ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の子供だまし3

 
  楽山の子供だまし3
 
 宗教とアニメは同じもの?
 2020年07月25日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25655890.html
  を改めて批判。
 
 
楽山の悪意がむき出しになっています。宗教も、ゆえに信仰も、アニメとしてしか考えられない楽山です。これでは、楽山が、救われないのは当然ですし、この無知と無恥によって、楽山は、反宗教、反キリストとなっている証拠となり、有害であります。これが楽山の正体なのです。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の、無反省、無責任、自己中、自己顕示欲、羞恥心と罪悪感の欠如、客観性の欠如、固定観念、自己愛妄想、などは、いずれも、極めて人間関係において有害であります。その口が、宗教を、子供の遊びだと言っています。
 
 

前記事の後半においては、つい宗教とアニメを並べて書いてしまったのではあるが、改めて考えてみれば両者はすごく似たところがある。
とりあえず両者の共通点を挙げてみると、こうなる。
世界観…宗教も、アニメ(漫画)も、それぞれ独特の世界観を持っている。その世界観では、現実にはあり得ないことが実現可能とされることも多い。

 
世界観は、実際の世界を表すとは限らない、ということが、楽山には分からないのです。理想であったり、その反対であったり、希望であったり、というような世界を、真に受けるのが宗教と信仰だと思っている、そうでないと気の済まない楽山の、驚くような幼稚さです。
 
共通点と楽山は言っていますが、同じ思考で考えてよいことではありません。アニメは娯楽であります。宗教と信仰、さらに思想は、リアルをどう生きるかなのです。アニメレベルの楽山の知能には、アニメのように与えられているのだとしても、私たちは違うはずです。
 
楽山は、宗教そして信仰を、子供の遊びのような、嘘っぱちの作り事で、遊びに過ぎないと言っているのです。こういう人が、信仰を持たないのは、個人の自由ですが、何も理解もしてないのに、信仰を否定してくるのは、信仰者に対する下劣な侮辱であります。
 
そういう楽山は、ただ文句を言い、あざ笑うだけで、何も、信仰に代わるような、ハッとするような洞察や深い理解を持って人のためになることを、何一つ言えない人なのです。ここに、楽山という、ならず者の、悪臭を伴う害毒と犯罪性が表れています。
 
 

物語…どちらも独特の世界観を持つように、独特の物語も持っている。

 
独特の物語と独特の世界観を仮想して想像するのがアニメでしょう。宗教は違うという当たり前のことが、楽山には分からず、楽山には、宗教は嘘、と言うことと同値なのです。常識も何も弁えずに、空想レベルの世界観で人生を語りだすと、自己の空想から自己中心になる必然がここにあります。
 
物語の虚構性とか、作者が伝えたいテーマとかいったものを考える正常な知性と感性がないために起こるところの、未熟~退行であり、楽山が、いい年した大人だなんて、到底、思えません。その楽山が、背伸びして、本を読んだとばかり、嘘と詭弁を、ずっと垂れ流してきたのです。
 
楽山こそ、想像~空想の世界の物語と、現実の世界とを、分離できてないところの、"自他未分化" の特徴的なパーソナリティです。人に何かを教えるよりも、小学校に入ったら?・・という次元の話です。楽山は、道徳と節操が育っていないために、先ず、常識的な判断力がないのです。
 
 

人物…主人公(教祖)、援助者(神や天使)、脇役(弟子)、悪役(悪霊、悪魔)などが設定されている。

 
登場人物の類似によって、アニメや童話を、宗教や信仰と同じように扱えると思い込むのは、楽山の、救いがたいほど浅はかな虚構の妄想的曲解の人生観であります。アニメにも、教訓はあるでしょう。それも受け取っていない楽山には、人生を支える信仰など、何も分かってはいません。
 
こういう子供だましにもならないような思考に至ってしまうのは、無反省、訂正不能、そして、自信の超過剰、という自己愛性パーソナリティ障害(人格障害)NPDの特徴なのでしょう。これからも、増悪して、最後には、混乱して日常生活も困難な支離滅裂の人格破壊に至るだろうと思われます。
 
