ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の体質的精神障害2

 
  楽山の体質的精神障害
 
 命の尊さと進化論
 2014年03月23日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512395.html
  を改めて批判。
 
 
かなり前の楽山の記事です。しかしながら、最近言ってきたことと、基本的に、ほとんど変わりがありません。つまり、無反省と無責任をきたす体質的精神障害、即ち、自己愛性パーソナリティ障害NPDの症状が、ずっと前から、成長もなく、書いたものに表れ続けてきたということです。
 
楽山は、キリスト教と信仰について、何も勉強していません。そして、印象操作として、キリスト教についての浅薄で幼稚な偏見を並べて刷り込んできます。そして、神はいないとか、無神論の引用とかで、信じ過ぎてはいけない・・などと、程度問題で語ったりしてきました。
 
信仰は、浅く信じたり、深く信じたりするような、程度問題では語れません。程よく信じる信仰などありません。決めつけて固定するのはカルト、あるいは、楽山のような無神教カルトなのです。また、思い詰めて、思い込んで、訂正不能に信じこむ信仰など、ありません。楽山は何も理解していません。
 
信仰は、有無であり、その有無を最終的に裁くのは、神ご自身であります。信仰者は、正直に祈り、努めるしかありません。他者について、偽物であるかどうかを云々することは、信仰の根幹について触れた場合だけであり、楽山の言は、最初から最後まで、宗教と信仰において、真っ赤な偽物です。
 
楽山のような、詭弁を弄し嘘を吐く者が、信仰の欠片もないのに、信仰の根幹に真っ向から反する妄想や否定の発言を繰り返すゆえに、悪意ある反信仰・反キリストであることは、その言動から、他に考えようがないことをもって、明らかになってきました。
 
もはや、嘘によって、発言の信用度もゼロとなっている楽山に対しては、精神衛生上のダメージを避けるために、直接の遣り取りを断絶し、記事で批判を続けるしかない事態となっています。あざ笑いの悪意を隠しながら、丁寧語で誘ってくる楽山の口車に、決して乗らないように、お願いします。
 
私のブログの批判記事は、約10年、楽山については約3年いじょう、病質的偽善者の情報を広く知らせるために書いているものです。治療法がなく回復の見込めない自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)について、表れてきた症状を明らかにしてゆくつもりです。
 
 

進化論の本を読んでいると
生命について考えさせられます
今、自分が生きているということは
生命の誕生から、今の自分まで
一度も途切れることなく
生命がつながっているということ

 
つまり、楽山は、心と物質を混同したまま、持ってもいない信仰の心を、紙切れのように扱い、神否定と進化論礼賛に結び付けたいようです。まず、神と進化という2つを対立させることが、良心を持たず、知恵の足りない楽山の、言いがかりの悪趣味と言えるでしょう。
 
神と進化論は、信仰と科学という別次元であり、一部の精神の混乱した楽山などの無神教カルトが、対立させたがっているようですが、土俵も土壌も違うテーマを混同するという幼稚な誤解~曲解であります。楽山という判別能力の基本の理路をも学び損なっている者が語れる問題ではないのです。
 
一見、何か、感動しているような書き方ですが、きわめて単純かつ短絡であることを見逃さないでください。この程度のことは、小学生でも考えることです。大人の、何かを伝えたいという真摯な態度ではないのです。人に対して、操ろうとすることしか考えない者の所業であります。
 
進化論を読まないと、生命の誕生や自分や他者の命のつながりが、考えられないのでしょうか。生まれ育って家族を見て、ふつうに勉強して、人の話を聞いて、考えることは可能です。わざわざ、進化論を持ち出し、反宗教へ誘導しようとすることが、楽山のインテリ気取りの捏造に他ならないのです。
 
 

祖先たちが
天災、疫病、戦乱など
さまざまな危機を乗り越え
生き延びてくれたからこそ
今の自分がいるということ

 
このことは、宗教も、進化論も、関係ありません。宗教を考えなくても、科学を考えなくても、これくらいは誰でも思いますし、いい大人が、今さら気づきましたという口調で語ったところで、少しも新しくはないことです。しばしば、楽山は、企みのために、大仰なことを言って未熟をさらします。
 
 

そうであれば
自分はこの生命を大切にして
次につなげなければ……ということ

 
小学校か・・と思うほど、発展性のない月並みな道徳を語る楽山です。実際は、こう書けば、感動してくれるじゃろ・・という狙いがあるのでしょう。楽山は、自分大事で、他者を大切にしておらず、平気で人を傷つけます。これを、「次につなげ」られたのでは、甚だ迷惑~有害です。
 
