ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の弁神論(2)3

 
  楽山の弁神論(2)3
 
 神義論、弁神論についての対話 2
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25268499.html
  を改めて批判。
 
 
楽山の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの偏向した負の情熱、つまり、怒気のベクトルが、無反省に、執拗に、詐欺的言説によって、にじり寄ってきます。また、自作自演でしょうから、信者も老人も楽山です。
 
 

*なぜ神は悪を止めないのか
信者「神は悪を止められるはずなのに、なぜ止めないのかと仰いますけどね、そこには神の深いお考えがあるんですよ」
老人「たとえば、どんな?」
信者「神の愛は、砂糖菓子のような愛ではないんです。砂糖菓子は美味しいです。でもそればかり食べてたら虫歯になってしまいます。だから神は、人々の魂を鍛え、進歩させるために、幸いを与えるだけでなく、試練を与えることもあるんです」
老人「つまり、神は、人々の霊性の向上のために、あえて悪の存在を許容しているということかな」
信者「大雑把に言えばそうとも言えますが、だからといって神は悪を奨励しているわけではありませんからね。悪と見えし、この世の苦難困難は、魂を磨き、霊性を向上させるための砥石としての役割があり、そこに意味があるということです」

 
このように、神を、人間の考える正義の立場から、矛盾だ、矛盾だと、正論を繰り出したつもりになるのが、楽山のような偽善的無神教かるとの生業(なりわい)なのです。なのに、代わりとなるものを何も提示できない無責任さなのです。それと、虫歯の喩えは、ひどいものです。
 
楽山は、霊性の向上、などという、一見、高尚に見える言葉が大好きでが、それに見合う中身が全くありません。信仰に必要なのは、人間に相応しい心なのです。上の記事のような、試練だと言えば、死んだら試練にならないでしょう、という責め方は、陳腐であります。
 
神がなぜ悪を止めないのかという疑問は、誰もがいだくでしょう。私もいだきます。しかし、そういう疑問があるからと言って、無神教カルトに堕してゆくのは、楽山の、人間としての浅さと短絡と身勝手ゆえです。信じるかどうかは自由です。しかし信仰を侮辱することは許されません。
 
信仰者は、先ず、苦悩があり、そこからの、慰めでも、励ましでも、癒しでも、救いでも、いただきたいと思うゆえに、聖書を読むのです。危機を逃れられるからでも、死なないからでもなく、危機のほうから訪れてくるから、耐え忍ぶ力が欲しいのです。
 
信仰者は、机上で小理屈を捏ねている気取り屋とは、種類が違うと言ってもよいでしょう。ですから、決定的なこととして、楽山のような偽善者は、人を救う道を、何も提示しえないわけです。総て、机上の空論だからです。楽山の信仰理解は絵に描いた餅だと分かります。
 
楽山は、愛と共感を知りません。ゆえに、キリストの愛と共感も知りません。それが、妬ましいから、文句を言っているという極めて低次元の自己中であり、それを、何々論だとか言って飾っているだけなのです。自己愛に生きる者は、他者の意見と、自らの矛盾を、両方、無視する人生になります。
 
誰も認めてくれないから、その小理屈を言うことにだけ快感を覚えるのでしょう。言ってみれば、いちばん、この地上で、何処にも正当に届かせるものを持たないで、独り言を書いて、他者をあざ笑い、侮辱し続けている人種なのです。
 
 

老人「それは、逆境にある人が、自分自身の心を奮い立たせようとするときには有効な考え方だろうが、他人に対しては適用できないものだね」
信者「どういうことですか?」
老人「たとえば、逆境にある人が、『この苦難、困難には意味があるんだ。自分はこれを乗り越えることで、魂を鍛え、さらに高く飛翔できるんだ』と前向きに考えて頑張るのは結構なことだ。でも、児童虐待事件などについて、『この苦難困難は、この子の魂を向上させるためにあるんです。神の愛は砂糖菓子のようなものではないんです』と第三者の立場から言うとしたら、こんなバカなことはない。あなたはそうは思わないかな」

 
楽山が、幼稚な辻褄で、悲劇が起こるから神はいない、と言うなら、同じように、「こんなバカなことはない」ということです。
 
まことに、人の意見を聞かず、繰り返し、陳腐な意味付けを欲するのは、楽山のような自己愛者の性(さが)であります。もう一度、書くと、代わるものなど、何も持っていない楽山だということを強調しておきます。つまり、どこまでも気取りだけであり、からっぽなのです。
 
