ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

当てにならない3

 
  当てにならない3
 
 
私たちは実に当てにならない世界に住んでいます。実際は、当てにならないのは私たち人間の心であり内部なのです。神様は当てにならないかということなら、心の支えとして信じている人はいます。
 
望んだ奇跡が常に叶うという信仰?なら、当てにならないだろうということです。キリスト信仰はご利益信仰ではないからです。
 
入力は総て感覚器を通しています。内部処理は総て脳が行っています。いずれも寿命が尽きればなくなるものであり、これらは、寿命がある間は維持されるけれど、本当に変わらないで維持されているかどうか、厳密な検証は不可能である。老化もするのでしょう。
 
当てにならない世界を、当てにならない知情意をもって、断定できる何があるでしょう。しかしながら、私たちは、当てにならない世界において、当てにならない知情意をもって、判断し実行し、生きてゆくしかないのです。それが人間の不完全性そして相対性、つまり、神とは違う非絶対性なのです。
 
神が絶対でも、あるいは、たとえ絶対がどこかにあっても、私たちには絶対はない。それを知ることが信仰の始めです。自分の言動の影響を末端まで追える人はいません。風を追うようなものです。風を捕えるようなものです。
 
 (伝道の書、口語訳)
1:16
わたしは心の中に語って言った、「わたしは、わたしより先にエルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た。わたしの心は知恵と知識を多く得た」。 
1:17
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
 (伝道の書1:16-17、旧約聖書
 
絶対とは不変に正しいこと。非絶対即ち相対とは可変で、ときに当てにならないこと、そして変わりうること。人間は、不完全、ゆえに、罪深いのです。神の、全知・全能、完全・絶対、永遠・不変、これらは、人の手には負えせん。この6つの熟語を否定した不完全な在り方が、人間です。
 
神の属性である不変は、変わることなく成り立つということであり、神義すなわち神の正しさを表します。人間が、絶対を目指したり思い込んだりすることは、当てにならない感覚・知性・感性をもって生きてゆくのに全く向いていません。
 
しかし、人間の正しさは、あ不変ではなく、より正しいことによって、また状況によって、否定されないとは限らないことである。つまり、正しさを追求する努力は、完全にはならなくても、好ましく望ましいとは言えるでしょう。
 
これを人間の相対性と呼びます。信仰をもっても、この相対性は変わりません。すなわち、私たち信仰者は、神ではなく、神の民であります。むしろ人間の相対性・非絶対性・不完全性を自覚することが信仰であります。
 
人間に成り立つ絶対性は、絶対は絶対に無いという循環論法にしかなりません。
 
人の絶対は慢心し訂正不能を好むが
人の相対は努力して成長することを求めるでしょう。
 
 
しかし、しばしば人は絶対を求めやすいのです。絶対を盾にして強くなったつもりになりやすい。そこで、絶対の存在を確定しようとするか、あるいは確定したつもりの言動を、神の御心だと言って神聖化しやすいのです。そこに、人間の最も忌むべき罪と偽善があります。
 
それを信仰と呼び使命と呼び確定して、感じることと考えることを疑いだと退けてしまいやすい傾向が、私たち信仰者が、最も注意し警戒するべき背教であります。絶対は神のもので、人は決して絶対を確定できないのに、気安く正邪を神の立場で決めつけやすいことが原罪の源です。
 
神とは違う人としての身の程を弁えることが信仰の始めであるのに、味方としてだけ顕れる神しか欲しがらない信仰は、戒める神と懲らしめる神を、そっくり除外して揺るがない信仰だと思いやすいです。これこそが相対的で不完全な人間の罪性である。
 
 
あらゆる理不尽な悲劇は、信仰者にも起こりうることで、その説明が地上で与えられるとは限らないのです。また、あの世のことを、人間は、天国と呼んでも詳細は知り得ません。天国を捏造する者たちを警戒してください。その理由は神の秘密ということがあります。ゆえに神秘と呼ばれます。
 
