ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山はネトウヨ2

 
  楽山はネトウヨ
 
 『スピリチュアリティの興隆 新霊性文化とその周辺』島薗進
 2020年08月16日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25902076.html
 
 
楽山の、異常な精神背景以外、見るべきものはありません。名称ばかり書くのは、中身を理解できないからなのです。楽山は、一度も納得のいく話をしたことがありません。
 
いつも明らかになるのは、大きなテーマや名前を、いっぱい並べて、それだけで、自分を、偉く見せよう、偉く見せよう、という、欲望への執着だけなのです。
 
新しいのは、今回、楽山が、右翼、つまり、ネトウヨだということが、はっきりしてきたことです。
 
 

タイトルにひかれて本書を読んでみたのだが、読みっぱなしだとすぐ忘れてしまうのでその内容と感想をメモしておきたい。

 
メモならば、整った文章になるまで、人には見せないものです。それを、メモしておきたい、などと言って、出してくるのは、自己顕示欲としか言えないでしょう。傍迷惑です。
 
スピリチュアリティの興隆 新霊性文化とその周辺」というタイトルに惹かれるのは、霊が分かるっぽい楽山の精神背景を物語っています。自分もスピリチュアルだと言いたいのでしょう。
 
しかしながら、心の理論や、奇跡の話において、何ごとにつけ、楽山の誤読は、妄想的と言えるほどに偏向や恣意的な解釈が著しく、とても、楽山に、霊か何か知らないが、直観力や直感力があるとは思えません。とても幼稚な自己正当化のネタに使っていただけです。
 
「心の理論」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
何度、これを引用すれば済むのでしょう。
発達心理学を、霊の話にすり替えています。
 
「奇跡について?」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12562025912.html
ここでは、楽山の理路の混乱が見られます。
 
 

まず本書の第Ⅰ部では、戦後日本におけるスピリチュアリティ、精神世界、ニューエイジ緩和医療ウーマンリブなど「新霊性運動・文化」について概観し、その先駆者として山尾三省船井幸雄、柏木哲夫、田中三津らの思想、活動を分析している。

 
分析というものをしたことのない楽山です。また、文責というものを考えない楽山です。楽山にあるのは、スピリチュアリティではなく、原始的な自己顕示欲だけです。学者気取りやインテリ気取りで記事を書いていますが、そこには通念的なことか、妄想しかありません。
 
 

また新霊性運動・文化と伝統宗教とを比較し、後者は人格を持つ超越者とそれによる救いを信じ、権威主義的傾向が強く、枠組みが明確であるのに比べて、前者は法則や大自然を崇拝し、個人主義傾向が強く、伝統宗教のような大系化もされていないとしている。

 
「としている」としか書けない楽山です。こういうのを、記事に書いて、いったい、何を主張できると言うのでしょう。いったい、この記事の内容は、どこにあるのでしょう。カルトの宣伝ビラよりも、軽薄な、実体のない名称だけの行進です。楽山は、何一つ超越も克服も出来ていません。
 
 

さらにはアメリカなどではキリスト教によるニューエイジ批判はあるが、日本では仏教や神道による新霊性運動・文化批判はほとんど見当たらず、その理由は新霊性運動・文化は自然崇拝、アニミズム的な色彩が強く、日本的な宗教感覚に近く、大きな相違が見当たらないためだろうとしている。

 
楽山は、新しい "霊" のカルトでも、作るつもりなのでしょうか。ボロクソなものになると思います。自分は、ニューだとでも言いたいのでしょうか。だるいだけでした。引用元の字面を拾って、相違が見当たらないと書いているのは、宗教感覚が皆無で、ぼんやりと妄想的に勘違いしているだけだからです。
 
楽山は、今まで、はっとさせられるような洞察の効いた文章など、一度も書いたことがありません。むしろ、だまし目的の、詭弁、嘘、謙虚芝居、霊感妄想のようなことばかりが表れてきました。月並みな先入観しか持たず、さらに、それを自分の言葉に消化することも出来ない人です。
 
 

第Ⅱ部では宗教教団に所属しつつも、その枠にとらわれない考えを持ち活動することを欲している聖職者、宗教教団に属していないが何らかの高次の存在を信じ、または求めている人、宗教とも精神世界とも無縁でそれを意識していないが、それでも結果的には新霊性文化と深くかかわった価値観を持って生活している人々のインタビューを分類整理して紹介している。

