相手に試験をして合否の否を与えているのです。
 
信仰者は、まず、神がいるとは思えない世界を嘆きますが、そこに、聖書から、希望の光を見出します。今は、ひどい有り様だが、この背後には、いつか、大きな世界への導きを用意した聖なる御方ががいるのだろうと思い、そして、そうでなければ、生きられない自分を、正直に捧げて信仰者となるのです。
 
そこには、つまり信仰に至るプロセスには、キリストとの縁のようなものがあります。また、この世の外に、何があるのか、意識はなくなるのか、何もないのか、だとしたら、しかし、救われるとは何か、こういった問題を、考えながら、生きていくのが信仰者です。
 
楽山のように、分からないから安直に否定するのではなく、分からないこととして、自分で決めたりせずに、自らの存在と比べて、世界の奥深さに恐れをいだきながら、神に、キリストに、希望を託して、耐えることと、待つことと、望むことと、生きることと、祈ることを、学んでゆくのです。
 
楽山は、その縁のようなものを感受することが出来ず、しかも、それを、自分ではなく、神のせいにして、不満だけを述べているわけです。楽山の、神がいるならぁ・・前提は、決して理路ではなく、自己愛性人格障害の症状となっているようです。
 
信仰が持てないなら非信仰者としての生き方もあるでしょうに、その努力を一切せずに、自分の作った神?のいない無為・安穏の沼につかって、インテリ気取りと学者気取りで視野の広いさまを見せかけ、実際は、最も見苦しい有り様となり、自己愛だけで、いい気になってバハバハ言っているのです。
 
 

またこの唯一の神からすべてははじまったのだとすると、善だけでなく悪についてもその起点は神にあったということになる。「人は神から与えられた自由をはき違えて、悪を為すようになった。これが悪の始まりである」という考え方もあるけれども、もし人が善きものとして創造され、その内には少しの悪も存在しなかったのであるならば、仮に自由を与えられても悪の犯しようはなかったはずである。悪の種を持たないものには悪は犯せるわけもない。とすると、人が自由を与えられて悪を犯したとすれば、人のなかにはもともと悪の種、悪の因が埋め込まれていたことであろうし、これは神が人を善きものとして創造したという話と矛盾する。

 
神の目的も意志も、神の秘密、神秘であります。神の秘められた意志も計画も、自分で決めつけている哀れな楽山です。楽山のように、神の原初を分からないと気が済まないのは、分かるはずの自分に酔い痴れる悪態でしかありません。その精神が、いわば、悪の起源となり、伝染してゆくのです。
 
どうして、神が、楽山のこしらえる神の理屈に付き合う必要があるでしょう。創造主以上に高いものはないのです。楽山のように、神を見下ろす視線には、いないようにしか見えないのが神であります。これによって、思い上がった者は、篩(ふるい)にかけられ、救いに向かわなくなるのです。
 
このような者は、神の恵みに与る可能性を自分で否定し拒んでいるだけの、実に、くだらないナルシストとしか言いようがありません。神が、罪の種を人に残そうが、蛇の誘惑に乗ってしまう弱さを造ろうが、人の許可も、ましてや、楽山の許可も問題にするわけがないのです。
 
善きものと言えば、自分の欲望からの完全に善きものしか思い浮かばず、どうだ、どうだと、いちゃもんの材料にする愚かで凶悪な反キリスト・反宗教・オレがオレがの教祖願望が、楽山の本性です。
 
楽山は、学者気取りで難癖をつけながら、一方では、神によってもたらされた恵みに、いっさい気づかず、人の意見をも、いっさい受け付けず、常同行為のように、同じことを繰り返して、学習と進歩を拒否しながら、超常と霊が分かるっぽい自分を、ひとかどの人物に見られたがっているのです。
 
楽山は、我欲と自己中のみで、訂正不能に完成したつもりでいる人格の末路を表しています。楽山は、勝手に、神という存在に、思考においても、情緒においても、気づくことなく一生を過ごすのでしょう。無反省なのに、人に、影響を及ぼそうとするあいだ、批判対象となります。
 
神に難癖をつけても、何も返ってこないことをよいことに、神と、問答、駆け引き、取引でもしているかのような尊大な言は、永遠の堂々巡りです。進歩のない楽山の記事は、百害あって一利なしの怠慢の退屈地獄への道です。
 
 

