ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

暗く狭い楽山2

 
  暗く狭い楽山2
 
 真理は誰のものか
 2014年03月04日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512379.html
   を改めて批判。
 
 
真理と言えば、楽山の中では、平板な概念が対応して決まってしまうのでしょうか。真理、という、とてつもなく大きなテーマは、とても、人間一人の器に納まるものではないのです。今回の記事によって、むしろ、真理を観念的対象にしてしまう楽山の欠陥が明らかになっています。
 
 

真理は、特定の人物や団体だけが所有しているものではないと思います。

 
いかなる人間も、完全な真理を所有することはありません。人間は自分の言動の影響を、その影響がなくなる時と所まで追うことは出来ません。つまり、完全な正しさを確認できないのです。そういう人間の罪深さ、即ち、不完全を、全く知らないのが、楽山であります。
 
 

いわば真理は、手塚治虫の描く火の鳥のようなものかもしれません。火の鳥は誰の所有物でもありませんし、もし捕まえようとする者があればその身を焼き滅ぼしてしまうこともあります。真理はこのように誰にも独占できるものではないし、そうしてはならないものかもしれません。

 
マンガで表して、いい気になっている楽山です。このことから、楽山のいう真理は、楽山の大好きなマンガ・アニメ上の真理でしかないと言う他はないでしょう。いちばん、人間の真実や真心に背いて、嘘と詭弁を弄してきた楽山は、自ら「その身を焼き滅ぼしてしまう」結末に向かっています。
 
真理について、自己中ゆえに楽山は何も知りません。なのに、広く真理と真実を追求する営みを、いちばん邪魔しているのが、楽山その人であります。楽山は、神を恐れず、人を恐れず、言いたい放題に、嘘と詭弁と妄想と自尊過大を、思想家気取りで言いふらしてきました。
 
楽山は、真理をどう考えているのでしょう。「真理はこのように誰にも独占できるものではない」・・誰か真理を独占しようとしているのでしょうか。そういう人がいるとしたら、それは楽山その人です。無反省、無責任、訂正不能が、証拠です。またブーメランです。
 
つまり、この文章で、楽山が言いたいのは、自分も真理だと言いたいのです。しかし、楽山の語る真理には、何の根拠もありません。何の説得力もありません。第一、真理など、楽山は語ったこともないし、語れないのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
楽山には、他者の語ることと、自説を、比べて検証し、理路を正して語る能力がないからです。実際は、何の根拠もなく言い張っているだけだからです。自分を見ない者の宿命なのです。楽山が批判であるかのように書いてくることは、雑言、嫌がらせ、当てつけ、決めつけ、嘘、詭弁だけです。
 
 
 
 永遠の命があったとしても……
 2014年03月04日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512380.html
   を改めて批判。
 
 
永遠を時間的にしか受け取れない楽山の、広がりようのない視野狭窄が表れています。こういう楽山の見方は、永遠、だけでなく、神、信仰にも及んでおり、大人とは思えないほど幼稚な理屈で否定しえたと思い込む楽山の自己愛性パーソナリティ障害(自己愛性人格障害)の症状として表れてきました。
 
 

以前、他のところでも書いたことですが、自分を振り返ってみると、今の自分と子供の頃の自分とはほとんど別人になっています。たった数十年前のことであるのに子供の頃の自分はほとんど消えてしまっています。赤ん坊の頃の自分はといえばもう完全に消えています。おそらくこのまま行けば、今の自分もやがて消えてしまうことでしょう。

 
変わってきたのであって、別人ではありません。過去と現在は、記憶がつないでいます。別人と言い切ってしまえば、何らかの障害です。楽山は、不都合なことを完全に忘れているか、無視してきたので、障害に属するのでしょう。一人一人は、地上からは、いずれ消えてゆく存在です。
 