こういう楽山と、同根のような通過点として、偽牧師シャロームのような妄想信条と自己絶対の偽善者の、滅裂な豪語の世界があり、偽宗教の幻想世界があるのです。まるで、病気の進行のステージを見ているようです。この二人は同一人物という可能性があります。
 
 

目的…世界を救うだとか、正義を実現するというような目的がある。大雑把に言えば、願望充足ということ。

 
願望充足と、理想とは違います。楽山においては、終始、自己顕示欲の充足となっていることです。その語るところ、じっくり読めば読むほど、小学生にも満たないような、短絡した幼稚な話になっていることが、明らかになってきました。宗教を語るような発想は全く見られません。
 
世界を救うフィクションのアニメと、現実の人間を救う宗教と信仰を、同一視してしまう未熟性は、楽山本人が、霊が分かるっぽい自分を信じ込んだ時点にさかのぼるのでしょう。アニメには、暗示される道徳に似たものがあります。だから、小学生も、楽山も、夢中になるのです。
 
つまり、子供の時、既に、空想の世界があり、それを空想と認識できないために、何の根拠もなく、何の力もなく、おとぎ話を、宗教と、信仰と、思想と、大人になるまで、同一視して、のぼせ上がっている未熟者、楽山の、病の根の深さが表れてきただけなのです。
 
決して、楽山を、まともだと思わないように、決して、楽山に、関わらないように、決して、楽山に、近づかないようにしてください。一見、インテリに見せかけるペテンだけを身につけてきて、人間としての成長が見られない病者です。思考も情緒も異常です。
 
 

修復…設定(教義)のほころびを修復しようとするファン(神学者や信者)が存在する。
その他

 
アニメでは修復されることが多いですが、創作物だから自由にできるわけです。現実では修復されない病的な場合があります。まさに、その実例が、これを書いている楽山その人だと、楽山自らが証明しているのです。対応の設定が滅茶苦茶です。これで、よく公表できるものだと思います。
 
楽山は、現実の人生も、修復すればよいとでも思っているのでしょうか。それが、全然できていない今の自分を見ていないからでしょう。空想のルールに嵌って何も見えなくなっていることに気づかない、それが、楽山の実態です。話も理路も通じないし、共感もなく、のぼせ上がった独り有頂天なのです。
 
 

思うに、人は無目的、無意味には耐えられない生物だ。「一切は無意味である」というような考え方を受け入れることが出来るのは、ごく一部に限られる。

 
アニメなどの娯楽のためのフィクションには、リアルで違和感があるのが正常です。楽山は、自分の捏造した、霊が分かるっぽい自意識のために、リアルを、アニメのように感じて、リアルの現実を、リアルだと感じられないのだろうと思います。とても異様な感じ方になっています。
 
無常というものを考え、認めて、真実を追求している人々は、いっぱいいるでしょう。そういう人々は、例えば聖書の、風を追うようなものだ、ということを理解します。楽山は、それを認めずに、我こそは意味があると見せかけながら、リアルに虚しいだけの風を追い、悪臭を送風しています。
 
「無意味には耐えられない生物だ」と断定しながら、「ごく一部に限られる」と認める発言を加える、という、この理路の破綻に惑わされないためには、楽山を、いっさい、信用も信頼もしないことが必要になってきます。「ごく一部」の中には、楽山がご本尊?として居るという幻想でしょう。
 
 

だから人は自分はどういう流れの中で、どういう目的を持ち、どういう世界で生き、その後どこに行くのかということに興味を持たないではいられず、それがために神話が生れ、宗教が生まれたのだろう。

 
知性と感性が、一方は、アニメとして結実し、一方で、現実を見る者は、宗教と信仰を進めるのです。アニメはエンタ、信仰はリアルです。求めるものが違えば、創造力や思考力を向ける方向が別になるという当然のことです。楽山にとってだけ、宗教とアニメは同じもの?になっているようです。
 
