ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

隠された攻撃性

 
  隠された攻撃性
 
 神義論、弁神論について(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月07日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24263242.html
 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、またしても、神についての幼稚な疑問を投げてきました。誰も分からないということだけが、分かっている疑問です。つまり、信仰は、その疑問を克服して生まれるのではないということです。
 
楽山という人は、宗教には全くの無関係なところで、霊能者を気取っているだけの人で、信仰など持つ気もないなら黙っておればよいのに、著しく幼稚ないちゃもんを、嫌がらせのように繰り返し書いてくるのです。
 
楽山には、分からないだけでなく、何度も繰り返し言って、信仰者を、疲労と混乱に陥れようという攻撃的な意図があるとしか思えません。
 
楽山は対話を求めません。また、私も、楽山のような、何も聞かず、受け取らず、嫌がらせだけを書いてきて、話の双方向の成り立たない人と、対話する気はありません。
 
いい加減な楽山の言説を、いちいち批判して否定するのは、丁寧語に騙されて真に受けやすい人がいるだろうと思っているからです。その弱みにつけ込む人です。私は、私にできることをしています。
 
批判記事を重ねて、楽山は、シャロームと同様、悪意と偽善の資料になりつつあります。
 

前々から、神義論、弁神論には興味があるのだけれども、本書でもそれについてチラリと触れていた。

一元論的あるいは汎神論的な見解によれば、悪は、他の一切のものと同じように、その根拠を神のうちにもたなければならない。そこで、もし神が絶対的に善であるとすれば、どうして悪が神のうちに根拠をもちうるのか、という難問が生じる。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.201)
 」
多神教的な世界を想定すれば、神々にはそれぞれ個性があって、善神もいれば、悪神もいる、温厚な神もいれば、戦好きの神もいるだろうから、そういう神々の影響下にあるこの世において正邪善悪のせめぎあいがあったとしても致し方ないことではある。

 
「神が絶対的に善であるとすれば、どうして悪が神のうちに根拠をもちうるのか、という難問」
楽山が同意しているこの引用は、楽山が前から言っていた幼稚な神否定の考えです。楽山は、都合の良いことだけを、学者の名をもって、引用してきます。
 
楽山の言う神は、矛盾のないことが人間にも分かりやすい神で、人間が何もしなくても幸せを与えてくれる神なのです。そのような勝手な者がたくさんいるこの世に対して、神は、そうですかと、いちいち分かりやすく説明するでしょうか。
 
こういうことは、考えれば、ふつうに推測できそうな話なのですが、楽山にはできないようです。たぶん、こう言っても、なお、性懲りもなく、いちゃもんをつけてくるのでしょう。
 
さらに、神は、人類を全体として見るだけでなく、人間一人一人を見て、その個性も、その発言も、その行為も、個別に、漏らさず見ておられます。神は全能だからです。それを、在って在るものとして、神を信じる者は受け入れるのです。
 
楽山のような欲張りで勝手な人を納得させるために、神が、いちいち矛盾がないように摂理を整えるとでも思っているのか。いちいち説明してくれるとでも思っているのか。愚かなナルシストは、どこまで思い上がっているのか。
 
神にとっては、地上には、キリスト者になりそうな、あるいは、救いが必要になりそうな、砕かれた魂を持つ敬虔な人がいっぱいいるわけですから、楽山のような不満と疑問で出来ているようなナルシストにかまうことはないのでしょう・・くらいは、厳密でも完璧でもないが、推測できるわけです。
 
恐らく、楽山のような人物は、神は矛盾するとか疑問だとか言い張って、人を惑わしながら、自己満足するような恵みがないことに、さらに不平不満を募(つの)らせて、キリスト者を何とかして貶(おとし)めようとしながら、納得などいくわけもなく、年を取って、残酷なときの流れの飛沫として、誰にも見られないまま、散って消え去ってゆきたいのでしょう。
 
また、人間の都合に合わせた神を見下ろして考えているだけなら、戒める神への信仰もないわけですから、無反省に終始して、思考も感情も崩壊してしまうだろう、ということも、推測されるわけですが、楽山は分からないのです。
 
楽山が引用しているこの神についての難問?には、この地上では、人間に答えなど分かるはずもない、ということが、常識のない楽山は、まるで分からないのです。
 
つまり、神を信じる気などないということです。ということは、楽山は、神を軽く茶化したいだけの荒らしみたいな存在です。良識ある人が、付き合える相手ではないのです。大真面目な学者口調が、楽山の欲望と悪意です。
 
悲しみ多く苦しみ多きこの世界に、それでも生きてゆくために私たちは生まれています。楽山のような者が、安穏を貪るためではありません。
 
多神教的な世界を想定」
楽山が、いかに神を軽く想定しているかが分かります。
「善神もいれば、悪神もいる」
楽山が、いかに神を軽く見ているかが表れています。
 
これが「この世において正邪善悪のせめぎあいがあったとしても致し方ない」ことの説明になるでしょうか。まさに、楽山の今日も、詭弁スタートです。
 

でも愛と義を有する唯一の全能の神のみが存在すると仮定すると、その神はこの世の悪を一掃する能力を保持しつつも、それをしないのはなぜだろうという疑問を持たずにはいられなくなる。

 
楽山は、このような、最初から答えなど得られない問題にこだわって、神などいない、いたら、おかしい、というような愚痴をこぼしながら、自分は一段高所から神と世界を眺めている慢心にどっぷりつかりながら、ぼんやり一生を過ごしたいようです。
 
だから、毎回、同じことをグダグダ書いて、何の努力も成長もしないのでしょう。そして、信仰者を侮辱し呪い続けるのでしょう。
 

神にはある種の計画があり、あえて悪をそのままにしているのだろうという推測もできるけれども、そういう場合であっても児童虐待事件などをみれば、どんな計画にしろ、その完遂のために、愛ある全能の神が小さな子供を救おうと思えば救えるのに、それを見殺しにするというのはおかしな話であるし、もしその計画の実現のためにはどうしても子供の犠牲が必要だということであるならば、そういう神は愛深き神というよりも、ホラー映画に出てくる、自分の目的のために無垢な子供の血を欲する悪魔に近いということにもなる。

 
先ず、考えることの順序が、著しく間違っています。楽山は、神を前提にして、おのれの要求を出して、これに沿わないからダメと、まるで、神相手に試験をして合否の否を与えているのです。
 
