ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

病質者対策2

 
  病質者対策2
 
 
凶悪カルト・サイコパス・病質者とは、具体的には、言うまでもなく、3年批判している楽山と、10年批判してきたシャロームshalom のような自己愛性人格障害者のことです。罪悪感がなく、いつも、社交の世辞であしらいながら、実際はバカにして、心で笑い、舐めている人です。
 
罪悪感がないために罪の意識がなく、悔いるという高等感情もなく、反省もせず、他者に優っているという慢心だけで、いつも自分が正しくて、まともだという捏造の立ち位置から、実際には、ねじ曲がった理屈と、平気で嘘を吐く習性をもって、壊れた理路の迷惑物質を投げてくるのが、楽山です。
 
恐らく、一生、治らないのでしょう。ということは、話し合う余地がないということです。つまり、楽山と話し合おうなどと思ってはいけない。楽山から何も受け取ってはいけない。楽山の言うことを何かの参考にしてもいけない。楽山の投げかける言は、楽山の仕掛ける罠(わな)です。
 
最初から、楽山は、惑わすために、あるいは、優越感と自己顕示欲のために、言い逃れのために、書いているだけだということを意識して、関わってきたら、追い返すか、逃げるしかないのです。世辞コメントなど書くと、楽山の思うつぼです。
 
他には、批判する気のある人の場合、楽山の書いていることの、卑怯な言い換えや、作為的な言葉と理路の選択や、常識に見せかけた一面的な視野狭窄の言を、決して真に受けることなく、一つ一つ指摘して、資料として警鐘とすることだけが、楽山という自己愛性人格障害者に対して出来ることだと思います。
 
楽山は不治の病と言ってもいいような欠損した人格ですから、はっきり言って、人間だと思ってはいけません。和解の余地を残してはいけません。今まで楽山が書いてきたことから、楽山には良心がありません。思いやり、共感、羞恥心がありません。平気で嘘を吐きます。
 
楽山は、人のために役に立つヒントになることを書こうなどとは、毛ほども思っていません。ただただ、インテリ気取りで、客観を装い、煙に巻くような婉曲的な言い方で言い逃れを向けてくるだけです。楽山の文章に主旨はありません。企みだけがあります。真面目に見せかけているのです。
 
ゆえに、楽山の文章を読むときには、症例を見ている、場合によっては、症状を記録するという姿勢が必要で、先ず、楽山の主旨を読み取ろうとすることだけはやめないと、病原からの疲労の罠に嵌ります。楽山に、主旨はありません。否定を書いて、肯定を書いて、責任を負いません。
 
批判においては、楽山の文章から、言い逃れの詭弁の細工や、意味の違う方向への言い換えで、ごまかしてくるところを、できるだけ見逃さず、指摘し、批判し、資料とするためだけに記録することに専念するべきであります。楽山を出禁にしてください。批判するなら記事に書くことです。
 
共感性のない楽山との、分かち合いや交流は、決してありえないことなのです。楽山について書く場合は、そのことを最初に弁えることが、自己愛性人格障害の害毒から身を守る唯一の方法であります。出入り禁止として、批判記事を書き、楽山の無法を知らせるやり方しかありません。
 
そして、それが、自己愛性人格障害者、病的ナルシスト、精神病質サイコパスに出会ったときの、心構えでもあります。楽山は、まともな人間ではありません。ふつうに付き合ってはいけない、資料にするしかないヒトなのです。そういう非人間は、多くはないが、いるということです。
 
楽山は、宗教、特に、キリスト教に、いちゃもんをつけて、神を否定してきましたが、その責任を負わず、批判にも答えず、スルーすると言って無視する卑怯者であることに加えて、宗教を否定しても、それに代わる救いや助けになるものを、何一つ提示する洞察力も共感力もない人です。
 
この自己顕示欲と自己愛だけで出来ている楽山のような病質者だけは、決して信頼しないでほしいです。中身の無さを、丁寧語で体裁を整えて、中庸芝居でで中立の人物を装う、これが、楽山の生き方・書き方・筆致なのです。
 
ちょっと注意して読めば、楽山が、誰でも言いそうなことを書いたから誰でも共感してもらえるじゃろ、という予定調和を書いているに過ぎないことが分かります。真実の追求とは、かけ離れた狙いで、ありきたりのことを並べて、好意を装うペテン師だからです。
 
 
楽山のキーワードとしては、無反省・無理解・無責任・無神経・嘘吐き・詭弁・偽善者、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、病的ナルシスト・罪悪感と良心の欠如・自己中心、高等感情鈍麻、反キリスト・反宗教、などを使っています。
 
 
悪は笑い、善は悲しむ、それが、この世です。ゆえに、悲哀が、最も高等な感情は、悲哀です。ゆえに、今悲しむ者は幸いなり(マタイ5:4)。
 
良心は、地上の悲しみを知っています。悪魔性は、地上の悲しみを知らず、感じず、笑いと快楽を求め、うまくいかないと怒り、怨念を燃やします。
 
笑いと怒りは感じても、悲しみを感じられない人格があります。それが、反社会性を内在する自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして、精神病質サイコパスなのです。だから、いい気になるだけで、実際には、謙虚さが皆無なのです。
 
 

     

             評価もなしに木に登るのか
 
 
(2021年04月25日)
(2022年05月03日、再録+加筆)
 
