ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

猛者への堕落3

 
  猛者への堕落3
 
 
人間性を失った名ばかりの信仰?には
ある種の猛々しさが残る
 
せっせとお味方になる意見を集めている
それは猛々しい文章である
その威勢のよさの分だけ
また人間としての共感を失ってゆくのは
字面だけを追って
お味方になる意見というだけで
悦び、褒めまくるからである
 
一般的にヒューマニズム云々を
社会通念に過ぎないものとして批判して
そして福音のヒューマニズム化を嘆くのだが
 
そういう福音の変質を語る前に
他者を語る前に
人が考えるべきもっと重大な
自らの問題を考えていない
 
人間性を欠いた信仰?は
神性と神聖と真正の確信?に満ちて
正当化だけに懸命になる畑で偽善の種を育てる
 
自らに目を向けず
反対意見に耳を貸さず
お決まりの聖なる?文句を呪文のように繰り返して
ますます話し合う余地のない確信に凝り固まってゆく
 
そして実際に賛同者以外とは
つまり反対者とは話さなくなる
そしてその根拠を神に担保してもらっているつもりである
 
しかし、いったい
神への恐れを知る信仰ではなく
むしろ神を恐れず誇大化した自我からの
尊大な妄想的確信に
担保されうる何があろうか
 
しかし、それでも保険のように
神の側に担保される
という神の意志を自らのものにして
さらに確信してゆくので
恥ずかしげもなく
信仰の名を借りた残酷物語の主人公になってゆく
 
元々信仰に対して羞恥心を持つ必要はないのだが
信仰によって恥知らずになっていいはずはない
 
人が持つべき羞恥心は
実際には
信仰?によるつもりであろうがなかろうが
自己の不完全性の無知と無恥からの
異なる意見の軽視~無視に対してであり
 
さらに最悪な恥知らずとして
信仰?によるという間違った確信において
異なる意見を封殺するような非人間性による自己正当化である
そういう者は聖句さえ悪用する
 
しかも嘆くべきは
確信に満ちた非人間性
自分とお仲間と被害者以外の賛同を得られない妄想であり
詭弁に満ちた言説の崩れ方でありながら
何事も無かったかのように慢心していられるほどの厚顔で
罪悪感を持たないでいられるという特徴なのだ
 
 
以上は、偽牧師シャロームについて書いたことです。
 
カルトは、根拠のない超常的妄想をベースとしていて、行動化以前であっても反社会性を潜在的に主張の中に持っているので、いつも、そのベースにおいて崩れる定めである。
 
キリスト教内外に、カルト臭が漂ってくるような時代に、私たちは生きている。
 
しかし、真のキリスト信仰は、物や肉体の奇跡が本質ではなく、人間の心において理解可能な共感性が中心となっていることによって、いつも、そのベースにおいて説得力がある。
 
キリスト信仰は、たとえカルトが同じ名前や言葉を使っても、カルトには決して真似のできないところの、共感性に溢れた理路というところから癒しと救いを宣べ伝えることが出来るだろう。
 
 
(2011年09月22日)
(2019年04月25日、修正)
(2020年05月06日、さらに修正アップ)
 
 

       f:id:stdsts:20210506235342p:plain

          猛者(もさ)
 
 
(2021年05月07日、再録+)
 
 
 楽山について考察
 
楽山の書く文章というのは、大方、月並みです。社会通念とか先入観や固定観念からの発想に過ぎず、独自の、直観的、または、経験からの、これだけは伝えたいという切実さがありません。
 
そこをごまかすために、楽山は、読書の履歴を書いて引用してきますが、引用の基準は、自分の固定観念に都合がよいかどうかでしかありません。
 
さらに、有名人や学者の名前と、学術用語や宗教用語で飾って、自分も同列であるかのように気取ってくる楽山の態度は、その引用の恣意性や、聖書についての誤解と曲解とともに、楽山独特の詭弁と婉曲性と曖昧さをもって、まわりくどい図々しさを表してきます。
 
肯定するときには、「せつなくなる」「一言一言に力があり」「心に迫ってくる」「期待して読みすすめたいと思う」などという、深みのない賞賛の言葉を付けるだけです。そういうことしか書けないのだろうと思います。
 
一方、反対の時は、「好悪は分かれそうだ」「カルト信者にありがちなこと」「強まる傾向はあるように思う」「という話もある」「慎重に吟味すべき」「よく聞く話ではある」「現時点での正直な感想ではある」「一理ある」などと、婉曲的に語ります。
 
楽山は客観的に書いたつもりのようです。でも引用して批判しなければ賛同ですから、人の口を利用しても自分の主張であることに変わりはありません。徹底して責任を負いたくないという意図なのです。
 
加えて「のようだ」「らしい」などもそうですが、自分がどうか、ということではなく、人がどうか、どうするべきか、という、言い換えれば、自分の意見というわけではないから責任は負わないでいいと確認しながら書いているような書き方をしてきます。
 
それら、責任逃れの、通念的発言で、無責任であるなら、アドバイスにも示唆にも参考にもならないということです。本気で書いていない、受け狙いだけ、これならちょうどいいだろうというバランスを捏造して書いてきます。
 
そして、何よりも、重要な是非の問題について、賛否入り混じって、どちらともつかない、真剣味がない、・・こういうことでは、結局、実のあることは何も言っておらず、暇つぶしの、邪魔なだけのセリフになるわけです。つまり、意見交換になっていないのです。
 
楽山は、生まれ育つ過程で、こう言えばよく思われる、受ける、学があると思われる、というような学習か条件付けしか身に着けておらず、実体験から、受け取って、感じて、何が正しいかを考えて、誠実に意見を組み立ててゆくという学習と成長が抜けていると思います。
 
しかも、自身の無責任な発言を、止めようともせず、他者の意見を無視して、先入観のまま、繰り返し書いて、やり返したつもりでいるわけだから、無責任に加えて、無反省かつ訂正不能ということになります。
 
そういう執着性と反復性と継続性から見ても、楽山については、一時的に感情的に意地を張っているのではなく、不可逆の性質を持つ人格障害という病質を考えざるを得なくなっているということです。
 
そういう人物は、リアルな世界では、殆ど発言をしないか、しても認められたことのない人でしょう。だから、ネットの世界では、無反省、無責任に、好きなように書いて、一切、他者の言うことは聞かないし訂正しないでいいと思っているのでしょう。
 
前に、楽山が、私が実名を出しているのは、自己顕示欲だと、けなしてきたことがあります。私は、人それぞれではありますが、できれば知ってほしいと実名を出すことは正常な範囲内だと思っています。さらに、実名を載せることは、自らの発言に責任を付与することでもあります。
 
一方、楽山は、実名を出せないのでしょう。責任ある発言が出来ず、責任を負う気もないからです。
 
そして、楽山の自己顕示欲は、匿名が通用するネットにおいてだけ、生産的な目的もなく、ひょっとしてバーチャル教祖にでもなりたいのかと思うほど、カルトと同じ単方向の、訂正不能、つまり、学習不能な自己愛の誇大妄想性として表れています。
 
以前、楽山は言いました。神がいるなら、なぜ、悪がはびこるのか、なぜ、神は悪を放置するのか・・などという、いちゃもん。確かに、なぜでしょう。それに答えられる人はいません。しかし、そういう考えは、神がいるなら、みんな、ハッピーのはず、という身勝手な前提がある証拠です。
 
だから、今となって、私は、つくづく思います。なぜ、神は、楽山のような偽善者を放っておくのでしょう。なぜ、さっさと片付けて、みんなをハッピーにしないのでしょう。私は思います。救いは、この世の出来事の表層に、はっきり見えてくるものとは限らないのだろうと。
 
本当の救いは、もっと深いところ、あるいは、この世の人生以外のところ、人が気づかないところにあるのだろうか。それに気づく時は来るのだろうか。というのは、神は、人間が、逐一、納得できるような、ご利益の救いではなく、あくまで、神の計画に沿って、裁かれるのだろうから。
 
