ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

有名人を悪用する楽山3

 
  有名人を悪用する楽山3
 
 『人は、なぜ他人を許せないのか?』中野信子
 2020年06月14日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25159990.html
  を改めて批判。
 
 
楽山の偽善性:今までに表れてきたこと。
1.自己愛が強く自己中である。
2.後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。不感不応。
3.議論や交流が、できないし、する気がない。
4.反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
5.キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込んでいる。
6.ボンヤリ言語:直球ではなく、曖昧で婉曲的な言い方をして印象を刷り込もうとする。
7.平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
8.相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
9.深い情感がなく、共感性がない。
10.理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
11.学者・批評家・読書家気取りで、分かっているという我執から離れられない。
12.罪悪感、羞恥心が見られない。不感不応。
13.トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。
14.アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
15.HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
16.霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
今回も、楽山は、学者気取り、読書家気取り、インテリ気取りの、醜い婉曲的嫌がらせだけで、何の反論にも弁明にもなりません。また、有名人の記事を悪用しています。つまり、字面だけ、都合の良いところだけを引用し、箔を付けたつもりで、もっともらしく見せかけています。
 
 

中野信子氏の著作は何冊か読んだことがあるが、どれも面白かったので今度は本書を読んでみた。やっぱり面白い。その内容は自分の理解ではおよそ次のようなものだ。

 
以下のようなテーマを「やっぱり面白い」と言う楽山は、やっぱりおかしい、と思います。興味本位で話のネタにしても、加害者は、ことごとく、楽山に当てはまるからです。
 
 

誰かの加害行為によって被害を受けたら、それに憤りを覚えるのは当然である。しかしネット上においては、有名人の不祥事などに対して、自分は直接被害を受けていなくとも、当事者とは何の交際もなくとも、激しく怒り、攻撃的な書き込みを執拗に続ける人たちがいる。なぜそのようなことになるのか。その一因としては、人は「他人に『正義の制裁』を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出され」るということが考えられる。「この快楽にはまってしま」うと、いつも他人を攻撃せずにはいられなくなり、「いわば『正義中毒』」のような状態に陥ってしまうこともあるのだ。こうなると「自分と異なるものをすべて悪と考えてしま」いもする。

 
憤りを覚えるのは当然と書いていますが、ならば、楽山は、なぜ、憤って書いているこちらの、上の箇条書きに結び付く指摘をしている批判に答えず、無視して、婉曲的な記事ばかり書いて、当てつけてくるのでしょう。やり口が卑怯で汚い楽山は、また、斬ったつもりで、斬られています。
 
こちらからの批判とは関係ないと楽山が仮に言ったとしても、こちらが書いた批判の後、批判に関係のあることを、他者の文章を引用~利用して書いてくるという自己正当化のための作為的な当てつけの特徴が出ています。当てつけしか出来ない楽山です。
 
楽山は、"正義中毒"と書いていますが、正義は中毒なのでしょうか、否、本当の正義には反省機能があるので、実際は、中毒ではありません。偽の正義は、楽山が、今、有名人の本をネタにして書いているこの記事のことです。"自己中毒" とでもいうべきものです。
 
楽山の、慢心や自己中こそ、正義の振りをして、中庸の振りをして、実際は、キリストと神を幼稚な疑問のまま貶めてきた偽善であり反キリストなのです。楽山は、自分で理路を組み立てることが出来ません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴が今までも表れてきました。
 
楽山は、この記事で、批判している奴は正義中毒じゃ・・とでも言いたいのでしょうか。批判を無視して、他者の口を利用して、当てつけを書き続ける楽山こそ、正義に見せかける自家中毒です。楽山の毒は、他者を疲労させ、かつ、加害者の楽山自身を、いっそう、腐らせ、破壊してゆきます。
 
それが、反キリストで偽善者であるシャロームの、"罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい"、という反キリストの信条に無条件賛同をするという経過になっています。キリスト信仰とは、真逆の信条で、これが、シャロームが、偽キリスト者、偽牧師であることの証拠になっています。
 
