ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

ボンヤリ言語の誘導(7)2

 
  ボンヤリ言語の誘導(7)2
 
 自分を映す鏡としての幸福の科学
  2020年05月02日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24625555.html
 楽山日記(LD)
 
 
楽山の言は、批判を向けられても、いっさい、気にしないという他者無視と一体の執着から出来ています。宗教と信仰における異常者とは、教祖的強引さだけではなく、ペテン師の嘘と詭弁という場合もあることを示している楽山です。
 
人間らしさ、謙虚さ、断定を避ける、そういうところに破壊の根を持つカルト妄想は、罪悪感と羞恥心を全く欠いているので、何を言われても、何ごとも無かったかのように、誘導を続けます。素顔が血も涙もない仮面の芝居なのです。こうやって、誰に対しても、人間性喪失に向かって誘導してきます。
 
 

前々から薄々気が付いていたことではあるけれど、自分にとってHSを批判するということは自己を知ることであるらしい。

 
自分についての真実を追求する楽山の言を一度も見たことはありません。楽山の言は、いつも、他者に向いており、印象を植え付け、シンパ(シンパシー、共鳴、同情)を求めてくるという柔和芝居であり、そのためのボンヤリ言語なのです。
 
その分、教祖として豪語し、従え、という妄想家カルトより、むしろ、悪質と言えるのでしょう。楽山のやり方では、人間を、心という器(うつわ)から破壊してゆきます。
 
 

たとえば現在のHSは、神は人に信仰を求めており、信仰を持たない者には神罰が下されるとしている。自分はこれに対して、そのような神は祟り神ではあっても、真の神であるはずもないと異論を述べるのだが、これは表向きはHS批判ではありつつも、別の面ではHSに反発することで自己の持っている神のイメージを再確認しているという面もあるのだ。この意味で自分にとってのHSは自己を知るための鏡だといえる。

 
楽山は「真の神であるはずもない」と言いながら、信じてもいないのに「神のイメージを再確認」と言っています。統合失調の傾向とも見えますが、無節操であることは確かです。神は、イメージでも概念でも捕らえられる対象ではありません。楽山は神を文字だけで語っている心無い無神教カルトです。
 
このように、カルト批判を装って、そこから、自らを高めてゆきます。神のイメージを再確認、などという言葉は、楽山が神を信じる者ではないことの証拠です。神は、確認できるような御方ではありません。ゆえに、信仰対象となるのです。
 
 

ちなみにこの構図は自分がHSの会員だった頃も同じだ。当時HSは神は愛であり、人を裁いたりはしない、人は死後に神に裁かれてではなく、波長同通の法則によって天国的な心の人は天国へ、地獄的な心の人は地獄に赴くことになると説いていた。
自分はこれに共感することで自己の中にあった神のイメージに自覚的になることができたのだった。

 
楽山は「波長同通」という妄想的なことを、当たり前の言葉として書いて、なお、否定しないわけです。神についての話で「共感」と言うのは楽山の嘘です。ましてや「自己の中にあった神のイメージに自覚的になることができた」などは、神とは何の関係もない妄想だと思います。
 
 

自分は無宗教の家で育ち、特定の宗教教義を信じているわけではなかったので、神の存在を信じつつも、その神とはどのような存在であるかを説明できなかった。でもHSの説明を聞き、それに共感することで自分にとっての神を言葉という形で知ることができたのだ。

 
上の説明で「自分にとっての神を言葉という形で知ることができた」と言っていることが、楽山の思考の幼稚さが表れています。いかに、楽山の神?が、いかに安い出来であるかを知ってほしいです。「神を言葉という形で知ること」など出来ません。楽山の安易な曲解からの大嘘です。
 
ここは、神を、例えば、あ、分かったよ、知ってるよ、と言っているような、救いがたいほどの浅はかさが表れているのです。まともを装う表面的な筆致とその内容の浅さ幼稚さの、決して一致しない対照が、ボンヤリ言語なのです。
 
 