信仰者は、まず、神がいるとは思えない世界を嘆きますが、そこに、聖書から、希望の光を見出します。今は、ひどい有り様だが、この背後には、いつか、大きな世界への導きを用意した聖なる御方ががいるのだろうと思い、そして、そうでなければ、生きられない自分を、正直に捧げて信仰者となるのです。
 
ここには、キリストとの縁のようなものがあります。また、この世の外に、何があるのか、意識はなくなるのか、何もないのか、しかし、救われるとは何か、こういった問題を、考えながら、生きていくのが信仰者です。
 
分からないことを、分からないから安直に否定するのではなく、分からないこととして、自分で決めたりせずに、自らの存在の小ささと世界の奥深さに恐れをいだきながら、神に、キリストに、希望を託して、待つことと、望むことと、生きることと、祈ることを、学んでゆくのです。
 
楽山は、その縁のようなものを感受することが出来ず、しかも、それを、自分ではなく、神のせいにして、不満だけを述べているわけです。
 
信仰が持てないなら、非信仰者としての生き方もあるでしょうが、その努力を一切せずに、自分の作ったところの、神のいない安穏の沼につかって、インテリ気取りと学者もどきで視野の広いさまを見せかけ、実際は、最も見苦しい有り様を見せながら、自己愛だけを養って、いい気になっているのです。
 

またこの唯一の神からすべてははじまったのだとすると、善だけでなく悪についてもその起点は神にあったということになる。「人は神から与えられた自由をはき違えて、悪を為すようになった。これが悪の始まりである」という考え方もあるけれども、もし人が善きものとして創造され、その内には少しの悪も存在しなかったのであるならば、仮に自由を与えられても悪の犯しようはなかったはずである。悪の種を持たないものには悪は犯せるわけもない。とすると、人が自由を与えられて悪を犯したとすれば、人のなかにはもともと悪の種、悪の因が埋め込まれていたことであろうし、これは神が人を善きものとして創造したという話と矛盾する。

 
神の目的も意志も、神の秘密、神秘であります。神の秘められた意志も計画も、自分で決めつけている哀れな楽山です。
 
どうして、神が、楽山のこしらえる神の理屈に付き合う必要があるでしょう。創造主以上に高いものはないのに、楽山は、完全に、神を見下ろしています。
 
このような者は、神の恵みに与る可能性を自分で否定し拒んでいるに過ぎないだけの、実に、くだらないナルシストとしか言いようがありません。罪の種を人に残そうが、蛇の誘惑に乗ってしまう弱さを造ろうが、楽山の許可など問題にするわけがないのです。
 
善きものと言えば、完全に善きものしか思い浮かばず、どうだ、どうだと、いちゃもんの材料にする愚かで凶悪な反キリストの本性です。
 
このように難癖をつけるのが楽山です。一方では、神によってもたらされた恵みに、いっさい気づかず、人の意見をも、いっさい受け付けず、常同行為のように、同じことを繰り返して、進歩というものをいっさい拒否することで、超常と霊が分かるっぽい自分を、ひとかどの人物に見られたがっているのです。
 
どこまでも、我欲と自己中のみで、完成したつもりでいる人格の末路でしょう。楽山は、神という存在に、思考においても、情緒においても、気づくことなく一生を過ごしたいのでしょう。
 
神に難癖をつけても、何も返ってこないことをよいことに、神と、問答、駆け引き、取引でもしているかのような尊大さは、永遠の退屈地獄への道です。進歩のない楽山の記事は、百害あって一利なしの怠慢の堂々巡りです。
 

こういう話は、興味ない人は本当に興味ないだろうけれども、自分としてはついついあれこれ考えないではいられなくなる話題ではある。

 
楽山は、大事なことを何も考えてなどいません。
考える信仰者や、考える非信仰者とは、全く違う人種です。
 
楽山のような、自己愛からの無神論が訂正不能の前提となる者には、思考も情緒も、有意義に働くことはなく、ただ、言い張って、いい気になって、やたら、しつこく、無駄や詭弁を書いて、自己満悦して、その実、自己破壊しか起こっていないという証拠を自ら積み重ねてゆく経過しかないのでしょう。
 
明けても暮れても、同じところだけを巡っています。考えたつもりでも、自己愛が思考と情緒を妨げるために、同じところだと気づかないのです。気づかない、感じない、考えない、ということだけが、積み重なってゆきます。決して、真面目に相手にしてはいけない人です。
 

これについては多神教的な世界観を持っていた頃はさほど関心もなかったのではあるが、一神教的な世界観を知り始めたら俄然関心を持たないではいられなくなったのである。一見したところでは一神教的な世界観は多神教的な世界観と比べてシンプルで分かり易いように見えることもあるけれども、実際には案外にやっかいな世界観だなと思う。

 
世界観という概念が、楽山の宗教思想なのでしょうか。人間一人の様々な問題について、不感不応で、言いたいことだけを言って、実際は、何の関心もないことが表れてきました。
 
つまり、楽山は、セカイカンに酔い痴れているだけで、世界観を理解してはいないということです。何故なら、世界観を考えるのは、それが、一個人の人間にとって建設的な意味を持つことだからです。楽山が白々しく語る世界観という言葉に騙されないでください。
 
霊が分かるっぽいと楽山が訂正不能に思い込んだときから、今に至るまでの、空疎で、まるで進歩がなく、建設的な要素がまるでないにもかかわらず、反キリストのシャロームの肩を持ったりするような、理路も無ければ人間の正常な感情も持っていない無意味な、信仰への妨害行為が続いています。
 
厄介なのは、意図的に、気に入らないと無視することしかできず、どこまでも悪意に徹する楽山の質量のない口であります。このように、良心のない人は、何を冷静に書いたつもりでも、彼の言う霊性?の訂正不能から、妨害にしかならないのです。
 
楽山の提示する疑問は、ことごとく、いちゃもんであることが明らかになってきて、これからも、単純に、同じ繰り返しになるでしょう。それは、楽山の、今までの、受けて答えることをしない卑怯者の態度と姿勢から予測されてきたことです。
 
丁寧そうな言葉に騙されないでください。文脈と今までの記事の流れから、分からないことを分かったことにしないと気が済まない楽山は、人を巻き込んで混乱させる、きわめて狡猾な攻撃性を持つところの、悪意の人です。
 
楽山は、読書と考えることがお好きなのですね、むずかしいことをテーマにして感心しました、インテリなのですね、やさしいお人柄ですね、など、世辞を言ってくれる人か、素直に受け入れて騙されやすい人、などが現れてコメントを書いてくることを待っている生業(なりわい)なのでしょう。・・とても陰気臭く、腐っていると思います。
 
