ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の怖さ3

 
  楽山の怖さ3
 
 信仰と固定観念(HS信者を見ていて思うこと)
 2020年11月26日 楽山日記(LD)
 (画像省略)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27120971.html
   を改めて批判。
 
 
楽山のような病質者というのは、罪悪感がないために、弁明しないまま、攻撃的記事を際限なく書いてくるのです。その執拗さと激しい怨念には、火山の火砕流のような、また、逆に、気づかない水漏れのような、あるいは放射能汚染のような、見分けにくい潜熱の勢いがあります。
 
批判されにくいように文章を画像で示したりもしますが、引用されている画像は、大方、HS関連のものなので、楽山批判というテーマにおいては省略してよいと思います。説明やコピペを面倒くさがる怠け者の安易な印象操作という詭弁の手段です。
 
今回は特に、楽山が他者を批判するとき、その批判が、楽山に返ってくるというブーメラン現象が顕著です。楽山は、病識のない体質的精神障害なので、気にせずにいられるのでしょう。実に、感情、情緒、感性などの面が、楽山には欠如しています。さらに、知性も、学習しないことの災いが顕著です。
 
今までのことから、楽山には読書障害があるようです。ウィキペを調べる様子もなく、説明をすることがないまま書いて公表し、批判に答える意志がありません。こういう人は、アドバイザーの監視下で意見発表する権利はありますが、自分で書いて自己責任で発表する資格はないと思います。
 
 

*ノルマ強制?
ツイッター上で、HSにおけるノルマの有無が議論になっている。
その中身については、パスタファリアン氏のまとめによると次のような流れだ(ツイッターの方に行けば、この続きも見ることができる)。
(画像省略)

傍から見ての感想だけども、信者の田中氏は、そのツイートからすると、次のように信じていて、それに反する情報は一切受け入れるつもりはないようだ。
HSにノルマ強制はない
信者は不妄語戒があるから嘘はつかない
アンチはHSを逆恨みして、嘘をついたり、捏造したりする
 」
普通の人であれば、ノルマ強制なんかないと思っていたとしても、これだけ沢山の人たちがノルマ強制と思しき体験談を語るならば、「ノルマ強制は、自分の周囲ではなくとも、他の支部ではあったかもしれない」ということくらいは考えるものだと思うのだが、田中氏は上の信仰があるせいか、そのようなことはなく、HSにノルマ強制はない、アンチは嘘をついていると断言し続けるばかりだ。
どうやら田中氏の信仰の壁は、厚く、高く、堅固であるらしい。

 
楽山の自我の壁は、厚かましく、高慢で、固着して訂正不能です。楽山は、今まで、平気で詭弁を弄したり「嘘をついたり、捏造したり」しました。提言者としても批判者としても失格です。この一点において既に問題外なのに、楽山は、なおも、正義の味方気取りで、書き続けているのです。
 
しかも、人の言うことに対しては、楽山のほうの「壁は、厚く、高く、堅固であるらしい」ので、これもまた、平気で無視が出来るのです。楽山は、詭弁も嘘も壁も、カルトより怖いのかもしれません。怖い顔を表に出さず、うちに燃やし続ける強迫性の恐怖であります。
 
他者を批判すれば、同じ理由で自分が批判されることはないと思っているのでしょうか。実際は逆で、楽山が他者を批判すれば、いちいち、自分はどうなんだ、という問いが、楽山に向かってゆきます。つまり、楽山が、その因業によって、自らへの批判を強化してゆくのです。
 
 

*やれやれ
ちなみに上の構造は、LEO氏でも同じだ。エル・カンターレ信仰に基づいて考え、語るばかりで、それに反するものは受け付けない。
もうちょい具体的に書くと、HSで、不信仰者やアンチは、これこれこういう考え方の人たちだ、イエストルストイジョン・レノンの関係はこのようなものだ、エル・カンターレ、イエス、HS、キリスト教の関係はこのようなものだという風に説けば、その枠内で考え、語るだけで、その枠外のことは拒絶するということだ。