こういう話は、興味ない人は本当に興味ないだろうけれども、自分としてはついついあれこれ考えないではいられなくなる話題ではある。

 
楽山は、大事なことを何も考えてなどいません。考える信仰者や、考える非信仰者とは、全く違う人種です。楽山のような、自己愛からの無神論が訂正不能の前提となる者には、思考も情緒も、有意義に働くことはないのです。
 
ただ、言い張って、いい気になって、やたら、しつこく、無駄や詭弁を重ねて、自己満悦して、その実、自己破壊しか起こっていないという証拠を自ら積み重ねてゆく経過になっています。堂々巡りを選んで、進歩がなく、同じように繰り返し宗教をおとしめて、悦に入る堕地獄の人が楽山です。
 
楽山は、明けても暮れても、同じところだけを巡っています。考えたつもりでも、自己愛が思考と情緒を妨げるために、同じところだと気づかないのです。気づかない、感じない、考えない、ということだけが、積み重なってゆきます。決して真面目に相手にしてはいけない人です。
 
 

これについては多神教的な世界観を持っていた頃はさほど関心もなかったのではあるが、一神教的な世界観を知り始めたら俄然関心を持たないではいられなくなったのである。一見したところでは一神教的な世界観は多神教的な世界観と比べてシンプルで分かり易いように見えることもあるけれども、実際には案外にやっかいな世界観だなと思う。

 
世界観という概念が、楽山の宗教観なのでしょうか。人間一人の様々な問題について、不感不応で、言いたいことだけを言って、実際は、何の関心もないことが表れてきました。だから、楽山は、何も解決しない不毛の時空をうろついているだけなのです。
 
つまり、楽山は、セカイカンに酔い痴れているだけで、世界観を理解してはいないということです。何故なら、世界観を考える意味は、それが、一個人の人間にとって建設的な意味を持つ場合だけだからです。楽山が白々しく語る世界観という言葉には、ひとかけらの実感も含まれていません。
 
霊が分かるっぽいと楽山が訂正不能に思い込んだ時から、今に至るまでの、空疎で、進歩がなく、建設的な要素がないにもかかわらず、反キリストのシャロームの肩を持ったりするような、理路も無ければ人間の正常な感情も持っていない無意味な、信仰への妨害行為が続いています。
 
厄介なのは、意図的であり、気に入らないと無視することしかできず、どこまでも悪意に徹する楽山の質量のない口であります。このように、良心のない人は、何を冷静に書いたつもりでも、彼の言う霊性?の訂正不能から、妨害にしかならないのです。
 
楽山の提示する疑問は、ことごとく、いちゃもんであることが明らかになってきて、これからも、単純に、同じ繰り返しになるでしょう。それは、楽山の、今までの、受けて答えることをしない卑怯者の態度と姿勢から既に予測されてきたことです。
 
丁寧そうな言葉に騙されないでください。文脈と今までの記事の流れから、分からないことを分かったことにしないと気が済まない楽山は、人を巻き込んで混乱させる、きわめて狡猾な言論の攻撃性を持つところの、悪意の人です。
 
楽山は、例えば、読書と考えることがお好きなのですね、インテリなのですね、やさしいお人柄ですね、など、世辞を言ってくれる人か、素直に受け入れて騙されやすい人、などが現れてコメントを書いてくることを待っている生業(なりわい)なのでしょう。・・カビのように陰気臭いと思います。
 
世々にわたって、この楽山やシャロームのような、責任を負わずに自由を悪用して自己中で勝手なことを言い続ける者たちが、中身のない説法を専らとして、人の良心を破壊して、人にも社会にも世界にも、災いの種を蒔(ま)いてきたし、また、蒔いてゆくのだろうと思っています。
 
しかし、楽山が、いかなる仲間と、いかに神に疑問を呈して、人を、神否定の方向にマインドコントロールしても、命の沙汰は、私も楽山も誰も知らず、神が決めることなのです。
 
私は、楽山のように、神を否定して、逆に、神に否定されるような被造物にはなりたくないから、できる範囲で、書いています。楽山には、くれぐれも近づかないようにしてください。
 
 
楽山には、宗教と信仰を云々するための理解のベースが、論理および感性の両方において、全くと言っていいほどありません。そして、ベースがないことを、これまた、理解できずに、弁えもせずに、自己愛の衝動のようなものによって、身の毛の弥立つような詭弁と刷り込みを書いてきます。
 