この記事もですが、楽山の正義は、本当の正義ではなく、自己正当化の保身に過ぎず、自我への執着のために、正面を向いて答えられず、他者の意見を悪用するという卑怯な経過が続いているのです。楽山の企みは、有名人を引用し、評論家の筆致に似せて、気取って見せている醜悪な詭弁であります。
 
楽山は、批判と悪口の区別が出来ず、自分と異なる意見、また、自分に対する批判を、総て悪と考えて無視します。そして、有名人まで利用して当てつけのような記事を書きますが、それが悪である根拠を示したことがありません。判断の基準が、楽山自らの快楽原則にしかないからです。
 
 

ここから抜け出すには、どうして人を許せなくなってしまうのかという「脳の仕組みを知っておく」ことが肝要である…云々。この後著者は、正義中毒と脳の働きとの関係を説明し、その予防と対策についていくつもの提案をしているのだが、これについてはネタバレになるのでここでは控えておく。

 
楽山は、脳の仕組みを知る、という、たいそうなことを、さらっと書いて、予防と対策などと言っていますが、肝心の中身は、今回 "ネタバレ" などという俗語を使って、書こうとしません。以前、"神通力" とかについても許可制などと言って同様でした。楽山に著作権はないのですが。
 
有名人の著作であり、自分が書いたわけでもないのに、どうして、ネタバレを気にするのでしょう。恐らく、楽山は、他者の者と、自分のものの、区別がつかないのだろうと思います。他者の文章が都合がよいと利用して、自分が書いたような幻想に生きているのでしょうか。
 
つまり、自他未分化が見られ、付随して、本についても詳しい理路を理解していないか、秘密性で気取るのが好きなだけだと思います。結論だけ当てはめても、引用するだけ悪用になり、無駄なのです。自身の言に説得力の無い楽山の策略に過ぎません。
 
 

自分にとって本書中で特に面白かったのは次のような意見だった。正義中毒は特定の誰かに限ったものではなく、「人間である以上、どうしようもないこと」であり、誰もがそのようになりうるということ、近年の研究によって、保守かリベラルかは先天的に決まっている部分がないとはいえず、いわば生まれつきの保守脳、リベラル脳といった分類は不可能ではないことがわかってきたということ、

 
楽山の理路は、どうしようもないことは、どうしようもない、誰もが成りうる、先天的に決まっている部分がある、生まれつき、などという、その中間にあるものを考えない短絡なのです。どうしようもないことなら、近づかないことですが、その対象は、まさに、楽山であります。
 
分からないことを保留に出来ず、分からないと言えず、何でも分かっている自己愛によって、場当たり的に、バタンバタンと薄板を叩いて当てはめるような雑な思考で、結論を書いて、ひと仕事したかのように満悦してゆくのでしょう。
 
"決まっている部分がないとはいえず" というボンヤリ言語ですが、曖昧ながら、印象付けるために、その場で、のぼせて書いてくるのは、曖昧でも、当てつけと刷り込みには十分という計算があるのか、今までも繰り返されてきたのです。
 
自己愛性人格障害の楽山は、こういう印象操作や刷り込み的な物言いしか出来ないのです。自らの独創性で書くことが出来ず、理路と共感の貧困な楽山の中には、暫定的にも確かに主張できるものが、何も無いからでしょう。発想できない貧困が、病質の思い上がりだけを持っていることになります。
 
 

脳には正義中毒を抑制する働きをもつ部位があり、それは25~30歳頃に成熟し、加齢とともに脳の他の部分と同様に衰えるものであり、これはキレる高齢者、暴走老人と呼ばれる人々と無関係ではないこと、

 
"キレる高齢者、暴走老人" とは、読んだ本では一般論であったとしても、楽山は、老人である私に批判されているという経過において書けば、恐ろしく侮辱的な当てつけになる、ということを狙っていると思います。逆らう者には病名を当てて貶める楽山の処世なのです。
 