だから、神は、いつまでも、黙って見ているだけの御方ではないだろう。導きの不思議ということは、人づてにも聞いているし、経験上も、感じてはいるわけです。
 
ずっと神を呪い続けているような楽山が、何もかも、うまくいって、継続して、不幸などなく、いつまでも、満ち足りて過ごす、などということは、想像も出来ないし、あるはずもないことなのです。歴史の出来事も、いずれ、裁かれる時が来たし、これからも、来るのでしょう。
 
神と、条件交渉みたいな、取引でもする気でいる者には、無償の救いが与えられることはないのです。
 
しかし、いつ、神の救いの業(わざ)が起こるとか、どのように起こるとかは、人には分からないのだろう。神は、人に、いちいち説明はしない。正直以外、人が、無条件に救われるために、人の信仰にも、無条件であることが要求されるのではないかと思っているところです。
 
 
現在はネット上の所在も不明の偽牧師シャローム shalom と、荒らしの易坊、そして、楽山は、ネットの発言と交流において、つながりがあります。
 
易坊とシャロームは一緒に私のヤフーブログを荒らしてきました。楽山はシャロームに無条件賛同しました。3つのHNが同一人物の成りすましではないかという疑いも持っています。
 
 
{2021年05月07日}
 
 
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信仰は2

 
  信仰は2
 
 
信仰は史実に依拠しない
史実であってもなくても
聖書によって信仰は生まれるからである
また信仰は出来事に依拠しない
 
さらに信仰は人にも組織にも依拠しない
 
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠する
 
与えられるためには人間らしい温もりと潤いが必要である
 
与えられるのは人間らしい温もりと潤いに相応しい道である
 
決して安穏の保険ではない
 
奇跡と神秘の沙汰は神に任せられ
人が云々できることではない
 
人は
未来という未知へ導かれ
守られる身であるのに
史実信仰や奇跡信仰は熱心であればあるほど
依拠するところをご本尊のように守ろうとするだろう
 
奇跡に反するものから目を背けるような
むごたらしい信仰が人に向かうとき
「悲しみを喜びなさい」
「それは言っちゃいけないんだよ」
「自殺しちゃいましたよ」
戒律とタブーと侮辱を人に当ててしまうだろう
 
これが信者から猛者へと変質して
信仰という名をかぶった思い込みの確信であり
信仰者という名をかぶった無資格超人気取りである
 
信仰はいかなる事実にもかかわらず
計りがたい神の意思に
委ねるほかはない一人の人間の在り方である
 
信仰者は依拠する御方の行為や意思が分かる
という思い込みの確信を砕かれてゆく一生を選び
またそのために選ばれた者である
 
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠する
 
 
(2011年09月24日)
(2020年04月26日、一部修正)
(2021年05月06日、再録+)
 
 
信仰者である人は
へりくだる姿勢を持ちながら
ときに神に甘えることがあります。
ときに愚痴を言ったり駄々を捏ねたりします。
 
そういう駄々は
嘘の世辞の讃美言葉と違って
祈りとして真実性があると思います。
 
祈りにおいて正直であることだけが条件となるからです。
 
神に対してだけは甘えないと生きていけません。
だからこそ甘えであることを自覚していなければいけません。
 
神からの奇跡を人が受けたと思い込む確信は、
神に対する甘えの自覚を失った人の姿です。
それは、
神が自分にとって都合よく働いてくれる
という
神を恐れず、
神の都合を自分の都合に合わせる的外れの自覚と感謝に陶酔して
甘えの中に溺れている人の姿なのです。
 
神に甘えるとは
都合の悪い本音を隠さないことであります。
本音ではない遊びの甘えは冒涜です。
 
本気でなく
自分の都合に合わせて神を恐れない者ほど
神を讃えます。
 
これは、一部ではなく、
私たちの中にある稀ではない罪性であります。
 
ゆえに、折に触れて、信仰者にも悔い改めが必要になります。
悔い改めは、改めて正直に祈ることであり、信仰者の日常の務めであります。
 
キリスト信仰者を
間違っても超常に生きている人などとは思わないでください。
超常ばかり語ることは信仰から外れてゆく方向です。
 
超常は分からないという分別こそが信仰の姿勢であり
神に任せるべきものを弁えている態度であり
神を恐れる信仰に、必須の、そして、相応しい弁えであります。
 
私たちは信仰によって、信仰者として、死ぬまで成長し続けて、
「神を恐れよ」を自覚し直すことになるでしょう。
そのたびに、祈り、主の慈愛と神の寛容を頼みとする道に帰るのです。
 
キリスト信仰は
神の全能への恐れを知り
キリストの人への
共感と愛に依拠する信仰です
 
 

  f:id:stdsts:20210505234606j:plain

             神を恐れる
 
 
(2020年04月29日)
(2021年05月06日、加筆して再録)
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
会員だった頃、伝道の取っ掛かりにしようと思って、荷物を幸福の科学の袋に入れて、友人宅を訪ねたことを思い出した。
袋に印刷された「幸福の科学」の文字を見て、
友人の妻「幸福の科学ってなあに?」
友人「バカ、そこに触れるな!」
伝道は始める前に中止となりました(笑)
午前11:21 · 2021年5月3日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1389042455228542976

 
HSを批判しながら、なぜ、キリスト信仰を、ろくに知りもしないで、同じように批判して、不幸を広めて、平気でいられるのでしょう。楽山の批判は、多く「(笑)」付きです。宗教もカルトも、恐らく、有名人も学者も、楽山にとっては、「(笑)」に過ぎないからでしょう。
 
キリスト信仰について、何も分かっておらず、アニメと同じように、無反省に無責任に話のネタにしてくる楽山には、人が傷つく、人を傷つける、ということも、何も分かっていないと思います。
 
楽山は、不幸の我執の伝道者、というより宣伝者です。自己愛性人格障害ネトウヨが「バカ」を連呼しながら、今日も、ネットという街宣車に乗って来るようです。しかも笑いながら。
 
楽山の、こういうツイートこそ、そして、楽山ブログも、始める前に中止してほしいのです。楽山には、あらゆる正義について、あるいは、あらゆる悪に対する批判について、語る資格はありません。
 
 
{2021年05月06日}
 
 
 2021年05月03日
 大川隆法とバッハ
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 http://mmknky21.blog.jp/archives/9382611.html
  を批判
 
楽山は、 YouTube から、ORと、バッハを、並べています。その意図が明らかなのに、書いていません。責任を負う気のない卑怯者のやり方です。楽山が記事を書くという行為は、このように、いつも卑怯で、作為的です。厚顔の武装面でしょうか。
 
自分の言動がボロクソになっている状況で、人のことばかり書いてくるというのは、どういう神経でしょう。それこそ、カルト教祖の妄想状態でもなければ出来ないことだと思います。鉱物的体質の鉄仮面なんでしょうか。それとも、皮がむけてヒリヒリするような赤裸の時空を持っているのでしょうか。
 

大川隆法の音楽
 大川隆法の作詞作曲した歌を聴いてみた。独特の個性があるので、人によって好悪は分かれそうだ。
・「ウィズ・セイビア 」〈作詞・作曲:大川隆法 歌:大川咲也加〉
・【デジタル先行配信中!】「水の革命」〈作詞・作曲:大川隆法 歌:恍多-kouta-〉

 
この上2つは、盛り上げようとする日本語の説教調であることから、布教の意図が明らかです。
 
「人によって好悪は分かれそうだ」・・責任を負いたくないために、楽山は、曖昧に言います。責任逃れでないならば、なぜ、曲をブログに載せ、かつ、バッハと比較するような構成になっているのでしょう。
 

*バッハ
宗教音楽というつながりで、なんとなく、バッハを思い出したので聴いてみる。やはり、いつ聴いても切なくなる。
・バッハ《マタイ受難曲》「神よ憐れみたまえ」 アーフェ・ヘイニス
J.S.バッハ: マタイ受難曲:我ら涙流しつつひざまづき[ナクソス・クラシック・キュレーション #切ない?]

