ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

神と人をけがす無反省

 
  神と人をけがす無反省
 
 反省によって、神の愛を知る
 楽山日記(LD)2013年03月30日
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512161.html
  古い記事ですが、偽善は既に始まっているようです。
 
 
楽山は、反省をしません。柔和と丁寧を装う筆致に騙されてはいけません。カルトに劣らないくらい訂正不能の妄想的自己愛を持っている病的ナルシストが、楽山です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山とは、真面目な遣り取りは禁忌です。人格を破壊される恐れがあります。
 
 

ブログの目的は、「アンチ幸福の科学批判ではなく、反省の実践」とのことですが、ブログ記事を読む限りは、反省というよりも、「自分は信者だ。エル・カンターレを信じ続けなければならない。絶対に退転してはならないのだ。絶対に、絶対に……」という自己暗示の実践に見えてしまいました。
なんていうか、信者さんを見ていると、心に殻(結界?)をつくり、信仰を揺るがすことは見ざる、聞かざる、考えざるとして、内にこもろうとする人が多いようです。

 
楽山の話には、耳を閉ざすのが正解です。誰も、楽山と真面目に議論してはいけないと思います。カルト信条に加えて、アンチの顔をした楽山という無神教カルトが暗躍しています。楽山は、無神教カルト、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、罪悪感がなく、無反省、無責任です。
 
 

こういう信者さんを見ていると、お節介とは思いつつも、信者さんたちに本当に必要なのは、反省と称して、自己暗示をかけて、心の殻を厚く、強固にすることではなくて、もっとリラックスして、いろいろな人たちと交流することではないかなと思います。

 
交流の相手に楽山を選ぶのは最悪だと思います。反省は、どこが間違っていたかを冷静に考えることです。楽山は間違いを認めない病質です。こういうところからも、楽山に都合のよい詭弁の誘導は、既に始まっているのです。反省という言葉を書いても、反省だけはしない楽山です。
 
 

アンチの研究さんは、幸いにして、自分の殻に閉じこもるばかりでなく、アンチ批判によって他者との交流に励んでいるようなので、これを続けることでいつかは殻を破って外に出てほしいです。外の世界は、広々としていて、空気も澄んでいるし、いろいろな人がいて楽しいものですよ。

 
アンチ批判・・「殻を破って外に出てほしい」と言っていますが、楽山は、アンチではないのでしょうか。アンチHSではなく、アンチとして批判の意味でしょうか。言葉が雑な楽山です。「いろいろな人がいて楽しいものですよ」・・こういう当たり前のことから、楽山の誘導は進行してゆくのでしょう。
 
 

ところで、今回の記事では、大川咲也加さんの発言が省略なしで引用されているようです。ここにも貼らせてもらいますと、こうです。 


人は、「希望」を持っているうちは、いくらでも頑張ることができるものですが、絶望を感じた瞬間や、「自分のしてきたことは間違いだったのではないか」と思った瞬間に、すべてが真っ暗になり、道を踏み外して、一気に退転してしまうことがとても多いですね。
しかし、あくまでも光明思想的に、「未来は明るい。私たちは、最後の一秒まで、自らの『信仰の力』により、未来を切り拓いていくことができる。自分たちの『心の光』で、世界を照らしていくことができる」という強い思いを、一人ひとりに持っていただきたいのです。これは、日本の特徴でもあります。
したがって、あまり悲観的になる必要はないと思いますし、むしろ、「一人ひとりの人に、もっともっと、何倍も明るい心を持っていただきたい」と私としては思っています。
できるのであれば、みなさまには、非常に“鈍感”になっていただきたいのです。どんなに負けても、どんなに辛いことがあってもへこたれず、あっけらかんとして、笑顔でいられるような、そんな強い心の持ち主になっていただきたいと思いますね。
『神国日本の精神』
 」
 