自分は昔と今とではHSに対する立ち位置は会員から批判者へと百八十度変わっている。

 
変わっていないと思います。うまく利用したつもりなのです。
 
 

でも上に書いた通り、HSによって自己を知るという点では少しも変わっていない。
会員だった頃はHSへの共感によって、批判者になってからは反発によって自己を知る機会としている。HSにとっては迷惑なことではあろうが、どうもHSと自分との関係は前からこのようなものであるらしい。

 
上のほうで「HSの説明を聞き、それに共感することで自分にとっての神を言葉という形で知ることができた」と言ったばかりです。どこが「反発」なのでしょう。日本語を壊して使うのがボンヤリ言語で、楽山は、HSを、適当に、不適当に、気分次第で、利用しているだけなのです。
 
 
 
 神秘体験と宗教の正邪
  2020年05月02日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24625451.html
 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、悲惨な、分かるんだ、知っているんだ、体験したんだ、自分は特別なんだ、というアピールが、神聖に対する微塵の恐れも謙虚さもなく、さらさらとボンヤリ言語で、表れています。
 
 

幸福の科学(HS)の会員だった頃、会員の集いで皆と神理の話で盛り上がった後の帰り道で不思議な感覚を味わったことがあった。これは光輝く神と出会っただとか、その声を聞いたというような派手なものではなかったが、とにかくそのときの幸福感は圧倒的なものだった。
自分にとってこの体験は一体何だったのかということが長年の疑問だったのだが、先日ジェイムズの『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、自分の体験と同種のものと思われることがいくつも紹介、考察されていて驚いた。

 
楽山は、自己愛性人格障害の自己顕示欲から、自分の、宗教が分かるっぽい、心霊が分かるっぽい、という印象を、学者の名前を通して、まるで既知であるかのように刷り込んできます。楽山は、感動、理解、共感、ということから、最も遠い人です。「幸福感」は一種の異常気分ですが、嘘だと思います。
 
 

もちろん本書で紹介されているものと比較したら、自分の体験は随分とつつましく、貧弱なのだが、それでもその本質的な部分では共通するものがあり、同系統のものと思われるのだ。

 
このように、ぼんやり、謙譲から自慢へと、当たり前に成立しているように、本と体験が共通、同系統、というボンヤリ言語の言い方です。実際には、心霊についての自分の超能力をを肯定する自慢話になっているのです。
 
 

このことからすると、どうやらあの体験は、宗教的にはそれほど悪いものではないようだし、またHSに限定されるものではなく、他宗教でもあり得るものであってそれほど特殊なものではないようだ。

 
「それほど悪いものではないようだ」・・何なのでしょう。こういう言葉で信仰と神を表すこと自体、何も理解していない証拠です。珍味のグルメレポートでしょうか。しかも、内容は皆無なのに、他宗教でもと、一般化したいようです。楽山は、いかなる宗教も知りません。
 
 

よく言われることだと思うのだが、神秘体験というものは宗教に属するものではなく、個々人に属するものであり、もっと言えば、その時、その場所、その心境に依存するものであるというのは真理の一面を表してはいるのだろう。

 
(ネットより)
神秘(しんぴ)とは、人間の知恵では計り知れない不思議、普通の認識や理論を超えたこと[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A7%98
 
神秘は、言ってみれば、神の秘密であり、人に属することなど無いのです。楽山の、すっとぼけた慢心が、神という真理の秘密を「人に属する」つまり、自分は分かると言わせています。
 
霊が分かるっぽいと思っている楽山や、神の啓示だから議論の対象にならないと言うシャロームなど、こういう者が、妄想をもとにカルトを捏造してゆくのです。
 
 

だからカルトでも神秘体験はあり得るし、神秘体験があったからその宗教は正しいものであるとはいえないのだ。

 
神秘体験=宗教、という安っぽい先入観を否定して、逆に、カルトでもありうる、などという誘導は、詭弁以外の何ものでもありません。ここは、神秘体験はあり得ると言って、宗教の正しさではないと言い、結局、自分にも、そういう神秘体験があると言いたいのでしょう。発言の軽さに驚きます。
 