 
私は、音楽は苦手ですが、楽山は「いつ聴いても切なくなる」と書いています。つまり、比較の意図は明らかなのですが、上2曲と比較させながら、比較については直接表現を避けているのです。主張の責任を負う気などないからでしょう。
 
こういうやり方は、今までの楽山の言論を象徴するかのようです。断定していなければ責任はないというのが楽山の思い込みですが、ブログでも引用でも発言し公開した時点で、言論の責任は発生します。
 
責任を意識することで、反省と学習が可能になります。それをしたくない、また、できないのが楽山です。自己中と自己愛によって、いつも、偏向した主張をしてきますが、責任を負わないというのは、楽山が、いい加減な、趣味程度にしか、マンガ程度にしか、宗教を考えていないということです。
 
楽山が、そういう無責任であるならば一人前の人間ではないということであり、一人前の人間がすることである他者への評価について書くという資格はないのです。
 
つまり、楽山は、自分は言いたいように言うけど、質問するな、批判するな、ただ褒めろ、と言っているようなものです。こういうことが通ると思うのは、楽山が、自己愛性人格障害という病気だからです。いつでもどこでも通用しないことなのに、楽山には、それが分からないのです。
 
ゆえに、楽山においては、不祥事や失敗の時に、楽山に向かって、"あんた、あの時ああ言ったじゃない"、と言っても無駄だということです。つまり、批判者失格です。
 
こういう人を相手にしますか。こういう人が何かを良い方向に変えるでしょうか、ないと思います。何故なら、大事なときに、まるで当然のように、平気で、真っ先に逃げる人だからです。
 
実のない人生を送ってきた楽山の、いつもながらの下種ぶりです。今日は、節操もなく失禁する大人の日ではないはずだが。
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
教祖を神様だと信じ込んでいる場合も、攻撃されてるとは感じないですね。
なにをされても、正しく導いて頂いている、救いを頂いているとし、もしそう思えず、感謝できなければ自責の念を抱いてしまう。
カルト信者にありがちなこと。
引用ツイート

モラル・ハラスメント
@mayawhite222
· 2時間
相手が少しでも「責任」を感じるなら、攻撃者としては攻撃しやすくなる。(例えば、攻撃者がケガ人や病人である場合、そしてあなたが「責任」を感じている場合、あなたはその人の「要求」を、攻撃とは感じにくいかもしれない)
 」
午前8:03 · 2021年5月5日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1389717452410408961

 
「教祖を神様だと信じ込んでいる場合も、攻撃されてるとは感じない」・・楽山も、教祖になって、そうありたいのでしょうか。批判されなくて済むから。
 
しかし、言うまでもなく、無反省、無責任では、教祖どころか、まともな知性を持った人間ですらないのです。楽山は、結局、良心を裏切った報いを受けるだけです。
 
楽山が「少しでも「責任」を感じるなら」批判は別のものになったかもしれないが、現実には、真逆ですから、楽山の望むことが少しでも叶うようであってはいけないのです。
 
別のことを言っているつもりでも、楽山の潜在的な欲望は、書き癖や言い回しに表れてきます。本気で考えて、必要だと判断して言うことと、趣味的に考えるだけで言うこととは、違ってくるのです。
 
楽山は、自己中と自己愛が育てたところの、うっとうしいカビサビの世界に棲んで、そこから発信しているので、これからも、自分の言葉に、そして、引用した言葉に、斬られる結果になります。(カビ=黴、サビ=錆)
 
楽山をアンチと思わないでください。楽山の考える宗教は、超常とか霊とかの話ですから、これは、基本的にカルトの発想と同じであります。ゆえに、楽山は、実際にはカルトと区別できない本質を持っていて、今は、アンチのように見せかけているだけです。
 
楽山が、現実問題でカルトを批判しても、宗教はこうあるべきという考え方では、カルトと同じ種類の、空想的な立場しか持っていません。この2年間、楽山の、反省せず、批判を無視する単方向性に、如実に表れてきたことです。
 
 
{2021年05月06日}
 
 
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楽山の万象不明

 
  楽山の万象不明
 
 「第十九講 ヨブの見神(三)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月04日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28979618.html
 を批判。
 
矢継ぎ早に更新記事を書いてくる楽山です。これで、前進しているつもりでしょうか。実際は、どんどん自閉に後退して凝固して、新しい知識を受け入れない訂正不能の自己愛からの意地だけで、固陋を極めている状態だと思います。
 
内村鑑三は、大仰な書き方をするようですし、文語調の厳めしさを持つ口語体ですから、楽山の誤解~曲解も、文章の勢いの分、甚だしくなってゆくでしょう。楽山は、それが気持ちよいのかもしれませんが、基本的な中心的な理解が、楽山には皆無なので、中身は空疎です。
 
(ネットより)
こ‐ろう【固×陋】 の解説
[名・形動]古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと。また、そのさま。「旧時代の固陋な人々」「頑迷固陋」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%9B%BA%E9%99%8B/
 

「第十九講 ヨブの見神(三)」を読了。感想をメモしてみる。
ヨブ記三十八章十六~三十八節について。
「自然界の諸現象を起し得ずまた究め得ざる人間の無力を指摘して神の智慧と力とを高調した」。
三十一、二節の北斗、参宿、昴宿など、「ヨブ記の読者は、天文について少くともこれ位は知っておらねばならぬ」。
参宿はオリオン星座、昴宿はプレイアデス、スバル星、六連星ともいう。
「ヨブは右の如く天の星を見た。彼は人力の及ばざるそこに神の無限の力と智慧とを見た」。「星を見るも何ら感ずる所なしという人もある。しかしそはその人の低劣を自白するだけのことである。星を見て神を見るの実感が起らざる人にはヨブの心は解らない。神の所作を見て神を知り得ぬはずがない。我らは彼の作物たる万象に上下左右を囲まれて呼吸している。さればそれに依て益々神を知らんと努むべきである」。

 
楽山にとって、いつものように、都合のよいところなのでしょうか。写しているだけでは何にもならないでしょう。読者に何を伝えているつもりなのでしょう。独り言をつぶやいて、それを見せない地蔵様でしょうか。山奥の細い道で石を転がして遊んでいるのでしょうか。信仰は、誰に対しても、説得力が必要なのですが。
 
自然を見て、神を知るだけなら、飾りの荘厳気分に過ぎません。信仰は、人間関係の中に生かされなければ意味がありません。念のために、楽山は都合のよい文言だけを載せてくるので、内村鑑三を読んだことにはなりません。楽山の読書の信頼度は、既にゼロになっています。
 

「神の造り給いし万物に囲繞されて我らは今既に神の懐にある。我らは今神に護られ、養われ、育てられつつある」。「神を見んと欲するか、さらば彼の天然を見よ、海を見よ、地を見よ、曙を見よ、天の諸星を見よ、空の鳥、野の獣を見よ、森羅万象一として神を吾人に示さぬものはない」。「万象の中に神を見る、これヨブの見神の実験にして、また我らの最も確実健全なる見神の実験である」。
本講演では気になるところが二つあった。まず一つは「星を見るも何ら感ずる所なしという人もある。しかしそはその人の低劣を自白するだけのことである」というところである。

 
上に書いたように、万象の中に神を見いだせないなら、低劣というのは言い過ぎです。自然に感動するのは、信仰の副産物でしょう。
 
しかし、「低劣を自白する」というところが意味は深いと思います。自然を作った神の偉大さに比べて、人間の低劣さ、即ち、低さや小ささを実感し、告白することは、実際、あるわけですし、必要なことです。感じないことが自らの低劣さを表すというのは、楽山に当てはまるでしょう。
 

以前、とある宗教を信じていたとき、自分もこれと同じ考え方をしていたのだった。「この宗教は本物だ。これを知ってもなお、感動できず、本物だと気づけない人がいたとしたら、霊性が低いか、仏性が曇らされて真理が分からなくなっているのだろう」と…。自分とは異なる感性、価値観を持つ相手を低く見るというのは、よくある悪癖だろうが、これは特定の思想宗教を強く信じれば信じるほど強まる傾向はあるように思う。

