ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信仰者と偽善者2

 
  信仰者と偽善者2
 
 私の記事「嘘と世辞と侮辱(4)」から
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12542381051.html
 抜粋して、まとめてみます。
  嘘と世辞と侮辱(2)のコメント欄
  http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4024687.html#comments
 
 
殺伐とした批判記事が多い私のブログですが、気分転換のために、過去記事からの、まとめ的なことを少し書いておきます。人間なら分かることなのですが、楽山やシャロームには、まるで通じないことであります。共感、感動、説得力を大切にして、事実から当為(「べき」の付くこと)を導く思考について。
 
文系の論理というのは、数学などの理系の論理とは違います。よりファジー(fuzzy,曖昧)ということですが、加えて、心を動かすかどうか、言い換えると共感~感動があるかということが正しさの問題になるのです。それは、言い換えれば、説得力、ということになります。
 
 何の説得力もない文章を、排泄のように、だらだら書き続けている偽善者もいます。
 
信仰者の活動は、世をないがしろにすることではありません。しかし、実績や、何かの役に立つとかは、願いであると同時に欲望でもあります。信仰者は、そのベースとして、神の憐れみを受けるに相応しくなりたいという心で行動します。
 
すなわち、効率とか仕事量とか結果とか人気とかよりも、できることをする、という生き方になります。それが、世に仕えず、神に仕えることであり、神のほうを向く、ということであります。そして、私たちは、良いことをしようとして、したつもりで、効率の悪い見当ちがいなことをすることがあります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:7
ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
エスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:7-10、新約聖書
 
正直な祈りのうちに、罪に気づけばそれを悔い、世俗から神へと向きを改め、生きる道を求めてゆく生き方になります。つまり、神を、具体的には体験と聖書を、命と人生の拠り所にするということです。
 
信仰は、結局は、キリスト信仰者である個人が決心することゆえに、キリスト信仰は、キリスト教と同義ではないということになるのです。語弊があるかもしれませんが、キリスト教は組織を含めて授ける側の教えを中心とし、キリスト信仰は受ける側の心を中心とします。
 
聖書に書かれている、いつも讃美する、また、ほめたたえよ、というのは、迫害が迫りつつある状況で、今ある命を喜ぶ、ということが前提となっています。そうあれ、というのは、まさに、激励であります。そこを、まじないのように讃美を繰り返すべきだなどという勘違いすることだけはしないでください。
 
偽善者が相手でも、信仰の学習は可能です。偽善を学んでいるのではありません。悪があれば、その対極に善を推測する、あるいは、そのヒントを見出す、ということが可能です。偽善者の言の対極にあるものを、学習するのです。偽善者と親しくならないために、偽善者の情報を学習することも必要です。
 
心貧しさも、敬虔も、損なってしまった偽善者は、余裕があるような芝居をします。聖書の文字面を唱え、いつも白々しく讃美しており、それが信仰だと思い込み、吹聴します。そして、いつも、笑っています。批判されると、怒りと憎しみに走ります。しんみり悲しむという深い情緒がありません。
 
偽善者は、余裕ありげに、作り笑いを浮かべ、あざ笑い、ほくそ笑み、・・笑いは、いつも良いことだとは限りません・・、つまり、中身よりも、うわべを装うことで、上から、高みから、下へ教えを垂れるように、新しくもないことを、だらだら言ってきます。
 
信仰があるから、いつも讃美する、さらに、いつも笑う、というのは、嘘の場合があり、正直に "分かりません" と言う心を失って、自己正当化の手段として使われることがある、ということに気づくべきであります。偽善者は、信仰ではなく、悟りの高い位置を自慢したいだけのペテン師なのです。
 
悲しみがなくなるのが信仰だと思い込む者たちは、不都合を無視し、好都合だけを大仰に吹聴します。そして、節操もなく讃美しまくり、自己顕示欲で教えたがります。そして、讃美を勧め、本音においては、人を憎み、神を憎み、最後には、自分を憎むしかなくなるでしょう。
 
(マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
 
悲しみを知る人は、好都合であれ、不都合であれ、神の前に正直であります。聖書においても、そのような人たちが、キリストによって、見出され、救われているのです。
 
 

     

                教えと体験
 
 
(2020年)
(2022年11月27日、再録+加筆)
 
 
 
  群衆の中に
 
たくさんの頭が見える
それぞれ上下に弾みながら
喧騒のはずなのに
音がしない
ときおり顔が半分
見えたり隠れたり
顔はそれぞれ違うのに
笑顔も泣き顔もない
その中に自分もいたような気がする
でも通勤ラッシュの経験はない
学生の頃か
何かの列
何かの群れ
思い出せない
これからの行く末の一齣(こま)を
垣間見たのかも知れない
 