楽山だけが、想像力も思考力もなくて、にもかかわらず、どちらも知っていると言いたい欲望から、ジャンルや方向性の違いをわきまえず、おのれが宗教も信仰も理解できない欠格者だから、・・アニメといっしょや・・とばかり、安易に同一視して、宗教と信仰をおとしめたいだけだと思います。
 
宗教を、アニメと同じ方向性で見ている時点で、楽山は、アウトなのです。
 
視野が狭くて狭くて、楽山は、同じ世界に見てしまっているのです。空想と現実が未分化なのでしょう。子供のまま、成長がないのは、病質のために、反省せず、学習せず、成長して来なかったからなのです。
 
 

そして今なお、新しい物語(神話、宗教、主義、思想、歴史観、アニメ、漫画、映画、小説…など)が作り続けられている。この点において、宗教やアニメはもちろん、すべての物語は同根なのだろう。

 
楽山は、宗教とアニメを同根だと言っています。つまり空想だから空疎だと言いたいのです。その根拠は、共通のテーマがあるから・・というわけです。しかし、リアルと娯楽、という決定的な違いを、楽山は無視しているのです。この在り方は、精神症状です。
 
以上より、アニメなどの物語と、現実が、同根みたいな言い分は、妄想なので、到底、受け入れられません。宗教は、ましてや、個人の生き方の問題に深くかかわる信仰は、物語では済まされません。楽山が、いかに、宗教を捻じ曲げて軽率に見なしているかが表れています。
 
アニメで、現実に人は死んだりしません。宗教では、多くの人が殺され殺し死んだ歴史があります。一歩間違えると大変なことになります。宗教は、人を救うが、間違えば人が死ぬ、という、その重さを楽山は、考えてもみないようです。ゆえに、甚だしく間違えて、平気でいるのです。
 
ゆえに、楽山は、軽々しく、持ち前であるところの、のぼせ浮かれ頭で、アニメと同じ次元で考え、宗教の真実を、趣味のアニメと同等に、気楽なものに貶めようとしています。反宗教全開ですが、言っている楽山は、自分の霊を信じ込んで破滅に向かう妄想の自分教の信者~教祖なのです。
 
 

こういう考え方は、熱心な宗教信者からは反感を買うかもしれないが、そういう人であっても自分が信じている宗教以外については、アニメなどの物語とそう変わらないという見解には強いて反対はしないだろうし、そうだとすれば自分の信じている宗教も、異教徒から見たらアニメなどの物語と変わらないとみなされるだろうことは推測できるはずだ。

 
「熱心な宗教信者からは反感を買うかもしれないが」・・この台詞を、楽山は、免罪符のように、しばしば使ってきます。宗教信者だけでなく、楽山は、もはや、無遠慮で執拗な、公共の害毒となっているとしか言えません。日常と超常の無分別による著しい妄想的曲解です。
 
自分が信じている宗教についてさえ、分からないことがあります。分からないと答えてよいのです。それが出来ない人や、それを赦さない人によって、間違えば、空想化し、カルト化し、または、無神教カルトに増長しながら転落てゆくのが、腐敗した自己愛の成り行きなのです。
 
楽山は、何ごとにつけ、分からないという保留が全然できない人であります。だから、大方、嘘と妄想と捏造の詭弁の世界から、書物を悪用しながら、あざ笑いと悪口だけを、それこそ、訂正不能の体質から、宗教、特に、キリスト教に向けてきたのです。
 
この記事で、楽山は、宗教をアニメの趣味に貶めていますが、それだけではなく、そのアニメ趣味では済まされないところの、霊が分かるっぽい体験と自覚によって、自家製の霊能者妄想と教祖願望を信じ込んで訂正不能の個人カルトになってきたのです。
 
よく読めば、楽山の言は、何の説得力もない、ヤジか荒らしのレベルではありますが、楽山の丁寧語には、だましの作為が入っているので、十分、警戒してほしいと思います。人間らしい思慮と情感があれば、楽山が百害あって一利なしだと分かるでしょう。
 