世々にわたって、この楽山やシャロームのような、責任を負わずに自由を悪用して自己中で勝手なことを言い続ける者たちが、中身のない説法を専らとして、人の良心を破壊して、人にも社会にも世界にも、災いの種を蒔(ま)いてきたし、また、蒔いてゆくのだろうと思っています。
 
しかし、楽山が、いかなる仲間と、いかに神に疑問を呈して、人を、神否定の方向にマインドコントロールしても、命の沙汰は、私も楽山も誰も知らず、神が決めることなのです。
 
私は、楽山のように、神を否定して、逆に、神に否定されるような被造物にはなりたくないから、できる範囲で、書いています。楽山には、くれぐれも近づかないようにしてください。
 
 
楽山には、宗教と信仰を云々するための理解のベースが、論理および感性の両方において、全くと言っていいほど、ありません。そして、ベースがないことを、これまた、理解できずに、弁えもせずに、自己愛の衝動のようなものによって、ボンヤリ言語で、身の毛が弥立つような詭弁と刷り込みを書いてきます。
 
楽山が信仰しないのは楽山の自由であり、楽山に対して福音伝道が不可能なのは明らかであり、神もキリストも分かっていないのだから、宗教と信仰について書かなければよいのに、楽山は、なおも、いちゃもんをつけるという陰湿な自己顕示だけは、じとじとと、じめじめと、いつまでも止めない、まことに恐ろしいほどの不遜な愚か者です。
 
 
 私のライブドアブログの記事
 「神と人の未分化」に付いたシャロームのコメント
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5829756.html
 シャローム( shalom、シャロム、あなた、私)
 
 
シャロームであることは筆致から明らかですが、名無しの猫と名乗っている荒らしです。荒らしという本性の正体を現して、ライブドアの私のブログに、揶揄コメントを書いてきました。
 

1. 今も名無しの猫2020年04月08日 10:13
おはようございます!名無しの猫です。お久しぶりです!
相変わらず誰も相手にしてくれないようですね。
マグダラさんであればあるいはコメントしてくれるかもでしょうか?

 
上に「相変わらず誰も相手にしてくれないようですね」と揶揄しておきながら、下のほうには「いいですね」と時候の挨拶を入れています。この極めて不適切なアンバランスに、まだ気づかないようです。シャロームという人のケダモノのような荒々しさには、気づくことを期待するのが無理のようです。
 
楽山とシャロームは、カルトの仲間ということです。自称マグダラマリアも仲間なのでしょうか。私が自称マグダラに批判記事を書いたので、そのことを書いています。仲良しカルトの根は深いのでしょう。
 

Yahooブログ時代が懐かしいですね!
今年はことさらにきれいですが、
満開の桜がいいですね!
色とりどりの花と木々の緑も鮮やかな公園を今日も散歩します。
スポーツを楽しむ人の姿もあり、いいですね!
お元気でお過ごしください。
名無しの猫より

 
「Yahooブログ時代が懐かしいですね!」・・反キリストの親分のようなシャロームなど、私は、ちっとも懐かしくなどないのです。早く消えてください。挨拶は入れません。
 
名無しの猫、という荒らし、実は、足掛け10年間、批判対象のシャロームです。
 
いくら、時候の挨拶、自然を愛でる文言、「お元気でお過ごしください」と書いても、上の「相変わらず誰も相手にしてくれないようですね」で、敵意は明らかなわけです。
 
荒らしであることを隠さず「名無しの猫」と書いて、短い揶揄+挨拶のコメント、相手にする価値はありません。
 
シャロームは、アドラー心理学が人間をどうしようもない自己中に変えるということの中心的な要素を持っています。また、在日らしいシャロームは、日本人を嫌韓に変えてゆく典型的な要素を持っています。
 
それは、自己中、人の言うことを聞かない、受け取って反応することが出来ない、反省しない、理路と情緒がない、思考力も理解力も共感性もない、罪悪感がない、訂正不能、平気で嘘を吐く、ありもしない事実を平気で捏造する、真摯な態度を欠片も持たない、などです。楽山も、大方、似たようなものです。
 
シャローム、楽山、易坊、自称ヨシュア、自称マグダラのマリア、この者たちは、つながっていると思っています。言ってることが、よく似てる。ひょっとしたら、アドラー心理学も・・??
 
乱暴だ、と思われて嫌われることを避けるために、言葉だけ丁寧です。
 
共通するのは、自己中、という滅びの道です。言うことが、うっすら、冷たくて、気に入らないことは無視して、刹那的に楽になるので受け入れて、騙されやすい、という特徴です。社交の世辞レベルで、既に、心を侵してきます。
 
 
(2020年04月09日)
 
 
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神と人の未分化(3)

 
  神と人の未分化(3)
 
 神様に、心寄り添うこと。
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 magumaria(自称マグダラのマリア)のブログ
 
 
感傷的な言い方が多いのですが、曖昧よりもじわじわと、人が神に近いのだと刷り込みながら、実際は、特に自分を神に近い者として印象付けようとしているのが分かります。
 

霊能力者じゃなくても、
すべての人は、神様からのパワーを、神様の方に想いをむけ感謝することで、受け取れる。

 
理解可能な愛と救いを、エネルギーをつけたり、霊能力者じゃなくても受け取れるなどと言い、カルト的超能力や超常現象と同じに見ていることが分かります。そして、やたら言葉で飾ろうとしていることが表れています。
 
特別の霊能力ではなく、救いは、キリストの愛に共感して、全能の神を恐れ、神と違う人間の罪性に気づき、正直に告白することで与えられます。
 
共感性の乏しい人は、超常の大袈裟な言葉を使いたがります。飾るしかないからです。
 

大勢の人に、救いを与えたイエス様は、今も父さまと、共に活きて存在されてるから。
人も神様と同じ永遠性を持つ魂がある。
魂は、、すべての人が持つ物で、まるっきり同じもの。

 
このように、恐らく自分で、確かめようもないような目に見えないものを分類したつもりで、名付けたのでしょう、魂という言葉を特別な言葉として使って、永遠性を語りたいようですが、このような言葉で明らかになることは何もありません。分からないと言えない、全能を恐れない、そういう人の特徴です。
 
やさしそうな女言葉に騙されないようにしてください。人が神と同じ永遠性を持っていると言っています。人は、神とは決定的に違うところの、有限であり、不完全な存在です。そのことを地上で学ぼうという意志のない者が、言葉を飾って、完全に近づこうとしています。キリスト信仰の根幹において正反対なのです。
 