 
信仰者が、その信仰によって、宗教や思想を考えるのは普通でしょう。楽山は何を言っているのでしょう。楽山には、元々、信仰など無いのは明らかですが、にもかかわらず、信仰や宗教の文句ばかり言ってきます。信じないのは楽山の自由ですが、分かったつもりで語ることは、とても迷惑です。
 
楽山は、自分に「反するものは受け付けない」し、成長しない自分の「枠内で考え、語るだけで、その枠外のことは拒絶する」のです。どうして、他者のことばかり平気で言えるのでしょう。やはり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状と思うしかありません。
 
知識人のつもりの自己中心に凝り固まっている楽山は、固着した不感不応の壁によって、社交の世辞以外、何も受け付けません。自分に都合の良いこと以外は、拒絶し、なかったかのように無視しながら、同じことを繰り返し書いてきます。恥を知る人間には出来ないことです。
 
楽山の知性の枠は、恐ろしく子供じみていて、狭いオモチャ箱です。できないことを、できているふうを装います。何を言われても、何も受け取らずに、なお、同じようなことを繰り返します。柔和を装いながら、狭い妄想の箱の中で、不都合を、ことごとく無視しているのです。
 
 

「私はアンチですけど、そんな風な考え方はしないよ」「HSとキリスト教の関係はそうじゃないよ」といったところで、「屁理屈だ」「言い訳だ」「自分勝手な解釈だ」と決めつけておしまい。自分の信仰に反する情報は受け付けない。
今日もたくさん記事を書いているようだが、ざっと軽く眺めたところでは、こういう構造には変化なし。やれやれ。

 
楽山は、アンチではない、つまり、批判者ではありません。我執に凝り固まった病質者であり、未熟から変質へと進行して、罪悪感も羞恥心もないサイコパスであり、自分は他者を批判しているくせに、自身に向けられた批判に対しては、全く無視して、弁明も反論もできないのです。
 
 


・神が自由意志を与えられたことが、どんなに深い意味を持つか、はかり知れない気がする
・(どこかちがう!)と思われる人間にならねばならない
・神が「せよ」と命ぜられたことには、わたしたちは、謙虚に従ってみようではないか
・「何を以って愛とするか ―ジョン・レノンの霊言」を読もう
高級霊の思いと言葉は美しい、地獄霊は屁理屈を言う ~「文豪たちの明暗」~
大川隆法先生への感謝と、自分の未熟と
 」(リンク省略)
でもいつかこのことが分かる日が来るかもしれないし、このことが分かる現役HS信者がここを見ているかもしれないので、一応書くべきことは書いておくことにする。

 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、反省せず成長しないまま、"いつか分かる日" を勝手にイメージして、他者を低く見て、心で笑っています。楽山には、カルト信者のような素直ささえも見られないのです。楽山にあるのは、恐らく、教祖願望だと思います。
 
 

*信仰と自由意思
HSでは、基本的には、信仰を持つかどうかは、その人の意思次第ということになっていたかと思う。
でも聖書には、こう書いてある。

神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。 
(ロマ8.30)
 」
以前、この件について、キリスト教質問箱で問うたことがあったけど、信仰を持てるかどうかは神の召命のあるなしによる、ただし人の側から神を求めることも大切ということだった。
この辺りの考え方について、HSとキリスト教とを両立させるのは難しいと思う。

 
このように、楽山は、聖書までも、神までも、短絡した解釈で、一面的にしか見れない人です。楽山は、自己愛のために、感受性が無いにもかかわらず、外から眺めて、浅薄な先入観だけで、あれこれ言ってくる厚かましさだけは持っているのです。こういう症状は実に迷惑です。
 
