ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山ただ長 2

 
  楽山ただ長 2
 
 『君よ、涙の谷を渡れ。』とは正反対の考え方
   (自分で考え、判断することのすすめ)
 2021年06月10日 
 幸福の科学とは何だろう(楽山ブログ)
 http://mmknky21.blog.jp/archives/9850447.html
   を改めて批判。
 
 
殆ど、引用だけなのですが、楽山は、たくさん書けば気が済むのでしょうか。こうやって、読む人に、無駄な時間を費やさせて、疲れさせてゆくのが、楽山のやり方か意地のようです。自らを省みない人は、鬱陶しいだけです。
 
 

*君よ、涙の谷を渡れ。
先日、ツイッター上にて、『君よ、涙の谷を渡れ。』が話題になっていた。
その画を借りて貼るとこうなる。これを読み上げている動画はここにある。
「20210609 君よ、涙の谷を渡れ。」(省略)
改めて読むと、自分のことを仏陀であり、神だと信じ、その証明は求めず、判断もせず、ただひたすらついて来ることを求めるというのは随分と破天荒な説法だ。弟子が師に「ついて行かせてください」とお願いするのであれはわかるが、師が弟子にこれだけ強く無条件に信じることを求めるのは珍しいのではなかろうか。

 
楽山は、自分のことを学者か宗教家とでも思っているのでしょうか。実際は、その実はなく、判断は先入観によっており、批判に対して、応答はなく、弁明もなく、ただ、書いてくるだけに終始しています。単方向に言い張ることだけで、満足できる病質者なのです。
 
楽山は、読者に、これだけ無条件に単方向に見せながら、読んでどうこう、読まれてどういう・・ということを何も考えていないのです。しかも、その大方が、引用から成っており、受け取れる言葉かどうかについても、楽山には、ちゃんとした意見などないということです。
 
 

*シルバー・バーチの霊訓
ちなみに他の思想宗教では、これとは正反対の考え方が説かれている例は少なくない。
まず、シルバー・バーチはこう言っている。
「いつも申し上げているように、もしも私の言っていることが変だと思われたら、もしもそれがあなたの常識に反発を覚えさせたり、あなたの知性を侮辱するものであれば、どうか信じないでいただきたい。
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.126)」

 
信じる信じないは自由です。しかし、楽山は、神はいないと言って、否定してきました。その根拠として、神がいるなら悲劇が起きるのはおかしいとか、神がいるなら証明しろ、といった類のことを言い、また、引用したのです。証明できるなら、信じる必要はないのです。楽山の言は、全くの筋違いです。
 
楽山の言うことは、全く双方向の意見交換や交流を前提としていないので、批判しても、社交の世辞を返すか、批判に対しては無視するか、嫌がらせを書いてくるかです。しかも、反省せず、責任を全く感じないのです。楽山の言うことは、真に受けると、異常な疲労か、深い傷になるだけです。
 
 

「私たちは盲目的な信仰、理性が同意できない信仰、不可能なことを要求し奇跡を期待するような信仰をお持ちなさいと言うつもりはありません。
(同上、p.126)」

 
キリスト信仰は、超常の奇跡を思い込み信じ込むことではありません。それら超常の奇跡ついては、地上の私たちは、信仰者でも、分からないと言うのが正直であり、良心というものです。分かったつもりになるのは、楽山のように、一気に、超常に、関わり、なりたがる者たちであります。
 
楽山は、先ず、理性が整っておらず、反キリストとしての先入観や偏見だけで、書いてきます。しかも、楽山自身は、霊能者気取り、学者気取りですから、その語るところ、学習意欲がないことの表れとして、大部分、他者の口を借りており、かつ、一定の主張になっていないという特徴があります。
 
キリスト信仰において、整えるべき理性は、神とキリストの超常奇跡などから、私たち人間は神聖とは違うこと、つまり、人間の不完全を知ることであり、感性においては、キリストが、罪や病の人たちに、命を犠牲にするほどの共感を示したことであります。
 
 

「「交霊会に出席している人が一瞬たりとも理性的判断をおろそかにしてよいと言っているのではありません。これは神からの贈物です。支配霊が誰であろうと、通信霊が誰であろうと、もし言っていることが自分の理性に反発を感じさせたら、それはきっぱりと拒絶するのが絶対的義務です。
(同上、p.135)」