個性、アイデンティティは、
各自の霊の意識、心によって生み出される。

 
霊のうち、意識されるものを心と読んでいるようです。霊、霊的、という言葉は、宗教者が好んで使う言葉ですが、心との違いは、使う目的によって使い分けているだけであって、いくら理屈をつけても、違いを確かめ得た者は一人もいません。
 

魂レベルで、見たら、全員同じ存在なのよ。だから他人にしたと思ってても、実は自分自身にしているのと同じだから、因果応報で、自分にブーメランで戻って来るの。

 
因果応報を、魂レベル?というものを想定して、皆同じと言っているようです。ブーメランに喩えたところで、何が明らかになるというのでしょう。今、このブログ主に戻ってきているのは、世辞の賛同と、本気の批判だけなのです。
 

みんな同じだと、分ると、、
人生で起きてることも、自分の思い込みや不安が現実化して起きたりしてる、極論したら一人芝居だと判る。
一人芝居ということは、自分が脚本も出演者も監督までもしてる。
私と、、私自身を認識している私以外の魂レベルの、もう一人の私が、全部、人生をメンテナンスしてる。

 
人生の出来事を、独り芝居だと決めつけています。自分以外の魂レベルの自分を想定しています。どこまで勝手な想定を続けるのでしょう。それが全部人生をメンテナンスしているのなら、信仰はどこに必要とされるのでしょう。自慢でしょうか。
 

魂と私が一緒の気持ちになれば、。
私が願う人生になる。
魂と同じ気持ちになるって
神様と同じ目線で、、人を受け入れ
否定せずに存在是認することなので
なかなか難易度が高い。

 
魂に気持ちがあり、自分に気持ちがあり、一緒になることが理想だと言っています。魂を望ましいものとして特別に扱っています。自分にだけ分かるという慢心を感じます。
 
魂が分かるなら、理想のあり方が分かるなら、なぜ、神を求めるのでしょう。このことからも、自称マグダラは、多くの形のない言葉を、取って付けるように我流で振り回している、ということなのです。キリスト教ともキリスト信仰とも程遠いところにいるようです。
 

人付き合いが多くて
ムカつく対象の人間が多いと、至難の業。
私みたいに、普段家にいて、人付き合いが、限られてれば、少しは楽なんだろうけど。

 
しばしば、自称マグダラは、ムカついてきました。批判すると、豹変して、悪口になり、罵り、呪ってきます。こういう、俗語としてのヒステリックな点も、冒頭に書いた変な形容も、理性も情性も不安定で、また、言葉だけ信仰に命がけみたいなことを書いてくる点も併せて、キリスト者とは思えないあり方です。
 

私も、どうしても嫌と思う人居ますし。
なかなか自我を、はい、引っ込んでてね。と追い払えるのは短時間ですね。

 
そういう性分のようです。上のことも併せて、信仰による姿勢・態度とは異なっています。
 

最初、途中まで書いて、消えたことと
まるで違うこと書いてるし。
この内容、夢で見たような、、。

 
書こうと思ったことが途中で消えてしまうのでしょうか。
 
これは、恐らく、ブログ主が、自分はスピリチャアルなんです、夢のお告げかしら、と言いたいためでしょう。安いです。
 

神様の無限分の1の創造力をね。
人は魂があるので持ってるの。

 
無限分の1はゼロですが、そんな数学的なことを持ち出すまでもなく、人の創造性は、クリエイティヴな感性として肯定されています。ただし、神の創造力、天地創造とは違います。
 
待ち望む信仰はありますが、魂を特別なものとして持っているという信仰はありません。分かっている、知っている、守っている、というのと同じようです。持っている、という慢心。
 

現実化するには、自分と自分の魂と神様の導きを、かたーく信じること。
これ一番大事。(あまりに大変で我慢しきれず神様を恨んじゃったりする。)
次に夢が叶ってる状態を、起きた状態で意識に定着させて、ニコニコしてること。

 
単純な内容ですが、固く思い込み信じ込むことが信仰で、いちばん大事と考えているようです。待ち望む信仰は、固く思い込み信じ込むことではありません。耐えがたいなら耐えがたいと、正直に告白して考える機会が与えられるのが信仰です。
 
思い込み・信じ込みは、信仰ではありません。耐え忍ぶのは、キリストに繋がっているからです。
 
夢が叶ってニコニコは当たり前ですが、夢が叶っている状態を定着させることは出来ません。それは風を追うようなものです。何故なら、人は、移り変わる世界に、移ろいやすい心で、耐え忍びながら生きているからです。
 
 
(2020年04月08日)
 
 
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神と人の未分化(2)

 
  神と人の未分化(2)
 
 神様に、心寄り添うこと。
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 magumaria(自称マグダラのマリア)のブログ
 
 
以前、自称マグダラは、キリスト者の証明として、洗礼に関するらしい何かの書類の写真を出してきました。キリスト者であることは、書類で証明するものではありません。
 

多くの人は忘れてるの。
神様と家族、親子だということを。
神様見ないで、自分だけ見てる。
自己愛は、、サタンの愛。偽物の愛。

 
人間は、神が神だと分かるような、同じ全能を持っていないのだから、家族でも親子でも、守るべき節操があります。それを弁(わきま)えないと、神を哀れむような冒涜の者となるのです。
 
そうなると、サタンについても、同じように扱って、言葉だけ、愛に満ちているような台詞(せりふ)が並びます。
 
自己愛は、誰でも持っているもので、即、サタンの愛でも偽物の愛でもありません。
 
自己愛が過剰になると、平気で他者を傷つけたり、変な笑い方で、侮辱してきたりするようになり、とても醜いさまを呈するようになります。
 

自分だけしか見えない。
自分だけしか愛せない未熟な愛。
神様は、自己愛ではなく、他者へ注ぐ完全愛。

 
 (マルコによる福音書、口語訳)
12:29
エスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
12:30
心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
12:31
第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
 (マルコ12:29-31、新約聖書
 
(ネットより)
聖書には,自分を愛するようにというおきてはないものの,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」という言葉から,適度に自分を愛し自尊心を持つことが自然で有益であることが分かります。
https://www.jw.org/ja/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88/%E8%B3%AA%E5%95%8F/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%82%92%E6%84%9B%E3%81%99%E3%82%8B/
 