誰も、良い意味付けをしてくれないものだから、正義の味方気取りで、自分で意味付けをして、それと違うものを否定する、という、みじめな人生を送っているのです。しかし、信仰の意味も意義も知りませんから、やたら神を否定する不良でしかないのに、気づかないのです。
 
 

信者 「それとこれとはちがいます。その二つは同列には語れない問題です。大人の話と、子供の話を同じにするなんて、頭悪すぎです」

 
「頭悪すぎです」これが、楽山の本音です。自分以外の人が、頭悪いと思ってしまう自己愛者なのです。だから、高慢から、説教をしたつもりでいて、実際は、誰も聞いていない、誰にも良い影響を与えられない、という人生を、独りよがりに歩むことになります。
 
 

老人「でもこのたとえによって、この世の悪は、人の霊性を向上させるためにあるという考え方は、逆境にある当人に奮起を促すための精神論としては有効な場合はあっても、この世に悪がある理由を説明する理論としては不完全であることが分かるだろう」

 
「この世に悪がある理由」を説明されないと気が済まない楽山です。そして、完全な理論を求めているらしいですが、その割には、楽山の嘘と詭弁が、ひどすぎる経過なのです。
 
 

信者「そんなことは勝手に決めないでください。たったこれだけの例で不完全と決めつけるのは卑怯です。あなたは自説に都合のいい例を持ち出してるだけじゃないですか」
老人「ある仮説が不完全であることを証明するには、その仮説で説明できない事例を一つだけでも挙げればそれで十分だと思うけどね。でもまあいいか。それで、この件について他に意見はあるのかな」

 
「この世に悪がある理由を説明する理論としては不完全」・・完全に知らないと、楽山は気が済まないのでしょうか。今の現実はどうかということから出発できないのは、楽山が、非現実に生きているからでしょう。前提を確認します。老人も、信者も、楽山です。
 
仮説をあげても、神を説明することなど出来ていないし、否定することも出来ていません。さらに、楽山は、信仰者から、キリストの与える愛と共感の感動体験を奪うことは出来ません。楽山は、部外者の気楽なお山の大将として、苔というよりカビのように生えて、獣道を、へらへらふらふら、徘徊しています。
 
不思議なのは、虐待された子供が死んでしまっては救いも何もあったものではない、という疑問を、まだ、楽山は言っていません。気づいていないのでしょうか。だとしたら、とても、程度の低い疑問ということになります。何から何まで陳腐な楽山です。
 
このように、虐げられたまま死んでしまう人々にとって、神はどうして救わなかったのか、という疑問があります。その答えは、キリストの愛と共感に包まれている、また、それを知る、ということが、希望と救いになるわけです。楽山のように屁理屈をこねる乱暴者には、分からないことです。
 
死後のことは、神に任されるので、人が決めつけてはいけませんが、想像して、願うのは、神を拠り所とする信仰者の自由な思いということです。それで不服な人たちは、耐えるのではなく、信じないほうを選ぶのでしょう。楽山はどちらでもなく、神はいない、いないと、虚しく吠えています。
 
ゆえに、天国ということが聖書には登場するのです。その希望を支えるのは、愛と共感のために、命を惜しまなかったキリスト、その御方に対する私たちの愛と共感なのです。ゆえに、天国は、人々の間にある、というキリストの言葉が意味を持ってきます。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書
 

信者 「当然あります。はっきり言って、あなたは我が強すぎます。我が強すぎるから、自分の小さな頭で考えたことが全てだと思って、それで結論づけて得意になってるんです。物事はもっと大きな視点でとらえるべきです。悪についてもそうです。そういうことは、自分の小さな頭で考えるんじゃなくて、もっと大きな視点…いわば神の視点でみてこそ、その意味が分かるんです。それでこそ、悪、苦難、困難、悲惨…などが存在する本当の意味が分かるんです」

 
若い楽山も、年寄りの楽山も、どちらも楽山です。どちらも何も分かっていません。特に若い信者のほうは、キリスト教をかばっているように見えますが、年寄りに負けることで、神を否定するのが、楽山の狙いなのです。意見が分かれているのは、楽山の虚構と虚妄の芝居に過ぎません。
 