楽山が、別人と言っているのは、言い換えれば、成長のことでしょうか。しかし、実際は、成長ではなく、変質というべきでしょう。子供ではなく、悪人になっているのです。その足跡が、私のブログに記録されています。嘘と詭弁で騙す。理解力がない。双方向が成り立たない病質です。
 
今の楽山は罪しか残していませんから、ネットから消えたほうがよいのですが、だからといって、過ちと罪は消えてしまうことはなく、責任逃れをしても、意味はありません。それに、楽の訂正不能は、妄想ですから、なかなか消えそうもありません。
 
 

このことを思うと、たとえ人の本質は霊であって永遠に生き続けるのだとしても、それは今の自分が永続することは意味しないようです。結局、人の命が有限であっても永遠であっても、今の自分はいずれは消え去るということは変わらないように思います。

 
楽山にとっては、命の永遠は、罪の永遠でしかないからでしょうか。永遠の命を、時間的永続としか受け取っていない楽山の未熟が表れています。この地上からは、人間の命は、いずれ消え去りますが、だからといって、命は永遠ではないという短絡に、何の意味もないのです。楽山の貧困な次元です。
 
ふつうの人間性を持っておれば、永遠というテーマから、命を生かすような、永遠と思える感動とか、連想される広がりがあるのですが、楽山には、引き継がれることも、影響し合うことも、自己中では手に負えず、永遠という言葉の平板な意味だけで、永遠を想う感受性も、考える視野もないようです。
 
 
 
 無意味さに耐えられるか
 2014年03月14日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512382.html
   を改めて批判。
 
 
楽山の詭弁です。一般論めいたものによって、自己正当化を図り、悲劇のヒーローにでもなりたいのでしょうか。そういう成り行きではなかったのです。楽山の論は、詭弁で辻褄を合わせているだけなので、成り立ったことがありません。
 
 

すべては偶然に過ぎず
意味も目的もないとすると
やりきれない気分になります

 
偶然で、意味も目的もない、と言う楽山は、関わる全ての物事を、他者の意見も、無視して、無きがごとくに扱って、自己中発信だけを続けてきたのです。自分の欠陥と失敗を、偶然のせいにして、意味も、目的も、捨ててきたのが、楽山です。ゆえに「やりきれない気分」は自業自得なのです。
 
 

けれども
だからといって
いまさら
この世に偶然なことは一つもなく
すべてに意味と目的がある
と信じるほど自己中心的になることはできません

 
生きることの意味を求めるのは「自己中心的」なのでしょうか。楽山は、恐らく、何も求めていないのでしょう。それを正当化したくて、全部、偶然で、意味も目的もないと言っているのです。しかも、意味を求めることを自己中だと言っています。意味を求めない楽山こそ自己中の典型となっています。
 
楽山の言う「意味」は固定して万事OKになるような不労所得だからでしょう。意味というのは、そのように考えている間、得られることはないのです。最悪なことに、楽山は、楽山の知らない他者の意味と目的まで否定してしまう凶暴な短絡をしています。広がりのない視野に生きているからです。
 
意味と目的を考えることは、思考であり、自己中心にはなりません。楽山のような自己中心的な者にとって、空しい結果しかないからと言って、他者を巻き込むことは許されません。このように、自分の非だけは認めずに、他者に虚無を広めようとする楽山を、決して相手にしてはいけません。
 
 

やはり
何もないところに
自分なりの意味や目的を見出して生きていくしかないのかもしれません

 
否定しておいて言い直す卑怯さです。「自分なりの意味や目的」というのが、今までの、嘘と詭弁と、理路のごまかしで、疲労を与え、人格を鈍化させることであるなら、意味も目的もないだけではなく、楽山に、犯した罪には報いが、いずれ訪れるということです。それは、既に始まっているのです。
 
このように、楽山の書く文章には、随所に、自己正当化の、幼稚だが嫌らしい詭弁が織り込まれています。読むこと自体が、有害と言ってよいでしょう。理路を分析して批判対象とする目的以外では、読む対象にしてはいけないと思います。整っていないのに、詭弁だけは盛り込んできます。
 
