ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

個人カルトの惨状3

 
  個人カルトの惨状3
 
 
聖書の、処女懐妊、物や肉体の奇跡、肉体の復活を、声高に主張し、なくてはならないと信じている信仰?は、信仰ではないと思います。。いちばん大事なものに触れていないからです。神の意志と行為を決めつけて奇跡で守られると信じ込んでいるのは、シャロームshalom という偽善者と同じ所業です。
 
例えば、総ての人がシャロームの信条を信じたらどうなるかということを考えれば、自己中の妄想症であるシャロームの言説の矛盾と害毒から、明らかになることがあります。これらは、楽山と共通しています。妄想は、救いの中心にむしろ背くものですから、信仰にはなりません。
 
例えば、信仰は人それぞれ、というのは、聞こえはいいですが、信仰は好き勝手にやっていい、という意味で使って、批判を聞き入れないのが、シャロームです。それを黙認すれば、キリスト教を名乗るカルトが、好きなように蔓延るでしょう。ここも、楽山と共通しています。
 
どうなるかというと、偽牧師シャロームの言説は、自己中心ですから、広まれば広まるほど、自己中の人間が増えてきて、結局、憎み合う経過と結果になるでしょう。閾値を超えれば、暴力的な争いを生む必然があるのです。
 
シャロームは、真実の追求が出来ません。何故なら、既に、固定された真理を得ているつもりだからです。教える立場だけを持っていて、そこから、妄想教理を何度も垂れ流してきます。教える立場しか持ち得なくなって、学習と成長が出来なくなるのです。楽山も同じ性質です。
 
シャロームに、いつのまにか刷り込まれてゆけば、シャロームと同じように、丁寧であれば、いい人、ということを真似するようになるでしょう。シャロームのお仲間は、実に、他者のあしらいが似ています。それで、易坊、楽山が、お仲間ですが、同一人物の3者への成りすましを疑っています。
 
楽山と易坊は、自己中の所業を無視してシャロームの味方をするのです。裁判ではないのだから推定無罪が成立するわけではなく、証拠不十分は、どちらが正しいとも言えないはずなのに、シャロームの言い分を是として選ぶことが、既に、中立ではない偏向の証拠です。
 
ネットでは、どちらが正しいとも、はっきりした物的証拠は、見つからないことが多いのです。そういうわけで、カルト、荒らし、成りすまし、など、偽善者が、法的な犯罪に至らずに、活動しやすい環境だということです。
 
いい言葉、よさそうな言葉、といっても、ここでは、よさそうに見せかける言葉ですから、偽善者の言う言葉であり、中身がありません。非現実的であったり、深みがないと感じたり、言動が合ってないような気がするときや、ネットでの、いい行いが伴っていないときには、警戒するべきです。
 
シャロームや楽山など偽善者は、自尊に凝り固まっているので、反省をしません。失敗や失言などの非を認めません。指摘すると、当てつけや嫌がらせを返してきます。そうして、コメントを受け取らなくなり、批判記事は無視してきます。
 
シャロームや楽山などの偽善者は、神が与えた良心、つまり、良きものであるところの、思慮分別、人間的共感性、温もりと潤いという暖かい感性、悲しみのうちに反省する心など、人間らしいものを、病質と妄想教理のために持っていません。
 
聖書の言葉から神の導きを、人は推測しながら判断して進む信仰の道だということを、つまり、一気に悟りに至って固定する境地ではないことを、シャロームは、理解できません。そして、訂正不能固定観念によって、新しい言葉を得ても、自分の言説に合うように使うため、少しも変わらないのです。
 
ゆえに、正常な人が感じて考えていることを無視して、自分で無理やり捏造するしかなくなり、自然の良心と、作為の捏造の違いとして、奇怪にズレて外れて芝居がかった和みと世辞と豪語に頼るしかなくなっているのです。そういう説教は、人間離れを勧めているので反信仰です。
 