 
高次の存在と言えば格好がよいということでしょう。「新霊性文化」とは何でしょう。前の記事に書いたところの、霊的××と言えば神妙な気がする類の言葉だと思います。霊的を、霊性に変えて、さらに新を付けています。こう書いた人の、自信~高慢が表れているようです。
 
ここに並べられている言葉は、気取った者たちが書くところの、学術用語で、素人が読んでインテリ風味に受け取らせようという意図で書かれた言い回しです。常識という根拠が無いことを直観的に書く分野では、こうなりやすいのでしょう。
 
危険な要素として、楽山のような自己顕示の我欲が飛びついてくるということなのです。楽山は、それが大好きで、本を読んだことにして、実際は、自分に都合の良い言葉を漁って拾っては、書いてあると書いてきただけで、説得力皆無の世界で、他者が理解できないことに、むしろ満悦しているのです。
 
難しい言葉が、字面だけ大好きな楽山です。楽山は、真実を追求するための、理路も、直観も、直感も、理解の一切をも持ち得ない人ですが、好事家みたいに、もっともらしく、もてあそんで、偉く見せるための手段なのでしょう。
 
もう既に、批判によって証明済みの虚言の材料を、楽山は、今も漁って集めているだけなのです。楽山は、あらゆる実直な人々にとって精神の詐欺師であり、宗教と信仰の敵です。軸とか芯とかいうものがないまま、見繕って並べているだけです。真善美から最も遠い偽善者です。
 
 

私見ながら、ここで語られていること…不可視で高次な存在を信じつつも宗教とは距離をとっている、死別した近親者と心で語り合っている、「自分を持っている」ことが尊い…などというのは自分の周囲でも、しんみりした会話をする場面では、わりとよく聞く話である。

 
こういうことは、死んだ人の思い出を静かに想いながらの心の話なのですが、これによって、楽山のような霊能者気取りは、ここで、一般感情に訴えて、温もりと潤いを、それらが欠損した超常の自慢話に変換するための材料としてゆくつもりでしょうか。
 
楽山は、亡き人をしのぶという、しんみりした共感を感じることが出来ません。「わりとよく聞く話である」という軽さは、そういう話を、超常や霊の話にして、自分は知っている、分かっていると自慢しているだけです。楽山の書くことには、深い実感が、まるでありません。
 
 

第Ⅲ部ではグノーシズ主義と新霊性文化その他との関連が論じられている。具体的には如来教桜井亜美の「イノセント ワールド」、庵野秀明の「新世紀エヴァンゲリオン」、コリン・ウィルソン、ヘブンズゲイト、ジェーン・ロバーツとセス本、ニューソート、神智学などを取り上げつつ、グノーシス主義との類似点及び相違点について語っている。この部分を読むとグノーシズ主義の新霊性文化に対する影響力は想像以上に強く大きいことがよく理解できる。

 
「新霊性文化」「影響力は想像以上に強く大きい」しか書けない楽山です。いつも、こうです。まるで、自分を飾るデコレーションであるかのように、楽山は、名称を並べ、中身を書きません。楽山の自慢の蚤の市、本当に蚤(のみ)だらけの罠の言葉ですから、誰も近づかないようにしてください。
 
 
(ネットより)

グノーシス主義グノーシスしゅぎ、独: Gnostizismus、英: Gnosticism)またはグノーシス(希: Γνῶσις[1])は、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った宗教・思想である。物質と霊の二元論に特徴がある。英語の発音は「ノーシス」である。普通名詞としてのグノーシスは、古代ギリシア語で「認識・知識」を意味する。グノーシス主義は、自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向にあたる。
一般に「グノーシス」ならびに「グノーシス主義」という言葉は同義語として用いられており[6]、キリスト教「異端思想」としてのグノーシス主義を「キリスト教グノーシス派」と呼ぶことが多い。したがってこの記事では広義の「グノーシス」について、「グノーシス主義」という用語で説明する。
物質からなる肉体を悪とする結果、道徳に関して、2つの対極的な立場が現れた。一方では禁欲主義となって顕われ、他方では、放縦となって現れる。前者は、マニ教に見られるように禁欲的な生き方を教える。後者は、霊は肉体とは別存在であるので、肉体において犯した罪悪の影響を受けないという論理の下に、不道徳をほしいままにするタイプである。4世紀の神学者アウグスティヌスがキリストに回心する前に惹かれたのは、前者の禁欲的なタイプであったと言われる。

