ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

祈る心3

 
  祈る心3
 
   「祈り、でもでも」修正、加筆。
 
 
祈りたい気持ちがあって
祈りたいことがあるから
まだ信じているのだろう
実際には
毎日のように祈っているが
殆ど、そのときの心境の吐露
 
でも祈ったからといって
何か変わるのかどうか
変わるとして
それは目に見えるのかどうか
人に分かるのかどうかといえば
どちらも人には
はっきりとは分からない
 
信仰が全知全能の神に従うことなら
不完全な人の信仰は
完全ではありえない
 
つまり分かっていると思うことは
御心か人間の勝手かどうかさえ分からないのに
分かったことにしやすいという自覚
 
神が云々・・ではなく
自分がどうなのかが信仰の祈りである
 
つまるところ
反省もせず分かったつもりになり
かつ分からないと言わなくなったら
もはや信仰ではない
 
祈りたくなるのは何故だろう
委ねたくなるのはなぜだろう
そうさせているのが信仰だ
そして神だ
 
どうしても人には分からないことがあるからだ
 
神のなさることは分からない
 
人によっては
完全を気取った祈りが
実は自慢だったり呪いだったりする
 
いくつもの祈りの結果が総て益でしたなんて
あらかじめ感謝と讃美が前提として
固定した教条の鉄則になっている人の
正直を押し殺した多幸の強迫観念だ
 
祈るとき鰯の頭を仰いではいないが
弱いから何かに頼りたい気持ちはいつもある
 
叶う叶わないにかかわらず
打ち明けて任せる相手を求める立場から出発しているからだ
 
でも本当の神を想いで信じ込むのは背教であり
何も整ってはいなくて
むしろ整うことも壊れることも不完全なのである
 
正しく信じていない自分
信仰の薄い自分
 
いつも
そこから始まっている
 
不完全、欠点だらけ
いたたまれなくて
祈り
 
 
 
人の言葉の不完全さ・不十分さを
書いたり読んだりするたびに思います。
そのたびに修正するとしても、
修正が必要であると感じること自体が既に不完全を示しています。
人の信仰は完全にはなりません。
 
前にも書いたけど、揺るがない信仰は、忍耐強いのであって、
信仰の固定と訂正不能は、もはや信仰ではありません。
 
自分の信仰を固定するのは自分信仰です。
それはまた唯一の絶対・永遠・不変の神
という飼い主である神を無視する行為です。
神以外に完全はありません。
 
神を仰ぐのであって
神を理解したから信じるのではありません。
 
神のもとに
そして誰よりも
キリストの元にあるのは
理解ではなく
むしろ共感に近いものです。
ゆえに愛に近いものです。
 
神の導きは、どのようにあるか、事前に人は分かりません。
事後にも、完全には分かりません。
次に連なるのが、恵みか、試練か、人は確定できません。
 
信仰によって生きてゆく意志を与えられることはありますが、
信仰によって生活が便利や有利になるわけではありません。
 
恵みと試練は同一なのかもしれないと前に書いたことがあります。
自分の思いは様々あっても
自分の気持ちだけから、恵みだ、試練だ、と確定してはいけないのです。
 
修正ばかりしていると、なんだか、不安定で、
いい加減のような気もするけれど、
その時その時は、一所懸命に書いてきたつもりなので、
自分の判断はその程度なんだ、という自覚は、結局、必要になります。
 
それは不完全である自覚
  =罪の自覚でもあります。
 
人の言葉は、伝達のための暗号です。
 
神の言葉が完全でも
聖書を読む人の言葉は不完全です。
 
人間の表現の、目に見える手立て、
すなわち、言葉、態度、行為、サイン、筆致、
全て伝達手段として
広い意味で、言葉と言ってよいでしょう。
そういう人間の言葉は、当てになりませんが、
その時その時は、当てにしているのです。
他に、人間は、表す言葉を持ちませんから。
 
