ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の滅び2

 
  楽山の滅び2
 
 「第十一講 エリパズ再び語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年12月19日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27384659.html

  を改めて批判。
 
 
真理や真実に対しては、何らかの畏敬を感じて、迂闊に口に出来ないものです。その謙譲の姿勢を弁えている人には、誰でも、人間らしい真実の追求が可能になります。そこで得るのは、完全な真実ではなく、理屈でもなく、むしろ、謙虚であることの共感だと思います。
 
楽山にとっては、真実も真理も、言葉だけのオモチャなので、楽山は、平気で、知らないのに知っているかのように見せかけて、宗教と信仰についても、理屈を通した?つもりで書いてきます。共感のないところに真実はありません。楽山のように真実を嘲笑う者は、最終的には、真実によって裏切られます。
 
 

「第十一講 エリパズ再び語る」を読んだので、要点をメモしておきたい。
「第十五章の研究」
ヨブと友人たちとの議論の主題は、「患難はすべて罪悪の結果なるか如何、義しき者に患難の下る理由如何の問題である」

 
メモならば、雑なのだから、考察もなく、思いつきで、人に見せびらかさないでください。既に、私が書いていることには答えられないのに、罪悪の結果について、最も義人から遠く、真実追求の邪魔をしたいだけの楽山は、また世迷言を書かないではおれない病質です。
 
楽山の悪と偽善は、既に約3年分以上の資料となっています。楽山が、良さそうなことを書いて、自己満足しても、資料がそれを否定し、みんな嘘、出まかせ、ということを明らかにしてくれます。正当な言い訳が通用するためには、楽山は、嘘を吐き過ぎたのです。
 
 

「第一回戦においては、彼らはなるべく穏かなる語を以てヨブを責め、彼らに責めらるるヨブはかえって真理の閃光を発しつつ、徐々として光明の域に向って進むのである」
「心霊のことにおいては人は一人一人独立である。神と彼と二者相対の上に心霊問題は生起する。年齢の権威も地位の権威も、この間に圧迫の力を揮うことは許されない」として、宗教問題における平等、公平を徹底している。

 
ここを勘違いしてはいけません。心霊が一人一人独立と書いていますが、神と人の関係は個別であることを意味しています。何故なら、共通の願いや祈りというのはありますが、個人的には、一人一人、祈ることは異なるからです。それらを全て、神は聞いておられます。
 
祈りもしない楽山の独り言は、神の憐れみの御心に真っ向から反しているので、滅亡に向かって虚空をさまよい堕ち続けるだけです。然りは然り、否は否であり、嘘は嘘、詭弁は詭弁、悪は悪、偽善は偽善なのです。「権威も、この間に圧迫の力を揮うことは許されない」を自己正当化に悪用する楽山です。
 
神は絶対ですが、人は頼りない相対の存在なので、神と人の関係は、人にとって、相対的にならざるを得ません。このような相対の関係に生きている信仰者は、否定でも肯定でも、決して、楽山のように、絶対の立場に立ってはいけません。信仰者は、絶対の神に対して、相対、即ち、非絶対の存在として、神を仰ぐのです。
 
人は、絶対ではないから、できることをして、経過と結果を、祈りを通して、神に正直に告白します。楽山のように、経過も結果も、人も神も、無視して執拗に嘘を吐き続けるならば、神からも、真実からも、見捨てられ、反キリストとして、自ら選んだ滅びの道を進んでゆくことになるでしょう。
 
誰も、楽山の巻き添えになってはいけません。楽山は、人間離れして、さらに、だんだん魔物になり、滅されるのを待っているだけのようです。楽山の大好きな「鬼滅の刃」は、宗教の話ではありませんが、鬼の性根の悪さについては、そのまま楽山自身こそが、リアルに伝えているということです。
 
 

因果応報という考え方に対する強い拒否感を露わにして、「要するにこれ悪人必衰必滅という陳腐なる教義の主張に過ぎぬのである」「すなわち悪人は苦悶を以て一生を終え、困窮失敗の中に世を去り、その家族もまた零落すというのである。同時にこの語は苦悶、困窮、失敗、零落はすべて罪悪の結果であるとの意味を含んでおるのである」としている。

 
楽山の、悪の運命を表しているようです。しかし、困窮失敗を、楽山は、自覚しないので、あらゆる排せつ物を垂れ流しながらも、笑い続けるかもしれません。総て罪悪の結果でしょうか。そうではなく、総ての人は罪悪にいます。しかし、自覚し、神に向かって、悔い、祈り、赦される道があります。
 
ただただ、楽山は、罪悪を自覚せず、自覚する道である信仰をおとしめたがゆえに、笑い続ける地獄へ落ちるのであります。楽山の思想は、全て方向音痴の勘違い~妄想~混乱になってゆくでしょう。楽山の文章が崩れているのは、その表れかもしれません。
 