楽山の病質から、こういう言葉選びに、自己愛と他者侮蔑の症状が出てしまいます。つまり、反論も弁明も出来ないために、楽山は自身に対して批判する者を、異常者としてしか見れないのです。丁寧語の裏に隠された楽山の悪意が、今回も表れています。加害性として重症だと思います。
 
表面だけ丁寧な言葉を連ねても、引用とはいえ、このような言葉を選び、使うところに、楽山の、決して穏やかではない原始的で暴力的な体質・情動が表れます。引用し丁寧語で婉曲的に書いたことで責任回避しているつもりの一種の罵詈雑言なのです。
 
つまり、またしても、自己中で無反省で、引用元を含めて他者の迷惑などは、いっさい考えない楽山の厚顔無恥が表れています。丁寧だが、暴力的、ということがありうるという例です。そのような例がもたらす悪は、暴言以外にも、白々しい偽善や嘘や当てつけがあるということです。
 
 

脳の機能にはネガティブフィードバックというものがあり、他を攻撃すればそれを抑制しようとする働きがあること、同一人が正反対または矛盾する価値観を持つことがあるのは、社会的な価値観の大変化があった場合に対応するためではないかという仮説があること…などだ。

 
フィードバックなど、抑制機構は、価値観の大変化に対応するためでしょうか。個人の、生存のための日常的な他者との人間関係の学習などが関係しているのではないでしょうか。話を大きくして、正論に見せかけています。
 
楽山の筆致の特徴として、自分を除外して、大方、受け売りから、単方向に執着して誇大的になる傾向が認められます。冷静な学問なのだと見せかけたいのでしょう。
 
概念の字面だけを追ったような書き方です。フィードバック、矛盾する価値観、攻撃と抑制、というような、抽象的な、それだけでは中身の具体性・現実性が乏しいような高尚に見える書き方を、楽山は好むのです。そして、それで辻褄があったような専門家気分になって満悦するのでしょう。
 
だから、楽山の文章には、説得力が無いのです。うっかり、なんとなく、鵜呑みにして、褒め言葉など書いてしまうと、疲労だけを味わわされる地獄が待っています。
 
 

自分は、他人を批判した後に、もの言えば唇寒し秋の風という気分になることは多いし、

 
嘘です。執拗に、中身の無い自説を、他者の本の言葉を借りてまで、書き続けることは、そのような恥を知っている人なら出来ないはずです。楽山は、明らかに違います。同情をひくための、トホホ言語の典型で、つまり、常套手段としての、嘘の芝居なのです。
 
やんわりでも、きびしくでも、否定は否定、当てつけは当てつけ、嫌がらせは嫌がらせなのです。見た目は控えめに、中身はドロドロ、という偽善者が使う口車です。"キレる高齢者、暴走老人" という楽山の言葉の選択に、楽山の凶暴になりうる攻撃性が潜んでいるのです。
 
 

保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので、どうして自分はこうなんだろうと疑問に思うこともあったのであるが、

 
楽山は、どちらにも共感してしまうなら、矛盾ですから、書けないはずです。その時その時で、好きなように書いている自分の精神不安定と厚顔無恥に気づいていない楽山の愚痴です。これも自己正当化のために同情を誘う詭弁屋の、芝居がかった嫌らしい "トホホ言語" の三文芝居なのです。
 
 

本書によればどうやらこれはネガティブフィードバックだとか、価値観の大変化に適応するための生存戦略という面があるということらしい。

 
ネガティブフィードバックは、調節機能だと思いますが、生存戦略ではなく、反省の向上の動機になることです。説明抜きで、そう言うだけで、楽山は、満足するのでしょうが、嘘です。楽山の価値観は、ずっと、我欲に他なりません。
 
こういう分かったふうだけのきれいごとは、偽牧師シャロームshalom の大仰な誇大言語の筆致に、よく似ています。楽山やシャロームや易坊などの易坊類と呼んでいる者たちには、一人による成りすましの疑いを持っています。
 
 

終戦時、日本の勝利を信じていた熱心な愛国者のなかには、自決したり、発狂したりした人もいたというし、これから類推すれば、相反する価値観を同時に持つというのは、価値観について社会的な大転換があった場合に備える生存戦略としては確かに有効ではありそうだ。