 
楽山は、理性的判断というものが、殆ど成り立っていない人です。だから、言ったら言いっぱなしであり、責任を持ってフォローする気が全くありません。理性ではなく、我執の子供のような妄想的固定観念によって是非を語ってくるので、話にならず、とても迷惑です。
 
 

「「私が ぜひとも指摘しておきたいことは、霊的知識の恩恵を受けた者はあくまでも理性の光に従わねばならないということです。他界した霊がこうして再び戻って来るそもそもの目的は、父なる神が子等に授けた全才能を発揮するように地上人類を促すことです。知識の探求、叡知と真理の追及において理性を無視したり、道義の鏡を曇らせたり、良識を踏みにじるようなことがあってはなりません。
(同上、pp.56-57)」

 
キリスト信仰は、理性や感性という人間の良心を無視する信仰ではありません。人間として、精いっぱい考えなければいけません。そして、できることをして、神に、正直に祈る信仰です。つまり、楽山のような病質者が最も嫌うことであります。
 
キリスト者(クリスチャン)は、共感の主イエス・キリストに、共感する人たちです。
 
楽山は、ガラクタのような屁理屈で、いるとかいないとか、クレームをつける人です。しかも、否定しながら、信仰に代わる別の良きものを、何も用意してはいないのです。
 
なお、上にも述べたように、楽山には、理性からの節操がなく、結論と言い張りだけで出来ているような思想ですが、それを、ボンヤリ言語という婉曲表現で、刷り込んできます。今回も、強迫性の自己顕示欲から、文章を書いているだけで、整えていないから、文章に締まりがなく、無駄に長いのです。
 
 

「いかに立派な霊であっても、いかに高級な霊であっても、いかに博学な霊であっても、その説くところがあなたの性分に合わない時、不合理あるいは不条理と思える時は、遠慮なく拒否するがよろしい。あなたには自由意志があり、自分で自分の生活を律していく責務があるのです。
(同上、p.58)」

 
人間には、信仰者であっても、自由意志があります。それは、神によって与えられたもので、自由意志を持たないのが宗教という先入観を植え付けようとしている楽山の刷り込みは、すべて、妄想的偏見であります。楽山には、自由意志の代わりに、病理の強迫~衝動だけがあるのでしょう。
 
楽山には、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために自由意志がなく、加えて、他者の自由意志を、思考、感性とともに、うんざりするような疲労の迷路に誘導して、鈍麻させ、腐らせ、破壊してゆきます。
 
 

「あなたも自由意志を持った一個の霊であり、簡単に自分の考えを譲るようなことをしてはいけません。(同上、p.60)」

 
自由意志を持った一人の人間である限り、自己愛性人格障害という病魔に従っている楽山に譲るようなことをしてはいけません。楽山に社交の世辞を言ってはいけません。それは楽山の大好物であり、罠の入り口であります。気遣いの出来ない人に対して、気遣いは禁忌であります。
 
 

釈尊の言葉
仏典には、こうある。
(省略)
この問答からは、釈尊は「疑問は持ってはならない。何も判断せず、ただ信じてついてきなさい」とは正反対の考え方をしていたことがうかがえる。

 
楽山は、真っ当な議論をしたことがありません。議論の動機が自己顕示欲とサディズムですから、相手が疲れるのを見て、喜ぶだけです。楽山とは、議論しようなんて思わないでください。何か言ってきたら、楽山の意見は捨ててください。
 
疑問は、湧いてくるものであり、持ってはならないなら持たなくなるというものではありません。思い込み信仰や、楽山のような無神教カルト&教祖願望的妄想者においては、持っている疑問を押し殺すために、学習と成長がなくなります。自己愛に凝り固まり訂正不能の楽山においては顕著なのです。
 
議論や交流の可能な人は、責任感があり、罪悪感があり、自分で反省や修正の出来る人です。楽山は、全くそういう意志も能力も持っていません。そして、ただ、病魔は、企み、印象を植え付け、刷り込んで、病原を伝染します。
 
 

