ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の放屁3

 
  楽山の放屁3
 
 批判をスルーすることについて
 2020年07月26日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25663389.html
  を改めて批判。
 
 
批判に対して、高慢な姿勢から、放屁のように不快で臭い楽山からの言い訳がましい詭弁です。どういう精神の邪悪さを持つと、このような失礼な言い分を、推敲もせずに、公表できるのでしょう。独りで悦に入っている楽山の、気取りの気持ち悪さだけが臭ってきます。
 
 

ツイッターを見ていたら、HS信者のツイートが話題になっていて、それを掘ってみたら、楽山批判を書いている信者ブログに行き着いた。楽山を名指ししているわけではないので、「ちがう」といわれれば、「ああそうですか」と引っ込まざるを得ないのではあるが、文脈からすると、たぶん自分に対する批判なんだろうな。

 
まず、「信者ブログ」というのは私ではありません。ここでいう信者は、HS信者のことで、私は違います。私は、キリスト信仰者(クリスチャン、キリスト者)のつもりで書いています。
 
楽山は、HS信者からの批判のことを書いているつもりのようですが、この記事全体を読めばわかるように、批判者を分不相応の高みから見下ろしながら、中身のない、極めて失礼な、知識人気取りだけの稚拙な自己正当化を、身の程も弁えず、恥も知らずに、書いています。
 
 

それにしても、先日、「時は金なり、命なり」を書いて、あちこちのブログを見てまわることを止めることを書いた途端に、信者ブログから批判記事らしきものをいくつも発表されるとは奇妙な偶然であるし、なんだかおかしくてたまらない。

 
HSからも批判されてゆく楽山のようですが、こちらは、そのこととは関係なく、キリスト教とキリスト信仰の敵としての楽山に対する批判をやめることはないのです。
 
楽山は、批判者を「おかしくてたまらない」と書いています。このように、反省もなく自分の非を認めることのない楽山だから、いつも、あざ笑っているわけです。そういう楽山の出来の悪い記事に、一つ一つ批判記事をあててゆくしかありません。
 
批判が積み重なって、早く、楽山が、誰からも相手にされなくなる日が来てほしいと思いますが、どうなるか分かりません。しかし、個別の難を避けるために、楽山を相手にしないこと、直接の遣り取りをしないこと、これは、今からでも出来ることです。
 
遣り取りをしない、口を利かない、楽山に対しては、それしかないのです。楽山が、自己中のために他者を無視して自己顕示してくるものを、こちらも、批判しないのであれば、徹底して無視することが大事であり、唯一の楽山からの害を防ぐ手段なのです。
 
私は、キリスト者の立場から、批判を続けますが、精神衛生上の心構えがないと続かないでしょう。少なくとも、持続的に、楽山を相手にした人、楽山に反応した人は、みな、病的な疲労という耐えがたい災いを、楽山からもたらされることを忘れないでほしいと思います。
 
 

批判内容については、ざっと眺めただけではあるが、正直言って興味をひかれるものはなかった。ただ自分に都合の悪い批判は無視、スルーしているのはけしからんとかいう意見には、夏目漱石の文章を思い出させられた。

小生は日本の文芸雑誌をことごとく通読する余裕と勇気に乏しいものである。現に花袋君の主宰しておらるる「文章世界」のごときも拝見しておらん。向後花袋君及びその他の諸君の高説に対して、一々御答弁を致す機会を逸するかも知れない。その時漱石は花袋君及びその他の諸君の高説に御答弁ができかねるほど感服したなと誤解する疎忽そこつものがあると困る。ついでをもって、必ずしもしからざる旨むねをあらかじめ天下に広告しておく。
2020-07-26 (1)田山花袋君に答う
夏目漱石 田山花袋君に答う
 」
自分は漱石ほど多忙ではないし、才能もないのではあるが、批判に対する姿勢については見習いたいと思う。失敬。

