楽山=無神教カルト
楽山=無神教カルト
(過去記事を再録+加筆)
楽山が引用してきた無神論は、「神の不在は証明できない」に対して「神の存在は証明できない」ことをもって「神が存在する根拠を示せ」と言い、「根拠が無いから神は存在しない」という結論のようです。しかし、神が存在する根拠があるなら証明されたのだから、信じる必要はないのです。
人間に存在の根拠を示すことが出来たり、人間の論理で証明できるような、安っぽい捏造の神?は、巷にも、そして、キリスト教内部にも、溢れているような気がしますが、それは、キリスト教とキリスト信仰の神ではなく、カルトの神?であります。つまり、心のない楽山の曲解上の神?なのです。
さらに、神を、人の論理で扱えると思うこと自体、人の傲慢であり、その時点で、無神論は、論理の破綻をきたしています。不完全な人が、完全な神を、理屈で扱い、その在か不在かを語るなら、それは、捏造した神?であって、どちらを証明しても、聖書に表された神とは全く違うものです。
無神論は、成り立ちませんが、同様に、有神論も、成り立ちません。神の存在を証明することなど出来ません。人の論理で、神は存在したり、しなかったりする御方ではありません。つまり、信じる人にとってだけ、神に対する信仰は、希望が個人に与えられることです。信仰の邪魔をしないでください。
タイトルに、無神教カルトと書いたのは、神はいないという乱暴な信念を持つ集団ということです。その間違った思い込みは、カルトに負けないくらい、憎しみを伴って強く確信されているようです。無神教カルトは、論とは言えず、楽山の怨念を表していると思います。
そして、無神教カルトは、理屈のようなことを言ってきますが、人の理屈で語ることが、そもそも、神については成り立たないので、苦し紛れに、聖書を、ベースから取り違えて、曲解した結果なのです。加えて、楽山の記事から察するに、その曲解の程度は、カルトに劣らないほど頑迷~悪質です。
無神教徒が、神を否定するなら、神に代わる救いを提示する責任がありますが、いくら理屈を整えたとしても、信仰に代わるような福音にはなりません。辻褄合わせをしても、癒しにも、慰めにも、救いにも、愛にも、共感に、至ることはないでしょう。彼らによって誰も救われることはないのです。
信仰の根拠は、論理や史実の整合性にあるのではなく、共感と癒しとにあります。つまり、理屈ではありません。人間に、人間らしい温もりと潤いを与えるのが信仰です。キリスト信仰者は、神という存在が整っているから信じるのではありません。神の整合性を人は知りません。
信じるに足るものなど、この地上に在るとは思えなくなった人にとって、聖書の、キリストからの共感に、人としてキリストへの共感に至ったから信じる、という言い方になります。聖書から、キリストが、洞察力と共感性に溢れた御方であることを知って、信仰に至るのです。
旧約聖書の神の業(わざ)や、新約聖書のキリストの奇跡のうち、物や肉体への奇跡は、超常現象であり、超常を、人の日常が理解するのは、理解の実感が伴わないので不可能です、物や肉体の奇跡は、信仰に直接つながる実感を表してはいません。現代、次々に起こっているとも思えません。
ゆえに、聖書に書いてある超常の奇跡については、"分からない" と答えるほかはないのです。分かるのは、人間性によって受け取ることの出来るもの、つまり、人間として共感できることだけです。超常は人間には分からないことであり、神を恐れよ・・という信仰のベースであります。
物や肉体の奇跡によって信じ込むのは、非現実を信じ込むことになり、陶酔気分から、ありがたや宗教になって、現実を疎かにする危険があります。分からないことは、神に向かっても、人に向かっても、分からないというのが正直なのです。それで信仰を捨てるなら、元々信仰だったのかが疑問です。
キリストによって与えられる癒しと慰めは、現実にあって、避け所として、祈りの時と場を与えます。それは、自動的に続くものではなく、折々の祈りによって、絶対孤独からの解放として与えられるものです。祈りを受け取る神は、聖書の神であり、全知全能・絶対完全・永遠不変と信じるゆえの祈りです。
神の属性である全知全能・絶対完全・永遠不変は、どれも、人には手に負えないものばかりです。しかし、手に負えないことがあると知ることで、人間としての不完全、即ち、罪の性質を知ることになるので、神の怒りや裁きの話と同様に、信仰の弁えとして大事なことです。
砕かれて信仰 固まってカルト
(2022年01月27日)
(2023年01月30日、再録+加筆)
臨終
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
期待するものと
期待されるものの間で
つり上げられた信仰が
病気の小魚のように
しずかに はねた
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
「わが生まれた日は滅び失せよ
幼子が胎に宿った
と言われた夜もそのようになれ
わが愛する人々は遠く去れ
二度と私を見ないように」
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
悔い改め
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
不信仰告白
(キリスト以外の
神を知らない)
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
誰が神を
神と名付けたか
誰がやさしい父を呼ぶように
神を呼んだか
流された夥しい血を
皿の上の相づちで受けながら
誰が気安く許される
罪を認めたのか
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
無神教徒になる人には、キリスト教の先入観に対する反発があるのかもしれません。あるいは、クリスチャンの家庭環境からの誤った押し付けに対する反発もあるのかもしれませんが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)には、反省力や罪悪感が育たないこともあるでしょう。
あざ笑いと怒りに生きる病質には、悔い改める、ということが、理解できないのかもしれません。ゆえに、嘘を吐き、詭弁を弄し、それが通用すると、万能感が生まれ、芝居をするようになり、不祥事にも「反省。とほほ」などと言って、気安い嘘の手当てが通用すると勘違いするのでしょう。
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