楽山が信仰しないのは楽山の自由であり、楽山に対して福音伝道が不可能なのは明らかであり、神もキリストも分かっていないのだから、宗教と信仰について書かなければよいのに、楽山は、なおも、いちゃもんをつけるという陰湿な自己顕示だけは、じとじとと、じめじめと、いつまでも止めないのです。
 
 
楽山は、シャロームの、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、悔い改めは神が与えるから自分でしなくていい、という信条に無条件に賛同しました。この時点で、二人とも、キリスト教と信仰を語る資格はありません。
 
正常な人間には、最低限度の正常な言語能力があります。それは、人の言うことを受け取り、自分の意見と照らし合わせて、新しい意見を考えるという能力です。上の二人には、それがありません。だから、世辞でごまかして、訂正不能のままです。
 
プラスでも、マイナスでも、言った時点で、言った責任は生まれるのですが、楽山は、プラスを言い、マイナスを言ったら、はっきり言っていないから責任はない、などと、プラマイゼロだみたいなことを、平気で言っていたのです。この詭弁は、駄々っ子と同じ、小学生にも劣る低次元の言い逃れです。
 
楽山は、大人になり損なった人なのです。大人の常識的理路が発達しておらず、人間ではなく、脳の機能の大事な部分が欠損した、言うならば、人体、あるいは、ヒトに過ぎないと言ってもいいでしょう。
 
それで、楽山が、学習もしないで、本から都合のよい言葉だけを集めて、今も、一人前の大人を気取っているさまは、もはや、自らによって破壊された人格としか言いようがないのです。
 
 

     

                        怨念の潜伏
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年04月24日、再録+加筆)
 
 
 
 私のライブドアブログの記事
 「神と人の未分化」に付いたシャロームのコメントを批判
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5829756.html
 シャローム( shalom、シャロム、あなた、私)
 批判再録+
 
 
シャロームであることは筆致から明らかですが、名無しの猫と名乗っている荒らしです。荒らしという本性の正体を現して、ライブドアの私のブログに、揶揄コメントを書いてきました。
 
 

1. 今も名無しの猫2020年04月08日 10:13
おはようございます!名無しの猫です。お久しぶりです!
相変わらず誰も相手にしてくれないようですね。
マグダラさんであればあるいはコメントしてくれるかもでしょうか?

 
上に「相変わらず誰も相手にしてくれないようですね」と揶揄しておきながら、下のほうには時候の挨拶を入れています。この極めて不適切なアンバランスに、まだ気づかないようです。シャロームという人のケダモノのような荒々しさには、気づくことを期待するのが無理のようです。
 
楽山とシャロームは、カルトの仲間ということです。自称マグダラマリアも仲間なのでしょうか。私が自称マグダラに批判記事を書いたので、そのことを書いています。仲良しカルトの根は深いのでしょう。同一人物の成りすましの可能性もあります。
 
 

Yahooブログ時代が懐かしいですね!
今年はことさらにきれいですが、
満開の桜がいいですね!
色とりどりの花と木々の緑も鮮やかな公園を今日も散歩します。
スポーツを楽しむ人の姿もあり、いいですね!
お元気でお過ごしください。
名無しの猫より

 
「Yahooブログ時代が懐かしいですね!」・・反キリストの親分のようなシャロームなど、私は、ちっとも懐かしくなどないのです。早く消えてください。挨拶は入れません。名無しの猫、という荒らし、実は、足掛け10年間、批判対象のシャロームです。
 
いくら、時候の挨拶、自然を愛でる文言、「お元気でお過ごしください」と書いても、上の「相変わらず誰も相手にしてくれないようですね」で、敵意は明らかなわけです。荒らしであることを隠さず「名無しの猫」と書いて、短い揶揄+挨拶のコメント、相手にする価値はありません。
 
シャロームは、例えば、アドラー心理学が人間をどうしようもない自己中に変える、ということの中心的な要素を持っています。また、在日らしいシャロームは、日本人を嫌韓に変えてゆく典型的な要素を持っています。
 
それは、自己中、人の言うことを聞かない、受け取って反応することが出来ない、反省しない、理路と情緒がない、思考力も理解力も共感性もない、罪悪感がない、訂正不能、平気で嘘を吐く、ありもしない事実を平気で捏造する、真摯な態度を欠片も持たない、などです。楽山も、大方、似たようなものです。
 