 
楽山の、まとまらない言論を、こういうことで正当化できるものではありません。楽山は、相反する価値観を包含するような、いかなる言論も持ち合わせてはいません。どちらにも無責任で無反省であることが、うんざりするほど、表れてきたのです。楽山は、刷り込み屋であって、言論者ではありません。
 
楽山は、反省と学習を経ていない分、思想も言葉遣いも、未熟で、いい加減です。ここでは、また、短絡して、「相反する価値観を同時に持つ」というアンビバレンスか統合失調的な結論を書いて満悦し、疑問を感じないようです。
 
楽山は、"相反する価値観を同時に持つ" という字面だけを受け取って、批評家気取りで、自分もです!、有効ですね!、という気になって、辻褄合わせだけの満悦気分に浸っていますが、矛盾した言動の正当化と、相反する価値観の受容は、全然、違います。
 
相反する価値観とは、楽山のように両方持ってふらふらすることではなく、結局は、あらゆる価値観を、絶対とせず、訂正不能とせず、相対化して学習可能としておくことでしょう。自己中という訂正不能の単方向に固執する楽山とは、正反対の考え方です。
 
 

本書のおかげで、自分の心の動きについて長年に渡って疑問に思っていたことについて解決の糸口を見つけたようでうれしい。

 
何も解決していませんし、糸口さえも、楽山は、勘違いしているようです。このように、本を読んでも、そのたびに、勘違いし、誤読し、曲解し、偏見を強化して、妄想化して、決めつけて、自己満足して、独りよがりの思いこみを深めてゆくだけの楽山です。
 
 

それにしても、人というものは、脳の機能、適者生存といった視点から見ると、本当に面白いものだ。道学者的な視点からこのような問題を論じれば、「精神修養が足りん!」ということで終わってしまうのであるが、人を生物として見れば人をより深く理解できるし、さまざまなことを考える切っ掛けにならないとも限らないということなのだろう。

 
楽山は、何を面白がっているのでしょう。人を生物として見れば、と言っていますが、今まで、どう思っていたのでしょう。楽山は、人を無生物として、物として、見てきたのでしょうか。それとも、人間が厄介だと言いたいのでしょうか。非人間性の辻褄合わせが表れています。
 
生物として見れば、深く理解できるのでしょうか。違うと思います。楽山の言は、何の切っ掛けにもならないと思います。人は人です。人として生きたくないのでしょうか。脳科学の本を読んで、いや、眺めて、何を受け取ったつもりでいるのでしょう。空恐ろしいものを感じます。
 
「切っ掛けにならないとも限らない」・・こういう婉曲表現がボンヤリ言語の典型です。楽山は、謙虚のつもりで、随所に書いていますが、中身は同じであり、無理解で無意味の責任逃れにしかなりません。楽山自身の人格崩壊の切っ掛けになってゆくでしょう。
 
 

自分は元来、道学者であり、精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。

 
道学:
(ネットより)
1 道徳を説く学問。また、道徳を学ぶこと。
儒学。特に、中国宋代の朱子学宋学
3 江戸時代の心学(しんがく)のこと。
道家の学問。道教
https://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E5%AD%A6-103212
 
楽山のどこが学者なのでしょう。楽山は、道学と、体の良い "学" をつけても、道徳を学ぶことなどしていません。また、楽山は、いかなる論者にもなりえておらず、いわば見栄張りと遠吠えだけです。だから自尊と保身のために、ボンヤリ言語を、まるで体質のように多用し、平気で嘘を吐くのです。
 
楽山の言論は、嘘と飾りの化粧くずれです。中身がないから、失敗して、病識もなく、それこそ、精神が、小梅太夫チンドン屋のような、ふざけた装いになっているとしか思えません。道学というより道化であり、誰にとっても有害無益なチンドン屋だと、つくづく思います。
 
 

      