「神の視点で」見ることなど、人には出来ません。ここに、でっち上げの、にわかクリスチャン芝居の若者の正体が、バレてくるのです。楽山が、失敗して醜態をさらす若者役を演じることで、話し全体としては、神を否定するという話です。
 
楽山は、こういうことを好んで、わざとらしさも平気で、刷り込んでくる人です。楽山は、よっぽど、かまってほしいのでしょう、ほめてほしいのでしょう、インテリ、優しい、賢者、・・と言ってほしいのでしょう。やさしいお人柄ですね、というコメントが来て、うれしそうにレスしていました。
 
 

老人「つまり巨視的視点からみれば児童虐待に宗教的な意義を見出せるってことかな。いやいや、どういう視点から見ようとも、児童虐待に存在意義を見出すなんて、人としての情緒を保っている限りは、それは無理だよ」
信者「だから言ってるでしょう。人の視点では分からないんです。神の視点でなくては…。あなたはこの問題について、あれこれ言うなら、まず神の視点を得てから言ってください。神の視点も、神の心も何も分かっていないくせに、あれこれ言うのは傲慢というものです」

 
実際に起こってくる事件や不幸や災害について、神義の意味を付けるのは、我は神なりと、思い上がった人の言であります。人間は、災いに際しては、泰然自若などしておられず、意義など語れるはずもないのです。それは、超常がらみの机上の無信仰カルトの楽山教?の妄想であります。
 
どうしても、楽山は、見にくく狭い視野で、神と信仰を考えるようです。知らないこと、分からないこと、見えないことがあるという信仰の世界に、楽山が、どこまでも反発してくる病理のわけが、ここにあるのでしょう。神の視点・・持ってるつもりでしょうか。愚かすぎます。
 
 

*イワン
老人「この辺りの議論については、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャとイワンとの対話で表現されているね。有名な「大審問官」の少し前のあたりだ。イワンは、神の存在と児童虐待の関連について熱く語っているよ」
信者「話をそらさないでください。あなたに神の視点が分かりますか。分からないなら黙りなさい。あなたの努めは、知識自慢をして知ったかぶりをしないで、まず黙ることです」

 
楽山の言い分が、あまりにも幼稚で、かつ、批判に対して何も答え得ない男なので、書くな、ということは、前から言っています。無責任なことしか言えないなら、言論の自由はないのです。楽山は、責任も負わず、他者を無視し、群がる蝿のようにわずらわしい騒音となっています。
 
 

老人「なかなか手厳しいね。すぐ終わるから、ちょっと話を聞いみてほしいね。記憶に頼って話すので、不正確な部分があったら申し訳ないのだが、この物語の中で、イワンは、神の計画のために幼児の犠牲が必要だとするなら、自分は天国への招待状は受け取る気にはなれないという風なことを主張しているんだ。神の計画が成就したあかつきには、犠牲になった幼児も、他の人たちもみんなが天国で幸せになるとしても、そのために罪のない幼児を犠牲にしなければならないというのには納得できないと…」

 
納得できないから神はいないと言って、神がいなければ納得がいくかと言う問題に、この二人は、何も答えを用意できていないのです。はっきり言って、悲劇が起こるから、お伽噺の慰めではなく、現実に耐えて生きるために信仰が必要なのです。
 
 

信者「それで一体何が言いたいんですか」
老人「あなたは児童虐待について神の視点から見ればその意味が分かり納得できるというけれども、私はそれが神の計画の一部であったとしても納得できないということだよ。人としてそれに納得してはいけないとも思っている」

 
神の視点は、人間にはありません。神の視点から見れば意味が分かるというのは傲慢です。老人は、人ですから、神の視点を持ちません。若者は、気安く超常に話を飛ばして、老人を批判している時点で、分からないことを分からないと言えない自己愛者です。どちらも楽山です。
 
信仰の原動力が愛と共感であることを知らないし感じることも出来ない楽山です。神が、その被造物である人を、いちいち納得させる必要はないのです。それでも、人は、キリストに引き寄せられてゆくのです。楽山は、このことが、全く理解できないのです。
 
楽山は、興味本位の屁理屈をこねるだけです。とても身勝手な自己愛性人格障害から、神の計画にも、信仰の世界にも、いちゃもんをつけるだけです。何の関係もないし、何も知りもしないのに、執拗に文句だけは言ってくる、という、ストーカー的な迷惑部外者です。
 
 