シャローム、楽山、易坊、自称ヨシュア、自称マグダラのマリア、この者たちは、つながっていると思っています。言ってることが、よく似てる。ひょっとしたら、アドラー心理学も?。そして、乱暴だと思われて嫌われることを避けるために、言葉だけ丁寧です。
 
共通するのは、自己中という滅びの道です。言うことが、うっすら、冷たくて、気に入らないことは無視して、刹那的に世辞だけ書いて、次には気づかない人をだましてゆく、という特徴です。社交の世辞レベルで、既に、心を侵してきます。
 
 
 
 楽山の悪意のリツイートです
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
無神論bot
@AtheismBotJP
普通なら敢えて言うまでもないことだが、信仰者は知っておいたほうが良い。相手の人格を非難するようなことをいくらしようが、あなたの主張の正しさを証明する上では、何の役割も果たさない。あなたの主張の正しさを示したければ、行うべきことはただ一つ、それを支持する客観的根拠を提出することだ。
午後7:21 · 2021年4月12日·twittbot.net
https://twitter.com/AtheismBotJP/status/1381553125656461314

 
楽山は、自分で言えなくなると、他者の言うことを利用するという卑怯者の典型です。前にも書いたことですが、楽山は、学習しないので、何の進歩もなく、また、他者を悪用しています。人格が、病的で、虚言、妄想、無反省、無責任、であるゆえに、その口で何か言えば、迷惑にしかなりません。
 
その迷惑を、指摘して、批判しなければいけません。本人を変えることは不可能だと諦めています。楽山に近づいて、ひどい目に遭わないように、関わらないように、相手にしないように、・・などを、広く伝えることは必要です。
 
人の客観などで、神を扱うことは出来ません。つまり、神の存在も不在も、人が証明することは出来ません。証明できたら信じる必要はないのです。信仰は、証明の可否が結論となる世界ではありません。なぜか、楽山は、そのことを弁えず、理屈を言ってきます。
 
信じる信じないは、人の自由だけど、神の不在を、屁理屈で言うのは、無意味なだけでなく、曲解に基づく一種の宣伝~煽動になるでしょう。なお、こちらは、人の理屈では、神の肯定も否定も、証明不可という認識です。
 
人生の体験から、楽山やシャロームのような者、他にも、平気で人を傷つけようとする者に出会ったからです。必要だから、信じているのです。繰り返しますが、人の理屈によって、神の存在も不在も証明できません。
 
人が信仰を持つのは、生きるのに必要だからであって、証明されたからでも、客観的根拠があるからでもないのです。
 
無神論が論として成り立つと思っている楽山には分からないところの、共感の話に対して、言い換えれば、信仰について、即ち、キリストを好きになることに対して、いちいち、悪意に満ちた屁理屈で否定の誘導をしかける楽山は、いつまでたっても、変わることはないのでしょう。
 
その都度、屁理屈の詭弁だと批判して警戒を呼びかけるしかありません。楽山は、迷惑で、有害で、対話の成り立たない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。楽山の書いてくることが、今まで、その根拠になってきたし、これからも証拠になってゆくでしょう。
 
 
 
  毒満ちる眼(まなこ)
 
怨の妙法聖櫃に座す
臨死の刹那四方(よも)を眺む
未開の熱未だ暁光の内に在り
紫衣の薄明に降ること頻りと
煩悩疾駆して頚骨を砕く
飢えよ饐(す)えよ地に果てよ
疼痛過ぎて覚醒に及ばず
頭蓋窩に寄する烈火の華(はな)
唯(ただ)流る水銀の涙
毒満ちる眼の裏
 
 
  あきらめのふち
 
いずれ
あきらめなければならない
ことは あり
ときは くる
 
こころのこりは ないか
やりのこしたことは ないか
たしかめることは むずかしいけれど
あらゆる
あとを ひくもの
ひっかかるものを さがして
あきらめの ふちで
おもいのこしたもの みつけたら
たとえ すこしでも
のこった ちから
おいてしまって いいのですか
それだけ きいておきたいと おもうのです
 
ちから つきた と
あきらめても
いのちは のこる
はしるのを やめても
あゆみは つづく
いのちの きえゆく ところ
たった いちどだけの
たった ひとつの
さくひんにむかって
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
「だよなあ」「恥ずかしながら」「でしょうかね」・・こういう言い回しを、ボンヤリ言語と呼んでいます。反省しないのが「人間の性」だと言っています。もしそうなら、世界はとっくに滅びているでしょう。いつも、成り立たないことを平気で言ってくる楽山です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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