 

人は霊であって
永遠の命を持ち
輪廻転生している
と信じていたころは
祖先のことはほとんど考えることはなく
肉体生命の維持を軽んじるところがありましたが

 
以前より霊が分かるっぽい・・という自覚の、楽山の妄想は、しばしば霊を強調し、永遠とか、輪廻とか、過去形ではない超常趣味として、今も変わり映えもなく退屈に、続いています。楽山は、自分は特別だからと言いたくて、軽んじるどころか永遠不変に結びつけて妄想を語ってきたのです。
 
 

進化論に興味を持ってからは
祖先の労苦と
生命の大切さをより強く感じるようになったように思います

 
「祖先の労苦」は「進化論」によって感じるものでしょうか。進化論によらなければ「生命の大切さ」を「強く感じ」ないでしょうか。命だけでは、生きている姿を見るだけでは、楽山には「生命の大切さ」が分からないのでしょうか。実感もなく思いつきで書いていることが直ぐに分かる楽山の筆致です。
 
ふつうは、逆なのです。生きている命を通じて、命の大切さを思い、生命というものに興味を持つものなのです。いったい、どういう精神を持てば、このような、人間的直感の欠乏した、人間離れした生命観を書けるのでしょう。楽山の思考、ボロボロではないでしょうか。
 
さらに、いかに自分が他者を苦しめているかを、まるで感じない楽山が、「祖先の労苦」「生命の大切さ」など、感じているとは思えません。人を操るための、こう書いておけば、ひとかどの人物と思われるじゃろ・・という自己顕示欲の醜さだけが表れています。関わらないでください。
 
真の謙虚さを持たない病的ナルシストの、おぞましさが、直感の鈍さとともに表れています。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)であり、サイコパスと同系統の体質的病魔が、楽山を、このような、鈍感をごまかす三文芝居へと導いているのです。相手にしないでください。
 
 
 
 いろいろな信仰
 2014年03月30日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512397.html
  を改めて批判。
 
 
気持ちの悪い文章を書いてくる楽山です。宗教と信仰は、小学校の算数ではないのだから、幼稚な決めつけと未熟な理路で語れるものではないのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、深い思考も感受性もないことの悲劇の例が楽山であります。
 
 

聖典のことばは
不合理なものも
そうでないものも
すべてそのまま事実である
とする信仰

 
聖典の読み方も、まるで知らない楽山に、信仰の合理・不合理を語る資格はありません。このように、不合理という言葉で、宗教と信仰を、平気で否定する者には、悪意はあっても、洞察はなく、敵意はあっても、直観はないのです。楽山の言は、顔ではなく肛門を向けているようなものです。
 
不合理が、間違えた算数の計算のように不合理のままなら、人が受け取ることはないはずです。思考と情緒の広がりを全く持っていない楽山であり、ゆえに、何を書いても、通念を超える理解に結びつかず、かさばるボール箱のように、いずれ潰される定めに気づかないまま、煩わしさを積み重ねるのです。
 
 

聖典のことばのうち
不合理なものはすべて
何らかの象徴、比喩、たとえ話などである
とする信仰

 
今までの発言から、「象徴、比喩、たとえ話」なども、楽山は理解していませんし、受け取って考えることも出来ていません。いったい、何を読解したつもりで思い上がって、語ろうとするのでしょう。思い上がった小学生が、そのまま体だけ大きくなって、髭だらけの有頂天になっているだけなのです。
 
 

上の二つを折衷する信仰

 
宗教と信仰をパターンで分類しているつもりでしょうか。それは、宗教と信仰について、少しも感受性を持っていない人がすることです。それで不合理と断定する決めつけだけの楽山は、未熟で低劣な精神のままであり、単純に短絡して図々しく書いてくること以外、何も出来たことがありません。
 
 

一つ目の信仰は
純粋性という点では優れているのだろうし
二つ目の信仰は
信者の範囲を広げる効果があるのだろうし
三つ目の信仰は
宗教と現実との間でバランスをとるものだろう

 
直観と洞察の欠如は、このような安易な分類の仕方になるという例です。「優れて」「効果」「バランス」・・このような言葉で、宗教と信仰を表すこと自体が、楽山の、思考障害、妄想前提、劣悪、無効、アンバランスを表しているわけですが、楽山だけは、気づかないのです。
 