 
無視だけを見習うと楽山は言っています。批判というのは、「興味をひかれる」から読むものでしょうか。まず、身の程を弁えない自己中の大きな勘違いが、楽山にあることが分かります。
 
結局、楽山が言いたいのは、批判なんか "知らないよ"・・ってことです。勝手な発言や虚偽や妄想を書いて公開しておいて、知らないよ・・で、ことが済むなら、道徳も法律も警察も不要です。そんな世界に住んではいないと気づかない楽山のことを、記事に書いてゆくしかありません。
 
漱石の言を出してきて、「多忙ではない」「才能もない」「失敬」などと書いておきながら、批判に対する姿勢だけ、「見習いたい」と書いて、批判に対して返したつもりになるのが、文士気取りだけの、漱石気取りだけの、意地悪で傲慢な病的体質だということに気づかない楽山です。
 
個別の批判に対して、漱石の姿勢を言葉の表面だけから真似れば正しい、と満悦してしまう楽山の、今までの勘違い読書と同様の、どうしようもない思慮と分別の欠落が、あらわになっています。「失敬」・・どういう意味でしょう。本当に、総ての読者に対して失敬極まりないです。
 
遠い遠い有名人の、ある批判に対しての弁明を、楽山自身という個別に当てはめて、自分だけ納得してしまう楽山の思い上がりと利己のための腐った詭弁が、鼻に突くだけなのです。
 
身の程知らずの勘違いと慢心の程度が、楽山において、病的な色彩と臭気を濃くしています。そして、漱石のような高名な文士を、軽々しく引用~利用~悪用し、放屁の材料にしてしまう楽山です。学者気取りの筆致にゴマされてはいけないし、許してはいけないと判断しています。
 
有名でも多忙でもない楽山が、「一々御答弁を致す機会を逸するかも知れない」のではなく、返せないものだから無視しているのは明らかであり、こちらは「御答弁ができかねるほど感服したなと誤解する」のではなく、嘘と詭弁だらけの変質者楽山に対して、批判精神を新たにするだけになります。
 
このように、楽山は、どんな有名人の言も自分のために悪用する無礼について、恥を知らないだけの下種と思うしかないでしょう。とても人間とは思えないですし、これからも、楽山の恥部が、次から次に明らかになってゆくでしょう。
 
 

ぶっちゃけていえば、「霊言は真実であり、大川隆法総裁は地球神であり、主エルカンターレである。この大川隆法総裁こそが、イエスが父と呼んだ存在である」というHS信者が、「信仰とはこういうものだ。人はこのように生きるべきだ。キリスト教徒に失礼があってはならん」などと説教したとしても、HS信者以外には真面目に耳を傾ける人はいないだろうし、しつこいネットストーカーとの議論に応じる人もいないだろう。自分もこの例外ではないということである。

 
散々批判されて、全く返せない楽山が、執拗に、自己満足の記事を書いてくることこそ、ネットストーカーなのです。こういう存在は、言論の世界にいてはならないと思います。ネット以外に自己顕示する場所を持たない哀れな変質者だろうと思います。
 
楽山は、耳を傾けることをしないのではなく、誰の意見にも傾ける耳を持っていないのです。これが、悪性で病的な人格の特徴です。こういう人は、直接でなく、婉曲的に、当てつけめいた悪態しか返せないのです。それが生き方になっている楽山です。
 
楽山は、有名無名を問わず、誰かを褒めれば、褒め殺しになり、自らへの批判には、無視以外、すべを持ちません。弁明する理路も感性も無いからでしょう。楽山の常套手段として丁寧語で書くならば、嫌らしい当てつけだけの文章になるでしょう。
 
HSに対してだけではないのです。キリスト教も机上のオモチャのような屁理屈で否定してきました。そして、ときに、逆のお祈り芝居をして、両方言ったからプラマイゼロ・・などと狂った理路しか持っていないのが楽山であり、真実追求の言論の場には、決して、いてはならない人物だと思います。
 