神は、いつも分かりやすく恵むわけではありません。神の御心を、人がいつも理解できるわけではありません。決めつけやすい人の罪深さゆえに、キリストは十字架の道を歩まれます。今も、これからも・・ずっとです。
 
なぜ、こんな悲劇が・・?、と思う人は、私たちの狭い見識と視野と能力では、神の無限をつかむほどの広い見識と視野と能力、すなわち、全能を理解できないことを考えるべきなのです。ゆえに、信仰は、この地上では忍耐を必要とします。
 
私たちは、この地上での短い人生の幸福を願っています。神は、総ての世界を導いておられ、私たち人間についても、地上のみならず、総ての世界での幸福を計画しておらるでしょう。それが不可知であっても、人が、神を総て理解してから信じようというのは信仰ではありません。
 
理解できたら、信じる必要はないのです。
 
 
人は絶対は慢心し訂正不能を好み、
人の相対は努力して成長することを求める。
 
人の相対の信仰に敵対するのは、いつも、人の絶対を確信し保証するカルトの類であります。人の相対性は、信仰とカルトを見分ける決め手ともなるでしょう。
 
 
Q&Aを試みてみる。
 
Q1:
相対、相対、と言うが、では、
1+1=2 という等式は絶対に正しい、ではないのか。
A:
1+1=2 という数と記号の概念を共有するところで成り立つ。
 
Q2:
悪は正しくない、善は正しい、はどうなのか。
A:
ほとんど定義を語っているだけ。人の善悪の判断は絶対ではありません。また、偽善と偽悪の問題もあります。刑罰を伴う法制度は、不完全な人間のための、必要悪であります。
 
Q3:
イエス・キリストは正しい、はどうなのか。
A:
キリストは、人の罪深さ=不完全=相対性について、優れた洞察と共感を、聖書を通して、誰にでも示しておられると思います。まさに、キリストこそが、人の相対性、即ち、罪深さを語り、共感を表しているのです。
奇跡等の超常については、神のわざとして、人が関知するところではなく、つまり、分からない、というのが、人にとっての真実であり、そう言える人が、信仰者だと思います。
 
ゆえに、地上の現世において、いつも奇跡で守られていると言える信仰は、人が語れる信仰の言葉としては、大いに誤解を招く言葉です。神の救いは、神の意志と計画に沿うのであって、人の思惑に沿うとは限りません。
 
むしろ「イエス・キリストは正しい」という言葉で人が表すことが、怪しくなる可能性を考えるべできであり、それは、まさに、カルトにおいて著しいのです。
 
だから軽々に「イエス・キリストは正しい」と言うのは、しかも、それを己の意見の根拠とすることは、むしろ、自分は神が分かっているという信仰自慢になり、信仰からは、離れる方向だと思って注意したほうがよいでしょう。
 
このQ3のような、神の義に関することは、キリストを利用するカルトが人をだますのに使われやすく、また、反キリストが、神がいるなら何ゆえ悪があるのかなどと、いちゃもんによって神を否定するのに使われやすいです。神の義は、神のものであり、神秘であり、人に分かるわけはないのです。
 
私たち信仰者は、神が正しいと分かったから信じるのではなく、主によって愛され救われた者として、主を忘れられないゆえに信じています。そこには、愛に通じる共感が、キリストによって、聖書を通じて、もたらされているということです。
 
Q4:
信仰は正しい、ではないのか。
A:
真の信仰であれば正しいはずですが、人には絶対の正しさはありません。絶対の義を判断する能力もありません。人は出来ることをするだけです。実際には、信仰と言い、神の義を振りまわす偽善者もいます。聖書ではパリサイ人がそうでしょう。
 
Q:
相対、相対、絶対ではない、不完全、などと言っていたら、決心が鈍るではないか。
A:
それは間違っています。絶対ではないゆえに、限られた時間で、できるだけのことを考えて判断し、勇気をもって実行して、反省して、神に祈るのです。
 
相対で不完全な人間には、信仰によって、神に正直に告白して赦しを求める祈りという機会が、いつも与えられています。神に正直な祈りが出来る人は、悪意に満ちた悪と偽善を働くことは出来なくなるということはあるでしょうが、行為義認ではなく、あくまで、信仰義認によって、神の救いは与えられます。
 