グノーシス主義 - Wikipedia


 」
 
(ネットより)グノーシス派:

キリスト教的東方的起源をもつ古典ギリシア後期の宗教運動の一派。グノーシスとはこの場合神の秘儀についての直観的認識 (霊知) であり,これを根本思想としたキリスト教の分派は1世紀に起り2~3世紀に多様な発展をとげたが,正統教会より異端とされた。彼らは宗教的に徹底した霊肉二元論をとり,人間も本来は自己のうちに神の火花を有し,また地上界からの解放の欲求をいだいており,この人間の自我 (精神) に救いとしてのグノーシスをもたらすものが天上界より下ったイエス・キリストで,このグノーシスによって人間は初めて救済されるにいたると説く。

グノーシス派とは - コトバンク


 」
 
はっきり言えば、神霊を決めつけた時点で、カルトと言ってよいのです。神聖に対する恐れを知らず、人が、自分で大発見のように、無根拠の超常の理屈を捏造して、整ったつもりになって吹聴するのは、原罪の自覚がなく、正直な祈りと告白の出来ない人々です。
 
霊と肉体、と言っていますが、心と肉体、と言うのと、どう違うのでしょう。霊と心と魂と精神、どれも見えないものですが、はっきり区別できるというのでしょうか。学問においても、宗教については、恣意的で、結論だけの文章が、信仰者を惑わしている傾向があると申し上げておきます。
 
"直観的認識(霊知)" だそうです。だから、用語が多くても、根拠を示さない分野です。この辺がベースになって、主義が生まれてくるわけですから、かなり眉唾物なのです。それで、知ったつもりになるなら、何も知らないでいることより、自尊や自己主張や自己顕示欲も絡まって、悪質になるでしょう。
 
こういうのが、楽山という反キリストにとっては、垂涎のご馳走となってきたのだと思います。根拠を示せない楽山は、直観の代わりに安い思いつきで、霊能者気取りになり、神秘を語った悟った気になって、宗教に口を出して、自己満悦してきたのでしょう。
 
 

終章は「社会の個人化と個人の宗教化」という章題の通りの内容となっており、新霊性文化は個人主義の方向に向かい、宗教教団とは距離をおこうとする傾向があるとしている。

 
「章題通りの内容」・・説明しないで、解説できないで、「新霊性文化」だそうです。楽山は、自分勝手に、他者を考えないで、全く宗教的でない思いこみと信じ込みに、社会を導きたいのでしょうか。日本国民アホ化計画でしょうか。決して関わらないようにしてください。
 
楽山だけでなく、シャロームや、アドラー教(アドラー心理学)などは、気に入らないことは無視するという教えや、自分の課題ではないと拒否するという教えを広めたいようです。多くの人が楽山やシャロームのようになったら、世辞以外の話が、まるで通じない者ばかりになるでしょう。
 
 

新しい歴史教科書をつくる会にも新霊性文化との関わりを見出しているところは面白い。自分探しの過程で、日本および日本人に興味を持ち、その意識を強め、保守の方向に進むということらしい。

 
(ネットより)

既存の歴史教科書(特に中学校社会科の歴史的分野の教科用図書)は、必要以上に日本を貶める自虐史観に毒されていると批判し、それに代わる「“東京裁判史観”や“社会主義幻想史観”を克服するとし、その双方の呪縛から解放されたという自由主義史観に基づく、子供たちが日本人としての自信と責任を持つことのできるような教科書」の作成と普及を目的として結成され運営されている[要出典]。
 」

新しい歴史教科書をつくる会 - Wikipedia


 
これで、楽山が、"ネトウヨ" であることは明らかです。前から、右寄り、保守とかは言っていましたが、宗教とか霊とかに、こじつけて、こういう活動をしているわけです。楽山が、思想的に、右寄りの刷り込み屋だということが表れています。道理で、正面からの説得力が皆無なわけです。
 
自由主義史観、というのは、危険です。好きなように歴史を改ざんする恐れがあります。また、個人主義で、自信と責任を持て、というのも危険です。楽山やシャロームのように、自由勝手に恣意的に書いて、他者を無視することを、正当化しやすいと思います。こういうところで、つながってくるのですね。
 