 

悪人と善人の違いは境遇にあるのでなく、その心(罪の意識?)にあるという。「神を嘲る悪人にして成功また成功の一路を昇る者は決して少なくない。神を畏れず人を敬わざる不逞の徒にして、何らの恐怖煩悶なくして一生を終る者はむしろ甚だ多い。罪を犯し悪の莚に坐して平然たるがすなわち悪人の悪人たるゆえんである。悪人の特徴は煩悶恐怖を感ぜざる所に在る」「恐怖苦悶はその人の心霊的に目ざめたるを示すものである。神を知らざる時我らに真の恐怖なく、痛烈なる煩悶はない。怖るる事、悶ゆる事、それは神に捉えられた証拠である。そして救拯と光明へ向ての中道の峠である」

 
罪の意識を全く持っていないのが、楽山です。楽山の学者・評論家気取りは、あらゆる気づきを不能にしています。ゆえに、本を読んでも、自分の言葉にすることが出来ず、そのまま引用して、曲解を語ることになります。楽山の、未熟と腐敗、どちらも、よく表れています。楽山の図々しさが、もはや哀れです。
 
 

ヨブの友人たちについては、「我らはくれぐれもエリパズら三人の心を学んではならない」と注意喚起している。

 
ああだから、こうだからと、因果を捏造したり、作話したり、辻褄合わせをしたりするような、幼稚で、教条主義的で、信仰=奇跡?超常?という短絡や、言葉面だけの詭弁は、結局、実質がなく自己正当化に至るので無効です。そういう有り様は、楽山という反キリストにおいて、救いがたく、醜く、明らかであります。
 
 

私見ながら、こういう文章を読むと、因果応報という考え方は、現実に合わないのはもちろん、非常に不公平、理不尽なものであり、道義的にもよくないものだと改めて思う。

 
因果応報が、意味を持つのは、楽山のように、明らかにおかしい精神の産物を、らちもなく書き続けるような行為の罪悪を、明らかにするときであります。警察が、動機と経過を重視することなどに表れています。正直でなく、嘘吐きの、ペテン師には、それを突き付けることになります。
 
批判も、言論において、捜査と似たようなプロセスと言えるでしょう。楽山の無理路、無根拠、非人間的情性、嘘、詭弁、誘導、印象操作、妄想、・・などを指摘してゆきます。楽山の無理を指摘してアピールする相手は読者であり、私の頭の整理のためでもあります。
 
楽山が、因果応報について「不公平、理不尽なものであり、道義的にもよくない」と言っているのは、楽山の悪と偽善の因果が、恐ろしく明らかになってきたからであります。宗教云々ではなく、楽山の傲慢と貪欲と偽善の罪は、現時点で、どうしようもなく救い難い結果として楽山に向かうのです。
 
 

こう書くと、「因果応報は、この世だけで見るのでなく、過去世、今世、来世を通して見なければ分からないものだ」という反対意見もあるだろうが、それにしたって、因果応報を真としているかぎりは、それに輪廻転生をくわえても、くわえなくとも、逆境にある人に対して「艱難は罪悪の結果だ」として責める構造に変化はないのだから、ヨブ記の議論の繰り返しにしかならないし、

 
楽山の罪と偽善は、嘘吐き、無反省、無責任、無理解、無視、訂正不能、詭弁、という、最悪の手段のオンパレードですから、いくらでも、繰り返し、糾弾されるべきものです。ヨブとは、全然、違うのです。これも書いたのですが、楽山は無視して、内村鑑三を、自己正当化に悪用しています。いや恐ろしい。
 
 

ヨブ記の議論では神の絶対性を信じるときに因果応報はナンセンスなものになるという結論が出ているのだから仕方がない。日が昇れば朝露は消えるように、神の絶対性を信じれば因果応報にしろ何にしろ神以外のものはすべて空しいものにならざるを得ないのである。

 
楽山が、どれだけ自己正当化の言葉面や詭弁を弄しても無駄です。ここでは、聖書のヨブ記を悪用して、因果応報はナンセンスだから、オレは無罪じゃ、とでも言いたいのでしょう。とんでもない。楽山の、神も聖書も悪用して自己弁護する醜さは、随所に表れてきたのであり、まさに、目を覆わんばかりであります。
 
ましてや「仕方ない」「神以外のものはすべて空しい」などと、神と神の大切な被造物を巻き込んで、おのれの空しさの巻き添えにするなど、以ての外であります。楽山の理路は、楽山の良心は、滅びゆく経過です。その証拠が、今回の記事に、集約されています。今後も、同様でしょう。
 
楽山は、なおも、気取って、既に否定され成り立たない発言をすることで、かえって、自らを滅びに定めてゆきます。詭弁を弄して誘導するペテン師の楽山に、やさしい人柄のような気がするなどと思うことのないように、決して、影響されないように、関わらないように、近づかないようにしてください。
 
