ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の鈍麻~不感

 
  楽山の鈍麻~不感
 http://mmknky21.blog.jp/archives/17587807.html#more
 
 
 『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』大川隆法
 2022年11月12日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。
 
楽山は、また、長いだけの記事を書いてきました。自称アンチHSの楽山のHS批判かと思いましたが、むしろ、賛同しているようです。楽山の、今までが、真っ赤な嘘だったということが明らかです。同時に、アンチ芝居と、賛同芝居によって、楽山が自己中を表している記事です。
 
楽山は、今後は、HS寄りとして活動するのでしょうか。ならば最悪の卑怯者です。やはり、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)は、自己中以外に何も持っていないことの証明と言えるでしょう。誰にでも尻尾を振って、また、裏切って、自己満悦できる人なのです。
 
 

*ひさしぶりの再読
『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』を再読してみた。旧版は以前よく読んでいたので、ところどころで懐かしい言葉と再会できて愉快だった。
今回も前記事と同じく、記事の前半にに共感できたところ、後半には共感できなかったところを書いてみる。

 
楽山の正体は、誰によっても迷惑ですが、今回は、ORを引用して「懐かしい言葉」と言っています。
 
 

*克己心
こういうわけで、まず本書ではじめに共感できたのはここである。  

克己心を持てること自体が一つの才能だと私は思います。
(『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』大川隆法著、幸福の科学出版、2003年、p.77)
 」
これは全くその通りだと思う。やる気、向上心があるという大切なことだ。
克己心が旺盛だと、やりたいこと、やらねばならないことが沢山あって、毎日が忙しくてたまらなくなるのだが、こういう日々が幸福というものなのだろう。

 
アンチHSのはずなのに、「全くその通り」と言っています。アンチではありません。宗教を、ここは賛成、ここは反対、という感想文で論じるのは間違いです。例えばカルトの、敬虔がなく、決めつけてくるという本質を、部分的に賛成か反対かで語ったつもりになる時点で、楽山は的外れなのです。
 
 

*魂の器

あなたが責任をとれる範囲が、あなたがどのような人間であるかを物語っています。自分はどれだけのことに責任を持っているか、あるいは責任をとれるかということが、自分の器を知る指標なのです。
(同上、pp.101-102)
 」
この考え方は、以前、本書を読んで以来、ずっと記憶に残っており、今でもよく思い出すものである。
これはアドラー心理学の課題の分離、個人主義などとは正反対の考え方であるし、やや自己処罰的傾向が強いので、モラハラ被害を招く危うさはあるものの、自己研鑽という視点からみればよい面はあるだろう。

 
また、大嘘を吐いています。無反省、無責任の、無神教カルトで、アドラー教宣伝者の、楽山が、白々しくも「責任」を語るのは、もはや、罪悪感自体が皆無であることの証拠になるでしょう。実際、楽山は、人を低く見てくるモラハラ人格であり、壊れ続けており、人間性を失っているのです。
 
 

*人それぞれ

世の人びとはさまざまな考え方を持っています。みなさんも経験があるでしょうが、こちらがあぜんとするような考え方を持っている人もいます。向こうからみればこちらがそうであって、まったく逆になるわけですが、こうしたことは実に多いのです。
(同上、p.121)
 」
これも本当にその通りだ。ものの見方、考え方は、それぞれ違っているのが現実である。

 
楽山は「人それぞれ」で自分の無責任の正当化を、してきたことがあります。人それぞれは、責任ある大人について言えることです。それができずに、また言ってくるのは、他者も、自分の過去も、起こったきたことも、何も気にしないでいられる劣悪な異常人格だからなのです。
 
 

事実関係についての話でさえ、他者と一致させるのは困難な場合もあるのだから、ましてや信仰、信条、主義、価値観などを他者と一致させ、共有しようなどというのは無理なことだ。大雑把に話を合わせることは可能かもしれないが、細部まで詰めようとすれば、お互いの間にはどうしても埋められない深い溝があることを自覚させられるだけである。
それだから、ものをよく考える人ほど孤独感を抱えることになり、場合によっては、死ぬか、狂うか、宗教に走るかしかないと思い詰めることにもなるのだろう。

 
楽山の孤独感は病質がバレたことによります。楽山は、元々病質のために、見せかけの交流しか出来ない人ですから、ずっと孤独で孤立しています。誰も楽山を真に好意的には理解することは出来ず、楽山が騙していただけなのです。自覚もないので、今も、まとも芝居をしているのです。
 
 

