ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の形骸

 
  楽山の形骸
 
 『神秘形而上学入門』平一著
 2022年05月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/32844875.html
   を批判。
 
 
楽山の知識が、実質のないもので、経験の切実さもなく、ことごとく形骸に過ぎないことが表れています。にもかかわらず、楽山は、それで、宗教を信じないと結論し、かつ、それを公開して、人に影響を与えようとするのです。全て、短絡した熟語の概念という安物ですから、真に受けないでください。
 
 

*難解
『心經入門』を読み、同著者の書籍は他にも持っていたはずだと思って家の中を探したら、やっぱりあった。さっそく読んでみたが、予想通り自分には難解である…。
*懐かしい
でも、どこか懐かしい響きの言葉もある。例えばこんな言葉だ。

神と言うと、人間肉体のような形状を持ったものと思われるかもしれませんが、神は形状を持ちません。
神とは、無形の意識体なのです。
(『神秘形而上学入門』平一著、ブイツーソリューション、2016年、p.54)
 」

 
「神は形状を持ちません」「神とは、無形の意識体」・・このような言葉が、楽山は好きなようですが、これらが表現しているのは神ではなく、神を、人は、完全には知りえないということです。楽山は、短絡思考で、熟語をもって、ボンヤリと概念を形成して、分かったことにしているだけです。
 
こういう、文学風味の概念的熟語や言いかえで、満悦する楽山の無明の宗教性に、決して巻き込まれてはいけません。楽山は、何も分かっていません。楽山は、無理解なのに、無反省に、無責任に、詭弁によって語れると思っているのです。
 
信仰を受け取る良心がない、即ち、聖書にある"土の器"を持っていない楽山です。楽山は、宗教にも、信仰にも、神にも、何の関係もありません。楽山の言は、どこにも何も響くことがなく、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、概念遊びに終始しているのです。
 
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:6
「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
4:7
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 
 (2コリント4:6-7、新約聖書
 
神の与える光は、私たちの心が、特に良心が、反応し得る幸いなのですが、私たちが持っているのは、ピカピカの金の器ではなく、地味な"土の器"であります。直ちに全てが顕れて分かるわけではなく、分かる時は、神に任されています。
 
 


人は、神の分光ですから、神へと戻ることができます。
人は、神にもなれる存在です。
(同上、p.69)
 」

我々も未完ですが、神も部分的に未完なのです。
未完であるから、我々も神も成長、拡大し得るわけです。
(同上、p.195)
 」
これらは若い頃に読んだ宗教書にも書いてあったことだけども、多分こちらが本家なのだろうな。

 
人が「神の分光」「神にもなれる存在」などというのは、楽山が好みそうな話であり、楽山の霊能者気取りを増幅させるでしょう。道徳も倫理も、反省も責任も、何も考えない楽山は、霊能によって、一気に、人間を超える特別な存在になりたがります。そのことが、楽山のインチキを際立たせるでしょう。
 
 

無宗教の理由
ふと思ったのだが、自分は特定の宗教を信じることはできず、無宗教なのは上のような思想の影響があるかもしれない。こういう思想からは、形のある特定の教祖、教団、教義を信仰しようという発想は生まれ難いだろうから。

 
楽山の発言の信頼度は、3年前からゼロです。超常の言葉に囚われている楽山ですから、教祖願望があると思います。否定も肯定もしない曖昧教理の、何も良いものをもたらさない、とても無責任な、楽山だけが気取っていられる妄想の世界です。
 
 

ということは、どうやらこういう自分には一生、形あるものや言葉にできるものを神として信仰することはできなそうである。

 
楽山には、宗教も信仰も、形あるものも無いものも、言葉に出来るものも出来ないものも、理解することはないと思います。概念遊びだけで、信仰に至ることは、ありえないからです。楽山は、概念のオモチャ箱を漁(あさ)っているだけなのです。だから、引用する文献も、楽山にはオモチャに過ぎません。
 
 

 

           オモチャの世界で遊ぶ 概念の形骸
 
 
(2022年05月24日)
 
 
 
  遺訓
 
「わかったか」
といってまだ何も言ってはいないのである
「わかったか」
説教ひとつしてはいないのである
少年はパソコンに向かったまま
「ええ?何を?
大事なメール書いてるとこなんだ
部屋帰って寝たら?体弱いんだし」
老人の頭には鉢巻(はちまき
目は充血して
手には玩具(おもちゃ)の刀
「わかったかと聞いておる」
老人の眼は潤(うる)んでおり
唇はふるえており
手も足もふるえて
起立歩行も儘(まま)ならぬ身である
少年は振り向きながら
「んな、っかるわけないだろう?
だいたいじいちゃんには関係ね・・・」
少年は老人を見た
「あ・・・いや、その・・・だ・・・
だいじょぶ・・・かな・・・とか・・・」
あくまで武骨で口下手で
遊びに縁のなかった老人と
トークもジョークもチャットも上手で
とてももてると評判の少年
 