神の言葉であるという聖書も、
私たちは、人間の言葉によって、
自分の言葉の世界において受け取っています。
 
神の言葉だから正しいと
持論の聖書の解釈を主張するのは甚だしい間違いです。
受け取って伝えているのは不完全な人間です。
 
聖句の一つ一つに魔法を期待してはいけません。
聖書の言葉は、誤解によって、人によっては、
躓(つまず)きの石ともなり得ます。
聖句をいつも正確に受け取っているわけではない人間が使うからです。
 
自分の心に起こる動きを、正確に対象とすることは難しく、
心を動かされたことも、恐らく、自分で言葉化してゆくのでしょうから、
信仰には、一時的には、不可避に、自分信仰の部分があります。
 
しかし、それを信仰だからと確信する方向には、
神と同一そして一体感という恐ろしいカルト信仰が待っています。
 
ゆえに、反省による学習によって成長できる信仰であることが必要です。
難しいことではなく、その最も大切な時と所が、祈りであると思っています。
 
祈りだけは、信仰の心が全くなければ、することはないでしょう。
祈るのは、信仰の心が、ちょっぴり以上あるからなのです。
 
正直に祈りたいという気持ちが、まず、第一に、信仰の、最も確かな恵みなのです。
 
 

     

               祈る心 信仰
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月14日、再録+加筆)
 
 
 
  聖なるあした
 
明くる日は
あした
また来る朝も
あした
未知なる希望
消え入るごとく
ささやかに
 
聖なるもの
聖なるものよ
その道に至るまでに
怒りのパン種を懐に隠した
旅人が幾度つまずいたのですか
鶏が鳴く前に
何度
泣かなければならないのでしょうか
 
 
  ある朝
 
浅い眠りののち
終わろうとしている秋の
まだ暗い朝に目覚める
昨日のことを
「だったようだ」という
思い出し方をする
頭の中にもやのように
場所も定まらず
迷う悔い
何か言い損ねた
言葉でもあったのか
メモ帳に小さく書き留める
今日の予定
すでに果たされなかった夢の色
うつして小さなバラ色だ
空が白む頃には
今日の命たちの
また喜びと悲しみが始まる
捨てかねている命に幸いを
昔の歌を口ずさみながら
泣けてくる心に別れを告げて
朝の祈りをこめて
昨日にさようなら
もう少し眠れていたら
見たかもしれない夢に
さようなら
 
 
  不眠症と祈り
 
何もかも呑み込んで夜が来る
のみ込まれて黙り込む
静けさに目を閉じる
さまざまな夜の形を打ち消して
最後に犬が吠える
眠れない人が闇に驚く
 
 祈りは夜とともにあった
 言葉は夜であった
 光は夜のかたすみに
 あやうい形で揺れていた
 祈りは涙と親しく
 いつしかお互いに拒んでいた
 涙は形にならなかった
 祈りはさまざまに否みながら
 光となって揺れていた
 光は言葉であった
 それらすべてを包み込む
 形は夜であった
 
何もかも解き放って朝が来る
沈んだ眼の水平線が離れる
あらゆる隙間から光が射し込む
数々の挨拶を抱えて出かける人々
さまざまな光の形に打ち抜かれて
眠れない人は黙り込む
 
昼となり夕となった
それがいつも一日目の終わりであり
終わりの日の始めである
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているものである。
と考えてみる必要があろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
   人間離れ
 
宗教がそして信仰が人間離れしていくとき、それは宗教が最も危険な状態に陥ろうとするときです。そしてそれは宗教が宗教であるがゆえに最も日常的に直面しやすい問題でもあります。
 
偶然のように突然起こった不幸を無理やり神の意志・計画として辻褄を合わせようとする心の働き、飲めないものを無理に飲み込もうとして力んで平静を装おうとする姿は、何らかの信仰を持つ者にしか起こりえないでしょう。
 
それは耐える姿ではない。人間離れした力をわが身に強制するカルトの姿に近いのです。人間離れしたものを立派なものとして求めようとする恐怖に駆り立てられた行動なのです。
 
