ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山に交われば3

 
  楽山に交われば3
 
 朱に交われば紅くなる?
  (『ブッダの真理のことば 感興のことば』)
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512119.html
  を改めて批判。
 
 
古い記事です。楽山の白々しい嘘と、今も変わらない迷惑要素が表れています。削除していないから、成長のない楽山は、今も、そう思っているのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の災いです。
 
 


五 劣った卑しい者になじむ人は堕落してしまう。しかし等しい者につき合う人は実に堕落することはないであろう。すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する。それ故にこの世では自分よりもすぐれた人とつき合え。
[省略]
一一 どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。
(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳)
 」
これは、「感興のことば 第25章 友」で見つけた言葉です。

 
楽山に交われば気が狂う・・と書いて置きます。理路が整わず、情感がなく、冷酷な楽山に交わると、話が通じない、遣り取りになっていない、何にも分かっていないのに、まともなつもりでいる、それは、自己愛性人格障害だからです。教祖というより発狂素とでも言うべきでしょう。
 
学ぶべきお手本を何一つ持ち合わせていないのに、上から、教える態度で、忠告する姿勢で、言葉だけ丁寧に語ってきて、結局、嘘と詭弁以外、何もなかった・・こういう人は、はっきり言って、要りません。誰でも持っているはずの共感性も良心もないのが自己愛性パーソナリティ障害NPDなのです。
 
 

若い頃は、朱に交われば紅くなると説教されると、反発を感じたものでした。けれどもこの年になってみると、これには一理あると認めざるを得ないという心境になりました。

 
「一理ある」と、楽山が言っても、楽山からは「一理」など受け取ることはないのです。世辞を言われて、いい気になっても、三歩歩けば忘れる人です。傍若無人が丁寧語を使って、ごまかしの人生を笑いながら過ごしているだけなのです。
 
 

また、これは友だけでなく、書物や宗教に関しても言えそうです。たとえばこんな風に。
・悪書を読み耽る者は堕落する。しかし良書に親しむ者はすぐれた状態に達する。
邪教に近付く者は我が身を亡ぼす。しかし正しき信仰を得るものは正しき者となる。
人に限らず、書物でも、宗教でも、何に近付き、何を遠ざけるかということは、とても大事なことなのだと思います。

 
楽山を真に受ける者は堕落します。楽山に近づく者は、自分をを滅ぼすことになるでしょう。「何に近付き、何を遠ざけるかということは、とても大事なこと」・・楽山の嘘の始まりです。楽山は、「すぐれた状態」を知らず、「正しき者」を知らず、病気の自我によって、他者の良心を食い荒らす者です。
 
 
 
 信仰を意識しない生活
  (ロマン・ロランジャン・クリストフ」片山俊彦訳)
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512120.html
  を改めて批判。
 
 
楽山の、罪も、偽善も、人の迷惑も、省みず、「意識しない生活」の話です。
 
 

もともと彼は非常に宗教的な人間だったために、かえって神を思考することが少なかった。神の中に生きていたので、神を信じるにはおよばなかった。
(ロマン・ロランジャン・クリストフ」片山俊彦訳)

 
クリスチャンホーム(キリスト者の家庭)に育った人は、信仰に、さして疑問をいだかないで暮らしてきたために、のちに、現実の問題に接して疑い、信仰を捨てる人も出てくるでしょうし、信仰を見直して、余計なものを捨て、大事なものを得て、自分の信仰としてゆく人もいるでしょう。
 
 

自分は、いわゆる無宗教で育った
神棚と仏壇が併存していても大して気にせず
神社、仏閣、お墓では手を合わせて拝み
彼岸には団子を食べ
クリスマスにはケーキを食べる
そんな家庭で育った

 
このような、日本人に多い育ち方をしても、楽山のように、能力不足を努力で補う代わりに、人をだますことで慰めを得ようとするような者もいます。楽山は、体質として素因もあるでしょうが、性格として怠慢で、学ばないで、自己満足を選んで、人の精神を貪(むさぼ)ってきたのでしょう。
 
私も、クリスチャンホームで育ったわけではなく、上と似たような環境で、家には仏壇がありますが、聖書に接する機会を得て、罪ということ、人間は不完全ということ、キリストの愛と共感・・などを学んで、まじめに祈る人間にはなってきたようです。善人になったわけではありません。
 
 

無宗教とはいっても
無神論唯物論に染まっているわけではなく
ただ単に特定の宗教を信じているわけではないというだけで
神、霊、あの世の存在は当たり前のように受け入れていた