キリスト信仰は、自分を愛することを否定する信仰ではありません。
 
また、神は、完全愛ですから、ご自身を愛する必要も、ご自身を愛するかどうか考える必要もない御方です。
 

最初にかたちとして創造された天使さえ、知恵がありすぎたために、おごって、神様の御心に従うことより、自分の方が人より優れてると、優劣で比較することでの自他との対比で、優劣を判断する。

 
堕落した天使は、悪霊ということになっています。自称マグダラは、悪霊に詳しいのでしょうか。ホラー映画のように考えているのではないでしょうか。
 
 (ペテロの第一の手紙、口語訳)5:8
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。
 (1ペテロ5:8、新約聖書
 
ホラー映画のようではない悪魔性は、悪意の表れとして、現れるでしょう。人間の持つ悪意は、他にも、憎しみ、呪い、怨念、などがあります。訂正不能の妄想信条となっている場合もあるでしょう。
 

神様目線は違うの。
すべてが平等、
全てに存在価値があり、
すべてを愛している、。

 
神様目線は、全知全能の神においては当たり前のことですが、人間には出来ない神のわざです。
 

自分が、、と言う自我欲ゼロ状態。
生きてる人もね、。
自分が、と言う自己優先思考をポイして、
神様と同じ目線で見るようになると
居る世界が変わる。
見方が変われば思考も変わるし、
そうなることで周りも変わって行って、和合状態に変わっていく。

 
神の欲望を考えるのは無意味です。総て備えておられる御方です。
 
人間が、神と同じ目線になることは不可能です。神と人の決定的な違いを弁えないで、気安く考えて教えたがるカルトの言い分でしょう。
 
何が和合状態なのでしょう。例えば、和解というのは、人が、しばしば、赦しと救いを拒んで神に逆らうから、言われていることです。
 
信仰は、神と親友のように仲直りすることとは違います。神は全能をもって支配する御方です。
 

自分の基本思考が、自分の常に居る世界、環境に、大きな影響を与えてる。

 
説明不足か、意味不明です。
 

エス様の愛パワーのオーラ、波動エネルギーって、2キロくらいどーんとあったのかしら。
ラザロの死者蘇生、言葉だけで、手も触れずに霊的エネルギーが届いたわけだし。

 
オーラ、波動エネルギー、ドーン、死者蘇生、霊的エネルギー、
・・実に、節操なく、好きなように、超常言葉を使っています。大仰に見せたいカルトは、このようになります。
 
物や肉体に起こる奇跡は、人知では理解できないものであり、実際あったと信じ込むことも、なかったと否定して信じ込むことも、人知を超えて、肯定否定を人が決めつけることであり、信仰に反するものだと思います。
 
カルトは、大方、分かっている、知っている、守っている、という、自らの完全を、ひけらかし、飾り、自らを高めて、教えたがります。
 
キリスト信仰においては、神と違って超常は分からない、と弁えることの重要性が試されていると考えているべきでしょう。
 

エス様の暖かで強大な愛エネルギーに触れて、側にいた人は回心したり、金縛りのように動けなくなったり、イエス様が見えなくなったり、、
大きな影響を受けた。

 
キリストによって人々に与えられた救いを、愛エネルギー、金縛り、などと、超常に方向づけさせた言い方です。
 
愛という言葉に、エネルギーをつけないときが済まないのでしょうか。科学風味に見せかけたいのでしょうか。恐らく、愛というものが分からないのではないかと思います。
 
だから、また、飾りをつけて、物理的な力みたいに言うのでしょう。
 
人には理解できない物や肉体の超常の奇跡を、エネルギーを付けても、少しも分かりやすくはならないのです。
 
人に理解できる愛と共感について、エネルギーをつけて説明したつもりなら、愛が分かっていないことになります。
 
人間の良心に響くのが、キリストの教えです。それは、聖書を読むことによって理解して受け取ることが必要です。
 
超常的奇跡については、結局、神に任されることとして、安易に頷くのではなく、驚きを表しても、詳しい理解を保留しておくことが、神への恐れ、すなわち、敬虔を表すことになります。
 
自称マグダラは、安易な感傷と、高慢からの、俗に言うヒステリックな易怒性に特徴があり、
自称ヨシュアは、パリサイ的教条主義と、興奮して見境がつかなくなる易怒性に特徴があります。
 
この二人の無理解の最たるものは、神の愛の絶対性と、人の愛の相対性を、全く区別できないところにあります。
 
ゆえに、行いによって得られるとする行為義認と、信仰によって与えられる人の義、すなわち、信仰義認、という二つの義の区別が、全くできないでいます。
 
キリスト信仰によって赦されて与えられる人の義を信仰義認と言います。
 
しかし、自称マグダラと自称ヨシュアが説く信仰?の間違いは、霊の呪いで脅すだけでなく、信仰義認を理解できないまま、ありがたくて?豪語する?信仰?を唱えていることであり、それをもって、教えを守って完全になれるなどと言っている行為義認、という大きな曲解を広めようとしていることです。
 
それを、人それぞれで許していたら、彼らは広めようとしているわけだから、もし広まった場合を仮想したら、それこそ、再びキリストを殺すようなパリサイ的精神優勢の宗教世界になるという予測が成り立つので、その危惧と、そうならないための対策として、批判が必要になるということです。
 
 
(2020年04月07日)
 
 
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神と人の未分化(1)

 
  神と人の未分化(1)
 
 神様に、心寄り添うこと。
 https://ameblo.jp/magumaria/entry-12585275432.html
 magumaria(自称マグダラのマリア)のブログ
 
 
久しぶりに、偽キリスト教カルト、自称マグダラ&ヨシュア・ラインを批判します。
今回は自称マグダラマリアの記事です。
 
自称マグダラは、以前、私が批判したとき、誰々は体調が悪くなったなどと言い、霊の祟(たた)りが来ると脅(おど)してきました。怒ると「プププ」「けろっ」などという、笑い声を表現したつもりでしょうか、奇声を、書いてきました。
 
仲間の自称ヨシュアは、私が批判すると、悪霊憑きだと言い、あと何日・・などと言って、これも脅してきました。また、聖書の教えを守って完全になれる、などとも言っていました。それから、パリサイ人が好きなようです。
 
自称ヨシュアは、批判されると、とても怒りっぽくて、発狂したのではないかと思うほど、罵詈雑言を浴びせてきます。私がひっそり私のブログに書いていた個人情報を掘り出して曝(さら)して、ダメ人間、精神病などと罵ってきました。節操と良識が、まるでありません。
 
この二人については、同一人物の成りすましを疑っています。
 
なお、言うまでもないことですが、キリスト信仰には、霊の祟りを信じる要素はありませんし、それをもって脅す要素もありません。
 

神様に、心寄り添うこと。
してますか?