心のどこを探しても信仰はない、とシャロームは言っていました。恐らく聖書の"土の器"という言葉を、何かすごい超常的で神秘的なものと受け取って、自分にはそれがあると自慢したいのでしょうが、嘘です。信仰は心に与えられます。人間らしい心の温もりと潤いのない人は、信仰を受け取れません。
 
楽山もシャロームも、心にある、地味で、目立たず、壊れやすい "土の器" という、信仰の器を持っていません。代わりに、派手で、目立ちたがり屋で、訂正不能で成長不能な、派手な飾りを、器だと自慢して、慢心して、修復不能になっているのです。
 
良心のある正常な人間は、人生に悲しい出来事が起こると、深刻に受け取らざるを得ないときには、悲しいから死ぬか、悲しいけど生きるか、という選択になります。しかし、心に温もりも潤いもない者は、他者のせいにして怒り恨むでしょう。アベルを殺したカインに、それを見ることが出来ます。
 
 (創世記、口語訳)
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 
4:6
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世記4:5-7、旧約聖書
 
それらの作為の悪と偽善の醜さは、積み重ねられている途中であり、ますます、むごたらしい惨状を呈してくるでしょう。罪が門口に待ち伏せているからです。カインは、自らの不都合を他者のせいにしました。カインは、サイコパスの起源のようなモデルなのかもしれません。
 
 
人間が生きるためには、最低限の衣食住が必要ですが、それが何とかなっても、生きられるとは限りません。人間は、物質でもないし、理屈でもないし、統計の数でもないから、何かを宛がわれて、元気になるわけではありません。人間だからです。
 
人間が生きるために必要なのは、絶対孤独ではないことです。それが残っているあいだは生きるほうを選べるでしょう。人間関係がないと感じて絶対孤独に陥ると、必ず希死念慮は起こってきます。信仰は、人に見離されて、どんなに孤独でも、最後の砦として、キリストがおられることを告げています。
 
私にとって好ましい人間関係は、私の至らなさで、殆どなくなったのですが、私が、生きてみようと思い、今日一日のパンがあれば今日一日生きる、という気持ちで、生きているのは、信仰者である人間として、キリストとの関係という希望からだと思っています。
 
人間にとって、信仰、すなわち、神聖との関係は、人間の側から分かるのは、あくまでも、人間としての受け皿です。だから、人間に生きる力を与えうるのです。シャロームと楽山が典型ですが、超常のことばかり言う人を、信頼しないでください。
 
神聖との関係などと思い始めると、聖書の謎解きに走ったり、何ごとがあっても自分に都合の良いように恵みが与えられるんだとか、気合いで、ありがたがったりするような、信じ込む信仰?になります。それは、信仰ではなく、カルトと同じ思い込みの形式をベースとする間違った偽りです。
 
カルトと同じベースの信仰?は、悟り顔の、わざとらしい薄笑いや、いつのまにか、他人より自分は高いと潜在的に思い込んでしまいます。ゆえに、自尊や有頂天の陶酔になることはあっても、生きる力にならず、いかなる温もりも潤いも、みずみずしい気づきもないのです。
 
何故なら、私たちが、人間だからです。人間としての知性や情感、つまり、弱さや罪深さで反応できることだけが人間を救うのです。偉大な神が味方だからと、豪語ばかりしている人は、いちばん大事なことを、見失っている可能性が高いです。
 
人間の弱さと罪深さに寄り添って同伴してくれるのがキリストであり、正直な罪人を、飾りのない一人の人間として、二千年前に愛してくださった言行録が伝えられているのが聖書であり、キリストの同伴という聖書から得られる信仰の救いのメッセージです。
 
キリスト者(クリスチャン)というのは、キリスト・イエスに、情緒的にも、理性的にも、囚われているがゆえに、その絆(きずな)によって、自らを尊大とは成り得ない罪人として、キリストの同伴と罪の赦しと癒しと導きを願いながら、正直な祈りとともに、生きてゆく人間に他なりません。
 