 

ようは、どのような宗教であれ、ある程度の距離をおいて観察し、判断すれば、一つの物語にすぎないということである。宗教という物語の中にどっぷりつかっている場合は分かり難いかもしれないが、これが現実である。

 
どのような宗教であれ、距離を置いて見ている限りは、知らない世界という謙虚な態度を持つべきであり、それが常識なのです。ここで、また、アニメというフィクションと、現実を生きるための宗教を混同して、宗教を軽く見ているのは、楽山の、根深い反宗教と反キリスト性からなのでしょう。
 
楽山には、常識~良識~良心が欠けているので、愚かな妄想まじりの詭弁を、のぼせ上がって、いつまでも続けています。恥を知らずであり、反省をしなくなると、こうなる、という妄想的な精神病質の典型です。楽山の口には、真実も、真実への思考も、皆無であります。
 
 

ちなみに宗教とアニメは物語という点では同じだと考えれば、近年の宗教離れの原因については、人の物語に対する欲求は、アニメなどによって満たされているので、わざわざ宗教を信じる必要性はなくなったためだと考えることができるかもしれない。

 
宗教と信仰は、物語ではありません。現実の生き甲斐そして死活問題として、キリストの命の犠牲によって伝えられている問いかけであります。人間にとって、結論は出ていませんが、救いと平安と忍耐力が必要になってくることが、楽山のような反キリストによって明らかになっているのです。
 
アニメを見れば、満たされて、宗教不要と言っています。趣味の空想で生きることは出来ません。楽山は、どこまで退行するのでしょう。本当に、虚構と現実が区別できていません。アニメは、ときに教訓を与えるが、それは、昔話的なシンプルな教訓です。宗教・信仰は、今の現実の命に必要なのです。
 
楽山のような者は、いかなる宗教においても失格ですが、常識においても失格と言わざるを得ません。だんだん、本性の暴力的断定が増えています。はっきり言って、楽山の、もう一つの顔であるネトウヨよりも、分かりにくいぶん悪質です。楽山こそがホラーとして存在しています。
 
 

また新興宗教のなかには、ずいぶん漫画的なものもあるが、これにはアニメを超える良質な物語を提供できない宗教が、アニメに近付くことで生き残ろうとしているという解釈もできるだろう。

 
たとえ話以上に、アニメを真似する宗教と信仰があるなら、それは、子供だましでしょう。ここでの詭弁は、カルトと、宗教を、一緒にしている点です。こういう、隙間に仕込むのが、楽山の詭弁のやり方です。シャロームに劣らず、楽山の凶暴なところが、どんどん、明らかになってきます。
 
 

宗教とアニメを同列に考えることは素っ頓狂のようではあるが、これによって宗教がより理解しやすくなるということはあるのだ。

 
楽山の話は、何も理解しておらず、素っ頓狂というより、未熟で邪悪で卑怯な、髭の生えた狡い駄々っ子の話です。やり口が卑しく、理路がでたらめで、情緒がないために共感が成り立たず、説得力は皆無なので、嘘や刷り込みや印象操作などの詭弁を使うしかないのでしょう。あきれた愚かさです。
 
吠えてる分だけ、真実追求の邪魔をしている自分に気づかないから、自己愛性人格障害というのも、やはり進行するのだろうと思います。どこまでも、有益、誠実、正直、真実というところから、はてしなく遠ざかる楽山であります。良心というものが少しでもある人は、こういう記事は書かないでしょう。
 
 
 
 ここで、何回目か分からないけど、
 「心の理論」という発達心理学の話の記事を引用しておきます。
 楽山の著しい曲解と妄想の個人史的な起源のようです。
 
   仏様の気持ちが分からない?親戚に笑われた話
  楽山日記(LD) 2019年03月30日
  http://mn266z.blog.jp/archives/17513119.html
  私の批判記事「心の理論」
  https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
  
