ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

悲惨な楽山2

 
はじめに楽山のツイッターですが
 

★こも/楽山日記3
@komo266
なるほど。
ブーメラン発言を繰り返す人の心理は、こういうものだったのか
>>引用ツイート
自己愛人間被害からの脱却
「何故か自己紹介とすら言える内容で他人のことを批判してくる人」
この人達は自分の問題を自分の問題だと認識できません。自分の悪いところや自分のコンプレックスは相手のものだと認識し、相手を批判します。 https://kinimininaru.com/archives/2616
<<
2022年10月21日
https://twitter.com/komo266/status/1583408700102180866

 
「ブーメラン発言を繰り返す」のも、「自分の悪いところや自分のコンプレックス」を相手に向けるのも楽山が典型です。上の楽山のツイートがそうです。自分が言われそうなことを、他者に向けてきます。こういうやり方を持っている人です。実は、無反省かつ無責任の卑怯な陰謀屋が、楽山なのです。
 
どんなに悪質になり、その結果、みすぼらしくなっても、折れないのは、楽山が自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからに他なりません。嘘と詭弁と妄想、そして訂正不能で、芝居の丁寧語を使う荒らしであります。騙されないために、決して近づかないでください。
 
最初の頃、数か月、楽山とコメントの遣り取りをして、大いに私は混乱し疲労しました。それで、以後は、批判を3年以上続けています。楽山は、こちらの意見を全く受け取っていません。人の意見を受け取れないのです。決して交流の相手にしてはいけない人です。常識的な理路も、共感性も、皆無です。
 
楽山が、一見、柔和で、中立で、やさしくて、いい人に見えるのは、世辞や、お付き合いの、丁寧語で交流している間だけです。宗教・思想など、真実追求のために、深く掘り下げようとすると、その欺瞞と、虚偽と、無視と、無理解などが表れます。真実を嘲笑う悪魔性と判断しています。
 
 
 
  悲惨な楽山2
 
 「狭き門」ジッド著
 2021年10月05日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/30708779.html
  を改めて批判。
 
 
薄情で無理解な楽山が、また、キリスト教に、いちゃもんをつけてきます。そして、またしても、有名な小説をネタとして悪用しているのです。低劣な人というのは、都合がよいと思ったら、エサにありついた野良犬のように、何でも利用するので、こういう悪意の引用を平気でしてくるという例です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)7:13-14
狭い門からはいれ。
滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 
命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
 (マタイ7:13-14、新約聖書
 
楽山は、いつも安易な道を選びます。この聖句について、とやかく言うより、この「滅びにいたる門」の聖句が自らに向かっていることを知るべきなのです。しかし、今日も、広い門を通って、堕ちてゆきます。悪意と敵意がバレバレとなっている楽山の猿芝居です。
 
 

*狭き門
「狭き門」は何回か通読したことがある作品だが、今回読み直してみたら記憶違い及び読み違いが三つほどあったのが分かったのでメモしておきたい。
*記憶の変換?
まず一つは、自分はアリサは家を出て修道院に入ったとばかり思っていたのだが、それは間違いだったということである。たぶん、アリサの性質からそのように思い込んでしまったのだろう。
*別れの理由
もう一つは、とある本で、アリサはジェロームに本当の自分を知られて幻滅されるのを怖れて、そうなる前に自ら身を引いたという解釈を読み、長らくそのように思っていたのだが、それは間違いだったということである。

 
殆どストーリーの説明がないまま、言いたいことだけを言ってくる楽山です。感想が感想になっていない、劣悪な文章です。楽山が目指しているのは、自己顕示欲からの読書家アピールだけだと思います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴が、いつも漏れ出てくるだけです。
 
恐らく、楽山は、本を読むだけの読解力はないと思います。また、平気で嘘を吐く虚言癖のサイコパスでもありますから、読書家気取りだけでしょう。まず、まともに読書することなど、楽山の偏狭で未熟な知性では無理で、だからこそ、見栄を張っているのです。
 
楽山は「解釈を読」んだと書いてあります。「狭き門」自体の感想が改まったのではなく、楽山は、解釈本を読んで、キリスト教批判に使えると思っただけでしょう。このような、下種なやり方で、インテリを気取って、人の良心をおとしめてくる楽山の低劣さを、知ってほしいと思います。
 
 

本作を読んでみるとアリサはとても宗教的な人物として造形されており、そのような考え方をする人物としては描かれていない。たとえば、アリサの日記にはこう書いてある。

おそらく最初のうちこそ、わたくしに対する愛情が、彼を神のほうに導いていたとしても、いまとなっては、その愛情が彼の妨げになっている。
(「狭き門」『世界の文学33』、ジード著、菅野昭正訳、中央公論社、昭和40年、p.245)
 」