 
楽山は、内村鑑三の信仰観を、個人の霊的能力の問題におとしめています。ひどい曲解です。このように、楽山は、直感的な感性と感動のない不感不応の人だから、手っ取り早く、霊能が欲しくて欲しくて、たまらないのでしょう。
 
そして、楽山のいちゃもんが、また始まりました。「特定の思想宗教を強く信じれば信じるほど強まる傾向」というのは、恐ろしい捻じ曲げ方です。
 
強く信じることというのは、これだけでは語弊のあることですが、楽山は、その語弊に乗って、思い込みの強いことが強く信じることだという前提で、またしても、ねじ曲げて、宗教をおとしめているのです。
 
宗教は、確かに、現在進行形で楽山が今やっているように、ねじ曲げると理解不能になるということです。自覚のない楽山は悪意に満ちたホラーであります。またしても、おとしめが、そう言った捻じ曲げ犯の楽山に返ってくるというブーメランとなっています。楽山は気づかない人です。
 

もう一つ気になったのは「万象の中に神を見る」という考え方である。これは自分にも理解できなくもないが、人は進化の過程で物事に意味を見出す習性を身につけたのであり、無意味さに耐えられない生物であるという話もある。

 
内村鑑三は、万象に神を感じることを言っています。にもかかわらず、妄想的読み違いによって、楽山は、意味を見出すのだそうです。自然の雄大さに、自分の信仰の意味を見出すでしょうか。見い出せるのは、神への畏怖であり、その影響からの信仰の尊さであり、自己愛によって捻じ曲げた意味付けをする楽山の語る "意味" ではありません。
 

それならば、たとえ万物の中に神を見、感じたととしても、それは事実に基づくものなのか、それとも人の習性に流されて万象に自己流の意味付けをしているにすぎないのかを慎重に吟味すべきであるし、

 
したがって、この楽山の言は、突拍子もない勘違いであります。何を、万象の中に、慎重に吟味できるでしょう。直感するしかない大自然~森羅万象であります。
 
思いつきの、格好だけの、嘘八百もいい加減にしなさい。今、楽山が、「万象に自己流の意味付けをしている」ということです。こうやって、全くの無理解から、いかにも、勉強しているかのような見せかけの文言を吐いてくる楽山です。時々書くのですが、また書きます。・・バカか・・
 

この思惟を経てからでなければ、真に「万象の中に神を見)たとは言えぬだろう。けれども本講演ではそこまでは踏み込んで語られてはいない。ここは残念である。次回の講演でこの点についても語られているかどうかは分からないが、期待して読みすすめたいと思う。

 
楽山は、内村鑑三の言葉を、感性を通さず、文字通りに受け取って、理屈をこねています。万象を見れば、何でも、つぶさに理解できるのが、宗教だと思っているようです。何が残念でしょう。楽山こそが、ずっと残念な人なのです。
 
しかも、気づかないのです。楽山は、庭か公園の石を見て、一生、そこで、意味を考えておればよいでしょう。宗教にも信仰にも縁はないと思います。内村の「低劣を自白」とは正反対の、楽山の、自覚されず自白されない "低劣" が、鼻を突きます。
 
 

      f:id:stdsts:20210504233812p:plain

               暗い低劣
 
 
{2021年05月05日}
 
 
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楽山の人間離れ

 
  楽山の人間離れ
 
 「第十八講 ヨブの見神(二)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月03日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28971574.html
 
 
楽山が、人格に興味がないことが表れています。さらに、楽山は、人格ではないのかもしれません。宗教を考えるときに、自分以外のもの、被造物であるとか自然であるとかを考えて、心を考えないし、心に感じない楽山が、宗教と信仰、即ち、人間を生かす道を説くことなど出来るわけはないのです。
 

「第十八講 ヨブの見神(二)」を読んだので、印象に残った箇所と感想をメモしておきたい。
「第三十八章の研究」。
「有名なるドイツの科学者フンボルトは科学者は自然現象を説明し得るもその意味を説く能わずというた」。
海の動揺(心の動揺)は人には制御し難い。しかし「我らより熱誠なる祈の出ずる時、神はその大なる御手を伸ばして海を制し給う」。
「神の造りし荘大なる宇宙とその深妙なる運動、神の所作と支配、そこに神は見ゆる」。
「一人の人を真に知らんためには、その人の作物を見るを最上の道とする」。神を見るには「彼の所作物たる宇宙とその中の万物を見るべきである。その中に彼の真の姿が潜んでいる」。

 
この引用は、楽山の興味を表しています。「海を制し」「荘大なる宇宙」「深妙なる運動、神の所作と支配」「所作物たる宇宙とその中の万物を見る」・・楽山の誇大妄想の世界でしょう。大きく偉大な者が好きで、そういうものとの関わりでないと神を考えることが出来ないのです。
 
宗教と信仰は、人を生かすためにあります。しかし、楽山は、人間の心が分からず、ゆえに人間の存在に興味がなく、人間を見たり考えたりが出来ないために、どんどん人間離れしたものしか見ないようになっています。
 
「一人の人」である自分「を真に知らんために」自分を見ることだけは出来ない楽山です。
 
楽山自身は、今まで楽山が書いてきたものから、スケールの大きいものどころではなく、人間一人さえも洞察や共感が出来ないでいて、できないことの反動のように、安っぽい空想だけで、宇宙と万物とかデカいものを語ろうとするのです。
 
一つには、スケールの大きなものは想像するしかないために、批判を受けにくいと見ているのでしょうか。誇大妄想的空想は、それだけで、身の程知らずを表すことになります。身近なものが、全く、意に反して、手に負えない楽山ならではの、子供じみた自慰行為の誇大広告なのです。
 
そういう事情だから、批判しても、返しも弁明も出来ないということでしょう。もう、2年以上も続いていることです。そうして、反省しない、責任は負わない、悪いことは人のせいにする、・・そういう人格が、自他を破壊する悪魔性の体質として養われてきたのでしょう。
 

自然の中に神を見るというのはよく聞く話ではあるし、それは自分も感じたことはある。「このようなものが偶然にできるものだろうか。そんなことがあるとは思えない。このようなものが存在するということは、やはりその背景には何らかの意思があるはずだ」など。

 
楽山の、月並みな、荘厳気分からの陶酔を語る口は、人間一人も、好きになれない、うまく関われない、共感できない、ならば、傷つけてやれ、壊してやれ、という方向に、堕ちてきたのだろうと思います。
 
私は、人付き合いが苦手ですが、聖書が、信仰が、キリストが、人間らしい道を示していることには気づいて、残り少なくなった人生において、今も、なお、人間として少しでも成長したいと思うゆえに、努力可能で修正可能な道を歩もうと努めています。楽山の語る神?は、楽山自身であり、嘘っぱちです。
 

でも自然の中には美しいものばかりではなく、醜いもの、酷いことも多くある。肉食獣は他の動物を生きたまま貪り喰うし、寄生バチ、カッコウなどの残酷な習性をもつ生物もいる。これまでに多くの種が無残にも絶滅したともいう。これらの事実からすると、自然は神に由来するという考え方にはどうにも疑問を感じないで入られなくなるし、自然によって神を知ろうとするのは想像以上に困難な道になりそうにも思えてくる。もしかしたら自然の見方が浅いせいでこのような考え方をしてしまうのかもしれないが、とりあえずはこれが現時点での正直な感想ではある。

 
「醜いもの、酷いことも多くある」・・その典型例が、楽山自身であることに、自己愛性人格障害の楽山は気づかないのです。そうして、平気で、人を無視し、あるいは、悪口を言い、自己正当化の詭弁を弄して、みすぼらしい自身と我執を隠そうとしては、いっそう恥ずかしい失敗と欠陥を露呈するのです。
 
楽山は、何事についても、決して、批評、評論する立場に立ってはいけない人です。すべて嘘となり、偽善となってしまうからです。自己愛性が、自分を、まともに見せかけようとするとき、最も、人を傷つけやすくなります。どうか気をつけてください。
 