神は、人を召命するのでしょう。しかし、神が、ある特定の人を召命したかどうかは、人間には分かりません。つまり、地上では、人にとっては、あくまで、自由意志で信仰を志してゆくのです。なのに、楽山は、神という超常を、分かっているかのように机上で玩んで汚すほどに、厚顔無恥です。
 
召命などの神の導きは、神秘であり、希望することは出来ても、あったなかったを、人が決めつけることは出来ません。人は、聖書と体験から、信仰を学習し、自分で判断し、できることをして、正直に祈るのです。そういう体験と学習経過の成り立たない楽山は、信仰から、最も遠い人です。
 
そこを自覚しない楽山は、実に、悪意によって、キリスト教の神を利用して、神を、人の立場を弁えずに扱っている時点でアウトなのです。人には分からない超常を、分かっているふうに、騙(かた)ってゆく楽山の怖さが、ここで、明らかになっています。
 
 

*従順、服従について
このテーマについて、聖書の考え方を知ろうとするなら、ヨシュア記を読めばいいと思う。そこでは、神から住民皆殺しを命じられ、その通りにする話が繰り返し語られている。また創世記には、アブラハムは、神の命令によって息子をいけにえにささげようとする話もある。

 
楽山からの聖書や宗教についてのアドバイスは、一切、無視してください。楽山は、何も分かっていません。ただ、病質によって分かったことにしてしまうのです。さらに悪いことに、その高慢から、人にあれこれを勧めてきます。小学生並みの知識と思考で、勧められてはたまりません。
 
神の怒りは、今の、特に、日本人には、理解できないものもあると思います。それは、信仰者も分かっているわけではないのです。それ以上の共感と愛を聖書から受け取った人がキリスト者(クリスチャン)になるのです。楽山は、無知で無恥で、愛も共感もないものだから、神の悪口を言うだけです。
 
理解できないことは、保留すればよいのであって、聖書に書いてあるから、人殺しの神だと決めつけるのは、楽山のように、書いてあることを、全部、分かったことにしないと気が済まず、短絡して、神を否定するのは、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)だからです。
 
楽山の聖書の話は、全く無意味です。相手にしないでください。楽山は聖書を、まともに読んでいないと思います。生贄に捧げるように命じた後で、神は、アブラハムが息子を殺すのを、天使を通して、止めています。アブラハムが、神によって、神を恐れているかどうかを試された話です。
 
 
(創世記、口語訳)
22:11
主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。 
22:12
み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。 
(創世22:11-12、旧約聖書
 
 
神は、理由なく殺すことはありません。神の御心は、私たち人間には、分からないことがあると思うしかないこともあります。何らかの試練を与えた可能性がありますが、歴史の絡んでいる話については、ユダヤ教民族主義や風習が絡んでくるので、私は解釈を保留することが多いです。
 
楽山は、理由なく、根拠もなく、キリスト者のキリスト信仰を殺したいようです。心に共感性がないために、理解力がないことを、神のせいにして、いちゃもんを言っています。こういう人に、つかまってしまうと、本当に、楽山と同じように、共感性を失うかもしれません。
 
楽山は、自己愛の病理によって、保留ということが分かりません。人間には分からないことがあるということさえ理解できません。だから、空しく神の辻褄を追って、短絡したまま語るのです。楽山は、無知と無恥によって、神も人も決めつけるので、共感も信頼も生まれない反キリストです。
 
神が、人に与えた尊いものの一つには、良心というものがあります。愛も、愛による戒めも、全て、そこにあります。愛も共感もない楽山が、物を扱うような実験か悪戯の病質で信仰を試そうとするのは、悪魔性の企みに他なりません。
 
人間離れしていない正常な信仰者は、人殺しを悪としか思えないので、殺せと命じられても、私を殺してくださいと、神に祈る場合もあるかもしれません。そういう心が、自己愛だけの楽山には、分からないのです。良心を捨てた楽山の悪意ある臭い詭弁の設定ですから何の意味もありません。
 