*学ぶべき人

気にいらないと思うと、その人から何も聴きたくない、何も学びたくないということになりますが、実際は、自分がきらいになる人や、自分と対極にある人のなかにこそ、学ぶことは多いのです。
(同上、p.125)
 」
恥ずかしながら、自分にも坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという感情を抑えがたいときはある。ただ思想に関しては、そういうことは殆どない。以前は唯物論アレルギーみたいなものはあったが、最近はなくなった。
なので、自分が拒絶しているものにこそ、学ぶべきことは多いというのはよく分かる。

 
楽山は、対極にある私の意見を、ことごとく無視してきました。コメントの遣り取りを数か月した際には、不感不応で、同じことを繰り返すことしか出来ませんでした。楽山は、理路も、情緒も、理解できない成長不全の人です。
 
 

*開拓

知識の面では、これまで自分が関心を示さなかったところ、まったく無視していたところ、勉強しなかったところに、努力して少しでも手を伸ばしていくべきです。やがて新たな視点が得られ、大きな道が開けてくるでしょう。
(同上、p.163)
 」
これも共感できる。元々右寄りの考え方をしているなら、意識的に左寄りの知識を仕入れてみたり、霊的な方面に関心があるなら、あえてその反対の唯物論について学んでみるのも、新たな視点の獲得のためには有意義なことだ。

 
ORに「共感できる」そうです。楽山は、右寄りというより、A級戦犯に賛同するような記事を書いたのだから、ネトウヨなのです。また、楽山は、病質のために、学習するということが出来ない人です。「新たな視点の獲得」どころではなく、今も、視点など持っていないと思います。
 
 

*求不得苦
ここからは、本書中、あまり共感できなかったことについて書いてみる。まずはこの言葉である。

当時の私が欲しかったのは他の人の愛です。他の人にやさしくしてほしい。ほめてほしい。「あなたは素晴らしい」と言われたい。そうしたものが欲しくて苦しんでいた
(同上、p.19)
 」
正直言って、私にはこの感覚はよく分からない。私はどちらかといえば問題児で、幼少時から褒められることよりは叱られる方が多かったのだが、それでも称賛や優しさが欲しくて欲しくて堪らないという気分になったことはなかった。

 
過去形で書いていますが、楽山は、以前から、そして、今も、人を騙しているのであって、本当に褒められることは、全くないのです。「称賛や優しさ」が欲しくないのは、恐らく、高等感情の鈍麻によるものでしょう。自我に固まり修正不能になって、感情が鈍くなっているのです。
 
 

著者は幼少時から優等生だったそうだから、私よりもずっと褒められ、優しくされて育っただろう。それなのにこれほどまでに、称賛や優しさに飢えていたというのはよく分からない。

 
「分からない」というより、楽山には、そういう経験もなく、そういうことへの感受性も獲得していないということでしょう。それで、正当芝居をするのは、悪意であり、病質の症状なのです。優等生でないことは言い訳になりません。学校の成績云々ではなく、自分を見る洞察がないからです。
 
 

*損得勘定

そのため当初は、「そうしたことをして、何の得があるのだろうか」という気持ちがありました。
(同上、p.19)
 」
著者は「人を愛し、人を生かし、人を許せ」という教えに対して、このような感想を持ったそうだ。
私は倫理道徳は損得勘定ではないと思うので、こういう考え方はよく分からない。親切というものは、そうしないではいられないからそうするのであって、それが得だからするのではないだろう。「人に親切にしましょう」というのに対して、「それに何の得があるのか」という問いがなされるというのは、それこそ唖然とさせられる思いがする。

 
また嘘を吐いています。楽山は、人を、愛したことも、生かしたことも、赦したことも、ないのです。今までの楽山の発言が、自己愛・自己中しか示していないことが証拠です。また、楽山は、深い情緒がないために、思想や信仰について、複雑な中身を理解できず、短絡~妄想で決めつけてきました。
 
 

*人の言葉

また、当時の私は、人がほめてくれても素直に喜べず、逆に、少しでも悪く言われると、とげが刺さったように感じて、二年も三年も、あるいはそれ以上も、刺さったとげが抜けないという状況でした。
(同上、p.21)
 」
私の場合は、他人から褒められれば、素直に嬉しくなる。たとえば、コンテストに入賞したら、だらしがない話ではあるが、にやにやが止まらなくなる。自分はまだまだだという謙遜はあっても、それでもやっぱり嬉しさは止まらない。人というのはそういうものじゃないかな。

 
また、嘘を吐いています。楽山は、騙したり、世辞を言うので、誰にも褒められることは、恐らくなかったと思います。素直さが全くないと思います。「人というのはそういうものじゃないかな」・・この口調こそ、楽山の芝居であり、見るたびに吐き気を催すインテリ気取りなのです。
 
 

悪口については、少しは気にするが、何年も苦しみ続けるというのはない。そういうものは時間が経つと、大体が笑いに転化されるもののように思う。女性から、きつい言葉でふられた時などは特にそうではなかろうか。