信者「それは確信犯として神に逆らうということですよ」
老人「イワンはそういうところはあるかもしれないね。多分彼が言う幼児というのはキリストのことなんだろう。神の計画のためには幼児の犠牲が必要であり、その犠牲の後は、その幼児も他の人も天国で幸せになるだとか、罪のない幼児を犠牲にして天国に入りたいとは思わないだとか主張しているからね。ただイワン本人は、教義、ドグマを批判しているだけで、神そのものに異議を申し立てているつもりはないかもしれないが」
信者「なにやらグチグチ言ってますが、ようするに神がすることは気にいらないと文句を言ってるのでしょう」
老人「上のことは、イワンの心理を自分なりに想像してみただけだ。私自身の考えをいえば、もし神が存在するとしたならば、こういう問題については、宗教教義やドグマによって簡単に割り切って済ませてしまうのでなく、大いに迷い悩むことを人に求めていると感じるね。だから神は、苦悩するイワンはもちろん、イワンに反論できないアリョーシャのことも温かく見守っているだろうと思う」

 
人間を、好きなように実験材料として語っているところに、楽山の、非人間性を垣間見ることが出来ます。そこに、実感はなく、「悩む」こともなく、「温かく見守」ることもないのです。いつも、言葉だけ、人間らしいふりをしていますが、言い損ねた台詞のように、浮いているのです。
 
「大いに迷い悩む」ことの跡が、楽山には、全く見られません。独り芝居で、結論の出ようのないことを、偉そうに語って、気取りたいだけです。老人の、神が「温かく見守っているだろう」というのは、上のほうの「納得」できない、という台詞と矛盾しています。
 
楽山の我欲が原動力だから、芝居も対話形式も、恣意によるために、いい加減な作りになっています。どちらの考え方としても、もし神が存在するとしたならば、という、あとの理屈を、楽山の狭い世界観によってこねていることです。
 
まず、信仰は理屈ではないですし、その時点でアウト、さらに、楽山の貧相な理屈で分からなければ否定、という傲慢の時点でアウトなのです。アウトの部外者なのに、執拗に書いてくる、ここでアウト、チェンジ、なので、もう出てこないようにしてほしいわけです。
 
 

信者「呆れた。自己都合信仰も、ここに極まれりですね。あなたの言い方だと、神は、人が信仰に迷い、悩み、棄教して、無神論者になることを期待しているかのようではありませんか。自分が退転し、無神論者になったからって、神がそれを望んだからだというのは、自己都合信仰にもほどがあります」
老人「私が言っているのはそういうことではなくて、ちと口はばったいのだが、端的に言えば愛が大事だということだよ。この世の悲劇、悲惨について、宗教教義やドグマによって「因果応報ですね」「前世のカルマですね」「霊性向上のための試練です」などと簡単に判定して済ませてしまうのは冷淡すぎるのであって、それよりは宗教教義やドグマによって割り切ることはできず迷い悩む方が人としてまっとうな生き方だろうということ」

 
楽山は、愛を、字面の概念だけで語れると思って、信仰を、愛だから冷淡ではいけない、とか言うことで語っている時点で、信仰を、薄い同情に貶めています。これは、つまり、楽山は、神の理路を、人の理路、実際には、楽山の、みすぼらしい壊れた心無い理路で考える時点で、またアウトです。
 
こういう野蛮な理路は、結局、信仰に難癖をつけるだけに終わるからです。それと、信仰者が、思い悩むことには、祈りと信仰があり、癒しや安らぎという恵みを受け取っているから耐え忍ぶわけです。老人の楽山の「迷い悩む方が人としてまっとうな生き方」は暴論です。
 
心に半端な持ち物が多い人は、信仰に至りません。その最悪な場合は、他者の信仰を尊重することさえしなくなり、自我の執着で一生を、不平不満でいっぱいにしながら終えることになるのです。楽山に書くなと言った理由の一つが、ここにあります。我執の不幸をまき散らすなということです。
 
 

信者 「なにやら、もっともらしいことを言ってますが、結局は自己正当化のための屁理屈ですね。信仰を全うできずに退転したくせに、それを認めたくないために、屁理屈を並べてる」
老人 「これは屁理屈かな? それではついでにもう少し屁理屈を並べさせてもらうと、イワンは大雑把に言えば無神論者だね。でも深い愛を持っていることは確かだ。だから神は愛であるとすれば、深い愛のある無神論者であるイワンは、神とともにある無神論者と言える。一方、何でもかんでも教義やドグマで割り切ってしまう教条主義的な信者は、愛に欠けている。こういう人は、神を失った信仰者であり、神とともにはいない。あなたは神を信じるかどうかを最重要事項としているけれども、私は信仰の有る無しなんて、愛があるかないかと比較したら些末な問題でしかないと思う」