HSの人でしょうか。生長の家でしょうか。鈍感になりすぎると、人の気持ちが分からなくなり、自己中になってしまう楽山の例があります。楽山は、感性も知性も、実に、末期的に、鈍感です。分かりやすく言えば、楽山は、共感がなく、人の気持ちが分からない人です。不感不応と呼んでいます。
 
 

これを読む限りは、大川咲也加さんの考える反省と光明思想は、わたしとは全然ちがっているようです。
わたしは、反省とは、自分は間違いばかり犯してきたダメな奴だと自覚し、こんなダメな自分でさえも神は許してくれていると気付くことだと考えています。反省は神の愛を知るための道です。

 
「反省は神の愛を知るための道」・・実に、これとは正反対の道を進んでいるのが、楽山です。無反省、無責任、訂正不能、霊能者気取り、学者気取り、など、自分を立派に見せようとして、最も汚く卑しい自己愛を表してきたのが、楽山です。
 
 

そうしてここまで到達したならば、自分の力で未来を切り拓くとか、自分の心の光で世界を照らしていくと自惚れることはなくなり、「神様、わたしをお導き下さい。光を広げるために、わたしを使ってください」と謙虚に祈るようになるのだろうと思います。

 
この祈りの言葉、全くの嘘です。楽山には、謙虚も敬虔もありません。以上に答えて、嘘ばかり言っている楽山です。誰よりも、欺きの度合いの酷いのは、楽山その人です。この9年前の記事も、全く信頼できない楽山です。楽山の嘘吐きは生まれつきの悪魔性のものなのでしょうか。
 
 

ですから、大川咲也加さんがいうように、自分は間違っているのではないかと反省することを敬遠していたのでは神の愛を知ることはできないし、自分が未来を切り拓き、光を広めると自惚れていたのでは自我を肥大化させるばかりで信仰を持つことは難しいだろうと思います。

 
白々しいことを言っていたのですね。人には言うが、自分は守らない典型でしょう。つまり、偽善者の典型でもありす。口だけ、言うだけ、ここでだけ、言葉を飾って、実際は、人をだまし続けているのが、楽山というペテン師なのだと再確認しています。
 
 

上から目線のようで恐縮ですが、大川咲也加さんの年齢を考えれば、その言葉に深みがなくても、それは致し方ないことではあります。ただ、そういう大川咲也加さんを静かな環境で大切に育みもせずに、騒がしい表に連れ出して、著書を発表させ、よいしょする教祖、教団、信者たちは何を考えているのだろうと思います。

 
楽山は、相手の言葉に深みがないと言っていますが、嘘で欺くよりはましだと思います。最悪が、悪を、批判している形でしょう。視点を変えれば、このように他者の思い込みを批判して、自分は、好きなように、人をだましてきた楽山であります。
 
 

また上の引用文は、絶望と自惚れ(強がり?)という両極端になっています。鈍感になるべきだともしています。もしかしたら大川咲也加さんは、些細なことで気分が大きく変わるタイプなのでしょうか。もしもそういう傾向があるなら、ますます騒がしい表よりも、静かな環境にいる方がよいのではないかと思います。わたしの推測は全然、見当違いかもしれませんが、教祖と教団には、この点について再考してほしいと思います。

 
楽山は、他者に意見できるような人物ではありません。能力も誠意もありません。むしろ、サイコパスと言ってもよいほど、自己愛性~反社会性を持っていると思います。だますこと、嘘吐き、反省しないこと、ベースとなる霊妄想、これらに染まっている楽山は、人類の敵、という、モデルかもしれません。、
 
 
 

(コメント欄)

1. ueyonabaru2013年05月01日 23:08
さやかさんのお考えは好きです。楽山さんはクリスチャンのような感じを受けます。どちらも、正解。
 」

2. 楽山 (自由)2013年05月22日 19:59
ueyonabaruさん、お返事が遅くなってしまいましたが、コメントありがとうございます。
当方、クリスチャンではありませんが、キリスト教には興味を持っています。とはいっても教会には行かず、自分なりにキリスト教関連の本を読むくらいですけど。