Q:
では、キリスト者だけが赦されるというのか。
A:
ここは議論のあるところかもしれませんが、私は、特に教会の利益を代表する必要はないので、申し上げると、教会での洗礼に信仰の有無やキリスト者であることの証明という神秘的な意義を求めるには、キリスト教の歴史は、人によって汚され過ぎています。
 
もはや、信仰は、信じる者が祈って告白するならば、洗礼の有無には、こだわる必要はないのかもしれません。神が、偽善者でも芝居できるような儀式の有無によって、救いについて差別するとは、考えにくいです。
 
信仰者でも求道者でも異教徒でも無宗教でも、真面目に生きている人を、神は差別するでしょうか、そうは思えません。神は、総てを見ておられ知っておられるのですから、人の言動と心を見抜いたうえで、良心の発露を決して軽しめられることはなく、心に留めて、顧(かえり)みられるだろうと思います。
 
さらに、神が、宗教や信仰を通さずに、人を選んで何からの使命や役割を与える可能性は否定できません。また、そのことを、いちいち、人に説明することは、為さらないでしょう。
 
 
つまり
私たちは基本的に
神に対しては
教理よりも讃美よりも
正直のみを用意するべきであり
人に対しては
その"神の前の正直のみをもって備える"ことが大切なのです。
 
 

  

         信仰の相対性 私たちは風
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年05月02日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山の経歴も怪しいと思います。楽山は自己中促進のアドラー心理学の宣伝をしていました。また、ネトウヨだと思われますし、右翼のA級戦犯を褒めていました。読書は、都合のよい文言だけを漁って、箔をつけるために引用するだけで、勘違いや嘘が多いです。有名人や学者の名前に惑わされないでください。
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート

ろば
@robamimi0314
#幸福の科学
根拠も証拠もなく、他人を
誹謗中傷、侮辱、罵倒、脅迫する言動が多い。それを「教え」としている。
〈例〉
・自殺は罪、永遠に苦しむ。
・ガンになるのは感謝が足りないから
・鬱になる人は周りへの感謝が足りない
・教祖を神と崇めないと地獄に落ちる

午前9:36 · 2021年4月29日·Twitter for Android
https://twitter.com/robamimi0314/status/1387566470033334272

 
楽山は、根拠も証拠もなく、他人を誹謗中傷、侮辱、罵倒、強迫する言動が多いです。それを、一人前の "批評家気取り" で書いてきます。最悪なのは、まともに見せかけるために、丁寧語で、婉曲的に書くことです。また、わざとらしい芝居によって、反省、卑下、などを書いてきます。楽山は、よく読まないと楽山の悪意に気づかないような書き方をするペテン師です。
 
楽山を、批判の仲間だと思っていたら、とんでもない間違いであり、徒労と疲労と人間不信をもたらされるでしょう。楽山との交流を継続すると、楽山の体質であるところの、自己中、無反省、無視、無責任に染まって、楽山と似たような攻撃性だけの鈍い人格になる危険があります。
 
楽山は、リツイートや、ブログ記事によって、やさしそうに、一人前気取りで、誘ってきますが、決して相手にしないでください。楽山は、いかなる人の味方にもなれない自己愛性人格障害です。決して、頼りにしてはいけない人で、誰の仲間にもなれない人です。
 
楽山には、執念深い恨みの感情と、小学校レベルの理屈はあっても、悔いる、悲しむ、反省する、自分の欠点を自覚する、訂正して学習する、人の意見を受け取って考えるなど、深くて高等な思慮と感受性が欠けているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
信仰の相対性などと言ったら、楽山は、信仰は絶対ではないのだから、信じ過ぎてはいけないなどと、自らの、救いにも助けにもならないボンヤリ信仰?を勧めてくるかもしれません。楽山は、嘘と詭弁に生きている人です。楽山は、信仰など、真面目に考えたこともない人です。関わらないでください。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp/
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
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