それ以上に、神が人を殺せと言ったら殺すか、などという問い詰めは、様々に考えるべき状況を無視した極めて乱暴に短絡した前提であり、神の愛と祝福を、自己愛のために受けることの出来なくなった楽山のような、良心のない者の、妬みからの嫌がらせに過ぎないのです。
 
 

HSではこういう話をそのまま受け入れることはできず、殺害命令は悪魔の声を、神の声と間違ったのだろうという解釈をすることになるのではあるまいか。
キリスト教系の掲示板で、「神が殺せと命じるとき!?」というようなスレッドを見掛けた記憶があるけど、HSではこういうことを考えることはできなかろうと思う。

 
いちばん凝り固まって、言論が出来ず、何も成り立たないくせに、悪口だけ言ってくるのが、楽山という病質者なのです。こういうところから、楽山が、神と悪魔の、どちら側にいるのかということを推測することは出来ます。楽山は、整えることをしない宗教の破壊者です。
 
 

カトリック
孫引きで申し訳ないのだけれども、服従について、カトリックの方ではこんな考え方があるそうだ。

諸君が命令どおりに服従して行った瞬間に、神は諸君の責任を解除して、その責任を修院長に負わせ給うのである。 
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.89)
 」
これは神の代理人とされる修院長に服従している限りは、責任は生じないという理屈らしいが、自己責任を基本とするHSでは、これを受け入れるのは難しいだろう。

 
修道院のことでしょうか、カトリックの教えを引用しているようだが、ちょっと読んだだけで神髄を知ったかのように気楽に記事に載せるという振る舞いが、楽山という病質者には、前から見られます。自らの無知を弁えず、神聖に対する恐れを知らないことが、もっとも、恐ろしいことです。
 
「自己責任を基本とする」のは、大方、言論でも同じですが、楽山は、指摘された責任を負うたことがありません。そういうとき、楽山が、相手を無視して、返してくるのは、執拗に自説を繰り返す気持ち悪さだけです。楽山は、客観的な視野の共有が、全くできない人です。貶めるだけで理解しないのです。
 
 

*夫に仕える
三浦綾子が夫に従順だったという話は、自分が行った講演会でも話されていた。口答えすることなく、なんでもハイと返事をしていたと。
おそらくは、聖書に従っていたのだろう。

妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
(エフェソ5.22)
 」
三浦綾子が夫に従順だったというのは、HS的には、謙虚、謙遜、無私などを理由にするかもしれないが、三浦綾子は聖書の言葉は自分勝手に緩く解釈してはならないという考え方の人のようであるし、

 
聖書の教えは、人間関係にも、及ぶことはあるでしょう。しかし、完全に正しく守ることは出来ないのが人間です。楽山が、「自分勝手に」キリスト教文学の小説家のことを「解釈」云々するのは、人間として、傲慢であるだけでなく、失格といってもいいでしょう。知ってるつもりだけのピエロです。
 
楽山は、聖書を利用したつもりで、無知と無恥をさらし、聖書と信仰と信仰者と人間をけがしています。楽山にとって、けがさない尊い存在は、自分だけなのでしょう。こういう学習と訂正が不能である表れとしての曲解~妄想のために、楽山の人格は崩壊してゆくのです。
 
 

HS的に心の教えを実践していたというよりも、そういう原理主義的な信仰による行動だったのだろう。

 
信仰は、○○主義や、○○イズムには、なりません。三浦綾子氏の信仰生活を、原理主義的な信仰と見なして揶揄していることだけでも、楽山には敬虔の欠片もないのです。いつも、他者を下に見て、多くは、決めつけて、侮辱し、都合によって嘘のベタ褒めする、という卑しい根性が、楽山のやり方です。
 
 