            まとものつもり? ちんどん
(ちんどんは、チンドン屋が安い宣伝でチンチンドンドン鳴らす擬音語でしょうか)
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月05日、再録+加筆)
 
 
 
  美しい表情
 
人間の表情の中で一番美しいのは
笑顔だと思っていたことがある
しかし愛想笑い・軽薄な笑いや
悪意に満ちた笑みもある
嘲笑や
謀(はかりごと)がうまくいったときの
ほくそ笑みなども。
 
どんな無益なことでもいい
仕事・学術・研究と呼ばれなくてもいい
何かに夢中になって
興味と
苦悩の色さえ入り交(ま)じった
一途なときの表情が
今は一番美しいと思っている
 
大真面目な漫画の落書き
誰にも読まれない滅裂な文章を書く夜
血が上り巡り巡る孤独な机上の空想は
冷血の川下へ寒く流されて
賽(さい)の河原の石積みに崩れながら
なおも求めつづける熱意によって
直(ひた)向きに凍り続ける顔
 
本当の楽しみは
誰からも与えられず
誰にも見えないもの
冷血の俎(そ)上において燃え上がり
常同行為のうちに焼け落ちる作業場だ
 
 
  知識と視野
 
知識が乏しくて視野が狭いと思っている人、一面的な知識しか持っていないために視野が狭いと思わざるをえない人は幸いです。何故ならこの世には自分の知らないことがたくさんあると思わざるをえないが故にこそ自分の視野の外に無限の未知の空間・キャパシティを残しているからです。
 
全知でも全能でもない人の知識・知恵・視野など、たかが知れています。人の視野の狭さを指摘する者の心の中には、相手より自分の視野が広いという思い上がりのようなものを感じます。
 
視野は
その狭さを痛感しているとき最も広く
少しでも広いと思ったり
狭さを自覚しないとき最も狭い
 
私に誇れるものがあるとすれば
私の知恵と知識の乏しさの自覚であり
私の視野の狭さであり
私の愚かさであり
私の不信仰であり
私の信仰である
 
 
  自信
 
かつて
思い上がりや
うぬぼれなら
体験したことがあるが
自信というものを味わったら
どんな気分になるのだろう
 
キリリと座しているコンピューター
今は何も映さぬディスプレイ
ディスクの中には山ほどの情報が
壁を作っておさまっている
 
朝になったら
いろんな人達がいて
おしゃべりや
物忘れをします
 
謙遜と自信
オペレーティングシステムの上で
ソフトな対話
電源を入れれば
カラフルな画面の上で
動きまわるソフトウェア
 
小さな扇風機がこちらを向いている
お前は回るだけだだったな
まわりはハイテクがいっぱい
 
お前は居眠りするだけだったな
まわりは複雑な自信がいっぱい
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
記事、読みました。「死人に口なし」ということを連想しました。立花隆氏とご遺族に同情します。
幸福実現党には、こういう死者を貶める恥ずべき行為には毅然としてノーといえる正義の政党であってほしいと思います。
午後1:10 · 2021年6月26日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1408638768739799040

 
「死人に口なし」「死者を貶める恥ずべき行為」と書いていながら、「正義の政党であってほしい」これ、アンチHSのスタンスでしょうか、希望を申し上げる書き方になっていると思います。幸福実現党の総裁はOR、つまり母体はHSでしょう。心ない楽山の、虚言に心なしでしょうか。
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
mi-mollet/ミモレ
@mimollet2015
·6月15日
心に深い傷を残す、親に虐げられた記憶――。大人になってなお、そのトラウマに苦しむ人は少なくないといいます。
毒親」でも介護するべきなの?
しんどい親子関係を今すぐ終わらせる方法とは
午後1:26 · 2021年6月15日·Twitter Web App
https://twitter.com/mimollet2015/status/1404656537159700480

 
引用元を批判するつもりはありません。引用した楽山を批判しています。
 
楽山のような病質、即ち、心に深い傷を残す自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の加害は、徒労と疲労と、ネットだけでなく人間を信じられなくなるトラウマを与え、全く気にすることなくキレイごとを言い、もてあそんで笑うことです。
 