 
ペットでも恋人でもないのだから、
人が神に寄り添うのではありません。神が人に寄り添うのです。
基本的な立場の自覚が狂っています。
 

神様は、御自身に似せて、人を創造されたのですから、、知らん顔されてたら
神様でも悲しいとか、思われると思います。
人間みたいにねちっこくはないけれども。悲しみ、、、はあります。

 
神が、人に知らん顔されて悲しむのではなく、
神は、人が堕落して罪を犯すのを見て、悲しまれるのです。
 

神様だから悲しくない、。
辛くないとか勘違いしてませんか?

 
自称マグダラからの思いやりを必要とする神ではありません。
 

父なる神様は、人の御親なる御方なので
人と同じように喜怒哀楽がありますよ。

 
神は、全知全能絶対完全永遠不変、という、人が及びもつかない御方です。
しかし、神は、人間に共感する御方ですから、人に共感することが出来ます。
それは、洞察と共感の主イエス・キリストを遣わされたことに、顕れています。
 
従って、人が感じるような喜怒哀楽を、そのまま当てはめることは出来ません。
神を、あたかも人格のように、恋人のように、友人のように、人間と同じに見なしている者は、人間としての身の程を弁えないので、人と同じような感情のあり方を神に当てはめて、こともあろうに、哀れんだりするわけです。
 
彼らが信仰と呼ぶものの軽さが表れています。
 

感謝されたら嬉しい。
人が心を向けて感謝したり心を寄せること、をすれば、嬉しいのね、。
だって、ほんとうのお父さんだもの、、。

 
嬉しいのね・・などと言う馴れ馴れしい言葉遣いが、
神を神と思っていない勘違いの証拠です。
 

神様をね、
尊びすぎて遠ざけるのはおかしいです。

 
神は、隣にいるような物知り老人ではありません。
神は、尊ぶ対象ではありません。
神は、信じ仰ぐ対象であります。
 

人が、罪人に堕ちてから、、
人は神様に対して距離を置こうとするようになった。
神様が、清い御方で罰を下す御方でもあるから、、怖いのよね。
私も、神様は、世界一怖いです。

 
既に、神を恐れているとは、到底思えない筆致が、上に表れています。
 

でも、、、世界一お側に居たいです。
多分というか、絶対、怖い気持ちより、お側に居たい気持ちの方が何倍も強いのね。

 
ブログ主は、神のそばに行って、焼き尽くされないように、恐れ慎むべきです。
 

怖いより、慕う気持ちの方が強い。

 
世界一怖いと言いながら、世界一御傍にいたいと言い、慕う気持ちのほうが強い、と言っています。言葉による形容や修飾が、無節操に大仰なのは、カルトの特徴です。
 

神様から、、お父さんである神様になって頂いた日から、。
神様だから、想いをむけなくても
感謝しなくても平気とか思ってない?
肉の家族にも、気を使わず、大事にしないで、家族以外に気遣う人が多い世の中ですし、。
家族を大事にしないなら、目に見えない神様を、大事に出来てるかしら??
神様とイエス様は、目には見えないけどね。

 
家族への愛の延長で、神への愛を語りたいようですが、
それに、家族を愛することと、神を愛することは違います。
家族は恐れる必要はないでしょう。全知全能の神は恐れるべき相手です。
そこが信仰のベースです。
恐れをいだかない相手、それは神ではありません。心のペットでしょうか。
 

心がつながれば血筋に寄らなくても霊的家族でしょう?
事実として、、人の御親なる神様は、最初から、霊的家族、親子なのだけど。

 
霊的、という言葉は、何か専門家にでもなったかのように区別したかのように分かっているかのように使われますが、使ったところで、少しも、心と違うことを表すなどできないのが人間です。言葉だけ変えても、神の領域に一歩も近づいたことにはならないので、霊という言葉をやたら使って自己満足を表すことにならないように注意するべきでしょう。
 
霊的家族などと言うのは、何よりも教える立場であるところの分かっている?自分を誇りたいからでしょう。それで気の済む人のようです。
 
神の全能から掛け離れた人間の不完全を意識しない者は、神がかりとなり、人間離れとなり、分かりもしない言葉を多用して、特別になった気で、神?を気安く呼び、神?を気安く扱うようになります。
 
 
(2020年04月06日)
 
 
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救われる条件(2)

 
  救われる条件(2)
 
 
キリスト者になると柔和な人間になると
あるいは社会的基準においても善人になると
思われているかもしれません。
 
信仰の結果として善を目指すでしょう。
 
しかし、実際は、
必ず善人になるかどうかは分かりません。
普通の人間と同じように
頑なになることがあります。
 
さらに信仰があるという自覚ゆえに
特に教理や善と悪と罪の意識において
かえって人一倍、頑なになることがあります。
 
それはキリスト者ならでは
という信仰の働きではありません。
人間だから起こることです。
信仰を勘違いすることがあり、そのために
本当に付き合いにくい人になることもあるのです。
そうして、相手にされなくなることもあるのです。
 
それは人間として
決して望ましいことではありません。
そういうあり方としての過ちと罪があります。
 
では、信仰を持たなければよいのか
という疑問に対しては、
信仰は
人間が持ちましょうという意志だけで持つものではない
と言うしかありません。
 
キリストに絆されて忘れられなくなった者は
絆(ほだ)されているかのように
キリスト者になってゆくのです。
 
そのように
キリスト者は常人と比べて
決して優秀を表すものではありません。
むしろ経緯において
多くの欠点を持っているからこそ
キリスト者になるのです。
 
では、そのようなキリスト者
どうして救われるのでしょう。
 
それは、誰よりも神が、自らの民として、
決して優秀さや能力によって人間をを召命してはいないからです。
 
なのに、なぜ救われるのでしょう。
そこには、キリスト者になった人たちの
ただ一点を
神が見ておられるからなのです。
 
それは、その人が、
どんな意地っ張りでも
自己中心でも
思い込みが強くても、
そう思われていて、実際そうでも、
あるいは秘密が多くても、
ただ神という絶対者の前においてだけは
頽(くずおれ)れる心を知っているからなのです。
 