楽山は、前にA級戦犯を尊敬している記事も書いていました。右翼として、曖昧な霊の問題を通じて、根拠なしに、思いこみの結論を刷り込もうと並べてきた危険な意図の一部が表れています。楽山に、一人前の正当な思想はありません。その場その場の思い付きで書いてきます。
 
 

本書を読んで、フェミニズムジェンダーフリー方面の思想、活動と新霊性運動、文化との関連を見出していることには意外性を感じたが、保守、右派の思想、活動もそれとは無縁でないという指摘も意外である。でもそう指摘されてみれば確かにそのようだ。どうやら新霊性運動・文化の影響力は、グノーシス主義がそうであるように、自分が考えているよりずっと大きく、広大な範囲に及んでいるらしい。

 
霊性運動、グノーシス主義が、「広大な範囲に及んでいる」とだけ、楽山は書いています。婉曲的な賛同なのでしょう。もっと広めたいのでしょう。やはり、だましやすい日本人アホ化計画のようです。楽山のような煽動屋に、十分警戒してください。関わってはいけない対象です。
 
「指摘されてみれば確かにそのようだ」・・楽山らしい責任逃れの書き方です。ボンヤリ言語と呼んでいます。相変わらず、救いがたいほど出来の悪い文章ですが、メモだと言いながら、よくこんな文章を書けるものです。ボンヤリ婉曲的に刷り込んでくるのです。
 
新コロナの、国内外、どこまで広まるのか分からない、という、国難の最中ですが、このように、宗教を悪用して、霊という言葉を悪用して、危険思想を、謙虚芝居の学者気取りの誘導によって広めようとする者がいるということは、ある意味、コロナより怖いと思います。
 
そういう者たちは、取るに足らないように見えるからこそ、今の日本が、国民一人一人が、身近で、あるいは、ネットで、警戒するしかない危険分子であり、言論の自由で書きまくっておきながら、言論の責任を負わないというクズであります。決して関わらないようにしてください。
 
シャロームshalom は在日(韓国朝鮮人)ではないかと思っています。引用リンクは、大方韓国の教会だったし、聞いたとき、日本人ならはっきり否定するところを、しなかったし、キリストよりも、韓国由来の宗教思想が好きなのだろうと思います。つまり、キリスト者ではないということです。
 
楽山も在日なのか。自称ヨシュアもだろうか。思い出すのは、いつだったか、ネトウヨは在日なんじゃね・・というのがネットに書き込まれていたけど、いったい、どうなっているんだろう。右翼は嫌韓じゃないのか。・・だから在日が右翼にご機嫌取り?・・未だ判然としない。
 
私は嫌韓というわけではないが、楽山を、その卑怯な言論から、嫌悪しています。楽山の志が、グループであるなら、さらに日本人アホ化計画なら、ますます嫌悪することになるでしょう。楽山は、既に、シャロームの仲間であり、かばい合っていることは明らか。同一なりすましの疑いもあります。
 
 
一昔前のことを思い出しました。"神の幕屋" という右翼のキリスト教の教団があるそうで、そこの、ある人は、前は左翼活動家で、のちに、右翼に転じて、その教団に入っていて、右翼思想を語っていました。極端から極端に走る人だなと思ったことでした。大和魂を信条に入れる話があるそうです。
 
私は、キリスト者が政治活動をするのは構わないと思いますが、キリスト信仰は、右や左の政治思想と合体してはいけないと思っています。信仰は、政治思想には結びつかないと思います。ですから、キリスト教を政治に結びつけることは、キリスト信仰上、禁忌だと思っています。
 
信仰が救うのは、魂つまり心であって、政治思想でも政治活動でないのです。しかし、その人は、大和魂を信条に加えるようなことを言っていて、とても違和感を覚えたことがあります。キリスト教と信仰が日本オリジナルでないことは明らかですから。
 
 
何だか、個人のブログの記事では済まないような、のっぴきならないことになってきた感があります。だいたい、このブログは、元々は、ポエム、数学など、そして、ずっと、キリスト信仰のことを中心に書いてきたのです。
 
シャロームと楽山に出会って、とんでもない偽善者だと分かってから、さらに楽山に関わってからは、批判記事が多くなってきて、とうに終わっていても不思議でないような私のブログが、今まで続いてきたということになっています。年寄りの退屈しのぎと言うには、重すぎるテーマになってきました。
 
 
 
私の近況:
 