 
  きぼう Ⅱ さびしさ
 
だれも しらない ところにある
なみの ない
つめたい いずみに
てを つけるような
さびしさ
 
なみだ が でないからといって
なみだが ないわけではない
 
あした の ない
ひとりの せかいから
あしたを
おもうほか
することのない
いま へ
わたされる
ひややかな
かぜ
 
あせ が でないからといって
あせが ないわけではない
 
きっと だれも
そして じぶんも しらない
ねがいが
かみしめた くちびるのうらがわで
そとへ でようと
あせっている
 
みのり が みえないからといって
みのりが ないわけでは ないのだと
 
 
  あなたはいつも傍に
 
あなたはいつも傍(そば)にいる
今にも刃物で胸を突き
切り裂こうとする人の、
仮面の裏で口を潰しながら
燃えて突き上げる殺意を育む人の、
不眠不休で残務に追われながら
燃える札束に轢(ひ)かれる人の、
死の床の痛みが撥(は)ねて繰り返す吃逆(きつぎゃく)の
不眠の過去を呪うしかない人の、
肩を組む千鳥足の、
肩を抱く独りぼっちの、
あなたはいつも傍にいる
傍には距離はないのだろうか
それとも永遠の距離だろうか、まるで
いつも一緒にいながら遂に
認め合うことのない者たちの一人
ででもあるかのように、しかし
どこにいても
あなたはいつも傍にいる
殺されながら無視されながら
なおもあなたのやさしさは
傍にいることでしかないかのように
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
これは当たってる気がする。
引用ツイート
>>
レイ(三浦綾子記念文学館公式キャラクター)北海道旭川市
11月23日
#三浦綾子 #今日は何の日
自分のほうが悪いと思っていて喧嘩になることはない。が、自分のほうが正しいと思っている時に、延々と争いがつづく。
(『聖書に見る人間の罪』)
<<
2022年11月23日
https://twitter.com/komo266/status/1595299984790155264

 
訂正不能に、繰り返し、言い張って、さらに、それらしく見せかける引用で、自己正当化するのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山であり、典型的に「自分のほうが正しい」と思い込んでいる病的ナルシストです。自分の欠点を他者に当てつける常習者です。
 
このような引用による空しい印象操作だけしてくる卑怯者が、楽山です。卑怯で、見苦しい異常人格であり、今まで、一度も、正当な批判も弁明も反論も出来たことがありません。なのに、引用という手段で当てつけてきます。良心も罪悪感もないので、反省も後悔もしないからです。
 
「自分のほうが正しいと思っている時に、延々と争いがつづく」・・執念深くリツイートまでしてくるのは、自分で言い訳できないからです。以前、書いてきたことは、全く的外れの、幼稚な主張の繰り返しと論理遊びに過ぎず、相手を疲れさせ退かせるためでした。決して関わらないでください。
 
 
 
楽山のツイッターですが
 

★こも/楽山日記3
@komo266
「詐欺だ!」と断言するのはまずいんじゃないかと思ってたら、弁護士会のページでも「詐欺です!」と断言してるんですね。
「詐欺か?」とぼかした方がいいと思ってたが、弁護士会が断言してるということはそれでいいのかな。わからん。
https://twitter.com/tsubasa85364234/status/1590647201297887232
https://aiben.jp/about/katsudou/shohisha/pachi.html
>>引用ツイート
弁護士がネット公開した情報で噓をつくと思いますか?弁護士が嘘をつくはずがないと思うならこの記事の内容を信じてください。
https://sekennimonomousu.com/kouryakuhousagi-2/
<<このスレッドを表示
午後10:03 · 2022年11月13日
·Twitter Web App

 
以前から、私は、楽山のことをペテン師と呼んでいます。ペテン師には、罪を認めて償わない限り、ペテンをあげつらう資格はありません。しかも「わからん」ということだから、こういうのに本気はなく、オチャラケを言っているだけです。目くそ、鼻くそを笑う・・楽山です。
 
 
 
 自己愛性パーソナリティ障害の人の特徴
 
「自己愛性」と聞くと、なんとなく「自分大好き!」な人が浮かびませんか?周囲にいる自分大好きな人…自分の自慢話ばかり…人のことなんておかまいなし…ちょっと迷惑な存在ですよね。
 
けれど、自己愛性パーソナリティ障害は、「自分大好き」な人ではありません。反対に、「あるがままの自分を愛せない」人達です。自分を愛せないし、他人も上手く愛せません。自己愛性パーソナリティ障害は、愛情という感覚が働けなくなった状態とも言えるわけです。
 
自分の失敗や否を、絶対に認めようとはしない
他者の評価に対する過剰な反応
他者への愛情の欠落、思いやりの無さ
自分の問題への無自覚
 
自己愛性パーソナリティ障害の方との付き合い方
距離を保ち、相手の言葉に動揺しないようにしましょう。
困った時は、「相談」という形で病院に受診できることが多いです。
 
https://mentalsupli.com/disease/personality/narcissistic/narcissistic-feature/
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
聖書のパリサイ人、偽善者、サイコパス、精神病質、自己愛性人格障害、自己愛性パーソナリティ障害NPD、ペテン師、詭弁屋、読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、などを、楽山について書いてきました。笑いと怒りがあり、悲しみがない人です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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