*神を試す?
聖書はどうかといえば、神に対して「本当の神であることを証明してほしい」と求め、それが叶えられる場面がある。

主は彼に言われた。「わたしはあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」彼は言った。「もし御目にかないますなら、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください。どうか、わたしが戻って来るまでここを離れないでください。供え物を持って来て、御前におささげしますから。」主は、「あなたが帰って来るまでここにいる」と言われた。
ギデオンは行って、子山羊一匹、麦粉一エファの酵母を入れないパンを調え、肉を籠に、肉汁を壺に入れ、テレビンの木の下にいる方に差し出した。神の御使いは、「肉とパンを取ってこの岩の上に置き、肉汁を注ぎなさい」と言った。ギデオンはそのとおりにした。主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えていた。ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。
(士師記 6.16-22)
 」

 
大昔の、預言者と御使いの話で、かつ、現代ではほとんど起こっていない超常の神のわざが示された話です。これを信じ込んで、念力が身につくでしょうか、生きている喜びが深くなるでしょうか。否です。信仰は、人が超常的に高められるためではなく、超常に近づくためでもありません。
 
超常ではないところの、心の奇跡については、人間を癒やし救う大いなる恵みとなります。それを受けると、祈る時と所を与えられ、絶対孤独からの解放を得て、温もりと潤いに満ちた生き方へと成長するでしょう。それを愛と呼ぶのだろうと思います。
 
楽山は、聖書の話を、神が、焼き尽くすかのような、何でもやってしまう身勝手な独裁者的存在という印象を吹き込もうとしています。全能と、身勝手を、混同した詭弁として都合のよさそうに見えるところを引用してくる汚いやり方を平気でやってくるので、参考にしないでください。
 
この部分は、書いてある通り、「この方が主の御使いであることを悟った」という話です。それ以上のことは、信仰者なら、何のための命令形、何のための謙譲語であるか、ある程度は、分かるでしょう。神話と言ってもよい個所です。楽山は、神否定のために悪用しているだけです。
 
楽山は、神?というと、超常なんだから何でも奇跡で解決して、悲劇も苦しみも取り去って、便利な万能薬的存在という幼稚な味方です。楽山に都合のよい存在として考え、そうではない現実から存在しないと言い張っている人です。だから書くたびに、自身の、信仰からの無縁を証明しています。
 
 


ギデオンは神にこう言った。「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、お告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます。」
すると、そのようになった。翌朝早く起き、彼が羊の毛を押さえて、その羊の毛から露を絞り出すと、鉢は水でいっぱいになった。ギデオンはまた神に言った。「どうかお怒りにならず、もう一度言わせてください。もう一度だけ羊の毛で試すのを許し、羊の毛だけが乾いていて、土には一面露が置かれているようにしてください。」その夜、神はそのようにされた。羊の毛だけは乾いており、土には一面露が置かれていた。
(士師記 6.36-40)
 」
この他には、「ヨブ記」では、神に強く異議申し立てをしたことで、神から返答があり救われた話が書いてある。まさに「求めよ、さらば与えられん」である。これも、「判断せず、ただついていく」とは正反対の考え方だろう。

 
嘘です。ヨブ記では、「神に強く異議申し立てをした」からではなく、神が、直接、ヨブを叱って、ヨブは悔い改めたから、救われたということです。悔い改めない楽山は、このように暴力的な歪曲を平気でしてくる人ですから、楽山の意見は、その場で捨ててください。正しさは微塵もありません。
 
 

仏陀とイエス
仏典にも聖書にも、仏陀、イエスが自らを証しする場面がある。
セーラ・バラモンは師の身に三十二の〈偉人の相〉があるかどうかを探した。セーラ・バラモンは、師の身体に、ただ二つの相を除いて、三十二の偉人の相が殆ど具わっているのを見た。ただ二つの〈偉人の相〉に関しては、(それらがはたして師にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(〈目ざめた人(ブッダ)〉であるということを)信用せず、信仰しなかった。その二つとは体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相である。
 そのとき師は思った、「このセーラ・バラモンはわが身に三十二の偉人の相を殆んど見つけているが、ただ二つの相を見ていない。ただ体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相という二つの偉人の相に関しては、(それらがはたしてわたくしの身にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(目ざめた人(ブッダ)であるということを)信用せず、信仰していない」と。
そこで師は、セーラ・バラモンが師の体の膜の中におさめられた隠所を見得るような神通を示現した。次に師は舌を出し、舌で両耳孔を上下になめまわし、両鼻孔を上下になめまわし、前の額を一面に舌で撫でた。
(『ブッダのことば -スッタニパータ-』中村元訳、岩波書店岩波文庫〉、1985年、pp.122-123)