 

        

               欲に安らぎはない
 
 
(2021年)
(2022年10月18日、再録+加筆)
 
 
 
  古い端末
 
誰かを判別し
誰かを裁いたかのような日々の終末
誰も愛さなかったことの結末は
ひとつの端末のように
ここにまだ残っていて
狭い箱の中で
飛び散る暗号をころがしては
間違った解読を遊んでいる
 
遠い遠い昔
「一応働いてもらってるから」
君は笑いながら言ったのち
求める位置へ去っていった
 
一応働かなくなってしまって
たまっていくほこりを払うように
たまに体を動かしてみる
腰と首と頭と
どこからどこまでだろう
解読できない痛みが
壊れかけた端末に年齢を刻み
安否だけは知りたいけれど
不意に現れるデータひとつひとつの
とびとびに欠けた部分の
傷つけたり壊したりの
入力を拒み
修正をできなくしている
もうこの顔しかない
 
 
  虚数まで
 
僕が負の平面を旅して
膨張した平行線や
無限と戯れている間
君は負を好まなかったから
似合わない帽子をかぶり続けていた
 
長い長い0(ゼロ)までの距離を束ねて
狭い正面を向き合ったときには
君の存在は確立した可能性の外でも
不意に現れた僕の偶然を既に作表しており
君は自らのルートを知っていたし
僕がどんなに膨らんだ式の
組み合わせを並べ替え
積み分けようとしても
用意された美文は
隣の子供をあやすように
戻しようのない速度で反応し
君は正の位置を求めて去った
 
計算を誤った限界値は
極限に達して改めようもなく
僕は自浄して
再び負の平面へ去るか
君が残していった
無理な帽子から
i(アイ)を追い出すしかなかったのだ
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・・
 
 
  涙
 
暗幕の下に賑わう目と目
代価を払って買った涙
計算機は壊れない
ガラスは割れない
安心して夢見る少女
愛情を運ぶトラック
何の保証もなく
世の中は便利になった
 
唇に青い瞳を
真昼の星に輝きを
汗をまき散らして変転する太陽
耐えた腕が鳴らす独裁
 
別れたのは父と母であったか
妻と夫であったか
親と子であったか
結ばれたのは残された国境
未来への合唱と
泣きながら遠ざかる沈黙
 
ビルの窓に反射する
まぶしい笑いと
人波の上に
今日も
代価を払っても買えない涙が
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
柴犬茶トラさんの意見は正論ですね。
HSはもっと正直に徹したらいいのにと思う。
今のやり方を続けてると、嘘に耐えられない良心的な信者は去り、嘘に抵抗のない良心の鈍感な信者ばかり残ることになるでしょう。
2022年10月16日
https://twitter.com/komo266/status/1581607446191427584

 
「もっと正直に徹したらいいのにと思う」・・嘘と詭弁のペテン師で偽善者の楽山が言っています。「嘘に抵抗のない良心の鈍感な」・・楽山のことです。自分が言われていることを、逆に、人に言って、何かが良くなるのでしょうか。まさに「嘘に抵抗のない良心の鈍感な」楽山なのです。
 
批判されても批判されても書き続けるのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の宿業なのでしょう。何を言われても無視する、という、強烈に固定した原始的な自我の、処世のつもりでしょうか、またしても、ケロッと、自分のことを無視できるのは、人間とは思えません。恐怖です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山の理路は、砂に石を積むようなものです。血も涙もなく、温もりも潤いもなく、乾燥している形骸のような概念を積み重ねて、自我の内側だけで辻褄を合わせているので、楽山が悦んでも、乾いた砂であり、摩擦の微熱に過ぎないのです。情緒の深みと湿度の無い偽道理の形骸は、煩わしいだけです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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