 
楽山が最近言っているのは、無神論唯物論が多いと思います。一方で、"仏様の心が分からないっぽい親戚に驚いた" 、仏様の気持ちが分かって、"仏様が喜んでいたよ" などと言い、霊能者気取りですが、霊能を示したことは一度もありません。洞察力も理解力もない人です。
 
楽山は、うまくいかない自分を、全部、人のせいにしてきたのでしょう。その分、ストレスはないでしょう。嘘と詭弁は復讐なのでしょうか。そうして、甚だ迷惑なだけの人物になっています。「神、霊、あの世の存在」を、当たり前のように浅薄な知識に貶めて、バカにしてきたのです。
 
 

今、振り返ってみれば
自分の半生の中では、この時期が一番よい生き方をしていたし
神様の近くにいたような気はする
それにこの頃は、なぜか運もよかった
そのせいか、上のロマン・ロランの文章にはとても共感できる

弱い人々、あるいは弱くなっている人々の貧血している生活は神の信仰を必要とする! 彼らは草木が太陽にあこがれるように神にあこがれる。死にかかっている者は生命にしがみつく。しかし、太陽と生命とを自分のうちに持っている者は、自分の外のどこにそれらをさがしに行くことがあろう?
(同上)
 」

 
信仰は、生命の光を、自分のうちに与えられ、気づいて、育ててゆくことです。ここでも、楽山は、反キリストであることが分かります。楽山が「自分のうちに持っている」のは、自分をも人をも欺いて、自己満足と優越感を貪るという下種の人生なのです。楽山が持っている太陽は真っ黒です。
 
 

無宗教だった自分は
もっとも弱っていた時期に幸福の科学と出会い、入会し
じきに退会することになったのだった
その後はしばらくの間は
幸福の科学の代わりになるものを探したが
これだという宗教には出会うことなく、今に至り
そのことに納得している
つまり元のさやに戻り、無宗教に落ち着いている

 
楽山は、ちっとも落ち着いていません。自己顕示欲の権化となって思考が散乱しています。自己顕示欲によって症例情報だけは豊富な自己愛性人格障害の見本として、気づかれないあいだだけ、いい気になり、結局は、人に多大な精神的疲労~人格破壊という迷惑をかけ続けているのです。
 
楽山は、自分を完全とするカルトであり、宗教と信仰の感受性がありません。かつ、まともな人間としての、共感も持っていません。そういう人間であるあいだ「宗教には出会うこと」などあり得ないのです。ゆえに楽山は、宗教を教条の辻褄でしか考えないので、信仰者と求道者の敵であります。
 
 

これは上の文章にそって考えれば
内なる太陽と生命を失っているときには宗教を求めたものの
今は内なる太陽と生命が蘇ってきたので
以前ほど宗教を求めなくなったということかもしれない

 
楽山の豪語です。「内なる太陽と生命」を持っているそうです。その時点で、自己愛性パーソナリティ障害NPDとして、迷惑だけをかける男となり、自分が神となり、ブレーキが効かなくなり、宗教を求めることなど、全く、なくなって、思い込みだけの自尊カルトとなるのです。
 
 

なんだか
ずいぶん都合の良い考え方であるし
遠回りしたようでもあるけれども
本来の自分を取り戻しつつあるようで、うれしい感じはする
宗教感覚は、人によっていろいろだろうけれども
自分にとっては無宗教が一番合っているようではある。

 
楽山の、ボンヤリ言語とトホホ言語です。「都合のよい考え方」で反省を装い「遠回り」で謙虚を装い、「本来の自分を取り戻し」たとは、病識の欠如を表しています。つまり、「人によっていろいろ」で自己中を正当化して「無宗教が一番合っている」という自己満足に浸っている醜態です。
 
無反省、無責任、自己中、訂正不能、霊能者気取り、インテリ気取り、怠慢、高等感情の鈍麻、罪悪感の欠如、嘘吐き、詭弁屋、悪いことを全て人のせいにするなど、・・どこが「合っている」というのでしょう。明らかな人格障害~人格崩壊を表しています。ここまで来てしまうのです。
 
人類の敵は、国家でも民族でも、文字に書かれた思想でもありません。自己愛妄想を身に着けて罪悪感を感じないところの、サイコパスです。精神病質、自己愛性~反社会性人格障害などと呼ばれるものです。楽山の、これからは、恐怖です。決して近づかないでください。
 
 

      

              無理解を誇る病質
 
 
(2021年)
(2022年11月30日、再録+加筆)
 
 
 
 山上の垂訓について
 
(マタイによる福音書、口語訳)5:27-28
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
(マタイ5:27-28、新約聖書
 