わたくしが「自己完成をめざした」のも、ただひとえに彼のためだったような気がする。それなのに、その自己完成にも、彼と離れないかぎり到達できないとは、おお、神さま、それこそ、あなたの教えのなかで、わたくしの魂をもっとも当惑させるものなのです。
(同上、p.244)
 」
本作ではジェロームがアリサを偶像化していることに触れている箇所があるので、とある本ではその部分を拡大解釈していたのかもしれない。

 
小説の中の、一人の女性が結婚を諦めて命を落とすというストーリーによって、楽山は、現実の信仰を否定しようとするのですが、そんなフィクションの話より、現実には、楽山という精神病質者の悪意ある歪曲が、信仰を否定し妨害しているという害のほうが深刻なのです。
 
信仰は人間がするものですから、信仰による自己完成などありません。間違いだらけの自分を正直に祈って神に告白することで、罪の赦しによって、成長可能な人生を歩み続けるのです。完全ではなく成長が大事であり、これは、楽山には全く見られないものです。
 
 

*宗教による悲劇
三つ目は本作には悲恋ものというイメージがあったのだけれども、改めて読み直してみると単純な悲恋ものというよりは、宗教にまつわる悲劇というニュアンスが強いことである。
たとえば、アリサはこんなことを言っている。

「なぜ、あなたはイエスさま以外の案内者を求めようとなさるの?……わたくしたち二人は、それぞれ相手を忘れて神さまにお祈りするときこそ、お互いにいちばん近くにいるはずだとは思わなくて?」
(同上、p.145)
 」

「あなたのおそばにいると、こんなに幸福になれるのかしらと思うほど、わたくしは幸福なの……でも、いいこと、わたくしたちは、幸福のために生まれてきたわけじゃなくてよ」
(同上、p.215)
 」

「恋だって、ほかのものといっしょに過ぎ去っていくにちがいないわ」
(同上、p.226
 」
ジェロームの「きみを見つけられないくらいなら、僕は天国だってお断りだね」という言葉には、次の聖書の言葉で返答している。

「まず神の国と神の義とを求めよ」(マタイ伝第六章三十三節)
(同上、p.145)
 」
この辺りを読むと、この悲劇は宗教に起因するものだとしないわけにはいかないだろう。

 
楽山の悪意全開です。聖書の「狭き門」という癒しと励ましの聖句に因んだ小説を、一部だけ引用して冷たさに見せかけようとします。楽山は、聖書の「せ」の字も知らず、細かいところまで、このような悪企みに満ちている冷血の人です。温かい情感がないのだろうと思います。真に受けてはいけません。
 
楽山は、信仰者がいだく使命感を悪用しています。信仰の使命感が、人間性を、生かすか、思い込みによって滅ぼすかは、個々によって違うのに、悪い例だけを挙げてキリスト教と信仰を全否定する印象操作でです。刷り込み屋は、こう言う卑怯な文脈を造るのです。楽山の悪だくみです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:33
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
 (マタイ6:33-34、新約聖書
 
楽山は、神の義を求めることを、全部捧げよ、とか、完全になれ、ということだと思っているのでしょうか。それは人間には不可能です。この世の持ち物や関係の全てを捨てたところで、神の義が得られるわけではありません。楽山の恐ろしく幼稚な曲解であります。"罪の赦し" を知らないのでしょうか。
 
一方で、聖書によれば、ただ、ひと言で、罪を赦されて、神の義を与えられることもあるのです。楽山は、神を、先入観で固定しています。つまり、何も知らないで言っているのです。この楽山のように、神と人の、主客を転倒してしまうと、悲惨な曲解になるという例です。
 
楽山は、まともに聖書を読んだこともなく、読解力もないので、敵意の妄想的曲解で「悲劇は宗教に起因するものだとしないわけにはいかない」という二重否定の曖昧語尾のボンヤリ言語によって、信仰を否定し続けるという極めて程度の低い反キリストです。
 
楽山は、人間にとって、何が大切か、何がいけないことか、個人が切実に求めるものが、まるで分からないまま、水漏れのように、だらしなくクレームをつけています。楽山のように、神の義などからは正反対の者が何かを言って、騙されるお仲間が増えないように、批判しています。
 
楽山の言う悲劇は小説の中のフィクションの話です。個人によって事情も違ってくるでしょう。人の恋愛の暴走が悲劇をもたらすこともあるでしょう。様々な状況で、不完全な人間を信仰対象としてしまうことの悲劇を思います。しかし、楽山の悪意は、それらよりもはるかに悪質であります。
 