宗教と信仰を、オモチャか文房具のように扱って、宗教人と信仰者の気持ちを何も理解できないのに、分かったつもりになって対象化して、独りだけ満悦してきたのが、楽山の人生なのでしょう。批判されなかっために、ボンヤリ言語の曖昧さで化粧した楽山の文章は、腐敗の悪臭を発するだけです。
 
聖書を読んで、物や肉体の奇跡ばかりを有り難がって讃美する傾向に似ています。そういう人が純粋を追求すると、決めつけて信じ込んで豪語するようになるでしょう。これは、信仰を勘違いすることの、最も見苦しい姿です。信仰に完全は不可能です。必要なのは正直な祈りだけです。
 
 

おそらくこの三つ目の信仰が
もっとも無難だろうけれども
どの辺りを視点にしてバランスを取るかは
難しそうではある

 
宗教と信仰は、いろいろあるけど、無難だからという理由で信じるものではありません。恐ろしい勘違いです。ここに至っても、楽山は、自分の理解が足りない・・という結論だけは考えないのです。楽山は、無反省と無理解から、これが宗教だと思い込んで、無難というより、何も信じないことを選びます。
 
何も受け取らない人は、何も信じなくてよいのです。その代わり、受け取らず信じないことについて、語るべきではありません。宗教を、語るのも批判するのも、人間について、深い理解を、少なくとも求める姿勢が必要です。
 
未熟で、思慮が足りず、感受性がないところで、自分で勝手に辻褄を合わせた宗教と信仰を、分かっているかのように吹聴する楽山です。むしろ、そういう宗教観を広めることで、宗教は無駄だということを広めるリーダーになりたがっているのです。寸足らずの高慢は、病的な自己愛から来ています。
 
そして、物でも扱うように「バランスを取る」「無難」などと安い見方に短絡し、最後は「難しそうではある」などと、責任逃れ付きの結論を書いて終わりです。人の迷惑を考えないで、宗教と信仰という真実の追求に、厚かましく割り込んでくる楽山を、決して相手にしないでください。
 
楽山は、未熟を自覚できず、反省もしないがゆえに、学習と成長ができないのです。ここが、治らない限り、まともな言論者には決してなれません。なのに、病識欠如の無自覚で、勝手なことを書いては、ますます、信仰からも、そして、人間としても、的外れになってゆきます。
 
 

     

             幼稚で硬直した先入観
 
 
(2021年10月13日)
(2022年11月07日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
 
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
 
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
 
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
 
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
 
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
  失敗だった曲に合わせて
 
束の間の夢をいだいて
秋の街を歩いた
あの頃
君の心にはもう
動きようのない索引が
私をいっしょにまとめてしまう
はねるような笑顔で
秋の色をたたんで
君は去った
 
女は性を求めていた
彼女は位置を求めていた
そして仕事を
私は今も遊び人
使い物にならないリビドーを秘めて
また秋の街を歩く
君の音色を求めても無駄なこと
失敗だった曲に合わせて
私は歌い始める
そしてせめてはと
そっと
君の思い出に
裏切るように
生と死の
境目に沿って
歌を滑らせる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
「恥ずかしながら」・・嘘です。楽山には、羞恥心はないと思います。羞恥心があれば、批判の早期に、書けなくなるはずだからです。お構いなしに3年以上書き続けています。羞恥心、罪悪感、悲哀の感受性、責任感、反省力、いずれも欠けています。ゆえに、芝居するしかないのでしょう。
 
批判の記憶の初期に驚いたこととして、楽山の言の一例ですが、否定を言い、肯定を言い、断定していないから、責任問題は生じない・・という発言がありました。否定したら否定した責任が、肯定したら肯定した責任があります。さらに、否定から肯定に訂正したことも責任をもって弁明する必要があります。
 
そのときから、楽山は、無反省、無責任、という要注意・要警戒の警報付きになりました。楽山に、世辞でも社交でも、黙って頷いていると、混乱して、人間性が鈍化して、楽山と同じような情意鈍麻の人間離れになってゆく恐れがあるのです。決して関わらないでください。
 
楽山は、ネットにおける病的疲労物質です。人の言うことを全く受け取っていません。宗教、思想、真善美について、何かを書ける人ではありません。感想さえも、嘘と詭弁に塗れています。楽山が何か言ってきたら、一言「あっちに行け」と書いて、出禁を告げてください。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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