守ることの不可能な教えに思えますが、十戒の拡大解釈であります。守れという道徳を言っているのではないということです。キリストは、厳しい教えを、守れとも、できるだけ守れと言っているのでもなく、罪なき者は一人もいない、という人間の例外なき罪性を言っているのです。
 
神は、正直な告白と祈りだけを求めておられます。教えをそのまま守ることは不可能とご存知だからです。間違っても、正直以外のものを、神に向けてはいけません。なお、信仰者においても、洗礼は、信仰の意志表示であり、生命保険ではありません。弁えるべき態度は、同じです。
 
 
 
  悪魔と基督
 
悪魔は密かに隠れて働きかけることを好むが
基督は常に顕れて意識されることを喜ばれ
またそのように導かれる
 
基督の負いやすい軛は
人間性の最も温かい部分に架けられ
ゆえに一度架けられた軛は人を捕えて放さない
それゆえ人が基督を忘れようとしても
温もりを求めないではおれないがゆえに忘れられず
死や狂気や悪しき謀に走ろうとしても引き戻される
人が人の都合で神を選ぶのではない
神が神の都合によって人を選ぶ
 
肉の心と体が動くとき悪魔は陰で欲望をけしかけ
知恵に悪知恵を吹き込んでそそのかす
意識できない悪魔を探そうとしても大方困難である
悪魔は隠れ住むことに巧みである
しかし基督は既に明らかな絆によって人を導かれ
御自身も明らかなることを好まれる
ここに明暗は分かれ、光と闇は分かれる
闇は光に勝つことはなく
闇は光が来れば消えるか更に狭く隠れるほかはない
 
このように肉の心と体が動くとき
更に深く潜む悪魔を見出そうとしても至難であって
父・御子・御霊の大いなる導きだけが頼みであり
強い軛によって私を放さないで下さい
という祈りによって明け暮れる日々は
人に与えられる分け前として
いかなる苦痛と苦悩の中にあっても
人が希望を楽しむのに必要であり十分である
 
※ 軛(くびき)、絆(きずな)
 
 
  最後の逃げ道
 
神様は必ず逃げ道を
用意してくださる
最初に聞いたのは映画でした
 
この世の富を得て幸福な者は
不老長寿を追い求める
一方で富から見放されて
幸福からも見放されたと
死ぬことを考える人がいる
 
今の世にあって
逃げ道があることを知り
祈り求める人は幸いです
 
しかし人には
富める者にも貧しき者にも
悪しき者にも正しき者にも
逃(のが)れることのできない
定められた時が来るのです
しかもそれは必ずしも
納得のいく訪れ方をする
とは限りません
生きるのが辛(つら)い人はいても
死ぬのが大好き
という人はいないでしょう
 
だからこそ知る人は幸いです
逃れようのない時にも
最後の逃げ道は
用意されているのです
 
御子を信じる者が
ひとりも滅びることのないように…
 
それは御国へ至る道
穢(けが)れた肉体が壊され
塵に帰るときも
御使いに「ごくろうさま」と
言ってもらえるかどうか知らないが
肩や首筋に溜まった
凝りが解(ほぐ)されるように
重荷は解(と)かれ
軽やかに安らかに
引き上げてもらえる
最後の逃げ道
 
死が美しいと
思ったことはありません
けれど賜る死が必ずしも
悲しみだけではないことを知り
言うは易(やす)く
行うは難(かた)けれど…
祈り願います
 
御心は必ず成就するから
神様との約束は
必ず最後まで果たされるから
 
 

 
天国は、人間が感動するとき、どのような心境になるか、ということがヒントであります。ヒント以上の具体性を持って、地上の人が天国を理解することはありません。想像は想像であり、空想は空想であり、お伽噺はお伽噺以上ではありません。天国について、決めつけてはいけません。
 
信仰による慰めは一生を支えるものです。大丈夫と言ってくれる友人からの慰めとは違います。人の言葉で表されるものとは違います。また、魔法ではありません。人が神秘を理解することはありません。ぺらぺらと人の言葉で表して、分かったつもりの反キリストがいますが、何も分かってはいないのです。
 
心貧しいとは、心に先入観がないということです。心の貧困な反キリストや無神教カルトが何を豪語してきても、信仰を持っている人は空しさしか感じません。彼らが全く心に響かないことを信仰のように述べても、そういう反キリストの言は、野辺に放置された骨にも足りません。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
「だよなあ」「なんでしょうかね」は、楽山のボンヤリ言語です。丁寧を装う詭弁であり奇弁であります。自己愛に有頂天になり続ける災いの人が、分かったつもりになっているだけなのです。だから、平気で嘘を吐き、後悔せず、反省せず、無責任のまま、書く続けてきたのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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