カルトでも、宗教でも、人間が神秘体験を根拠にし始めたら、人間性を捨てる方向に向いてしまうので、宗教による人間の救いは、終わりなのです。楽山は、どこまで、デタラメを言い、自分を霊能者気取りで高めるために、嘘を吐き続けるのでしょう。
 
 

HS信者をみていると、残念なことに自身の神秘体験とHSとを別個に分けて考えることができず、両者を安易に結びつけてHSで神秘体験があったからHSは本物であり正しい宗教だと主張する人が散見される。

 
実に軽く、安易に、神秘体験を扱っている楽山です。いかなる神秘も、すっとぼけた軽口の楽山に縁(えん)はないと思います。神秘は、神の秘密、人間が驚くテーマであっても、人間が扱えるテーマではありません。
 
 

聞くところによると、オウムでもそういう信者はいたという。この二つを分けで考えることは口で言うほどやさしいことではないのでそれも致し方ないことではあるが、判断をあやまらないためにはここはぜひとも気をつけなければならないことではある。

 
他のカルトを引き合いに出して、宗教と神秘体験を分けると言っていますが、神秘は、結ぶことも、分けることも、できないから、人知を超えた神秘なのです。神秘体験にこだわっている間、神秘からの救いはないと言っても過言ではないのです。
 
「やさしいことではない」ことを、実に気楽に書いてくる楽山です。人間らしい良心を失った、あるいは、捨てた、楽山の心性は、特別の存在になって、神が分かる、体験した、神秘体験だだだ・・と、機関銃のように言わないと気が済まないようです。
 
 

なんだか偉そうなことを書いてしまったが、自分もこの点についてはまだまだ徹底することはできず未熟であるし、この点よくよく自戒したいと思う。

 
だったら、偉そうなことなど書かなければよいのです。自戒する精神を持たず、偉そうなことだけを書きたい楽山であることが、もはや、ザルのように漏れ出てきます。実に恥ずかしい男です。
 
楽山については、思い切りバカにしていいのではないかとさえ思います。求めること、学ぶこと、反省すること、成長すること、これら一切をしなかったゆえの、常識と良心のない知恵足らず、と申し上げておきます。霊が分かるっぽいと思ったときから、そうなってきたのでしょう。
 
 
 
 拝み屋さんと伝統宗教に対する偏見2020年05月02日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24631759.html
 
 
楽山という人は、やさしいと書いて、やさしさを知らず、思いやりと書いて、思いやりを知らない人だと思います。良心に欠ける部分を、温もりを表す感想の言葉の飾りだけで補うことなどできません。温もりは、良心の産物だから、言葉以上に、体験の実(じつ)を持っているのです。
 
楽山に、発言の実(じつ)はありません。その代わりに、温もりのない楽山は、言葉で、べた褒めという手段を使うことになります。それを、思いやりと言ったり、共感と言ったりして、自己満足する言葉の稚拙さから、嘘も詭弁も思い込みも妄想もバレてきました。
 
そういう言葉の技(わざ)で、でっちあげても、楽山のボンヤリ言語では、芝居に過ぎず、わざとらしい言い過ぎになったり、ピント外れであったりするために、今までの記事の流れを考えて読むと、不自然感満載の文章だと分かるのです。
 
そのことにも、楽山だけは気づかないのでしょう。だから、平気で、どんなもんだい、わかってるんだとばかり、図々しく書いてくるのです。記事の中の言葉だけでなく、今までの楽山の記事の、反キリストの主張の流れというものが楽山を否定する、ということにも、楽山だけは気づかないのです。
 
今回の題材は、すなわち、楽山の自慢のネタにされているのは、拝み屋さん、祈祷師と呼ばれる人たちです。自分の霊感以外を正当と認めることのない楽山に褒められることは、災いでしかありません。
 
 

HSの教義はその時々で改変されるものなので、いまはもう変えられたかもしれないが、自分が会員だった頃のHSでは、拝み屋さんや伝統宗教についてはかなり否定的な見方をしていたのだった。拝み屋さんのほとんどは偽物で悪霊に憑依されているとか、伝統宗教形式主義に陥っているだとか…。