(ネットより)
心の理論とは、他者の心を類推し、理解する能力である。特に発達心理学において、乳幼児を対象にさまざまな研究が行われるようになった。ヒトおよびヒト以外の動物が心の理論を持っているかどうかについては、誤信念課題によって調べられる。この課題で他者の信念についての質問に正答することができた場合に、心の理論を持っていると結論される。一般的に4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる。自閉症患者では障害が認められる。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96
 
楽山は、自閉症だったのでしょうか。
ブログタイトルには(LD)と書いていますが、サーバーの livedoor のことのようだが、学習障害 Learning Disability と言っても、当てはまると思います。
 
引用元から、まず、マクシ課題というのが書かれています。
 

1.マクシは、母親が買い物袋をあける手伝いをしている。
2.彼らはチョコレートを<緑の棚>に入れる。
3.マクシが遊びに行った後、母親はチョコレートを取り出して、今度は<青の棚>に戻す。
4.母親が卵を買うために出て行ったあと、マクシが遊び場から戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」と質問する。正解は「緑の棚」だが、心の理論の発達が遅れている場合は「青の棚」と答える。
 」
 
マクシは遊びに出ていたので、母親がチョコレートを<青の箱>に入れたことを知りません。したがって、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」という質問の正解は、「緑の箱」です。マクシは、誤った信念を持つ例として書かれています。
 
「誤信念を理解すること」というのは、誤信念を正当化することではなく、誤信念を他者が持っているということを理解することのようです。楽山は、病質のために、誤信念に気づかないままになっているのでしょう。楽山は、この話を、心霊の話と受け取ってしまうほど、未熟な無理解なのです。
 
 

ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。

 
霊感とは何の関係もありません。しかし、ここが、楽山の、霊が分かるっぽい出発点なのです。楽山は、「心の理論」を、勝手に間違って解釈して、神仏を、分かる、あるいは、感じることと、受け取っているようです。しかし、これは、全くの妄想的曲解であります。
 
「心の理論」の延長線上に、霊感のような神仏理解は、全くないのです。全面的に楽山の危険な無理解+曲解です。楽山は、最初に述べた「心の理論」を、心理学として全く理解しないまま、妄想に結びつけています。やっぱり、思い出すたびに、楽山は狂っているのではないかと思います。
 
 

*参考
「心の理論」という言葉は、何となしにスピっぽい雰囲気があるけど、検索してみるとそっち系の言葉というわけでもないらしい。専門家ではないので確かなことは言えないけど。

 
スピリチュアルとは何の関係もありません。専門家でなくても分かります。心理学~発達心理学の、学問の話です。楽山は、こういう、ひどい曲解をする人です。しかも、いつまでも、妄想的に訂正不能に、わがままが通用すると思い続ける人のようです。
 
楽山は、霊能者どころではなく、ふつうの人間の心がないために、理路の理解も、共感も出来ない人なのです。こういう人が、傲慢だけ持ってしまうと、とても危険です。楽山は、その実例です。決して、肯定的に関わってはいけない病質者です。
 
 
良い言葉、プラスの言葉、やさしい言葉、丁寧な言葉を、使ったほうがよいと思っている人は多いかもしれませんが、そこに、つけいってくる偽善者がいます。楽山は、自己愛性人格障害者であり、丁寧語を使ってインテリを気取る変質者なのです。
 
 
カルトは、思い込みによって超常を決めつけ、人間離れして化け物になってゆきます。
 
信仰は、神を恐れ、超常については神に任せ、人間性に適う心を弁えてゆくことです。
 
 

        

              こわい 怖い 誘導
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年10月05日、再録+加筆)
 
 
 
  腐った暇
 
暇(ひま)は腐るほどあって
大方腐らせているが
食いたいときに食う
寝たいときに寝る
好きにすればいい
 
好きにすればいい
何を好きにすればいい
何がしたい
何をすれば夢中になれる
一途(いちず)に 直向(ひたむ)きに
何をするために生まれ生きている
何をしないために生まれ生きている
 