また、今回も、楽山は、自分を良く見せようとあがいて、結果として、わざわざ、最も見苦しい自分を表してしまいます。一生、これを、繰り返す因業(いんごう)なのでしょうか。
 
自分を見ることなく、人に向かって、書いて表すことで、泥の靴を履き、虫の羽音を立て、笑いの口を引き伸ばして、なお、人の血を求めて、歪んでゆきます。
 
 

       f:id:stdsts:20210503235114p:plain

               因業を踊る者
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
百田氏は、及川氏とは交流があっても、幸福の科学とは距離をおいてるんだろうと思ってたけど、それは間違いだったようだ。
百田氏は何年も前からリバティ(幸福の科学)との付き合いがあったんだね。
午後7:03 · 2021年5月3日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1389158571686858752

 
また、自分のことを棚に上げて、他者のことだけは語ろうとする楽山です。自己愛に凝り固まると、こういうことになります。今まで、自分を語っても、自分はこうだ・・みたいな書き方しかできず、反省と書いても、全く自分を斬ることのできない楽山です。
 
しかも、楽山は、発言の責任を負わず、反省もしないのだから、言論や批判をする者としては、完全に失格です。そのことさえも無視して書いてくるのは、病質者だから・・以外に考えられないのです。
 
遠い先のことを慮ること、すなわち、遠慮することの出来ない楽山です。楽山には、誰も、関わらず、近づかないことだけを願っています。
 
 
{2021年05月04日}
 
慮る(おもんばかる)
 
 
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楽山の世辞と無責任

 
  楽山の世辞と無責任
 
 「第十七講 ヨブの見神(一)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月01日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28943169.html
 
 
批判されて、答えることも返すことも出来ない反キリストの楽山は、今回、見苦しくも、伝道者である内村鑑三を、褒めているようです。ここで、褒めて舞い上がるのは、卑怯者だけでしょう。
 
このように、批判したが、褒めたから、責任はない、という文脈は、以前にもありました。責任逃れに過ぎません。本当に汚い男です。
 
楽山は、楽ではなく、山ではなく、落石です。危ないから、よけてください。
 

「第十七講 ヨブの見神(一)」を読んだので、要点をメモしつつ感想を書いてみたい。
「第三十八章の研究」。
「人の声は人を救うことは出来ぬ。神の声のみ人を救い得るのである」。
第三十八~四十一章について、「これ真の見神実験記である。人もし信仰と祈禱の心とを以てこれに対せば、これが真の見神記なることを認め得るであろう。いたずらにこれを貶するが如きは敬虔の念乏しく真摯において欠くる所の態度である」。

 
神を見る、と解すれば、大いに誤解がありそうなことを、楽山は、気遣いや思いやりが皆無なので、説明をしません。恐らく、故意に、キリスト教の信仰は、神を目で見ることだ、という誤解を広めて、その上で、否定したいのでしょう。こういう男だから、信頼度は、とっくにゼロ~マイナスなのです。
 
(ネットより)
けん‐しん【見神】 の解説
霊感によって神の本体を感知すること。神霊の働きを感知すること。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%A6%8B%E7%A5%9E/
 
神の御心であろうか、導きであろうかと、いつもではないが、感じることはあります。しかし、それで、人に、いちいち説明のつくような生き方を、神は、人に、与えないだろうと思います。
 
何故なら、人は、神よりも低い存在として造られており、一気に、神を目で見たり、神のように完全になることはないからです。だから、前から言っているように、神を目で見るとか、耳で声を聞くとか、神秘が与えられることに執着するのは、キリスト信仰ではないのです。
 
楽山は、"見神" ということが気に入ったのでしょうか。今までも、楽山の興味は、超常や神聖、そして、霊など不思議な力や現象に向かっていました。それは、恐らく、楽山が、勉強する気のない怠け者で、霊能や超能力で、一気にスーパーマン的なものになりたいからでしょう。
 
楽山が、そういう霊の話、スピリチュアル、霊言、ホラーや冒険アニメを、好んでいることに表れています。そのような怠惰なのに欲望だけが強い者を、神が是とするでしょうか、どう考えても否であります。
 
つまり、楽山は、神にも、真実にも、もちろん真理にも、正しさにも、感動にも、共感にも、縁のない人だということを、楽山の書いたものによって、書くたびに自ら証明しているのです。
 

「エホバの声はとかく人の道が窮まった時に聞ゆるものである」。

 
神の声が聞こえるといっていますが、実際はどうなのか、ボイスなのか直感なのか感動なのか、誰も知らないと思います。幼稚な超常趣味の楽山ごときに利用~悪用されるような伝道者ではないから、内村鑑三は信頼を得ているのです。
 
私は、神については、人が、姿を目で見たら目がつぶれる、耳で声を聴いたら鼓膜が張り裂ける、さらに燃え尽きる、・・くらいに、思っておいたほうがよいと思っています。神を、甘く見て、舌で舐めている楽山の、罪業の深さは、楽山を、反信仰、反キリストに、どんどん向かわせています。
 

「神は地とその上に住む人を空しく造ったのではない。されば我らは地を見てそこに神の愛を悟るべきである。そして安ずべきである」。

 
書いてあるように、内村鑑三の言う見神は、「地を見てそこに神の愛を悟る」ことではないかと思います。神を目で見る、奇跡を起こす、というのでなくても、「地を見て」だけでなく、人に起こる様々な信仰の表れを見ることは、恵みであり、救いであり、平安をもたらし、人を生かします。
 
これら福音の一切を、自己愛性人格障害によって捏造の観念から偏執固定している楽山は、全く知りません。楽山は、何も知らないことが表れているのに、書くことをやめません。書くと恥ずかしいのでは?という羞恥心がないのです。
 
楽山は、誰の助けにもならない口であり、何も語ってほしくない反キリストであり、嘘吐き宗教ペテン師なのです。
 

本講は内村鑑三の体調不良のためか短いものになっている。ただ体調はよくないにしても情熱はいささかも衰えてはおらず、一言一言に力があり、心に迫ってくるものがある。これが信仰というものなのだろう。

 
伝道者の、志や、情熱や、言葉の力や、真に迫ることなど、受け取る気がない楽山には、信仰というものについて、語る資格などありません。語れば、信仰の邪魔になるだけであり、無理解からの反信仰が表れるだけです。病質者の楽山の言葉は、広まれば広まるほど、不幸を、関わる人に及ぼすでしょう。
 

信仰というと静寂に向かうイメージがあるけれども、それとは反対に非常に活動的、積極的な方向に進む場合もあり、ここでの内村鑑三は後者のようだ。

 
信仰の静寂のイメージも、楽山においては、理解されていないと思います。何故なら、信仰による静寂とは心の安らぎであり、活動性や積極性の反対ではありません。何も分かっていない者が、何も分からずに、分からないことを書いています。迷惑も甚だしい。
 
楽山の口は、いつも災いです。嘘吐き楽山からの、溝も水路もないままに流されるインスタント腐食廃液を浴びないよう注意してください。
 
楽山は、嘘を吐いて空振りばかりして、ずっと前から、この記事のように中身も理解もない口だけ宗教を発信してきました。楽山の情報の信頼性は皆無であり、災難の時には、楽山のような良心カラッポ人格は必滅であり、人々はその巻き添えを食わないように警戒が必要です。
 
前に書いたことのある「狼と少年」は、いずれ、狼が、羊を食べつくし、嘘吐き少年をも食べてしまう話です。それに喩えれば「災いと楽山」であり、つまり、楽山は、いつも嘘を吐いて、自身の災いを感じず、知らせず、本当の災いの時には滅びをもたらす厄病神の機能しか持っていないのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%98%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E5%AD%90%E4%BE%9B
 
 

      f:id:stdsts:20210502235639p:plain

               うっ血性ピエロ
 
 
{2021年05月03日}
 
 
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悪い例だけ刷り込む2

 
  悪い例だけ刷り込む2
 
 宗教は幸福感を得るための手段である!
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24540094.html
 楽山日記(LD) 2020年04月25日
 