数日後老人は他界した
 
 
  なくしたアルバム
 
少しは懐かしくもあるけれど
格別お名残惜しいわけではない
ともかくも君らが私と別れたのは幸いだった
お互い結局
いいことばかりじゃなかっただろうから
君らが今どこにいるのか知らないが
私よりは多くの陽を浴びているだろう
私は暗いところにいる
といっても気持ちはそれほどでもない
いま会ってもわからないかもしれないけれど
君らの笑顔はぼんやり残っている
それで気分のいいときもあるのだから
起きたいときに起きて
汚れたまま街を徘徊したっていいんだけれど
なかなかそこまで気が進まない
 
私が何をしているかといえば相変わらずで
傷を集めたりしている
かすり傷、細い傷、いろいろだ
傷つきながら夢中になって
君らが丈の高い萱(カヤ)の中を
あんまり急いで走り回るから
あとで血がにじんできて
びっくりして痛がっていた傷とか
けんかしたり転んだりして
君らが遊んでつくったアザとか
私の目に
はっきり写らなかったものを集めている
そして並べてみて
くすっと笑うことだってある
君らが川や海辺や山にいても
路地や工場の跡や
お化け屋敷にいても
泥んこや田んぼとだって友達で
君らの声がきらきら輝いて
何を言っているのかさっぱりわからなくて
みんな名付けようもなくひとつだった
 
若者になって並んでいた君らはもう
埃(ほこり)を被(かぶ)った私には
ぼんやりしていて
虹の向こうでかすかに微笑んでいるんだ
あの頃は
と君らは言うかもしれないけれど
あの頃いちばん大切だったものは
君らは捨て去るしかなかったこと
私はわかっていた
君らは私と
知らないまま別れるしかなかったことも
 
君らが遊んだ人形や玩具
もう二度と触れることはないと
気づかないまま手を離した瞬間が
スローモーションのように写っているよ
 
君らが私をなくした日のこと
私は覚えている
でも君らは忘れていい
君らは皆、私を卒業していった
私は埃を被ったままでいい
これから先、君らが何か
咎(とが)められることがあったとしても
咎めるのは私の役目ではないのだから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
概念と概念の辻褄だけを作って分かったつもりになる楽山です。同じように、言葉と言葉の、AならばBというような論理めいたことを書いて、人を惑わせ、混乱させ、疲労させて、いい気になっていました。大事な心を失って、的を外しまくっても、まともなつもりで書いてくるのは、悲惨です。
 
人間は、体験を経て成熟して、深い共感の情緒を持つでしょう。私は、なかなか、そこまで至っていません。しかし、発酵も成熟も怠慢と思い込みのために出来ない楽山は、短絡して腐敗するばかりで、自他の情緒を破壊し、耐えがたい悪臭を放ちながら、本人だけが、それに気づかないという始末です。
 
 
 
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インチキがインチキを語る

 
  インチキがインチキを語る
 
 2022年05月22日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 イカサマ霊能者とインチキ占い師、それから宗教勧誘の手口
 http://mmknky21.blog.jp/archives/14723036.html
   を批判。
 
 
楽山の嘘がイヌのように盛っています。楽山のインチキが膨らんで破裂しそうです。どこにも、生きる縁のない詭弁や人生が、我を忘れているようです。自分を見ないで、人のことばかり言っていると、こうなります。生きることが、全部、芝居になるのです。楽山の正義面は、ひょっとこです。嘘なのです。
 
 

*裏事情
 ツイッターにて、次のブログ記事が話題になっていた。

イカサマ霊能師やインチキ占い師の手口まとめ - A Successful Failure
 」
 これが、霊視、占いの現実なのだろうな。

 
インチキは、楽山の現実として、批判記事が3年余り続いています。嘘と詭弁を弄して、痛めつけてくるので、決して、楽山に関わらないようにしてください。
 
 

*可能性
当該記事のコメント欄では、可能性の話が出ていた。

半信半疑
世の中の「自称」霊能者の大半がインチキだろうなというのは推測がつきます。
だからといって、霊や死後の世界など存在しない。
そういうものを知覚できる能力がある人間も居るはずがない。
霊能者など漏れなく100%インチキである。
と、そう断定するのも、盲目的に超常現象を信じ込むのと同じぐらい客観的な態度ではないと思うのです。 ~省略~
 」