99歳になる母は、介護施設から、肺炎で入院して、次は、老健施設に入所し、今は、介護付き老人ホームにいます。その間、2度ほど尿路感染症で発熱し、内科に入院しました。
 
私は、記憶力が落ちていて、慣れない手続き関係、つまり、保険証、医療費減額認定証、介護保険証、介護限度額認定証といった書類をどこへやったのか分からず、再発行してもらうことで、施設や市役所などに行って、郵送か否か、など、いろいろ考えているうちに、鬱が悪化しています。
 
母は、腰椎骨折がきっかけとなって、認知症が明らかになっています。新コロナではありませんが、予防のため、ずっと面会できず、転院の際に顔を合わせたとき、私の顔を覚えていなかったようなのが、かなりショックでした。
 
加えて、私が利用してきたネット回線であるADSLが、もうすぐ終わるということで、光に変える手続きが、この年老いた頭には、煩雑で、NTTの工事と、サーバーの間で、分からないまま、不安ですが、できることをして結果を待つしかありません。料金も高くなります。
 
加えて猛暑の中で、街中を1~2㎞くらいの距離を歩いても、汗だくになるし、元々心臓に持病があって、動機・息切れ・倦怠感で、家についたら、しばらくダウンしている始末です。出来ることを、ひとつひとつ、遅れがちですが、こなしてゆくしかありません。
 
 

       

              注意・警戒・危険
 
 
(2022年08月24日、再録+加筆)
 
 
 
  危険な衝動
 
高校の頃だったか悪友が
ふざけて橋の欄干の上を歩いていた
私はその横を歩いていた
欄干から降りると彼は言った
「お前が狂わなくてよかった」
「あ、わかった?」
人が崖縁を歩いていると
ぽんと押してみたくなる
 
自分が崖縁を歩いていると
ひょいと飛び降りてみたくなる
 
彼がああ言ったということは
彼も似たような・・・ということか
 
あの頃は随分と危険な衝動を
いっぱい抱えて生きていた気がする
今どこにいるか知らないが悪友よ
私はもはや狂っているから
あれが今なら言ったかも知れない
「やめとけ、あ、危ないぞ・・」
・・手を震わせながら
 
 
  冷たい熱
 
目覚めたのだろうか
眠ることを諦(あきら)めて
起きたのだろうか
 
だるい
頭と首が痛い
じっとり発汗している
顔がべっとり
下着がじっとり
 
咽喉(のど)だけが焼けるように熱を帯びて
咽喉が渇いたということに
発汗を裏付けられながら
大きな湯呑みで水を飲む
薬といっしょに
朝の水道水をごくごく飲む
冷たい水で体を満たして
また寝床に入る気でいる
渇きが水で癒(いや)されたからか
改めて眠りを確かめたいのか
まだ暗い朝
 
まだ焼けるような渇きが
熱の危険信号を発しているのか
だから目覚めたのか
それとも眠る試みを中断させたのか
夢が焼け爛(ただ)れたあとなのか
 
 
  安全な人

もう天災からも人災からも
安全な場所など
どこにもないのでしょうね
 
安全な場所はないですけれど
安全な人はいます
いてもいなくてもいい人
いてもいないのと同じ人
だってその人が死んでも
誰も衝撃を受けないでしょう?
 
でも本人は・・・
 
だから
その「本人」というのが
誰からも認められていないのですよ
つまり
存在しないのと同じなのだから
もともとその人には危険
というものがないのです
 
しかし、
そ、それは安全ということになるのですか?
それは安全というのではなく
危険も安全もないということでしょう
山奥で降る雨の一滴が
岩に当たって砕けるのを
誰も見ていないのと同じで・・・
 
山奥の水は
やがて田畑を潤します
砕けても存在しているのです
 
砕けようが潰れようが
何の影響も与えることができないのだ
 
え?・・・安全な人ってもしかして
あなた?
そう不特定多数か少数のね
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
共感がない、情緒がない、反応しない、自己主張だけ書いてくる、反対を書き賛成を書いたから責任はないと言う、人それぞれを言い訳に使う、「人それぞれ」の人から外れている自分に気づかない、受け取って考える思考がない、何を言われても気にしない、・・人間ではないと思う。
 
自己愛性パーソナリティ障害者が自分の言動を制することが出来ないということが何を意味するかと言えば、関わった人は誰でも被害に遭うということから考えると、結局、関わった誰からも、生存することを望まれなくなるということです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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