 
楽山の、偏向した、安っぽい、悪い材料だけ見せてくる詭弁の、宗教への執拗な侮辱が、全開です。
 
一部の間違っているところだけを論(あげつら)って、キリスト教全体を否定してくる楽山の詭弁は、吐き気を催すだけです。
 

この文章からすると、著者は宗教は目的ではなく手段であると考えているようだ。

幸福! 幸福! 宗教は人々がこの賜物を手に入れるための方途の一つでしかない。容易に、半永久的に、そして有効に、宗教はしばしば、もっとも耐えがたい悲惨をも、もっとも深くもっとも永続的な幸福に変形するのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.265)
 」

 
まず、自己愛に陶酔することによって、他者や人間一般を無視し、自分だけの勝手な幸福感を得ようとしている楽山が、自分を棚に上げて書いていることを強調しておきます。
 
キリスト教と称して、神を恐れぬ傲慢や、学者気分や、陶酔気分や、ルサンチマンによる被害意識などといった間違った信仰?が、キリスト教内外にあり、それは、勘違いから生じているわけです。また、キリスト者に成りすました自己中妄想のシャロームのような偽キリスト者もいます。
 
そのことは、私のブログの記事にも、信じ込み思い込み信仰の罪として、長く批判してきたところであり、人間的な潤いと温もりがあれば理解できるはずですが、楽山は、恐らく、そのような人間の深いことが全く理解できないのでしょう。
 
誰も避けようのない死とか不幸とかの運命に対しては、慰めの必要な人に、それを与える救いが必要です。楽山は、その必要を考えないので、間違った信仰の例をもってキリスト教とキリスト信仰をおとしめないではおれない悪意の宗教知ったかぶりの異常者であります。
 
楽山は、自己陶酔のプライドを傷つけられた、というより、元々根拠のない自尊を批判され否定されると、寸足らずの言論で、露骨に、おとしめてくるところの、カルト妄想の反キリストです。
 
宗教を否定し、おとしめる発言を続けながら、楽山自身は、宗教に変わる救いを、何も用意できません。楽山は、自己中なので、人のことなど気にしていないからです。
 
無理解のために、勘違い、さらには、知識不足、怠慢、自己愛、霊能者気分、超人気分の陶酔、ルサンチマンの裏返しによる神を恐れぬ傲慢、などによって、凶暴な悪意をもって、キリスト教を毛嫌いして、あくどく、嫌味ったらしい貶めをしてきたのが、楽山その人であります。
 
まさしく、反キリストとして、楽山は牙を剥いてきました。どれもこれも、こう書いてあるとばかり、学者の説をあげないと何も言えない、というより、学問を悪用しているだけの楽山の煽動です。どこまでも空疎で、災いしか与えない楽山です。
 
キリスト教は、陶酔気分によって、悲惨を幸福に変形する宗教ではありません。その勘違いの例をもって、キリスト信仰の救いも恵みも踏みにじろうとする悪魔性の迫害者が、楽山その人であります。楽山は、本性を表し、牙を剥いてきました。
 

これは確かにその通りだ。宗教は一見したところでは、事実、真実を教えているようだが、実際にはそうではなく、物事の解釈、意味づけをしているにすぎず、宗教はこれによって人の苦しみや悲しみを軽減しようとする。たとえば近親者の死を嘆く者には、生死には意味があるとしたり、死者の魂は天国で平和に暮らし、地上で生きている者を見守ってくれているとしたり、いずれ時がくれば死者と再会できると説くなどして、その苦しみや悲しみを癒そうとする。

 
楽山は、個人的にも、自分発想でも、独創性による宗教理解を追求することが全くできないので、このように、「これは確かにその通りだ」と言うしかないのです。そして、その上でサーフィンでもしているかのように、宗教=空想、という妄想を、吹き込んできます。
 
信仰の真実は、何一つ分かっていない楽山が言うような物事の解釈の空想的な意味付けではありません。宗教が不幸を勝手に意味付けして騙しているとでも言いたいのが楽山ですが、楽山が、代わりの生きるよすがなど何も提示することはなかったし、これからもないのです。
 
楽山は、自らの不遇と不幸に、人を巻き添えにしたいだけなのです。その結果として、とても冷たい自らの人格を、世辞や、オトボケや、丁寧語で、ごまかすしかないのです。
 
さらに、では、どうしようもない不幸に対して、楽山は、何をどう言えるというのでしょう。何も癒しを持ち得ず、教えることが出来ない楽山、愚かです。この人にだけは、人生の相談をしないでください。自分のことしか考えない人です。
 

この他、神、天使、仏、菩薩、守護霊、生まれ変わり、カルマ、神の試し…なども、どれもこれと同じような効果を持っている。この点、宗教は悲惨を幸福に変えるための不思議な道具ではある。

 
私は、神聖の言葉、超常の奇跡、などは、人間には手に負えないから、それを信仰の根拠にしてはいけないということを、何度も書いてきましたが、楽山は、また、同じような、けなし言葉しか使えないのです。
 
しかも、超常神聖の霊の分かるっぽい自覚に生きているのは、他でもない、楽山であります。実際は、楽山は、楽山の言う超常についても、キリスト教と信仰についても、何も知りません。知らないのに、知ったかぶりをするのが、自己愛性人格障害の症状であります。ゆえに、書くたびに、幼稚な無理解を露呈してきました。
 
楽山は、私の書いたものを理解する気もないということです。このことは、楽山が、受け取らずに、勝手に書きたいことを書く、受信せずに発信する、という、自己愛を振り回すだけの言論失格者であることを示しています。
 
楽山は、霊が分かるっぽい自慢と自己愛によって、ブログを書いています。教祖にでもなるつもりなのでしょうか。そのための学問的味付けを求めて書物を漁(あさ)っているのでしょうか。ただの好事家ではなく、人間離れの神がかりの超人意識に生きているのでしょう。
 
楽山は、前に「心の理論」という記事で、自分の親族を仏様の気持ちが分からないっぽすぎると言い、ゆえに、霊の話に興味があって、仏様や霊の気持ちが分かるっぽいという自覚を表し、神霊や超常に興味を持っていることを明らかにしています。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
ろくに、本の真意も理解できないのに、インテリ気取りで、人をボンヤリ言語と詭弁で騙すのは、楽山の生業のようになっています。本業は詐欺師ではないかと思うほど、嘘と詭弁だけが、楽山ブログの大半を占めています。
 

ただこれがために宗教が悲劇をもたらすこともあるからやっかいだ。宗教によって幸福感を得た者が、宗教に依存するようになり、そのあげくに宗教は手段ではなく目的であると勘違いして、宗教に奉仕させるのでなく、宗教に奉仕するようになってしまうことがある。宗教が人に奉仕するのでなく、人が宗教に奉仕するようになってしまってはおしまいだ。ここが宗教の怖いところではある。

 
宗教は、勘違いすれば、悲劇をもたらすことは明らかですし、事実でもあります。ですから、私は、超常意識に思い上がるような誤ったキリスト教への批判も書いてきました。
 
しかし、宗教が悲劇をもたらすのは、楽山の訂正不能の偏見もそうですが、信仰者の場合、信仰が、神への勝手な思いこみの固定観念みたいな持ち物になった場合であり、間違った信仰の場合であります。
 
したがって、楽山が「宗教が悲劇をもたらすこともあるからやっかいだ」と言うのは、無知と無恥のなせるところの、路地裏の濁った水溜まりで跳ねているだけの、仲間外れの瀕死の虫の泣き声に過ぎません。
 
聖三位は、決して、人の持つ観念で扱われる御方ではありません。神を観念として扱う者は、その報いを受けているだけなのです。
 
宗教って人に奉仕するものでしょうか。楽山の的外れです。何らかの生きる力を与えられたから、人は、神を救いと信じるようになるのです。それゆえに奉仕もするでしょう。楽山のような怠け者の人生観には、そういう要素がないのでしょう。だったら黙っておれ、ということです。
 
自分に奉仕する宗教と神なら信じてやろう、という楽山のトンデモ欲望があらわになっています。自己愛性病質の症状ばかりが目立ちます。宗教は、楽山に対してだけは、奉仕どころか、安らぎも癒しも救いも、もたらすことはないでしょう。
 