決して、一気に悟って、揺るがない境地に居るのではなく、折々に反省し悔い改めて告白し、学習し修正し成長して行く生き方がキリスト信仰の生き方であります。揺るがない信仰というのは、固定ではなく、生きてゆくための忍耐力のことです。
 
キリスト者において、キリストの御名によって祈ることこそが、キリストの同伴を信仰することであり、あらゆる現実から見放されても、決して超常魔術のような一方的な理解不能の力頼みに逃げるのではなく、より人間的な温もりと潤いに恵まれて生きるのが、キリスト信仰です。
 
カルト的超常の豪語に惑わされないようにしてください。彼らは、人間でいるのが嫌で嫌でたまらなくて、超常の欲望を自らに当てはめるほうに短絡して、自己満悦しているに過ぎません。彼らは、人間離れと現実離れになりたがって、妄想世界に生きています。
 
だんだん、実際に人間らしさを失って、人を下に見るようになり、能力がないのに、信じ込んでしまったために、自身の過大な確信によって、むしろ、自らの無能と、超常の全能意識の間で、自他を破壊する道を選んでいる者たちであります。どうか近づかないでください。
 
救いのうち、超常現象は、神の偉大さを表す神聖の専権事項です。神に任せるしかないことです。人間が、ああだこうだと辻褄を合わせたり、信じ込んだりできることではありません。このことに、信仰の目覚として気づくことが必要不可欠です。人間らしい信仰者であり続けてください。
 
 

       

            カルトの目指す果て
 
 
(2019年)
(2021年)
(2022年08月10日、再録+加筆)
 
 
 
 (ヨブ記より抜粋)
38:1
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
38:2
「無知の言葉をもって、
神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
 ・・・
40:1
主はまたヨブに答えて言われた、
40:2
「非難する者が全能者と争おうとするのか、
神と論ずる者はこれに答えよ」。
40:3
そこで、ヨブは主に答えて言った、
40:4
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、
なんとあなたに答えましょうか。
ただ手を口に当てるのみです。
40:5
わたしはすでに一度言いました、また言いません、
すでに二度言いました、重ねて申しません」。
 (ヨブ記より抜粋)
 
 
ヨブが、最終的に、神に救われたのは、この聖句のように、おのれを空しくして、そのままの自分を、正直に、神に捧げる態度を示したからです。それまでの実績も、富も、正しさも、善なる行為も、神の前には、意味をなしません。
 
祈りとは、一途に、神の前に、自分の罪と無力を "正直に" 認めることです。
 
神の前には、善悪でも正邪でもなく、"正直" だけが必要です。
 
神の前に "正直" でしかありえない人は、人の前で、完全な正直は難しくても、だますような作為の悪や偽善などの罪を犯すことは出来なくなります。信仰が、善悪や正邪と接するのは、この一点においてであり、信条・教理・教条によって固定されるものではありません。
 
人間は、自分の言動の影響を、果てまで追うことは出来ません。ゆえに、善かれと思ってしたことが、相手を傷つける、ということも起こってきます。人間は、真善美の追求において、即ち、善を心掛け、真実と正しさを追求するときに、このことを承知していることが必要です。
 
つまり、このことは、絶対の神の前において、人間が、たとえ讃美であっても、真善美を豪語できないことの根拠であります。善悪と正邪の判断は、人間にとって、絶対ではなく、完全ではなく、不完全なのです。ゆえに、神の前に通用するのは、"正直さ" だけなのです。
 
キリストが敵としたのは、褒められることだけを悦び、批判されると憎しみをもって殺意をいだくような、そして、正直の代わりに、うわべの善と正義に酔い痴れているような、いわゆる偽善者であります。結局、そのような者たちが、救い主キリスト・イエスを、殺すことになるのです。
 
 
 
  (抜粋)
 
悲しみを悲しみとして受けとめれば、泣き怒り時には背教の念さえ抱く。そういう裸のありのままの姿の自分を見て神の前にさらけ出し認め自覚することによって隠さず正直に神に告白して祈り、無力を認め力を求めることによって初めて耐えるという愛するためのきびしい忍耐の行為が生まれるのである。
 