ゆえに、一方、はっきりしているのは、フィクションで現実の信仰を否定しようとする楽山の未熟さ低劣さであり、自己愛の病魔から、信仰を否定するようなことを宣伝して、かつ、責任も負わない不全の者の言うことなど、いつでもどこでも信用するに値しないのであります。
 
信仰者が信仰を捻じ曲げてしまうと、様々な弊害があることは、既に、多くの事実によって、明らかであります。しかし、今、ここで、信仰を捻じ曲げているのは、信仰について、何も分かっていないことが、今まで書いてきたものによって、明らかになっている冷血非情の人、楽山であります。
 
いつもいつも、うんざりするような執念だけの筆致で、信仰を貶めてくる楽山の鬱陶しさは、目に余るものがあり、あらゆる題材の片隅を擦(こす)って拾ってきては嘲りを向けてくるのですが、一切が、無責任で無反省な発言に過ぎず、楽山の、無知と無恥の病質が見えてくるだけです。
 
 

巻末の解説にもこうある。

アリサの悲劇、それは現実的なものいっさいを拒絶するジェロームのアンジェリスムの所産であり、ここでは神への服従が人間的なものことごとくを封殺していく過程が、『背徳者』を裏がえしにしたカタチでたどられていく。
(同上、p.561)
 」
宗教が自然を捻じ曲げて悲劇を引き起こしたという物語を読んで、宗教に悪感情を持つというのはいささか単純にすぎることではあるが、

 
まさに、楽山が、宗教への悪感情に、誘導しているわけです。このように、明らかにおとしめる目的で書きながら、引用だからと、責任を逃れようとするのが、楽山という男の、嫌らしい処世なのです。腐っても、このようにだけはなりたくないものです。知恵が足りないのに見栄を張るのです。
 
 

宗教は場合によっては人の自然な感情に害悪をもたらすこともあるのは事実であろうし、自身が狭き門に迷い込まないためにも、大切な人を守るためにも宗教との関わり方には慎重を期すことが大切なのだと思う。

 
このように、「場合によっては」「こともある」という弱い表現で「事実であろう」と言ってくるわけです。楽山という偏向して無責任な卑怯者は、こういう表現をもって、出会う人を、ことごとくイラつかせてきました。一日も早く、この無反省無責任男が放逐されてほしいと思います。
 
宗教が悲劇をもたらすのは、楽山のような者が、無理解と偏見と曲解によって、宗教を、戒律や、強迫観念や、毛嫌いや、無責任の否定などの見なしによって、その恩恵から、人々を遠ざける時であり、まさに、不感不応・訂正不能サイコパスの楽山による日記ブログが企んでいることです。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDであるために宗教と信仰の心が全く理解できません。それを逆恨みして、宗教と信仰を否定しようと、陰謀を企んでいる病質なのです。温もりも潤いもない心から、楽山が放ってくる砂まじりの虫か蛇の毒のような文章に惑わされないでください。
 
楽山は、今まで、実のあることなど一言も言ったことがありません。無責任で無反省な発言は、結局、何の意義も作用も持ち得ません。楽山は、何も主張していないのです。どうか、楽山の文章をまともに読まないでください。楽山の空疎で無益な病質しか表れていないのです。
 
楽山の、狭き門を通ることのない、幅広い崖から落ちてゆくだけの、いつも、大事なところをぼかして、笑って逃げてゆく体質が表れており、その逃げ場が楽山ブログであります。決してまともではなく、このような人間がいようとは・・と呆れるばかりです。楽山は、冷静に冷淡に虚言を吐く男です。
 
楽山とは、3年以上前に、コメントの遣り取りをしたことがあります。こちらの言ったことに返せない人です。無視したり、嫌がらせを書いてきたり、話を逸らしたり、似て非なる理路の迷路に誘導したりで、その時点で、人格障害と判断しました。そして今まで、その判断は、覆ることはなかったのです。
 
 

      

         知りもせず気づかないことの腹いせ
 
 
(2021年)
(2022年10月23日、再録+加筆)
 
 
 
  堕落の煮汁
 
昼も夜も
煮汁は堕落である
煮汁は有害である
煮汁は徒労の末に毒を齎(もたら)す
煮汁は濃縮する
屋根の下
蒲団の中
煮汁は乾燥する
灰汁(あく)と澱(おり)と滓(かす)
あるいは苦汁(にがり)
しかし迎える朝
鼻腔が熱の水の閉塞を訴えても
乾いた体は渇いた咽喉(のど)は
臭気と空気を放出しながら
まず最初に水分を要求する
一日分の煮汁の支度である
それが一日の
測れない量の
罪の始まりであり
糧(かて)である
 