ゆえに、神が救われるのは
神の基準によります。
決して善行によるものではありません。
 
つまり、神の前において、すなわち祈りにおいては、
頽れ、憐れみを乞うしかない、砕けた魂を持つ人間であること、
その弁えだけが、救われるためには必要十分な条件なのです。
 
砕けた魂を持つ人間は
もはや神の前に
正直にそれを告白することしかできません。
他に捧げるものなどないからです。
 
正しさや善行の主張など何も言えないと知っている者が
神に救いを求めます。
 
まさに総ての人間がそうなのだと
イエス・キリスト
聖書を通して宣べ伝え続けているのです。
 
神の前に正直以外は通用しない
と言ったのはそのことです。
 
 
※※
祈りにおいて
いつも偽りの讃美言葉を並べるような偽善者については
自ら救いを拒んでいるわけで、
神は、それを余さず見抜かれるのです。
そして、神の国から永久追放されるのでしょう。
そして、そのことは、
この地上において人格破壊の醜さとして表れるでしょう。
 
 
(2019年03月30日アップ、同日一部修正)
 
(2020年04月05日、加筆修正して再録)
 
 
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努力と我執

 
  努力と我執
 
 2020年04月03日
 宗教的な不可知論者?(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24209254.html
 
 
楽山には、自分がどれだけ的外れか、自覚がないのです。かつ、一言も、反論も弁明も成り立ったこともないのに、書き続けるのは、意地を超えた病理があると考えるしかないでしょう。
 
今回も、身の丈に合った書き方ではなく、ボンヤリ言語で断定して悦に入っているようですが、こういう楽山の執拗さと粘着性は、仏様の心が分からない親族に驚いたという彼の記事のように、当たり前に霊能者としての訂正不能の自負があるからなのでしょう。
 
その霊感の表れを示すのには、ことごとく失敗しても、限界を感じるわけでもなく、恥を恥とも思わず、反省も学習もなく高じてゆく末路には、自分を認めない者たちへの復讐として、やはり、社会悪に近接してゆく危惧が大いにあります。
 
努力と我執は違うのです。楽山は、霊が分かるっぽいからと、努力せずに、一気に真理を獲得できる真理への、実は怠慢根性の、安易なショートカットを選んで、いつか、評価されて褒められることを、実は悪夢の中で、夢を見ているのでしょう。
 
この手のかわいそうな人に同情して関わると、同じように、かわいそうなほど悲惨な蟻地獄に巻き込まれるでしょう。
 

本に紹介されている体験談を読んでいると、これは自分と同じだと感じることが時々あるが、自分にとってはこの文章がまさしくそれだ。孫引きになってしまうのではあるが、こんな風に不可知論的になりながらも絶対的実在を感じるというのは本当によく分かる。

二十歳から三十歳までの間に、わたしはだんだん不可知論的となり、無宗教的になったが、しかし、現象の背後にある絶対的実在についてのあの『ぼんやりした意識』――ハーバード・スペンサーは巧みにこう呼んでいる――まで失った、とは言えない。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.100)
 」

 
楽山は、哲学者ジェイムズの体験談を「自分と同じだと感じる」そうです。理性も情感も、オモチャの作り物のように、いい加減なのに、学者か批評家気取りの自らに満悦して、肩を並べている気分でいるのでしょうか。ストーカー的な気味の悪さを感じます。
 
少なくとも、キリスト信仰については、楽山は、否定することにも、肯定することにも、何一つ、着手できていません。それで、学者の名前を出して、しかも、「ボンヤリ」という引用までして自慢したいのでしょうか。身の程を知らない楽山は、学者の"実在についての表現"に、"自分のボンヤリ"を当てはめています。
 
理屈で無宗教と言い、理屈で宗教と言っても、信仰は理屈ではないという部分を、楽山は、信仰について、自分の言葉で、詭弁と循環論法が明らかになるほど、何も言えていないのです。
 
ゆえに、また、詭弁だらけのお粗末な理屈だけで宗教を考えて、無宗教になった、ということは、ほとんど意味がありません。信仰は理屈ではなく、信仰がなければ宗教は、資料に過ぎず、資料は、楽山の詭弁の記録と同様、信仰として何の意味もないからです。楽山は、徒労から徒労に逃げながら、いい気になっているだけなのです。
 

とはいえ当然のことながら他人の経験や思惟が何から何まで自分と同じだということは有り得ないので、この文章と自分との間に相違点がないでもない。たとえば自分の場合は、不可知論に向かい始めたのは二十代ではないし、絶対的実在に対する感覚はぼんやりとしているというよりは、真夏の太陽の光がじりじりと肌に感じられるほどにリアルである。ここは上の体験者とは違っている。

 
「真夏の太陽の光がじりじりと肌に感じられるほどにリアルである」・・じりじりと苛立って、かつ、苛立たせるだけの徒労の徒が楽山です。だから開き直ったかのように「ボンヤリ」を見つけたら、見せつけるように入れてくるし、どう批判されても、平気で無視してくるのです。自分の言葉を持たない慢心したカルトの特徴です。オカルトに近いかもしれません。
 

ちなみにこのリアルさは、人には人知を超えた絶対的存在については確たることは何もいえないが、それでもそれは実在するだろうことを予感するいわば宗教的な不可知論者でいるときはもちろん、手持ちの材料から検討する限りにおいては、どうも創造主というようなものは存在しないようだという無神論寄りの不可知論者になっているときでさえもさほど変わらないのだから我ながら不思議であり、おかしくもある。

 
絶対的存在について、「実在するだろうことを予感する」なら無宗教ではないですし、ならば「いわば宗教的な不可知論者」などと言っていることは気取っているだけの矛盾に過ぎない。人格が崩壊に向かっていることが文章に表れてきたのでしょうか。
 
不思議ではなく、楽山は宗教も信仰も知らないのです。心に受け取ることなく信仰は存在しない。したがって、楽山が宗教を語ること自体が無意味なのです。
 
無神論寄りの不可知論者」というのは、ひどい言い方です。不可知論は、神が不可知であることを表しており、無神論ではありません。
 
自分の非を認めない自己愛性に凝り固まって、本当に、何度も何度も幼稚な言葉で、誤謬と詭弁を弄して、楽山は、信仰とは何の関係もないことを宗教として、実に無意味な、まるで、茅(かや)の草むらの中を走るときに出来る傷のような、うっとうしいだけの嫌がらせを続けています。
 