 
ここは、私には、よく分かりません。それにしても、楽山は、聖書については妄想的曲解を語り、ここでは、全く解説をしないようです。分かりもせずに、恥知らずに、よく出してくるものだ・・という楽山についての感想だけしかありません。
 
 


そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
(ルカによる福音書24.38-43) 
 」

 
キリストの復活の話です。聖書は肉体をもって復活したことを聖書は伝えています。現代の私たちは、それ以上に、キリストが不滅であり、聖書を通して、二千年を超えて、キリストの言行録という福音が伝わっていて、私たちが読んでいる、ということを思うべきであります。
 
今の時代に、肉体の復活だけにこだわるのは、楽山のような、宗教を、超常の魔法のように見なしている者の因業だと思います。なお、楽山は、聖書を、本当には読んではいないと思います。いちゃもんの材料にしているだけでしょう。いたるところで無理解が表れてきたからです。
 
 


十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネによる福音書20.24-29)
 」
見たから信じるよりは、見ないで信じる方がよいらしいが、釈迦もイエスも、見たら信じることができる者にはそのようにしてくれることもあるようだ。

 
トマスが、復活を疑い、キリストが、その証拠を見せる聖句です。「見たら信じることができる者にはそのようにしてくれることもあるようだ」と書いて、楽山は、何が言いたいのでしょう。否定したり、肯定したり、そして、一切、責任を負わない楽山らしい、いい加減さです。
 
現代の私たちは、殆ど、見て信じることはないのだから、信仰は、見ないで信じることになります。見ないけれど、聖書と体験から、感じて、受け取り、否定できないのは、共感があるからです。それが、絶望を、希望によって、癒してくれるからです。
 
 

個人主義と自由
話は飛ぶようであるが、夏目漱石の「私の個人主義」でも、「自己に忠実であれ」という趣旨の話がされている。これは文学のみならず、思想宗教その他なんにでも応用可能な考え方だろう。

たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売をすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具そなえていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。
(「私の個人主義夏目漱石著)
 」

 
ここで、「自己に忠実であれ」という主旨のことを、なぜ、言ってくるのでしょう。文脈がバラバラになっています。「意見を曲げてはならない」ということで、いつもの自己の悪事と病質を無視した正当化でしょうか。悪が自己に忠実で意見を曲げないなら、救いなど、あるはずもないのです。
 
整った意見を持つことのできない楽山は、バラバラな思い付きを、真っ当に見せかけることに一生を費やすのでしょう。だますことだけの人生の虚しさを思わずにはいられません。癒されることがなく、自慰行為しかない、楽山の人生です。
 
 


私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。
 自白すれば私はその四字から新たに出立したのであります。
(同上)
 」

 
「自己本位」「自我本位」と続きます。他者によって動揺しないことであって、楽山のように、反省もせず、責任も負わず、勝手な意見を、だらだら言い続けることとは全然違うということです。
 
楽山は、このように、自分の悪と罪を無視して、当てはまる場合の状況と条件があるような曖昧な言葉を、無条件で書いて悪用するのです。
 
 


個人の自由は先刻お話した個性の発展上極めて必要なものであって、その個性の発展がまたあなたがたの幸福に非常な関係を及ぼすのだから、どうしても他に影響のない限り、僕は左を向く、君は右を向いても差支ないくらいの自由は、自分でも把持し、他人にも附与しなくてはなるまいかと考えられます。それがとりも直さず私のいう個人主義なのです。
(同上)
 」

 
個人の自由と、楽山のような身勝手な自己中心とは、全然違うということを強調しておきます。まるで、偉人の言葉尻に縋りついて噛みついているような楽山です。引用された人にとっても、一般にとっても、甚だ迷惑です。
 
 


もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。すでに党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです。
(同上)
 」

 
楽山は、自己正当化のために「我は我の行くべき道を勝手に行く」という言葉に反応していますが、楽山は、自身の虚言で出来ている記事を公開することで、読んだ人の、道を妨げ、重大な疲労を与えています。楽山の言うことは、逆に、個人の自由を妨げているのですが、気づかないようです。
 
自己愛性の悪と偽善のペテン師である楽山が「我は我の行くべき道を勝手に行く」ことほど、迷惑で有害な経過はないでしょう。楽山は、病質のために、格言や良い言葉を腐らせている自分に、まだ、気づかないようです。
 