 

       

               堕ちゆく者の無限
 
 
(2020年)
(2022年12月23日、再録+加筆)
 
 
 
  堕落の煮汁
 
昼も夜も
煮汁は堕落である
煮汁は有害である
煮汁は徒労の末に毒を齎(もたら)す
煮汁は濃縮する
屋根の下
蒲団の中
煮汁は乾燥する
灰汁(あく)と澱(おり)と滓(かす)
あるいは苦汁(にがり)
しかし迎える朝
鼻腔が熱の水の閉塞を訴えても
乾いた体は渇いた咽喉(のど)は
臭気と空気を放出しながら
まず最初に水分を要求する
一日分の煮汁の支度である
それが一日の
測れない量の
罪の始まりであり
糧(かて)である
 
 
  歯痛
 
日ごと歯を穿(うが)つ痛みは
怒りの硬い礫(つぶて)を
脳天に飛ばしながら
歯肉の腫脹と圧痛を伴ってくる
鎮痛剤とペニシリンを服用して
治まるのも束の間
しばしば突如として
片側だけから唾液の流出を伴って
口を開けたまま動かせないほどの
強直性の神経の電撃を齎(もたら)す
(歯科へ行け!)
齲歯(うし)は暫く痛み暫く痛まず
を繰り返しながら進行し
歯根から顎骨へ骨髄炎の末路
敗血への道標となる
あの時ああしておけば
と再燃と緩解を繰り返す痛み
を発して傷み続け
毒に内臓が侵されるころ
堕落だ
敗れた
血は汚(けが)れた
と観念して果てるまで
何か道具でも持っていたら
引き抜いてしまいたいのが悔いである
 
 
  遠出・今日の夕日
 
日の落ちるのが早くなった
半月ぶりにオートバイで遠出
ガソリンスタンドに寄ったあと
帰りを急ぐ視界に
今日は雲の中で珍しいくらい大きく
赫(かがや)く夕日が飛び込んできた
写真に撮っておきたい
と眺めながら
オートバイのサドルに跨ったまま
走り過ぎてしまった
夕日の見えない道の方へ
 
帰り着いてオートバイを止め
ハンドルをロックしてキーを抜き
燃料コックをオフにして
前輪に盗難防止のロックを掛け
家に入ると
もう暗くて
明かりを点けなければならなかった
人工の明かりを灯した部屋からは
外はますます暗い
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山には、勝ちも負けもありません。さらに、中立もありません。立場のないところにるから、「反省」が「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などと詭弁を言って、自己正当化を謀りますが、反省しない人間は、人間ではない、ということが分からないのです。
 
 
 
(ネットより)
自己愛性人格障害の男性の特徴
http://www.jikoaitaishohou.net/entry43.html
 
自分の意見に反対意見を言う人を側に置かない
自分の意見が正しいと思い込んでいるため、反対意見を言われると激しく怒りを覚えたり、逆に非常に心を傷付けてしまうため、自分の意見に対して常に賛成をしてくれる人を身近に置きたがります。これは日常生活でも職場でも同様です。
 
対人コントロールが上手く、始めは魅力的な人物ではある
自己愛性人格障害の人は急に「愛している」「好きだ」等の言葉を何度も投げつけてきます。しかしすぐに相手の事を裏切って絶望させます。この様におだてては落とすという事を繰り返し、相手を上手くコントロールしようとします。
 
始めの内はとても相手の事を褒めてくれる為に惹かれる人は多いですが、その分裏切られる人も多いです。これは日常生活でも職場でも同様な事を起こす可能性があります。
 
この様に、自分が常に優位に立てるコミュニティーの形成や恋愛関係の形成を行う点が男性の自己愛性人格障害の特徴と言えます。学歴コンプレックスを抱えている場合が多く、自分よりも低学歴な人を身近に置いたり、自分よりも貧乏である人を身近に置く場合もあります。
 
友人関係でも、自分の我侭に素直に従ってくれる人を友人とする傾向があります。
 
また、男尊女卑や女性嫌悪を心の根底に持っている場合もある為、自分の言う通りになる女性を道具の様に使います。
 
恋人は自分が優位に立てる女性のみを選ぶ
自己愛性人格障害の男性は、恋人にする相手は外見などよりも先に「自分が優位に立てる」という事を重点にして選びます。高学歴な女性や性格がサバサバしている女性、男性に人気がある女性はうまく自分を優位に立たせる事が出来ない為、地味な女性や優しそうな女性を恋人に選びがちです。
 
また、依存体質の女性や自立心が低い女性を特に好みます。これは恋人を対等な関係とは思わずに「奴隷またはペットとして側に置ける人」と捉えている人が多い為です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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