 
 
  思い出
 
つくられなかった
思い出が去ってゆく
いつのまに しのびより
どのあたりを過ぎていったのか
遠くでこだまする気配さえする
 
いつどこで
つくられなかったのか
ほんのちょっと
注ぐものがあったら
なつかしさに
なれたかもしれない
 
思い出のない
思い出
偽り
つくりもの
思い込み
勘違いの
シーン
 
風景が揺れる
ふっと遠くなる気を
うろたえて
身震いのように首を振って
懷にしまう
 
思い出にふるさとはない
空の下、山と森と道と草木
知らない人たちの生きる姿
小さな生き物
それで十分だと
思い出されることもなく
 
振り返れば
いつもの家並み
隠された思い出の並びから
子供が飛び出してくる
犬が走っていく
蹴られていない小石
転がっていく
 
 
  森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを解きたくて
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです

人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  潰瘍
 
手遅れの落花に目盛りを誤り
紙コップにビール注がれ
潰瘍の胃袋炭酸の重みに耐えず
発酵の流れ歯石のうちに語る
葉桜の下疝痛に舞え
充血の嘔吐の結膜
石鹸の剥離を繰り返し
乱脈の破砕の終末
タイル張りの手首を引き
酔い痴れて薄墨の彗星を探し
とても希薄な泡沫に帰すと
 
 
  はね
 
しずく はらい
あめの ぬくみ はねて
かえろう いまいちど
ひざかりの つみくさの
のはらの ゆめ まどろみ
あしたの つゆに あずけて
にたものどうしの わかれみち
はおと なく しののめに
とびたつのは ぬれて
ただひとひらの はね
ふきすさぶ くもの まつ
いつも ひとつの そらへ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

★こも/楽山日記3
@komo266
×徳あるものた上に立つ徳治制が望ましい
●徳ある者が上に立つ徳治制が望ましい
午後0:41 · 2022年5月2日

 
徳のない楽山が、言葉だけ、訂正か、指摘を、書いています。正直さがない。反省しない。責任負わない。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のための自己中から来ています。つまり、自己満悦のために記事を書くので、学習と成長も見られません。楽山は、不変の厚顔無恥であります。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
ざっくりまとめると、大川隆法総裁は自分こそが宗教的にも政治的にもトップに立つべきだと考えていたことがうかがえます。
自身が選挙に出たときも、国会を幸福党でしめて憲法改正し、大統領になる気満々だったでしょう。
初夏氏はそんなことはないといいたいらしいが、それは無理かと…。
午後0:39 · 2022年5月2日

 
ということを言う楽山は、自分がトップに立つべきだという教祖願望を表しているのです。そのための評論家気取りです。何かを書けば、自己愛からの尊大な自己満足・自己満悦が、そして、自己愛からの誇大妄想が、噴き出して、漏れて、表れてくるのです。楽山は、不変の厚顔無恥であります。
 
楽山には、まともな秩序の意識を持っていません。だから、憲法改正にも、独裁にも、賛成するでしょう。いちばん、大統領や、王様に、なりたがっているのは、楽山であります。その夢想が誇大妄想として固定しているので、隠したつもりでも、丁寧語とは裏腹に、不変の厚顔無恥を表してしまうのです。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
ところで、私の理解では、大川隆法総裁の主張はこうです。
・自分は地球における最高の権限を持っている
・自分の言葉が法となり、善悪を定める
・民主主義は衆愚政に陥る危険あり
・徳あるものた上に立つ徳治制が望ましい
・神近き者が上に立つのが天上界の秩序
祭政一致であるべき
午後0:32 · 2022年5月2日

 
楽山は、自分が一番上だという誇大妄想を持っています。だから、いつも、上から見下ろす発言になります。指導者気取りです。楽山は、おびただしい言葉の破綻を見せておきながら、善悪を定めたいようです。他者のことを、とやかく言う資格は全くないのが、楽山です。
 
民主主義を憎んでいるのも楽山であり、ネトウヨとして、A級戦犯を讃える記事を書いています。楽山は、放置すれば、人々を詭弁で誘導して、衆愚へと誘導します。あらゆる徳に背いているのが、楽山です。神近き?楽山という自覚でしょうか、むしろ、我は神なり・・でしょう。。
 
楽山は、結局、王様気取りであり、その根拠が、自らの、霊が分かるっぽい?体験と、心霊大好き趣味なので、小学生並みの知恵で辻褄を合わせで記事を書いて悦に入るのです。楽山は、人間としての罪悪感も羞恥心も持たないので、サイコパスの性質が、書くことに表れてくるのです。
 
楽山とは、決して、議論や交流をしてはいけません。楽山は、論理?めいた迷路を用意しています。そして、気に入らないとテーマの実質から外してゆく人です。楽山の害を避けるには、出禁しかないのです。私はそうしています。楽山の思想は、ずっと詭弁だけです。悪知恵だけです。企みだけです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
3年余り、批判を当てても、同じように書いてくる慢心こそが異常です。その間、当てつけや悪口は書いてきても、真っ当な反論など、全く書けないのです。論理遊びの罠を仕掛けてきますが、理路が分からず受け取れないことからの詭弁に過ぎず、それがバレてからは、ただただ見苦しいだけなのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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