 

*正反対の考え方
以上、上の例を参考にしつつ、『君よ、涙の谷を渡れ。』とは正反対の考え方をまとめると、次のように言えるのではないかと思う(ツイート)。
「2021-06-06 (3)自分で考え、判断することが大切」(省略)
*結論
HS信者のなかには、『君よ、涙の谷を渡れ。』の考え方を絶対視し、誰もが認めるべきものであるとして、それに同意しない者は普遍の真理を理解できない愚か者だとして見下す人がいる。
でもこのように他の思想宗教を調べてみれば、『君よ、涙の谷を渡れ。』のように、大川隆法を神だと信じて、ただひたすらについて行くという考え方は、非常に特異なものであり、誰もが共感できるものとはいえないことがわかるはずだ。HS信者の一部…大川隆法に疑問を提示し、異論を述べる者を下根だの、悪霊憑きだのと言う輩には、この点を承知しておいてほしいと思う。

 
楽山のようなペテン師が、カルト批判をしたつもりで、個人の自由を語ることは、その実、楽山は、吐き気のするような卑怯で汚い詭弁と嘘を並べてきたのですから、むしろ、自由のために闘っている総ての言論者や運動家を侮辱することにしかなりません。
 
楽山こそ、状況や条件を無視することで、普遍性のある言葉を悪用して、腐った己の目的に悪用しています。あらゆるテーマについて、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)者は、自己愛のために、反省・学習・成長がなく、批判に適性がないことを、楽山自身が証明してゆくのです。
 
 

◇◆ 追記 2021.6.10 ◆◇
*先哲を乗り越える
哲学入門を読んでいたら、本記事のテーマに関連している箇所があったのでメモしてみる。

後世の人間たちは、偉大な先人の哲学を崇めることなく、疑って疑って疑いつくし、徹底的に破壊する。なぜなら、先人の哲学に満足してそこで終わってしまったら、何の進展もないからだ。子供がいつかは強大な力を誇っていた父親を乗り越えなければならないのと同様、目の前にどれだけ偉大な史上最強の哲学があろうと、後世の人間はそれを乗り越えて、一歩先に進まなくてはならない。先人の哲学に反逆し、それを打ち砕く「より強い哲学」を生み出さなくてはならない。
 なお、これは西洋哲学だけの話ではなく、すべての学問に共通することである。
(『史上最強の哲学入門 東洋の鉄人たち』飲茶著、河出書房新社河出文庫〉、1018年、pp.14-15)
 」
東洋哲学の場合は、先人の哲学を真理と崇め、それについてさまざまな解釈をするという方向にすすむが、西洋哲学…学問全体では上のように考えるとのことである。

 
楽山のやっていることは、決して「乗り越えて、一歩先に進」むことではありません。処遇に不満ばかりいだいている者が、陰気臭いクレームを執拗に並べているだけです。楽山は、決して「より強い哲学」を生み出してなどいません。引用だらけの駄文は、うっとうしいだけです。
 
楽山は、やはり、何らかの不遇に対して、自己愛性の、ねじ曲がった根性で、いつも、復讐のような仕返しを企んでいるルサンチマン(弱者に募る怨念、負け犬の遠吠え、いじけた妬み根性など)だと思います。笑うことと怒ることはあっても、しんみり悲しむ情感がないと思います。
 
東洋や西洋の哲学や、学問の名前や、学者の名前を長々と並べても無駄なのです。品位のなさが、書いた文章の文脈や、滅裂な引用や、相変わらずの手前勝手な解釈と詭弁と嘘にまみれて、いっそう、悲惨な表れ方をしているだけなのです。
 
 
※ 
 
私は、前には偽牧師シャロームを、今は病的ナルシストの楽山を、資料化することを目指しています。資料を見るような視線を育てるようにすると、大方の悪口も、また言ってる・・という感じで眺めて、ある程度の分析のようなものが出来るだろうと思って努めています。
 
私たちは、ときに~しばしば、罪を犯します。不可避であることもあるでしょう。しかし、故意に、悪意によって、犯した罪、あるいは、犯し続けている罪は、隠せば善を装う偽善であり、許されることも赦されることもありません。社会を見れば、大きな罪は、ほとんど皆、偽善です。
 