 
楽山の狙いは、自らが、柔和で、視野が広く、人間味に溢れていることを主張したいがために、拝み屋さんも認めていますとアピールしたいようです。楽山が、今まで、しばしば、ボンヤリ言語で、やさしさ芝居をしてきたことを忘れてはいけないと思います。
 
どんなに詭弁を弄しても、頑強にキリスト信仰を否定してきた今までの流れから、策略としか見なされないだろう、という予測すらも出来ない楽山であります。そういう鈍麻の無頓着から、何を言われても、平気で記事を書いてきたのでしょう。
 
 

自分は会員だった頃はこれをそのまま信じていたのだが、退会したあとは、実際に拝み屋さんと会ったり、宮司さんの仕事ぶりを見る機会があったりして、段々とそういう考え方からは離れて行った。
まず自分が会った拝み屋さんは物静かで、落ち着いた雰囲気の人だった。悪霊に憑依されていると感情の起伏が激しくなり、ちょっとしたことで激怒したり、常識から外れた奇行が出たりするというけれども、そういうところは全くなかった。神様のことを信じていて、神様の話をすることが大好きで、迷っている霊がいればたすけてあげたいと思っている優しい人だった。

 
楽山こそ、いつも「物静かで、落ち着いた雰囲気」を装う嘘吐きであります。実際には、自分が否定したことにも、肯定したことにも、訂正不能に凝り固まっているのに、一貫して無責任です。つまり、どちらも、言ってはみたが、忘れるか、ぼかすかして、一定の主張に達することがないのです。
 
言葉だけの神様、即ち、紙様の話をするのが無責任に無反省に大好きで、人が本当に優しいかどうかなんて簡単に分かるはずもないのに、気安い世辞を言って、神霊に結びつけ、神霊の話をでっちあげて、自分と結び付けてくる楽山です。
 
そのことは、批判記事に対して以前返してきたのが詭弁だけであり、結局、不感不応で訂正不能である、ということを楽山自ら証明してきたデタラメな記事の流れに表れているのです。何をネタにして語っても、ペテン師とバレた以上、一切は無駄なのですが、病質によって、気づかない楽山です。
 
 

肝心の儀式の際には、拝み屋さんは祭壇に向かって正座をし、二、三時間にわたって一心不乱に祝詞を唱え続けていた。その間、背筋を伸ばし、膝を崩すこともなく、気を引き締めて、本気で祈りつづけていた。それでいてお金はロウソク代という名目で二千円だった。

 
2~3時間の祈祷で二千円だからと、拝み屋さんが良い人のようだからと、その宗教と信仰自体を、本気だと、本物だと、判断してよいものでしょうか。ここに、楽山が、宗教と信仰を、いかに軽く見なしているかが表れています。楽山は、いつもそうです。
 
 

次に伝統宗教について書くと、自分が出席したとある神葬祭における宮司祝詞は、故人の生涯を語り、労い、讃え、平安を祈るものであって、もし故人が聞いたらきっと喜んでくれるにちがいないと思えるものだった。この宮司さんは神葬祭のときはいつも、遺族から故人の話を教えてもらい、それをもとにして祝詞を用意する人だとのことである。きっとそれだからこそ、宮司さんの祝詞には、参列者のみなが熱心に聴き入ったのだろうと思う。これはどんな詭弁を用いても、形式主義に陥っているなんて言えなかろう。

 
楽山の、根拠にならないような、嫌がらせの、言いがかりの、いやみったらしい、今までの、キリスト教とキリスト信仰に対する攻撃からは、楽山が、祈祷する人が一生懸命な態度であったら形式主義ではなく、本物の宗教だと思っているなんてのは、これまた、大嘘としか思えないのです。
 