 
「神とともにある無神論者」・・明らかな矛盾律の詭弁を出してきました。自己弁護だと思いますが、楽山は、無反省・無責任・自己中だから、信仰を論じる資格がないと言っているのです。楽山は、深い愛を持てず、無神論者としても成り立たない幼稚さで、慢心しているナルシストです。
 
二人とも楽山ですから、「信仰の有る無しなんて、愛があるかないかと比較したら些末な問題でしかない」などと言っています。宗教を考えるうえで、信仰と、愛を、分ける時点で、アウトなのです。何度、アウトになっても、不勉強で怠慢な楽山は、病質のために反省しません。
 
 

信者「ははは。『酸っぱいブドウ』ですね。イソップ寓話では、キツネは美味しそうなブドウを見つけて食べようとしたものの、いくら飛び跳ねてもブドウには届かなかったため、『このブドウはどうせ酸っぱくてまずいんだ』と負け惜しみを言って立ち去ったそうです。あなたは退転をして信仰を失ったから、信仰なんて価値はないと負け惜しみを言ってるんです。かわいそうな人ですね。あなたを見ていると、教祖様が『何があっても、絶対に、信仰を失ってはいけない』と繰り返し警告しておられる理由がよくわかります」

 
信者は、合理化機制の話をしていますが、老人は信仰を失ったという設定なのでしょうか。教祖様というのは、楽山が執着しているHSの教祖のことでしょうか。楽山は、分かると言っています。まだ、執着しているわけです。主旨がバラバラです。そして、二人とも、楽山なのです。
 
 

*なぜ神は悪を止めないのか
信者「あなたの無駄話のせいで、大分話がそれたようなので戻しますけど、あなたはこの件については、そもそも問題の立て方が間違ってますよ。『なぜ神は悪を止めないのか』と言いますけど、この世界には因果応報という法則があるんです。すべては善因善果、悪因悪果です。因果は決してくらますことはできません」
老人「それについては先に述べてるね。この問いの前提は、神は全能であるということだよ。それだから、『神は絶対、全能、完全で、悪を止めることができる。それなのに、なぜ悪を止めないのか』という問いが生まれる。あなたのように、因果律が絶対で、神はそれを曲げることができないとするなら、この問題が生じないのは当たり前だね」

 
老人が、神の全能によって信仰を捨てたという設定なのか、楽山の、まやかしは、理解できませんし、理解する必要もないのです。楽山の因果律は、楽山の頭の中にしか存在しないものですから、楽山のゴミ箱を漁ることはしません。
 
人の言論で、神を明らかにすることは出来ません。また、神の全能は、人の都合で動くわけではありません。つまり、信仰者は、神を分かるのではなく、神を恐れ、キリストに共感し、この御方を、生きるために必要とする人です。
 
 
楽山は、こちらが批判記事をアップすると、ぽつぽつと、新しい記事を追加アップするようですが、その中身は、他者の本の都合の良いところだけを引用するような、身勝手で、独自性がなく、それに加えて、小姑のような愚痴を並べる、という成り行きになっています。
 
楽山は、批判対象記事を、新しい記事で、後ろに、後ろに、隠したいようですが、既に総てコピペしてあるわけですから、こちらは、じっくり、ゆっくり、批判記事を練ってゆくことになります。これからも、必要と思えば、何度でも、批判の俎上にあげてゆくでしょう。
 
 
楽山は、太平洋戦争のA級戦犯大川周明の記事を書いて、賛同しているようでした。相変わらず理路になっていないようだが、楽山は、右翼青年だったのかもしれません。下書きは出来ているので、7月上旬には批判記事をアップする予定です。(去年の話です)
 
 

      

               荒野の血便
 
 
(2020年06月28日)
(2021年07月04日、再録+)
 
 
 