何よりも偽善は、ゆるしを求めてなどいない罪であり、放置すれば、いつまでも、いい気になって、悔い改めることなく続く罪であり、そして害に結びつくものです。バレないだろうと、分かりはしないさと、他者と公共を見くびっている悪意の大罪なのです。
 
 

   

               ただ長いだけ
 
 
(2021年06月12日)
(2022年06月13日、再録+加筆)
 
 
 
  知らない夏
 
浮きながら一歩一歩
歩いている道に陽射しは鈍く
数え切れない苦悩の胞子をはらんで
夏はやってくるのです
 
汗ばむ肩に首筋に
測りきれない表情を見せて
おどけた無為がにじんできます
 
折れるようにふらついて
やっと座った椅子の上に
とぼけた砂の顔
計り知れない徒労を乗せて
季節はめぐってくるのです
 
涙する代わりにあくびをして
鈍麻した肉体さえ
居続けること
座りつづけることを嫌っている
 
倦怠を支えてきたもの
その来歴も忘れたかのように
古びた自画像の
ひびのまわりにゆっくり
ゆっくり乾いた記憶を
もろい煉瓦のように積み重ねながら
何を塗って固めたらよいのか
夏に冬の寒さはわからないよと
残った隙間が笑っています
得体の知れない寂しさに
 
 
  長椅子の部屋
 
この長椅子に腰を下ろして
鳥が切り裂く短い空を聞く
切り刻んでいる私のまわりだけ
ブックカバーの折り込みを
はぎ取るために本棚があり
なくした本のためにビニールの
決意の窓には徒労
と君とも私とも呼べない名が
ふうっと浮かぶ一つの川面を
撫でるような風の向こうに遠ざかる
 
 
  家の階段
 
数えきれない
数えることもない
上り下りする我が家の階段
最近まで九十度だと思っていた
途中で百八十度曲がる
 
引っ越しのとき狭くて机を運べなかった
階段の下がトイレ
トイレの天井に段差がついている
急で足を引っ掛けでもしたら
足を踏み外したら大けがか
ただでは済むまい
 
蟹股でゆっくり降りる登る
二階の方が温度が高い
夏は上れば熱気で体力も気力も失せてゆく
 
古びて汚れてますます狭く不気味
一階は降りるたび別の部屋
どこか違ってる我が身の置き所
通気がない先が見えない
登ったら最後降りられないときが来る
昇天か地獄か永遠か
それに近い上り下りの過去と未来
のりを合わせれば空疎な旅
遠い遠い
長い長い
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

★こも/楽山日記3
@komo266
個人的な感想ですけど
身内が亡くなった時、医療関係者は丁寧に清め、心を込めて手を合わせて下さいました。葬儀屋さんも同様です。
でも宗教者は横柄な態度で、死者を悼む気持ちは皆無でした。
このことからすると、慰霊や祈りは宗教かどうかより、真摯かどうかで決まるのではないかと思います。
午前9:49 · 2022年6月11日·Twitter Web App

 
宗教者という言い方で「横柄な態度で、死者を悼む気持ちは皆無でした」と言えば、宗教一般になるわけで、楽山は、自らに対して無反省、公共に対して無責任、言葉遣いについて無遠慮かつ無思慮ということです。実際は、特定の個人が宗教人ではないという話です。楽山が当てはまるでしょう。
 
一方、態度も物言いも、ずっと横柄なのは、楽山です。ゆえに、楽山に、宗教について語る資格はありません。前から言っていることですが、楽山には理解力がないので、一向に変わりません。自らを省みず、悪口だけを宗教に向けてきます。つまり、「真摯」さが、楽山には皆無なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
楽山は、過ちに過ちを、罪に罪を、偽善に偽善を、重ねてきました。しかも、改善する意志はないようです。ネットにおいて、投稿が少なくなっても、油断はできません。楽山の、心からの言葉を、まだ一度も聞いたことはないのです。楽山との交流は、人生の邪魔にしかならないものです。
 
楽山は、無反省で無責任のために、知性と感性ともに、学習と成長が見られません。ゆえに、言葉の適用範囲や応用条件を弁えることが出来ません。だから、発言が雑で、むしろ、わざと雑に言って、自分の都合に合わせようとします。つまり、楽山は、人間でなくなる方向へ堕ちつつあるのです。
 
 
 
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