ひとつの夢が叶い
そして破れて久しく
何故生まれてきたのか
父と母が交尾したからだ
以外の答を見つけるために
凍り付きそうな
暇も楽も食いちぎって
思い切り腐らせて
 
楽といえば
楽だ
しかし腐った暇は必ずしも
楽ではない
 
さらに身に凍(し)みるのは
楽 と
楽しい は
全く別だということ
 
 
  朝までの群れ

懸濁液のコロニーから
生えてくる社会ひとつひとつは
整然として燃焼を収めてゆく
 
炉に投げ込まれる人の形の
氷の造形も黄昏て
 
その節々に時を刻み
離れ離れの役者の帝国に
歌姫を連れてきて笑わせる
 
けばけばしい提灯の夜
イオンの息子たちは集まって
はみ出したやつが道になる
 
放り込むのか夜明けの虫
安いライターを燃やすのか
 
そこここに蝉の亡霊が鳴き
病人のベッドを濡らし
小火(ぼや)に逃げ遅れて肉片は踊り
間違って太陽がひょっこり顔を出す
 
危ないぞパイプと鎖
すでに火だるまのバクテリア
ブローバックの煙
路上に転がる金属音
 
連続した紙幣と貨幣
たちまち飛び散って
レスキューの箱に収まりきれず
遠くの信号が点滅して
踏切で眠りにつく子守歌
細く丸く輪になって焼いて・・・
 
朝の短い把手(ノブ)を擦り抜けて
割れたフラスコを絡ませた頭の
ありふれた生前の手によって
寝起きの試験管から
コロニーはシャーレに移される
 
 
 
 taka のツイッターですが
 恐らく楽山なのでしょう
 

takaさんがリツイート
(引用元は省略)

「神はその人が背負える重荷しかお与えにならない」というような、負わされている者の救けにならず、負わせている者の罪悪感を緩和し、更なる荷を押し付けさせかね無い言葉はなんとかならないものだろうか、、
午後7:52 · 2021年9月22日
https://twitter.com/nae_auth/status/1440630043886063616
 」

 
上のような「神は」を主語にした言葉は、神について保証するかのような内容になっていて、言った人は何も保証できないのだから、人が人に保証すれば無責任発言ということになります。信仰者同士なら、背負ってゆくしかないだろう、生きてゆくしかないだろう、という意味にはなるでしょう。
 
神を主語にして何かを断定することは思い上がりという印象を免れず、重荷についての何らかの助言や共感をもって言うのとは違って、救いの聖句からの教義という動機だけですから、実感のない教条主義に近いので、慎むべきことです。分からないことは、分からないと言い、分からない箱に入れましょう。
 
この引用をしている taka、恐らく、実は、楽山は、負わされている人への共感の出来ない人で、真剣に考えるということが出来ない、情感というものを持たない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、キリスト教をおとしめるのに都合がよいから引用しているだけだと思います。
 
「神はその人が背負える重荷しかお与えにならない」・・これは、むしろ、何からの出口はあるからという意味として、信仰者が、自分で心得るべき言葉でしょう。安心や保証ではなく、生き続けるための、一種の激励の意味でしょうが、語弊があるので、私は、言わないようにしています。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)10:13
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
 (1コリント10:13、新約聖書
 
最終的に、殉教して、逃れる先は天国、ということになれば、現代では、伝道としては、なかなか、使いづらい聖句ではあるのです。迫害という切羽詰まった時代の状況では、使えたのかな・・くらいに思っています。はっきりと分からないことは、分からない箱に入れて保留しておきます。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山は、丁寧で中立を装いますが、実際は、悪意と敵意の人です。そのベースは、小学生にも満たない未熟で幼稚で捻じ曲がった偏見です。しかも、それで視野が広いように見せかけます。楽山から受け取れる良いものは何もありません。混乱と疲労と人格破壊をもたらすので、決して近づかないでください。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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