楽山には、積み重ねられてきた負の、狡猾な悪の、偽善の、凶暴な悪意の履歴があります。みんな自分に好都合なように、その時その時で、出まかせを言ってきたのが、楽山です。だまされないでください。楽山に付き合うと、精神が鈍麻して奴隷のような精神を植え付けられる恐れがあります。
 
楽山は、恐らく、宗教を、超常言葉と儀式くらいにしか見なしていないのです。その宗教は、まるで、悪くない習慣のようなものでしょう。楽山には都合が良いのでしょうが、それで、人間が救われることはないと思います。
 
 

もしかしたら自分が出会った拝み屋さんも、宮司さんも宗教界では例外的な存在であり、自分はたまたま当たりを引いただけなのかもしれない。でも自分は根がお人好しにできているせいなのか、これが普通であるように思えてならない。拝み屋さんにしろ、宮司さんにしろ、基本的には善い人が多いのではないかなと…。

 
ここで、たまたま当たりを引いた、お人好しにできている、良い人が多いと、謙譲な善人芝居をしてきます。これら一切と、今までの、キリスト教への妄想的誹謗中傷は、全面的に、矛盾します。褒める、という、気持ちのよさそうなことを、楽山は、めいっぱい、悪用する人です。
 
 

そういうわけで、先に書いたようにHSでは他の宗教者を低く見るところがあって、自分はそれを信じてしまったこともあったけれども、いまははっきりとそれは間違いだったんだと思うようになっている。

 
楽山の謙譲は、ことごとく大嘘です。楽山は、自分と自分の主張だけを100%客観的だと信じ込んでいる病的ナルシストです。明確に間違いなのは、楽山に、まともに関わることです。無駄な疲労をもらわないように、人格を破壊されないように、楽山にだけは近づかないでください。
 
記事全体が、ホンヤリ言語、世辞、嘘、という楽山の詭弁の罠であります。反省という要素が全くなく、まともな情緒が育っていないにもかかわらず、やさしさ芝居の台詞だけで、言い得たと満悦することのできる非情・冷酷の機械的な仕掛けを持つ欲望が、楽山なのです。
 
 

    

           落日に追われる者
 
 
(2020年)
(2022年05月14日、再録+加筆)
 
 
 
  ひっこし
 
破れて失われた
日記の頁には
何が書かれてあったのか
読めない字
意味のない落書き
詩のようなもの?
 
どこを捜しても見つからない本
ふとこぼれ落ちた小銭
買った覚えのない週刊誌
紐を取ろうとして
けつまずいて倒れた
お腹の上に文庫本落ちる
ほこりが鼻をくすぐる
ボール箱には奇怪な傷
いつのまにか壁にはしみ
窓の外では風が止み
くすんだ青空
虫が横切る
 
はて
どこかで同じような?
 
破れて失われた日記の頁に
何が書かれてあったのか
 
 
  初夏
 
夏の光めがけて
手元がくるった
水があふれる
きらきらと
小さく跳ねる水の光
閉じこめられた夏
 
 
  処理
 
耳ザーザーと鳴って
目のまわりや
顔のこわばり
皮脂の具合など気にする
 
累々と並んだ屍を
無雑作に引きずっていく男達
今日のうちに彼らも
この列に並び横たわるかもしれぬ
 
耳ゴーゴーと鳴って
筋肉の痛み
胸のつかえ
骨のねじれた感覚のために
眠ることかなわず
食欲低下し
衰弱して横たわる
 
穴を掘る
大きな穴
小さな穴
屍を放り込む
そのとき
男の眉間に黒い点現われ
そのまま穴の中へ落ちてゆく
一人処理が済んだ
 
耳サーサーと鳴って
横たわったまま
口をきかなくなる
最後に痙攣して
動かなくなる
 
真っ先に
いなくなる人達
涙は
メディアの向こうで乾いてゆく
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
自己愛性人格障害のもたらす大きな災いは、成長しなくなることです。反省しないために、新しい学習をしなくなるので、身につけるのは自分に都合のよいことだけという生き方で、金太郎飴のように同じような顔のままです。金太郎飴と異なり、無駄に肥厚するのは、堕落という経年劣化なのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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