  白い目のピエロ
 
薬をのむ
白い目のピエロが現れる
鉛のような倦怠が襲ってくる
長いトンネルの無為にふらつく
 
暗闇で見る幻に
縫合の糸をかける踊り
 
血を抜いた
平気な顔をして笑う好褥の皮膚
その傷から生えてくる
歯を抜いた
血の味 細菌の熱をのどで飲み込む
昔のんだ鼻血の味が残っている
 
拳銃と注射器の危うさに
火の粉とガラスをまき散らす
白い目のピエロ
何度も身を引いて
しばらくすると戻ってくる
静まりかえった舞台で踊る
 
曲もなく詞もなく拍手もなく
そのたびに眼が白くなっていったという
不眠に遊び
白髪を覆い隠して
笑うために ピエロ
また薬をのむ
脳に回った毒が笑う
泣く
 
 
  覚えてしまった
 
空腹を覚える前に
食べることを覚えてしまった
夜の澱粉質の中を
重く泳いでいる
目指す島は
秘密の酵母に託されていて
見つからない
放蕩の鍵
泥酔の臓腑どもは
消化しきれず
騒いでいる細菌どもが
恐れている荒野は
無機質の誕生の前に
渇くことを覚えてしまった
 
 
  ブラックリスト
 
大きなビルの中
長い廊下
曲がり角とドアと
背筋を伸ばして歩く
清潔な背広とネクタイの間に
ブラックリスト
ときどき見えては隠れる
緊張するからジョークも出る
生きているのは噂話(うわさばなし)か冗談か
計算され尽くした角度を計算し尽くした
弧を描いて置かれた
物と人の間で
またブラックリストが見え隠れしている
人が恐れる
ブラックリストをよく見ると
おびえているのだ
最も恐れる
ブラックリストを見た人の
リストに載っていないかと
 
 
  私の出入り
 
みみ に はいる ふるえ
ひびき に するのは わたし
こえ に するのは わたし
め に はいる ひかり
かたち に するのは わたし
いろどり に するのは わたし
 
もの に するのは わたし
いみ に するのは わたし
ムードに するのは わたし
イメージに するのは わたし
 
つくるのは わたし
おぼえていくのは わたし
わすれていくのは わたし
こわすのは わたし
こわれるのは わたし
 
こわすのは だれ
わすれるのは だれ
おぼえるのは だれ
つくるのは
だれ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
このところ、楽山は、ツイッターでの応酬が頻繁なようです。自己正当化合戦みたいです。こういうのが楽山の人生なのでしょう。決定打がないまま、一生にわたるでしょうか、まさか、しかし、宗教、カルト、妄想、自己中、といった世界では、それが、ふつうに生き甲斐なのかもしれません。
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏は、アンチを論破したら粘着されたと言うけど、現実はこうでしょ。
① 棒氏はアンチに噛みつくも、返り討ちにあってアカ削除
② 新アカつくってアンチに噛みつくも、またもや返り討ちにあってアカ削除
③ ②を繰り返す。
論破されて粘着してるのは、アンチでなく、棒氏の方だよ。

 
楽山の言う議論というのは、自分が相手を論破、相手は粘着ストーカー、と詰(なじ)ったり、話の筋を変えたり、そっちが悪い、などと決めつけ続けるのが楽山の処世なのです。元々実りを期待していないので、あることないこと、屁理屈と詭弁で、まとまりもなく責めて攻めてきます。
 
楽山のような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と議論してはいけません。曲がった知性と感性を持つ者と遣り取りしても、異常に疲れるだけで、百害あって一利なしです。こちらの人格がおかしくなる恐れがあります。じっくり考えることの出来る記事でのみとするべきです。
 
私はブログ記事で楽山を批判していますが、楽山は、真っ当な返しが出来ません。受け取る感受性がなく、理路を組み立てる知性がないからです。かつ、楽山を私のサイトの出禁にしています。楽山は、異常に多数投稿や異常な長文投稿をしてきます。そして、詰(なじ)ることしかできないのです。
 
コメントの遣り取りと違って、即時応答の必要ない記事ですから、思考を混乱させられる恐れも、楽山のペースにハマることもなく書けます。楽山が私への記事を書いてもツイートしても、そこにあるのは、決めつけの悪口を書いてくるだけなので、それを批判するかどうか、こちらが判断してゆきます。
 
ネットにおける楽山は、結局、荒らしなのです。嘘を吐き、詭弁を弄して、なじる、おとしめる、皮肉を言って笑う、などですから、それを、いちいち指摘してもよいし、もっと、根深いところにある楽山の体質的欠陥を指摘してもよいので、もはや、手加減はしないつもりで書いています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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