また噂によると、最近のHSでは、夫より、エル・カンターレを選びなさいと説いているという話があるが、これが本当なら上の聖書の言葉とは大分違うように思う。

 
楽山が、聖書の言葉と違うことをもって、批判していることは、実に滑稽です。聖書に、いちばん、反しているのは、どこから見ても、婉曲的な言い回しでも悪意がバレている楽山その人であります。正直の欠片もない人だと思います。
 
 

*最後に
HSには、生長の家の影響もあってか、万教帰一的な考え方があって、HS、仏教、キリスト教などはその根本を同じくするものだというけれども、実際には上のように、同じ言葉を使っていても、その意味、背景、論理などは異なっており、安易にいっしょくたにしてはいけないものだ。
こういうことは、HS信者にとっては受け入れ難いものだろうけれども、そういう考え方があるということくらいは、頭の隅にでも置いといて欲しいものである。

 
同じ言葉も、違う言葉も、どんな言葉も、誰の言葉も、言えば、悪意が働いて利用~悪用しているのが、楽山だと思っていたほうがよいと思います。私は、ずっと、真実追求のテーマである宗教と信仰と思想について、楽山には何も書く資格がないと言い続けています。楽山を無神教カルトと呼んでいます。
 
 

◇◆ 追記 2020.11.26 ◆◇
*美しさ
LEO氏の記事タイトルに「高級霊の思いと言葉は美しい」とあるので思い出したが、HSでは「高級霊はみな詩人である」とされていたのだった。
でも、ツイッターで拾ったものだけど、大川隆法はこんな詩を書いているらしい。
(省略)
この詩集には、この他に「神の乳房にむしゃぶりついて…」とか、処女がどうしたこうしたという詩もあって仰天させられるのだが、率直な感想としては、「高級霊はみな詩人である」という教義と、現実の大川隆法の詩とでは隔たりがありすぎて、この二つを矛盾なく結合させるのは大変だろう。
余計なお世話だろうけれど、一退会者として、教義と現実との差異に気づいて悩んでいる信者には、あまり無理しない方がいいよと言ってあげたいと思う。

 
楽山の、美意識のみならず人格そのものを全く信頼できないので、楽山は、何かを批判したり揶揄したりする能力は皆無です。全て侮辱になるでしょう。それが自己愛性なのです。楽山が、詩の形式で書いていたクリスチャン芝居は、わざとらしくて白々しくて、寒気のするものです。
 
人の詩を、とやかく言うことで、自らの未熟を、まるで自覚していないことが、バレてゆきます。万事が同様です。楽山は、反省しないために、自覚というものが出来ないのです。楽山は、誰を批判する資格も、評価する資格も、全くありません。あらゆる分野で出入り禁止であります。
 
楽山には、揶揄して笑う体質しかありません。楽山は、いかなる救いも、全く語れません。宗教を、見分けることも出来ないまま、いちゃもん漬けにして、分かっている出来た人を気取って楽しんでいるだけの自己愛性人格障害者に過ぎません。
 
 

       

              あらゆる門で 出禁
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年12月08日、再録+加筆)
 
 
 
  歩く小石
 
いつか歩くのだった
ここは河原かもしれない
あるいは荒野かもしれない
しかし歩くのだった
小石に足を滑らせながら
足元の小石しか見ないまま
遠くがどうだか
前が後ろが
周りがどうだか
興味を示さずに
眼下の小石の重なりだけを見つめて
しかもそれに足を滑らせ転びながら
感情はあるらしいのだが
たまってくると
ホォオー・・・ッ
と奇声を発して吐き出していた
わかっていたのだ
小石以上ではないと
必要十分なことはわかっていたのだ
 
 
  私の出入り
 
みみ に はいる ふるえ
ひびき に するのは わたし
こえ に するのは わたし
め に はいる ひかり
かたち に するのは わたし
いろどり に するのは わたし
 