しかし、私は、信仰がもたらす、絶対孤独からの解放という恩恵について、また、キリストの愛と共感、キリストへの愛、という、絶望を希望に変える信仰を書いてきたつもりです。これらについて、全く感受性を持たないで、何も受け取らず、嫌らしい宗教荒らしになってしまったのが楽山であります。
 

こういう考え方は、宗教を目的とする熱心信者からは嫌悪されるだろうけれども、宗教の奴隷にされて骨までしゃぶられるようなことになりたくない人は、宗教は目的ではなく、あくまで手段にすぎないという考え方は知っておいて損はないはずだ。酒は飲んでも飲まれるなというけれども、宗教もこれと同じで信じても飲まれたらいけないし、適切な距離を取ることを忘れないようにしたい。

 
「熱心信者からは嫌悪されるだろう」と書いている楽山の言う熱心な信仰は、楽山の視野で捏造したものです。このような、程度の低い思い込みで、宗教批判を書けると思っている楽山の重症度が表れているだけなのです。
 
キリスト信仰は、真実の可能性に導くものです。楽山が持っていない人間としての理性と情緒を養うものです。骨まで腐った楽山のようにならないために。
 
楽山の言こそ、飲むな、飲まれるな、関わるな、真に受けるな、と言いたいのは、すべて、楽山の病的な自惚れが書かせているに過ぎないからです。この楽山の自惚れは、皮も、肉も、骨も、髄も、しゃぶりたがっている楽山の病気なのです。
 
ゆえに、宗教を理解できないのを、宗教のせいにして、ナルシストの低劣な本性がバレた今となっては、安っぽい引用と、成り立たない理路をもって、自らのカルト精神を省みもせず、宗教を、未熟な理屈で決めつけ、それこそ、理路もなく悪あがきの詭弁の反復によって、批判にならない悪口だけを書いて、刹那の自己満悦を得たいだけの自慰行為になっています。
 
こんなことしか言えないのかというほどに、楽山の反キリストの主張は、定型的となり陳腐になってきました。そのことさえ学習拒否によって知らないままの楽山の、物知り顔の丁寧語を、実際は、無知と無恥からの暗示と刷り込みの言葉を、すなわち、良心を食い尽くす牙を、どうか真に受けないでください。
 
 

      f:id:stdsts:20210501234950p:plain

             腐ってゆく攻撃性
 
 
(2020年04月26日、同日一部修正)
 
(2021年05月02日、再録+、同日一部修正)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
言葉による表現や主張が成り立たない者は、曖昧な暗示による印象操作に走ります。その意図が見抜かれれば、成り立たないのはいっしょなのですが、病的な自己満足の楽山は、学習と成長がないので、卑怯な書き方をしても、正常で正当だと思い込み続けるのでしょう。自覚も病識もあったものではない精神病理の中に、どっぷり浸かっているのです。
 

心機一転★こも楽山
@komo266
·2時間
wikiによると、幸福実現党の党首は2013年から8年近く変わってないですね。党首選挙をした話も聞かぬ。党総裁にいたっては一時的に空席の時期はあれども、2009年から大川隆法氏が独占している。
幸福実現党専制、独裁に反対してたとは意外です。
午後8:18 · 2021年4月30日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1388090379908517893

 
人の言うことは聞かない、進歩も成長もないことを繰り返し言ってくる、など、自己中の専制と独裁の妄想的執念で、病的に自分勝手なのは、楽山です。恐らく、体質的で人格的なものだから、生まれ育ってから、変わっていないのでしょう。
 
カルトはいろいろあれど、楽山は、幸福の欠片も、もたらすことのない詭弁屋です。どうか、だまされないように、関わらないように、近づかないように、注意してください。
 
楽山は、反省せず責任を負わない人ですから、人のことをとやかく言う資格はないのです。病気のせいで、それが分からず、今も、自らを省みないまま、書いてきます。
 
楽山の言は、殆ど、独りの部屋で、ぼやいているだけのようなものなのに、それを公開してくるのは、病識がないことに加え、異常に過剰に執拗な自己顕示欲の我執がそうさせるのでしょう。一途に我執だけを信じ込んで、正当化してきた楽山です。
 
楽山の書く文章には、欺瞞の臭みはあっても、個性につながる味がないのです。楽山が、前に言った台詞、"・・ていうか・・"、という無味の曖昧さが繰り返されているだけの文章です。これが、だますために、または、自慢するために、拵え、設えてゆく筆致なのでしょう。
 

心機一転★こも楽山
@komo266
百田尚樹氏は、かの団体について、宗教ではあっても、カルトではないと考えてるんだな 絵文字(考えている顔)
引用ツイート

百田尚樹
@hyakutanaoki
· 16時間
日本第一党」と「幸福実現党」が一議席ずつでも取れば、国会も少しは面白くなるのになあ…
幸福実現党」は宗教やからと言う人がいるが、公明党よりは100倍いい!
 」
午前6:38 · 2021年5月1日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1388246486127759360

 
A級戦犯を支持しているネトウヨの楽山は、改憲派で右翼の作家の言を引用しています。批判しているのか、賛同しているのか、はっきり書いていないツイートです。
 
自分の主張が、偽物ばかりになってゆくと、引用に付けるツイートも偽物になってゆきますが、考えるということが、病質のために、自省を含めた中立な思考にならないので、いっそう曖昧な筆致に逃げることになるようです。
 
いわゆる暗示という筆致で、これも誘導の詭弁なのでしょう。こんなこと言ってる・・と書いて、あとは、分かるでしょ・・という感じになります。
 
楽山の言にあっては、宗教の定義も、カルトの定義も、楽山の恣意によって決まるので、当てになりません。自己愛性人格障害の楽山には、自分の主張以外は、邪悪なカルト扱いになるのではないかと思います。
 
根拠無き高みに自分を置いて、人の悪口を言うのが生き甲斐になる自己愛性人格障害は、こういう不幸と罪悪をもたらすのです。
 
自己愛と、自己の人間としての尊厳とは、全く違います。自己愛に、人それぞれが成り立たない根拠でもあります。つまり、自己愛は、宗教にも信仰にも思想にもなりません。強いて言うなら、自分信仰という最悪の偶像崇拝になるだけです。楽山を信用しないでください。
 
 
(2021年05月02日)
 
拵える(こしらえる)
設える(しつらえる)
 
 
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当てにならない2

 
  当てにならない2
 
 
私たちは
実に当てにならない世界に住んでいる。
実際は
当てにならないのは私たち人間の心であり内部である。
 
入力は総て感覚器を通している。
内部処理は総て脳が行っている。
いずれも寿命が尽きればなくなるものであり
これらは
寿命がある間は維持されるけれど
本当に変わらないで維持されているかどうか
厳密な検証は不可能である。
 
当てにならない世界を
当てにならない知情意をもって
断定できる何があろうか。
 
しかしながら私たちは
当てにならない世界において
当てにならない知情意をもって
判断し実行するしかないのである。
 
それが人間の不完全性そして相対性である。
 
神が絶対でも
あるいは
たとえ絶対がどこかにあっても
私たちには絶対はない。
それを知ることが信仰の始めである。
 
絶対とは不変に正しいこと。
非絶対即ち相対とは可変で
ときに当てにならないこと
そして変わりうること。
 
当てにならない知情意をもって
絶対を目指したり思い込んだりすることは
当てにならない感覚・知性・感性をもって生きてゆくのに
全く向いていない。
 
神の属性である不変は
変わることなく成り立つということであり
神義すなわち神の正しさとして真理の働きを持つ。
 
しかし
人間の正しさは不変ではなく
より正しいことによって
また状況によって
否定されないとは限らないことである。
 
これを人間の相対性と呼ぶ。
信仰をもっても
この相対性は変わらない。
 
むしろ人間の
相対性・非絶対性・不完全性を自覚することが信仰である。
 
人間に成り立つ絶対性は
絶対は絶対にないという循環論法にしかならない。
 
人の絶対は慢心し訂正不能を好むが
人の相対は努力して成長することを求めるだろう。
 
 
しかし
人は絶対を求めやすい。
絶対を盾にして強くなったつもりになりやすい。
 
だから絶対の存在を確定しようとするか
あるいは確定したつもりの言動を
神の御心だと言って神聖化しやすい。
 
それを信仰と呼び使命と呼び確定して
感じることと考えることを疑いだと
退けてしまいやすい。
 
絶対は神のもので
人は決して絶対を確定できないのに。
気安く正邪を神の立場で決めつけやすい。
 
神とは違う人としての身の程を弁えることが
信仰の始めであるのに
味方としてだけ顕れる神しか欲しがらない信仰は
戒める神と懲らしめる神を
そっくり除外して揺るがない信仰だと思いやすい。
 