 
悪口も、正当な批判も、高等感情鈍麻によって、不感不応でいられるのが、楽山です。笑いに転嫁してゆくのも、共感のない楽山には、容易いことでしょう。いつも人を、下に見て、あざ笑っている病質です。それを、自慢げに語っているわけだから、人格の不全は、どうしようもないと感じます。
 
 

*愛の貸借対照表

そこで私は、「愛を与えた部分と、愛を与えられた部分とを、書き分けてみたらどうなるか」と思い、心の中で並べてみました(これを幸福の科学では「愛の貸借対照表」と呼んでいます)。
(同上、pp.23-24)
 」
これは方便だろうと思うのだが、愛を損得勘定で語っているようで、あまり良い気分はしない。
映画やドラマの中で、強者達が人の命を救ったり、救われたりしたのを、貸し借りで表現するのは格好良いが、真面目な顔をして「愛の貸借対照表」うんぬんはないだろう。

 
楽山は、高等感情がないために、出来の悪い辻褄合わせに終始して、いつも、論点から外れてきました。感じるべきことを感じられないのです。ゆえに、愛について、楽山が理解しているとは、到底思えません。楽山には、例えば心の痛みがなく、その冷酷さから、平気で痛みを与える人となっています。
 
 

カトリック批判

カトリックの信者でも、霊やあの世を理解していない人がわりといるのです。こうした人たちの特徴は、二千年前のイエスの時代で時間がとまっているということです。そこで時間がとまってしまっているために、理解ができないのです。
(同上、p.122)
 」
HSでは、カトリックに限らず、伝統宗教を批判する際に、霊界の話が少ないことを問題視することが多い。HSは常々、人は如何に生きるべきかという心の教えの学びと実践ことが大切であって、霊界話にばかり夢中になる霊好きはいけないと戒めてはいるものの、伝統宗教を批判するときは、霊界話が少ないからだめだというのである。
こういうところをみると、霊界話より、心の教えこそが重要だというのはあくまで建前であって、本音は何よりも霊界話が大好きだし、それこそがもっとも重要だと考えているのだろうなと思う。

 
キリスト信仰は、人間としての身の程を弁えた心の共感を大切にする信仰です。楽山は、霊界、霊言、心霊にこだわる記事を、うんざりするほど書いてきました。今までの記事から、宗教を、霊の話だと曲解しているのが楽山です。しかも、ことごとく、本気ではなく、興味本位なのです。
 
 

    

              嘘吐きは鈍くなる
 
 
(2022年11月13日)
 
 
 
  眠っていたい
 
今日と明日とは別の日なのに
今日と明日と区別のつかない日々を過ごしている
長い廊下のように
まっすぐなのに迷っている
夜もない
昼もない
肩に残る悔いをはらって
眠っていたい
好きなだけ
 
胴体の上に
眠ったような首をのせて
街中を歩いている
遊びもない
仕事もない
頭に残る悪い虫たちを
頭ごと、はねて
眠っていたい
好きなだけ
 
早朝の街中に
紙屑が転がってゆく
枯れ葉が転がってゆく
いつか風の中に
眠ったような首をのせて
要らなくなったものが
みな飛んでゆく
どこかへ集うように

要らなくなったものが
集まる場所
風の向こう
街の向こう
何もないもの
それさえ捨てて
眠っていたい
好きなだけ
そこで
 
 
  不眠と退行
 
もう遅いから
眠ろうとするけれど
眠りに入ろうとしているのか
黄泉に入ろうとしているのか
 
後頭部に住みついている
モヤモヤとしたしこり
ときに硬くなり激しく緊張して
沸き上がってくる怒りのようなものが
その理不尽を問うては責め続ける
顔と盲目と死を含んで
叫び声を誰にも聞かせない
 
お母さん
僕のお母さん
心配しないで
あなたは何もわかっていないこと
よくわかっているから
僕が相続したと思っている
泣き虫と笑い虫をありがとう
乳が欲しい
吐き気がする
乳が欲しい
もう遅いから
 
お父さん
僕のお父さん
なぜ戦争で死ななかったんだ
なぜあなたの息子は病気なんだ
見えないルールを作って
自分を厳しく律してきたお父さん
くわっと怒って自分で苦しんでいた
お中元もお歳暮も受け取らなかった
それが立派だったお父さん
なぜ今になって
長生きして欲しいのに耳が遠いんだ
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
  ずだだ
 
ズダダダダ
私が何をしたというんだ
乱射される
首を振り
目をそらし
よけるのが精一杯だった
それにしても君って
不思議な人だ
言ってることが
聞かれてると思ってる
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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