もの に するのは わたし
いみ に するのは わたし
ムードに するのは わたし
イメージに するのは わたし
 
つくるのは わたし
おぼえていくのは わたし
わすれていくのは わたし
こわすのは わたし
こわれるのは わたし
 
こわすのは だれ
わすれるのは だれ
おぼえるのは だれ
つくるのは
だれ
 
 
 
楽山のツイッターですが
 

★こも/楽山日記3
@komo266
·12月5日
大川隆法は、高橋信次を批判しているものの、その考え方は、高橋信次の教え(九次元、裏側、仙人、霊能力信仰批判など)からは一歩も出てないという…。

 
自分の妄想から一歩も出てない楽山が言っていることです。今回はOR批判のようですが、見ての通り、人間には理解不能な超常言葉を並べて、見抜いているとばかり自己の優位性を、空しく叫んでいます。楽山の精神というのは、このように、上から、妄想を見せびらかすことなのです。
 
しかし、楽山もまた、ふつうではないのだから、理解できるわけもなく、自分を賞賛し、自分を信頼することを、詭弁で誘導してくるわけです。一歩も出てないと楽山は言いますが、霊が分かるっぽい?楽山も、既に、恐ろしく脱線して、常識を失ったところから妄想を語ってくる人です。
 

★こも/楽山日記3
@komo266
·12月5日
要は、大川隆法高橋信次を否定しつつも、その世界観は継承している分派ということだね。
レムリアが、大川隆法は否定しつつも、その世界観は継承した分派だというのと同じ構図。

 
(ネットより)
レムリア(英語: Lemuria)は、イギリスの動物学者フィリップ・スクレーターが1874年に提唱した、インド洋に存在したとされる仮想の大陸[1][2]。
また、オカルト系の書物において同一名称の大陸が登場するが、上記の動物学の仮説とはまったくの別物である。

レムリア - Wikipedia


 
楽山は、他者の世界観の分派と同じと批判して、自身は、何を主張したいのでしょう。科学から、こぼれ落ちてきた不思議の国を、カルトも、楽山も、大いに、テーマにしてきます。なぜでしょう。否定の証明も出来ない性質を持つ超常の異説だからだと思います。
 
(ネットより)
高橋 信次(たかはし しんじ、1927年9月21日 - 1976年6月25日)は、日本の宗教家で宗教団体GLA創立者[1]。ハードウェアエンジニアとして会社を設立し経営者を務めた。
高橋によれば、人間はその内側に次元の異なる心や魂の世界があり[2]、その中心に「仏性神性を持っている」[3]。人間は「神の子として(中略)人々の心と心を調和させ、地上に(中略)ユートピアの実現を志すとともに(中略)盲目の人生での修行を通して、豊かな神の心を完成させることが大切である」[4]という。また、自然において安定した環境が保たれているのは「神の大慈悲であり、大いなる神の愛」[5]であるという。

高橋信次 - Wikipedia


 
無知という盲目から、楽山が、どう進んでも、神の心、神の子、完成、実現、神の御慈悲、神の愛、という神聖に至ることはなく、信頼度ゼロの発言を、いくら積み重ねても、真実や真理の入り口にさえ至ることもないのです。決して楽山に近づかないでください。
 
キリスト信仰は、聖書に学んで、自らの、人としての不完全や小ささや罪深さを知って、それを告白する相手を知ることから始まります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、反省は、誰もが、正常ならすることです。
 
楽山は、ツイッターで、他者に、議論?のつもりで、いちゃもんをつけて遊んでいるようですが、何を書いても、自己中の思い込みだから批判対象にしかなりません。それでも書いてくるのは、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という病質によって羞恥心も罪悪感もないからでしょう。
 
楽山は、理解力も発想力もないから、節操もなく、近いと感じた他者の話を利用~悪用して、自分も分かっているアピールをしてきます。楽山の、上からの評論めいた話は、夜店のインチキより、あくどいものです。楽山には、感想文も評論も、交流ではなく、自分の飾りに過ぎないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
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