楽山に対しては、対等に議論しようなどとは、決して思わないほうがいいですし、結局は、誰にとっても、相手にしてはいけない危険人物です。失礼を理解していない人に、失礼を指摘することは無意味なのです。こういう人は、全否定で臨むしかないと思います。
 
失礼が分からなければ、正しく生きることも分からないわけですから、楽山には、誰からも相手にされないようになる必然だけが、永遠の闇への入り口として待っているのです。そういう楽山の道連れにだけはならないように、楽山が関わって来ても、決して相手にしないでください。
 
偽牧師シャロームもやっていたことですが、楽山も、批判者を、ネットストーカーと決めつけています。楽山は、このように、根拠もなく決めつけます。批判に対しては、反論も弁明も出来ず、当てつけと悪口以外何も言えない人なのです。楽山とシャロームについては、同一人物の可能性も考えています。
 
楽山の仲良しである悪性人格シャロームは、病識がないために、ヤフー終了後、揶揄コメントを入れてきたことがあります。楽山は、シャロームに、実に、姿勢と態度が、よく似ています。楽山も、負けず劣らず、嘘と詭弁の煽動者であり、悪性人格の例外ではないということであります。
 
 

      

           ペテンの道は無視の道 虫の道
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月14日、再録+加筆)
 
 
 
  知らない夏
 
浮きながら一歩一歩
歩いている道に陽射しは鈍く
数え切れない苦悩の胞子をはらんで
夏はやってくるのです
 
汗ばむ肩に首筋に
測りきれない表情を見せて
おどけた無為がにじんできます
 
折れるようにふらついて
やっと座った椅子の上に
とぼけた砂の顔
計り知れない徒労を乗せて
季節はめぐってくるのです
 
涙する代わりにあくびをして
鈍麻した肉体さえ
居続けること
座りつづけることを嫌っている
 
倦怠を支えてきたもの
その来歴も忘れたかのように
古びた自画像の
ひびのまわりにゆっくり
ゆっくり乾いた記憶を
もろい煉瓦のように積み重ねながら
何を塗って固めたらよいのか
 
夏に冬の寒さはわからないよと
残った隙間が笑っています
得体の知れない寂しさに
 
 
  貝殻
 
小さすぎて
目立たない貝殻は
無視されがち
お隣りや
御近所の
大きな貝殻を
恋人たちが拾ってゆくのに
小さな貝殻は拾われることもない
同じように海のにおいや
海の響きと歴史と
虹色をもっているのに
 
ある夜
星の輝きの下で
月の光を浴びながら
小さな貝殻は
浜に残ることもまんざら悪いことではないと
すでに主はいない
動いて誰を驚かすわけでもない
小さな位置に
小さく月の光を映していた
 
夜明けて
人が集まるころ
小さな貝殻
波に押され
砂に埋もれ見えなくなった
人知れず命を宿したかのように
 
 
  それぞれの無視
 
老人は今日も水の漏れる公園に来て
折れかけたベンチに腰掛けて
どちらを望んだわけでもないのだが
自らの足二本を加えて
ベンチを支えるわけではなく
自らの重さを加えて
さらに折れやすくしながら
衝突する車から昇ってゆく燐光や
砂場に溺れ沈んでいったり
攫(さら)われてゆく子供らや
残された自転車が走る様子
などを黙って眺めている
 
立ち上がり「ついに私は神を見た」
と家畜よりは大声で叫びたいのだが
気にも留められず変なじいさん
と笑われるだけだと分かっているから
座ったまま「それでも神は私を見た」
と呟いた声を架空に殺したのち
立ち上がり帰ってゆくのである
 
老人は今日も色の漏れる交差点に来て
赤い光の道をのんびり渡って
帰ってゆくのである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
サイコパスは、以前は精神病質と呼ばれていました。精神病と紛らわしいからでしょうか、今は、反社会性パーソナリティ障害と呼ばれているようです。反社会性では、犯罪を犯してから・・みたいになるので、私は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と呼んでいます。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html