これらもまた相対的で不完全な人間の罪性である。
 
 
この人の罪性ゆえ
キリストは十字架の道を歩まれる。
今も、これからも・・である。
 
 
あらゆる悲劇は信仰者にも起こりうる。
その理由は神の秘密ということがある。
神は、いつも分かりやすく恵むわけではない。
神の考えることを人がいつも理解できるわけではない。
 
なぜ、こんな悲劇が・・?、と思う人は、
私たちの狭い見識と視野と能力では
神の無限をつかむほどの広い見識と視野と能力
すなわち全能を理解できないことを考えるべきである。
ゆえに、信仰は、この地上では忍耐を必要とする。
 
私たちは、この地上での短い人生の幸福を願っている。
神は、総ての世界を導いておられ、私たち人間についても、
地上のみならず、総ての世界での幸福を計画しておられる。
 
人が、神を総て理解してから信じようというのは信仰ではない。
理解できたら、信じる必要はないからだ。
 
 
人は絶対は慢心し訂正不能を好み
人の相対は努力して成長することを求める。
 
人の相対の信仰に敵対するのは
いつも
人の絶対を確信し保証するカルトである。
 
人の相対性は
信仰とカルトを見分ける決め手ともなるだろう。
 
 
Q&Aを試みてみる。
 
Q1:
相対、相対、と言うが、では、
1+1=2 という等式は絶対に正しい、ではないのか。
A:
1+1=2 という数と記号の概念を共有するところで成り立つ。
 
Q2:
悪は正しくない、善は正しい、はどうなのか。
A:
ほとんど定義を語っているだけ。また、偽善と偽悪の問題もあります。
 
Q3:
イエス・キリストは正しい、はどうなのか。
A:
イエス・キリストは、人の罪深さ=不完全=相対性では語れないところの、優れた洞察と共感を誰にでも示しておられる、というだけで、神聖と信じています。
奇跡等の超常については、神のわざとして、人が関知するところではなく、つまり、分からない、というのが、人にとっての真実だと思います。
 
ゆえに、地上の現世において、いつも奇跡で守られていると言える信仰は、人が語れる信仰の言葉としては、大いに誤解を招く言葉です。神の救いは、神の意志と計画に沿うのであって、人の思惑に沿うとは限らない。
むしろ「イエス・キリストは正しい」という言葉で人が表すことが、怪しくなる可能性を考えるべできであり、それは、まさに、カルトにおいて著しいのである。
 
だから軽々に「イエス・キリストは正しい」と言うのは、しかも、それを己の意見の根拠とすることは、むしろ、信仰からは、離れる方向だと思っておいたほうがよい。
 
このQ3のような、神の義に関することは、キリストを利用するカルトが人をだますのに使われやすく、また、反キリストが、神がいるなら何ゆえ悪があるのか・・などと、いちゃもんによって神を否定するのに使われやすい。神の義は、神のものであり、神秘であり、人に分かるわけはないのである。
 
私たち信仰者は、神が正しいと分かったから信じるのではなく、主によって愛され救われた者として、主を忘れられないゆえに信じている。
 
Q4:
信仰は正しい、ではないのか。
A:
真の信仰であれば正しいはずですが絶対の正しさではありません。また、実際には、口で信仰といっているだけの偽善者もいます。聖書のパリサイ人がそうでしょう。
 
Q:
相対、相対、絶対ではない、不完全、などと言っていたら、決心が鈍るではないか。
A:
それは間違っています。絶対ではないゆえに、限られた時間で、できるだけのことを考えて判断し、勇気をもって実行して、反省して、神に祈るのです。相対で不完全な人間は、信仰によって、神に正直に告白して赦しを求める祈りという機会が、いつも与えられています。
 
Q:
では、キリスト者だけが赦されるというのか。
A:
ここは議論のあるところかもしれませんが、私は、特に教会の利益を代表する必要はないので、申し上げると、教会での洗礼に信仰の有無やキリスト者であることの証明という神秘的な意義を求めるには、キリスト教の歴史は、人によって汚され過ぎています。
 
もはや、信仰は、信じる者が祈って告白するならば、洗礼の有無には、こだわる必要はないのかもしれません。神が、偽善者でも芝居できるような儀式の有無によって、救いについて差別するとは、考えにくいです。
 
信仰者でも、求道者でも、異教徒でも、無宗教でも、真面目に生きている人を、神は差別するでしょうか、そうは思えません。神は、総てを見ておられ知っておられるのですから、人の言動の実を見抜いたうえで、良心の発露を決して軽しめられることはなく、心に留めて、顧(かえり)みられるだろうと思います。
 
さらに、神が、宗教や信仰を通さずに、人を選んで何からの使命や役割を与える可能性は否定できません。また、そのことを、いちいち、人に説明することは、為さらないでしょう。
 
 
つまり
私たちは基本的に
神に対しては
教理よりも讃美よりも
正直のみを用意するべきであり
人に対しては
その"神の前の正直のみをもって備える"ことが大切なのです。
 
 

    f:id:stdsts:20210430234254p:plain

                人の相対性
 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山の経歴も怪しいと思います。楽山は自己中促進のアドラー心理学の宣伝をしていました。また、ネトウヨだと思われますし、右翼のA級戦犯を褒めていました。読書は、都合のよい文言だけを漁って、箔をつけるために引用するだけで、勘違いや嘘が多いです。有名人や学者の名前に惑わされないでください。
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート

ろば
@robamimi0314
#幸福の科学
根拠も証拠もなく、他人を
誹謗中傷、侮辱、罵倒、脅迫する言動が多い。それを「教え」としている。
〈例〉
・自殺は罪、永遠に苦しむ。
・ガンになるのは感謝が足りないから
・鬱になる人は周りへの感謝が足りない
・教祖を神と崇めないと地獄に落ちる

午前9:36 · 2021年4月29日·Twitter for Android
https://twitter.com/robamimi0314/status/1387566470033334272

 
楽山は、根拠も証拠もなく、他人を誹謗中傷、侮辱、罵倒、強迫する言動が多いです。それを、一人前の "批評家気取り" で書いてきます。最悪なのは、まともに見せかけるために、丁寧語で、婉曲的に書くことです。また、わざとらしい芝居によって、反省、卑下、などを書いてきます。楽山は、よく読まないと楽山の悪意に気づかないような書き方をするペテン師です。
 
楽山を、批判の仲間だと思っていたら、とんでもない間違いであり、徒労と疲労と人間不信をもたらされるでしょう。楽山との交流を継続すると、楽山の体質であるところの、自己中、無反省、無視、無責任に染まって、楽山と似たような攻撃性だけの鈍い人格になる危険があります。
 
楽山は、リツイートや、ブログ記事によって、やさしそうに、一人前気取りで、誘ってきますが、決して相手にしないでください。楽山は、いかなる人の味方にもなれない自己愛性人格障害です。決して、頼りにしてはいけない人で、誰の仲間にもなれない人です。
 
楽山には、執念深い恨みの感情と、小学校レベルの理屈はあっても、悔いる、悲しむ、反省する、自分の欠点を自覚する、訂正して学習する、人の意見を受け取って考えるなど、深くて高等な思慮と感受性が欠けているのです。
 
 
(2020年04月02日)
(2021年05月01日、再録+)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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