ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

とこしえのマンガ2

 
  とこしえのマンガ2
 
 とこしえの御座 (詩編9:8)
 2019年07月27日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/20028564.html
 
 

「主は裁きのために御座を固く据え
 とこしえに御座に着いておられる。  
 (詩編9:8)」

 
 (詩篇、口語訳)
9:7
しかし主はとこしえに、み位に座し、
さばきのために、みくらを設けられました。
9:8
主は正義をもって世界をさばき、
公平をもってもろもろの民をさばかれます。
9:9
主はしえたげられる者のとりで、
なやみの時のとりでです。
 (詩篇9:7-9、旧約聖書
 
救いに関する大事な教えが書いてあるのに、楽山は、自らの空想に都合のよいところしか引用していません。楽山が、「しえたげられる者」ではなく、しえたげる者だからでしょうか。
 
 

以前は、とこしえ、永久、永遠という言葉は、けっこう好きだった。

 
楽山が好きなのは、超常言葉であることが表れています。人間の心に目を向けないことも、ここに、表れていると言ってよいでしょう。しかも、聖書に表された神の性質を、神を否定している楽山が、ほとんど趣味的な表現で「けっこう好き」だったに過ぎません。
 
 

でも近頃は、そういうことを想像するだけで圧倒されてしまうし、ふっと気が遠くなるような心持ちがする。

 
「圧倒されてしまう」「気が遠くなる」・・とこしえ、ということを、想像することは、3次元+時間軸に縛られている人間には出来ないはずです。楽山は、どんな想像をして、気が遠くなったのでしょう。超常だからすごい、ということくらいでしかないと思います。
 
ボクって感受性が過剰・・とでも言いたいのでしょうか。芝居がかっていて、わざとらしいですから、その分、浅くて軽い気持ちの嘘だと分かります。
 
 

たとえば、とこしえという時間は、宇宙の百倍の大きさの石があるとして、、一兆年に一度、鳥の羽根でかるく撫でることを繰り返し、すべてが摩耗して塵になるまでの時間よりも、ずっとずっと長いのだろう。

 
何という分かりにくい喩えなのでしょう。「宇宙の百倍の大きさ」も「一兆年」も、人間には、想像の域を超えているはずですが、自分は分かるんだと言いたいのでしょうか。自尊過大の誇大妄想的な表現としか言えないでしょう。あるいは、何かの物語のパクりでしょうか。
 
 

そのくらいの間、神は御座についておられると想像したら、あまりにスケールが大きすぎて、めまいがする。

 
とこしえ、だから、永久なわけです。そこで、人間の限界を感じるはずです。神の御坐を持ち出す必要はないと思います。なんか、ズレていると感じます。「めまい」は、またしても、軽い気持ちの、嘘でしょう。なんだか、気障(きざ)というか、安いというか、自分で分からないのかと思います。
 
 

また、人が永遠の命を得たとしたら、そういう時間を生きることになるのだろうし、これも想像しただけで、足下がふらふらしてくる。ちょっと怖い気もする。

 
永遠を、時間としか考えられない楽山です。ときに聞くことのある、一瞬が永遠、という言葉も、楽山には理解不能なのでしょう。小学校の時空の認識のまま止まっている感じです。想像力が、正常に発達していないのかもしれません。能力の問題ではなく、体質の問題でしょう。
 
「足下がふらふらしてくる」「怖い気もする」も、軽い気持ちの、嘘でしょう。全体に、楽山は、実感がないことを補うかのように、大袈裟で単純な言い方をしてきます。飾りだけの作文です。かなり、気持ち悪いです。
 
 

そんなわけで以前は、とこしえ、永久、永遠という言葉には憧れを持ってたりもしたけれども、最近はどうも、そういうことは想像することさえ遠慮したい気分になってきている次第である。

 
楽山の「憧れ」ほど、怪しいものはないでしょう。想像は遠慮できる性質のものでしょうか。浮かんでくるものではないでしょうか。想像は、楽山にとって、はっきり決意して、浮かばせるものなのでしょうか。想像は、できるときに、してしまうものです。
 
しかし、神の性質は、想像さえできないものです。恐らく、楽山の永久(とこしえ)は、いくつもの作り話が可能になるような、紙に書いたマンガのような、平面的なものなのでしょう。
 
 

      

                とこしえの加害
 
 
(2021年)
(2022年08月09日、再録+加筆)
 
 
 
  友
 
あなたが多くの人に出会ったとして
どれほどの人に愛されたであろうか
どれほどの人に傷つけられたであろうか
と考えるよりも先に
どれほどの人を愛したであろうか
どれほどの人を傷つけたであろうか
どれほどの人に悪意をいだいたであろうか
 
人は到底それらすべてを知り得ない
 
傷つけられたことは覚えているのに
傷つけたことは容易に忘れてしまうか気づいてさえいないものである
忘れることをすべて幸いといえるだろうか
 
すべてを忘れることの不幸を少しでも思うならば
父なる神、主を恐れることは知恵の始めである
 
あなたに多くの友がいるとして
どれだけが欲の友であろうか
どれだけが虚礼の友であろうか
どれだけが理屈の友であろうか
どれだけが誠の友であろうか
 
たとえ誠の友・真の友・愛する友がいたとしても
人の心はうつろいやすく命には限りがあるのだから
友が先に死んだならば取り残され
あなたが先に死んだならば友が取り残されるのである
 
別れと孤独を少しでも思うならば
永遠の友、主を覚えることは愛の始めである
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
自分は優れているという自覚で、実質が伴わないのを、嘘と詭弁で飾ることによって、自意識を保っているのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。反省しないことと罪悪感の欠如が、最も加害性につながります。思いやりや共感などの高等感情がありません。
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
これも、よく分かるわあ。
「えっ!?」という違和感は、安易にスルーするのでなく、大事にしないといけないとしみじみ思う。

(引用ツイート)
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
 · 8月5日
関係の初期に感じた、なにか奇妙だという感覚。それが後になり、自己愛性が原因だったとわかるが、本人に自覚させることは困難。
 」
 2022年8月6日

 
「よく分かるわあ」・・よくも、こんな白々しいことが言えるものです。奇妙、自己愛、・・最も感じさせてきたのが、楽山です。この期に及んで、まだ、こういう言い逃れの詭弁を弄するところに、楽山の底知れない悪意が垣間見えてくるのです。楽山は既に「なにか奇妙」ではなく、はっきり異常です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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(古い記事は載っていません)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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