悲しみを悲しみとして受けとめれば、嘆き、怒り、時には背教の念さえ抱くことがあります。そういう裸のありのままの姿の自分を見て、神の前にさらけ出し認め自覚することによって、隠さず正直に神に告白して祈り、無力を認め力を求めることで、初めて耐えるという忍耐の行為が生まれるのであります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
祈る心も、悔いる心も、癒され癒す心も、反省する心も、持っていない楽山です。我欲を貪るために、マルチに成りすまして人を誘導します。アンチカルトなどと思わないでください。人を自分より低く見て、人を傷つけて、優越感を貪るのが楽山です。柔和の装いに騙されないでください。
 
 
 
 楽山の過去のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
パスタファリアン
@FShinnja
普段、幸福の科学の盲信者を見ていると、ああこれなんだなと思うことがあくつも。
ただ、我が身もふりかえり、気を付けなくてはいけないとも思う。
午前0:32 · 2021年6月9日·Twitter for Android
https://twitter.com/FShinnja/status/1402287337535459331

 
引用元ではなく、引用した楽山を批判しています。
 
楽山は、いつも、卑怯で、狡猾で、企みますが、大人の人格に成りえていないので、心は、ネズミ花火のようなものです。人を盲目にして、自らの盲目に気づかないのが、楽山です。恐ろしく知性も感性も劣化して、責任ある言動が出来ないのです。
 
「ああこれなんだな」と、いつも、他者を嘲笑っているのが楽山です。さらに、楽山は、「我が身もふりかえり、気を付けなくてはいけない」などとは思っていません。楽山は、だまされる側ではなく、自家製の詭弁によって、いつも、だます側の自覚だからです。
 
したがって、賛同したつもりでも、共感のつもりでも、自己愛性人格障害の楽山には、正常人の真似はできません。楽山には、共感も、誰かを真に尊敬することもありません。よって「我が身もふりかえ」ることなど出来ませんし「気を付け」ることもしません。だまされないでください。
 
楽山は、自分カルトですから、我が身を振り返ることもなく、慢心して、充実しているつもりで、人に意見が言えると思っており、かつ、その意見は客観的な卓見だという自覚があるのでしょう。自分のみすぼらしさを感知する能力がないので、自分の言ってることの下劣さに気づきません。
 
 
 楽山かもしれない筆致の過去のツイッターですが
 

raku
@rakusyo34
自分のやったことはブーメランで自分に返ってきますね(・_・;
午前9:03 · 2021年6月9日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/rakusyo34/status/1402416024557813760

 
最初、こちらにブーメランと言ったのは楽山のほうです。しかし、今までに、こちらが、楽山について、ブーメランという指摘をすることが、つまり自爆のようなことが、どれほどあったでしょう。書けば、おかしなことにしかならない、因果の、因が楽山で、果が楽山、という繰り返しです。
 
楽山は、こちら、または、キリスト信仰を、批判・否定・攻撃して自己正当化をしたつもりで、ひっぱたかれるのは、いつも、楽山のほうなのです。こちらは、楽山が書くたびに、楽山の文章から、楽山批判の題材を受け取っているという成り行きです。
 
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
Testosterone
@badassceo
断定口調で話す奴や偉そうな奴は信じるな。賢くなればなるほど自分がいかに何も知らないか気付いて断定口調で話さなくなるし、偉くなればなるほど偉そうに振る舞う必要がなくなり腰が低くなる。断定口調で話す奴は100%ただのバカだし、偉そうな奴は120%実際は偉くない小物。お前ら、これメモっとけよ?
午後6:34 · 2021年6月9日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/badassceo/status/1402559816610967554

 
引用元ではなく、楽山を批判しています。
 
断定口調でなければ大丈夫と言うことはありません。その最悪の例が、楽山ブログとツイッターであります。断定口調を避けることは、断定できるほどの責任を負えない楽山であったり、柔和を装う楽山であったり、刷り込むための楽山の丁寧語であったりします。
 
断定しているから受け取るのではなく、断定していないから安心するのでもなく、冷静に理路と心の共感を追う姿勢が大切です。楽山は、冷静に、冷酷に、邪悪な詭弁の理路を捏造し、理解と共感のなさを、とっつきやすそうな言葉の体裁で繕う婉曲表現が手口なのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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