 」
 
どちらも否です。しかし、楽山は凶悪な反キリストです。それは、この9年間、表れてきました。これほど卑怯な男はいません。楽山の知能は、笑いながら、刃物のように人を刺してきます。そして、共感性は、皆無なのです。楽山は、この他害性によって、サイコパスと言ってもよいと思っています。
 
 

     

               無反省が反省を言う
 
 
(2022年08月19日)
 
 
 
  情報人間だ
 
多くの人が歩いている街
それぞれは血も涙もある人間だし
会って話している人もいるけれど
出会うことないお互いは
動く障害物にすぎない
障害物をよけながら
多くの人が上手に歩いている
群がり移動するお互いは
えさを運ぶ蟻以上の無関係
整然と群衆が移動する風景
確か複数のファイルをまとめてコピーする方法があったな
 
情報化社会のシステム
マルチメディア・ネットワーク
規格の統一
バーコードになった言葉
会話?
その恩恵から取り残されるとよっぽど怖いことになるのかな
 
今でさえテレビにも新聞にも本屋にも
情報はあふれているのに
どう選択したらいい
人間の記憶には限界があるのに
どう整理したらいい
コンピューターに保存しておけばいい
コンピューターの記憶装置が整理してくれる
コンピューターと記憶装置はつながっているが
人間とコンピューターはどうつながっている
人間の記憶の中にあった大切なものが
コンピューターに移されて
 
大切な約束のために訪ねたある日
ちょっと待ってねと
彼は部屋に入った
入ったきり出てこない
心配で見に行くと
パソコンがやさしい声で言った
「もうすぐですから少々お待ちください」
パソコンの前に座っている彼は
背筋をまっすぐ硬直させたまま
ディスプレイに向かって
複雑なバイナリーのコードらしきものを
さかんに左右の眼を点滅させながら
口から泡をふきながら叫んで発信し続けているのだった
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
神ノ義ヲ得ルコトガデキル
神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
人ハ生キルコトガ許サレテイル
人ハ生キルコトガ望マレテイル
人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
私ハ伝エルベキ
何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
神ノ立場デ物ヲ言ウナ
・・・・・・・・・
 
 
  敬虔な
 
ケーケンなクリスチャンが
祈りをささげる場所になじめず
憐れみの眼差しに胸がいっぱいで
胸くそもいっぱいで
悟らない下等動物は
居場所を求めて
いい場所を求めて
あとずさりを始めた
ここでもない
そこでもない
気がついてみると後ろは崖で
もうあとずさりはできない
まわりには誰もいなかった
あざける者もいなかった
風がヒューヒュー吹いていなかった
教会はどこにあるのか
十字架はどこにあるのか
悟らない下等動物は
陰険なクリスチャンになって
祈りをささげた
ああこんなにも人畜無害であるのに
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山が書かなければ、宗教と信仰に訪れた、楽山害とでも言うべき災いが、一応、納まるかに見えて、いえいえ、また別のところで、楽山は、同じようなことを繰り返すでしょう。それが因業というものです。楽山は、その生き方しか身についていないのです。終わらせることが出来るのは、神だけです。
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
大川隆法は批判されるのは嫌いな人だと思ってたけど、宗教間で真摯に批判し合い、切磋琢磨することをよしとしてるんだね。この本は読んだことはあるはずだけど、すっかり忘れてたよ。
あんまり批判したら申し訳ないかと思ったけど、それほど遠慮しなくてもよさそうだ。
引用ツイート(省略)
午後10:32 · 2022年8月17日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1559895842177585153

 
批判されると逃げるというのは、楽山の常套手段です。楽山が何か書いても、悪口だけで、理を通すことが出来ていません。それを反論のつもりで返してくるので、返されたほうは、無駄に疲労します。ゆえに、精神衛生のために、楽山との直接の遣り取りは禁忌なのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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