楽山のような慮外者に、自らの人権と尊厳を踏みにじられてはいけません。害毒となる悪しき人間関係からは、直ちに逃げるべきです。自分を守るために、楽山を相手にしないでください。決して楽山に関わってはいけないと思います。
 
楽山は、批判されると、批判者を、"善魔" と言っていましたし、また、"正義中毒" と呼んでいます。善は、魔でしょうか。正義は、中毒でしょうか。それについて詳しい説明が、楽山は、全く出来ないのです。人間に分かる根拠を、霊能者気取りの楽山こそ、善魔そして正義中毒だからです。
 
誰よりも、楽山こそが、偽善者、善の仮面をかぶった悪魔性、すなわち、善魔、そして、逆らうものを、正義中毒と呼んで、呼ぶだけで、何も説明できない不全の者です。楽山は、だますための詭弁だけで、整った理路を持ちません。丁寧語に、だまされないでください。
 
楽山が、善魔と言い、正義中毒と言っても、妄想話、超常話、批判を無視した自己正当化などを書いても、楽山自身が根拠のある反論も弁明も出来ません。こういう欠落の経過が、逆に、楽山が詭弁屋であることを示しています。楽山は、善ではなく魔であり、正義ではなく自己中毒です。
 
つまり、楽山の言は、他者に言ったつもりでも、ブーメランのように自分に返ってきます。そして、そのことが表すのは、無反省・無責任の、善の見かけの魔、そして、正義を中毒におとしめる偽善者、楽山です。このようなブーメランは、楽山が、でっち上げの正論を書くたびに起こってくるでしょう。
 
楽山が、いくら、目新しい学術みたいな用語や、善魔、正義中毒、などと言っても、そこに、根拠という実がないのです。NPDの楽山は、靄(もや)のような言辞で、理路をごまかし、詭弁と誘導をもって、嘘っぱちで無責任な楽山の詭弁を刷り込んでくるだけの地獄の木っ端役人です。
 
 
楽山が、いくら論理ぶった書き方をしても、自己愛のために、冷静な理路にはなりません。だから、見栄を張って、学者を引用し、見かけだけ学問を気取ります。実際には、楽山は、学問より、超常話が好きですが、自己愛者だから、のめりこんで、現実離れして、膨張して、破れてゆくのです。
 
楽山には、しんみりと悲しんで自分を悔いて振り返るような高等感情がありません。同様に、罪悪感や、羞恥心や、共感や、反省する心がありません。ゆえに、言葉だけの同情や卑下を繰り返します。トホホ、反省、共感、胸に刻んで、・・などです。言葉だけなので、正体を知ると吐き気がします。
 
楽山は、遣り取りが核心に触れると矛盾が噴出します。否定を言い、肯定を言ったから、責任問題は発生しない、と言って、非常識が信条?~妄想なっているので、無反省、無責任です。楽山に、だまされ続けると、以上に述べたような、楽山に似たような他害的な崩壊人格になってゆくでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
楽山は、謙虚芝居を書いても、自分が正しいという自己愛妄想がベースになっていて、自分を正すことが出来ません。既にバレています。代わりに、他者の人格を破壊する方向に嘘と詭弁を弄する加害者となっています。楽山のイメージとして、狐のような、しかも、陰気臭いニヤケ顔を想像しています。
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
これは、その通りですね。
ゴリ押しは奪う愛なので、人は逃げて行くのでしょう。

 
「ゴリ押しは奪う愛」・・ごり押しの、どこが愛なのでしょう。ゴリ押しすれば、それは愛に反する圧力です。どうして「奪う愛」などと楽山は言うのでしょう。楽山自身に、愛のつもりで奪ってきた履歴があるのでしょうか。今も続いているのでしょうか。
 
楽山は区別できないようだが「ごり押し」は、自己中が、よかれと思って押し付けてしまう偽善です。愛に反することであり、愛の要素は少しもありません。楽山が、また、軽薄な判断をして、言語の未熟を表しています。楽山からは、早く逃げてください。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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