誰にとっても、感動も意味も価値もなく、自分は批評家だ、自分は学者と同等だ、という自尊過大の執着を捨てきれないナルシシストの成れの果てになってゆくのでしょうか。
 

この感覚がどこから来るのかについては、宗教的にはそれこそが神の存在証明とされそうであるし、進化心理学的には進化の過程で獲得した本能の誤作動による錯覚とされるのかもしれず、自分には一体何が正しい答えなのかは判然としないのではあるが、ただ少なくとも自分にはどうもこの感覚を消すことは無理であって、もし仮に自分が無神論にどれだけ傾倒したとしても、無神論的有神論者、無神論的不可知論者くらいまでにしか進めず、根っからの無神論者には決してなることはできないだろうということだけは確実のようではある。

 
そもそも、宗教と、進化心理学などとを、並列するところから、宗教と信仰に対する無理解と真っ赤な嘘の詭弁が始まっているのです。そのベースは、楽山の曲解による「心の理論」や奇跡についての話に明確に表れています。ひとかどの人物を気取り続けるナルシストであり、何を言っても、否定されることのない、訂正不能の妄想的確信なのでしょう。
 
"本能の誤作動"は、楽山が、宗教について語り出してから、ずっと起こっていることです。錯覚と見なされるのではなく、錯覚か誤謬か妄想なのです。感覚を消すことが無理なら、良識をもって高慢な思いを自ら戒めないから、健全ではなくなっていますが、もはや、読む人を誤作動に誘導・誘発しかねないほど有害であります。
 
他者の理屈をなぞって、同僚同士であるかのように賛否を云々するほど、楽山は、思い上がっていて、思考と感性の第一歩から、何か分かったという結実も示せていません。
 
楽山の言は、無と無駄を小脇に抱えて気づくこともなく、無病識の高ぶった空想のペンを走らせて、公共に向かって発せられる迷惑メールのようなものです。
 

自分は別に無神論にそこまで入れ込んでいるわけではないのではあるが、ただそれでも根っからの無神論者には世界がどのように見え、何を感じるのかということは自分には決して知り得ないだろうことは残念であり、物足りないような気がしないでもない。結局のところ、人は自分の視点からでしか世界を見ることはできず、他人の見ている景色は分からないものなのだから、こんなことを残念がっても仕方ないのではあるが、それでもやっぱり残念ではある。

 
無神論にも、有神論にも、キリスト教にも、キリスト信仰にも、一歩も、入り込めないのが、楽山です。彼が、何かに入れ込んでいないのではありません。入れ込むほどの知識も感受性も、今まで表されたことはないのです。楽山が、今まで示したのは、劣悪な詭弁と悪意だけです。
 
楽山の言は、全くの自慰行為であり、他者の意見のうち都合の良いものだけを取り上げてくる態度は、それもまた的外れになって、独りで書いて独りで笑っているだけの反復運動に過ぎません。目をつぶって書いているのかと勘ぐりたくなるほどの面の皮です。
 
バクテリアが、顕微鏡下で、細かく震えているように見えるのに似て、真面目に考える人々を、惑わすか、苛立たせるだけで、収穫のない培地に巣食って、自覚もなく、学者気取りだけで棲(す)んで、誰も答えないところで、どんなもんだい、と凄(すご)んで悦に入っているだけなのです。
 
他人の見ている景色は分からないことは、他人の見ている景色を無視する根拠にはなりません。他人の見ている多くの異なった景色から、思慮に置いて学ぶこともあり、また、自分の視点を執拗に書くことは慎むのが大人ですが、楽山は、自分の視点から世界を見て、それをしつこく書いて、的外れで著しい見当違いであることに気づかないからでしょうか、どうしても、一人前の学者か批評家のように振る舞いたい欲望の執念の虜(とりこ)なのでしょう。
 
一部の読者に、やさしい人柄だと、宗教と信仰の記事だと、これがキリスト教だと、平気で勘違いさせようとする分だけ、迷惑で有害です。
 
努力と我執は違うのです。
 
 
(2020年04月04日)
 
 
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武装?

 
  武装
 
 
神の前に、祈るときに、
正直のみを用意することを"武装"と言いました。
もちろん武力や暴力のことではありません。
 
考えてみました。
 
祈りにおいて精いっぱい正直であること
言い換えれば、努めて正直であること
これが信仰を持つ人間ならば誰でも意識できることです。
これこそ、信仰の原初的表れです。
 
正直は、神に、このようですと、見せるべき信仰のしるしのようなものです。
人間の側の、はっきりした備(そな)え、という意味で、武装という言葉にしました。
備えという言葉以上に、はっきりと意識しなければいけないからです。
 
いつでもどこでも、神の前に、正直という備えだけは必要で、
この備えは、人間ならば明確に自覚し努力することが出来るからです。
 
 
神は、人が祈るとき、既に、人を総て見抜いておられます。
 
 
嘘、偽りの告白、世辞の讃美、心の無い豪語、信仰自慢、これらをだらだら述べて、救われる民として慢心していること、実際に、このようなばかりしている偽者がいるわけです。
神は、このような者を待っておられるでしょうか・・明確に、否であります。
 
神が何を待っておられるか、と考えるとき、善でもなく、正しさでもなく、美しさでもない。これら真善美に属することは、不完全な人間に決められることではないからです。
 
神に対して、正直であることだけしか、人間が正当に捧げられる供え物はない、と考えざるを得ないというのが根拠であります。神は、不完全な人間に対して、ただ正直な告白だけを待っておられる、としか思えないのです。
 
神に対して、めったなことは言えない、聖書と信仰に沿うような良き言葉を使わなければいけない、などと思っている人は考えてほしいのです。それは、他でもなく、人が、神の前に、良し悪しを自分で決定できると言っているに等しいのです。
 
 
正直によって"武装"することが必要なのは、まさに、自分自身の不正直に対してであります。
 
 
他者に対しては、正直であることを心得ていることが、心無い罵詈雑言や、おとしめ、軽蔑などに対して、動揺したり感情的になることを、かなり防いでくれるでしょうし、冷静に対応することが出来るようになるかもしれません。
 
神の前に、見栄を張ったり、できもしないことを理想や「べき」論を分けずに言ったり、嘘を吐いたり、飾ったり、などの不正直に気づいたときには、その時に、改めて、正直に告白してください。それが、信仰があっても不完全な人間であるところの信仰者に、折に触れて、必要となる悔い改めの祈りです。
 
 
自分の不正直に気づく時というのは、何か、神から与えられているような、とても大切な恵みの時なのかもしれません。
 
 
(2020年04月03日)
 
 
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