何よりも神の前に正直であれ。疑いも正直に告白せよ。背教の念をいだいたならば、それをいだいたと正直に告白せよ。キリスト者はそのために祈りという情緒的で人間的な手段を与えられている。すべてを見抜かれる神の前に、人もまた何事も隠さず告白する権利を、そして義務を与えられている。
 
 
  祈り
 
父なる神よ
私はあなたに触れることの恐れのために
あなたを恐れます
あなたは火のように強く
私は火にかざした一本の髪の毛のように縮み上がり
それほど無力であるがためにあなたを恐れます
私は罪深く
私の知恵は乏しく
父なる神よ
あなたの御心ははかりがたく
それゆえに私はあなたを恐れます
罪の深さを知るほどにあなたを恐れるばかりです
私はやさしい父を呼ぶようには
あなたを呼べず
「私を見たものは神を見たのである」という主の御言葉にすがり
ただ主イエスキリストの御名にすがるのみです。アーメン。
 
父なる神よ
私はここにいます
あなたに恥ずかしく
隠れようとして隠せず
あきらめようとしても未だ救いを求めているのです
一体どこで
いつ私は裁かれるでしょう
いつ私は召されるでしょう
恐れる心を隠せないのです
隠す知恵もなく
隠してもあなたは見通されるからです
父なる神よ
いつまで待てばいいのでしょうか
何か私にできることがあるのでしょうか
あなたがお望みなら
それが御心ならば
私のこの世の欲に構うことなく
私の苦しみに構うことなく
御心を成就させてください
私がどんなにあがいても抗っても
すべてが御心のままになることを知っています
すべてが御心のままになることを教えてください
いつ死んでもよく
いつ生きてもよいと
私が言えますように
そして行なえますように
私の恐れを取り去ってください
私という矛盾があなたの手の中にありますように
主の御名によって祈ります。アーメン。
 
 
  告白
 
人の悪意から遠ざかれたとしても自らの悪意からは遠ざかれるものではなく、そのために罪に打ちひしがれ「私は打ちひしがれるために生まれたのですか」という裸の嘆きのあるがままの姿で、命の終わりを迎える前に「自分で自由にやっていく」ことの不自由さを、逆に、福音として受けとめるほかはない。
 
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う
時が短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
 
  酒を飲む
 
久しぶりに酒を飲む
焼酎のジュース割り
夕食の残りで深夜の空腹を満たす
短い眠気と吐き気
アルコールは正直だ
かつてそれがセレモニーとも知らずに
正気を失って飲んで歌った
べらべらと喋りまくった笑った
アルコールは正直だった
量を越せば正気を失わせた
量を越せば吐き気や眠気を与えた
アルコールが正直だった分
翌日私は何事もなかったかのように
あれも一つの仕事でした
という顔をしなければならなかった
 
 
 
 楽山の成りすましが疑われる
 taka のツイッターですが
 

taka
@taka84156681
これ物申す系YouTuberにありがちなだな
自分では何にも作れない
引用マンガ(省略)のセリフ
「人生を変えようとする人を叩くのは
 人生を変えられない人だからな」
午後11:24 · 2021年7月24日·Twitter for Android
https://twitter.com/taka84156681/status/1418940139137609738

 
批判してきた約3年余り、楽山は、発信はするが、何も受け取らず、人生を、浪費しているだけです。しかも、発信によって、害を及ぼすだけです。そういう無反省・無責任の人に、人生を良い方向に変えることなど出来ません。被害者意識だけで、ますます、悪性に変質してゆくだけの経過です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
宗教の教団に入信していないが、その言説が、カルトと同じ、単方向の訂正不能そして無反省であるのを、個人カルトと呼んでいます。また、無神論の記事を載せ、神を証明したら信じてやるなどという見当違いの雑言に賛同する者を無神教カルトと呼んでいます。楽山は両方に当てはまります。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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