 
  自信とは
 
自信とは自分の能力・価値を信じること
キリスト者でも
自信を持つことはあるだろうから
自信と信仰は別だろう
自信とは
努力と実績に裏打ちされた自惚(うぬぼ)れか
努力・実績・自惚れ
ただ幸か不幸か
やっぱり不幸か
三つとも無いことがある
怠け者・役立たず・自己嫌悪
飲む打つ買うはしないものの
持たないものは持たないのだから
結果は堕落した暮らしで
せいぜい努力するよう努力して
少しばかり学び遊び
あとは与えられるものを
ありがたく頂いて
頂いたものは頂いたのだから
裏打ちも
裏も表も
あろうとなかろうと
例えば庭が自棄の荒野になり
マイホームが自虐の牢獄になろうとも
心ゆくまで悔いたい
自信喪失者
シアワセのスポンジになるまで
ただ幸か不幸か
やっぱり不幸か
悔いれば悔いるほど
心ゆくことなどないのだが・・・
 
 
  李下と瓜田の巷と地獄
 
阿鼻の地獄
叫喚の巷
さあ今日も元気に頑張りましょう
並んだ桃の木の下で
帽子を阿弥陀に被りましょう
大きく手を上げ腕を伸ばしてぇ~
おいちに、おいちに、・・・
さあ紐の解(ほど)けた靴を履いて
西瓜(スイカ)畑に入りましょう
靴紐を結んだらぁ~
大きく膝の屈伸運動
おいちに、おいちに、・・・
蟻の列を見つけたら
せわしく触角を動かして
コミュニケーション
声なき声を聞きましょう
阿鼻の地獄
叫喚の巷
街へ出たなら人の声
人の思いまで聞けたなら
さぞかし騒がしいことになるでしょう
何という誤解
と曲解で出来ている
阿鼻の地獄
叫喚の巷
さあ心臓が止まるまで
走らなければなりません
おいちに、おいちに、・・・
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
恥ずかしながら、自分もこれでした。とほほ泣き顔
はじめは「くだらん」と思ったものの、本は好きだったし、HS本は読みやすかったのでどんどん読むうちに、「これは本物だ」と思いこんでしまったのでした。
午後7:52 · 2021年10月4日
https://twitter.com/komo266/status/1444978854481707009

 
恐らく、嘘だと思います。楽山は、何ごとにも、本気で打ち込むことはなく、深い興味もなく、努力することもない人だと思います。本物も偽物も分かりはしません。その分、超常趣味で、羽根を伸ばせるとか、人に説教できるとか、かっこつけることだけを狙っているに過ぎないと思います。
 
楽山においては、深く掘り下げる気もなく、浅薄に、一気に努力せずに、できた人と思われたい欲求しかないと思います。本物だと言うインスタント宗教が欲しいのだと思います。だから、深い宗教より、いちゃもんカルトや、おまじないのほうを好むのでしょう。結果は醜いだけです。
 
楽山は、怠慢で、本物志向も思考もないから、気安い思い込みで羽根を伸ばそうとしては、浅さを見抜かれて、嫌われて、結局、学者とスーパーマン気取りの芝居で、独り笑いするしかなくなっているのです。哀れというより、惨めな男です。見苦しいから、早く消えてほしいのです。
 
楽山は、理路が整わず、共感もなく、かつ、反省機能がない自己愛性パーソナリティ障害ですから、何かを学ぶ姿勢もなく、何を言うか、なにをいうか、オレはオレはオレは・・と、自分信仰で自尊心を無根拠に膨らませて語って来ますが、冷静に見れば、軽薄な作り話だけなのです。
 
 

心機一転★こも楽山
@komo266
ワクチン接種については、メリットとリスクをよくお考えの上でご判断くださいならまだしも、「接種をおすすめしています」というのは軽率ではないですか。
とある看護師にこの件を相談したときに、「こちらから接種をすすめることはできないですけど」と慎重に答えていたので余計にそう思います。
午前7:04 · 2021年10月6日
https://twitter.com/komo266/status/1445510148085018635

 
誰よりも軽率な発言をしてきた楽山が、他者を軽率と言っています。前から言っていることですが、楽山には、人のことを言う資格はないのです。それこそ、楽山の被害に遭わなくて済むワクチンなり治療薬があったなら、私は熱心に「おすすめ」すると思います。
 
楽山にだけは関わらないでください。楽山は、本気では何も出来ない、中身のない、薄弱な意志の発達障害であり、病識がないために、自己顕示の悪意のアピールを企みます。うわべだけの丁寧語で、ネチネチと、しつこく粘着して、破れたギョーザの皮のような軽口になります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
自分の意見を書いて公表するためには、反省は必須であります。「人間の性」と言って、反省しないことを正当化している楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の症状を表しているに過ぎません。無反省は、いずれ、孤立と離人となって、楽山に表れてくるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
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