 
インチキ霊能者は、楽山です。楽山は、仏様が喜んでいると言って親族に笑われました。嘘と詭弁で、心理学を心霊の話に見せかけました。批判したら、オモチャの理屈で混乱させてきます。長く付き合うと、人格を破壊される恐れがあります。そのような、害毒だけの伝染性病原が楽山です。
 
 


LM-7
天と地ほどの違いがあると思いますが。
たとえば、コインを投げて100回連続して表が出る可能性は確かに存在します。
それを「100回連続して表が出ることなどあり得ない」と主張することが
問題を引き起こすことがあるでしょうか。
単に可能性が小さい事象を無視しただけのことで、これは理に適ったやり方です。
 」

 
楽山は、宗教と信仰についても、このような辻褄の話をして、ときには、印象操作という詭弁を弄して、自分の恣意の方向に誘導してきます。「100回連続して表が出ることなどあり得ない」という命題は、厳密には間違っていることによって、問題を引き起こすかどうかは、場合によって違うはずです。
 
「問題を引き起こすことがあるでしょうか」と言い、数学なのか、賭け事なのか、遊びなのかについて、考慮していないので、「単に可能性が小さい事象を無視しただけのこと」と軽く言って、これは「理に適ったやり方」と言っています。楽山は、この引用をペテンの手口にするのでしょうか。
 
厳密性が、どの程度、問われているかを考慮せず、「理にかなった」とは、ぞんざいな判断です。こういう意見に賛同する楽山は、恐らく、小さい可能性を無視しやすいだろうと思います。これが、楽山の短絡しやすい理路なのです。厳密性を飛ばして、概念の玩具遊びで結論を出しています。
 
実際には、楽山は、大きな可能性だけでなく、実際に、起こり続けている自らの短絡理路の欠陥や、嘘と詭弁で人を迷路に誘導した害悪について、反省せず、全てを無視してきました。言い訳に出してきたこの記事によって、逆に、過去から続いている悪意の不祥事が、楽山の尻に貼りついてゆくのです。
 
このコインの場合は、100回続けて表が出る、という極端な事象ですが、こういう極端な例を挙げて、あり得ない・・を理にかなったと判断したとして、この、おおまかに成り立つ命題を個別のことに当てはめるのは、楽山の詭弁で、しばしば見られてきた特徴です。
 
以前「人それぞれ」だからと自己正当化し、「自分を貫く」のだから悪くないとか、詭弁を書いていました。曖昧な一般則を個別に当てはめたり、限られた個別を一般則のように言う詭弁には、良識が欠けています。楽山は、自らの無責任を無視し、反応も成長もない永久凍土にいるのです。
 
 

「たとえば
「さっきやってみたら100回連続して表が出た」と主張する者がいたとして、
-そんなことは確率上ほぼ起こりえないから嘘に違いないと判断することと、
-確率上は確かに存在するから本当かも知れないと判断すること、
-おお、すばらしい超能力者に違いないと盲目的に信じ込むこと、
一つ目と三つ目が同レベルとはとても思えません。  ~省略~ 
 」
これは、LM-7氏に理がある。超能力者がいるかいないかの可能性は半々ではなくて、いない可能性の方が圧倒的に高いので。

 
判断の正確さのレベルを、嘘吐きで詭弁屋の楽山が決めるのは、我が身を振り返ることの出来ない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の因業でしょう。こういうところから、楽山の詭弁が始まっていると思います。
 
「同レベルとは思えません」・・嘘、本当かも、超能力、という3つの判断、・・楽山の詭弁には、こういう罠が含まれています。「ほぼ起こりえない」と「嘘に違いない」は、人間関係においては微妙になるのですが、嘘吐きの楽山は、間違いない・・という意識から、決めつけてきます。
 
 

*詭弁
ちなみに、こういう間違いは、他の議論でもある。たとえば、こんな風に。
神はいるかいないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ
霊界はあるかないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ
生まれ変わりはあるかないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ

 
神は、確率の問題にはなりません。信仰は、関係の問題であり、有るか無いかなのです。楽山のような、良心の欠片もない者が、神の存在を、可能性が半々という自体が暴論そのものです。楽山のような反キリストには神はいないのです。信仰者には神が必要だから信じているのです。
 
 

冷静に考えてみれば、これらについては歴史上その存在が証明されたことはなく、事実ではない可能性の方が圧倒的に高いのだけれども、

 
「事実ではない可能性の方が圧倒的に高い」・・楽山の悪意の誘導です。何度も、神は信仰の対象であり、神を事実では証明できないことや、神がいないことの何の根拠にもならないことを書いてきましたが、全て無視する楽山のサイコパス性が表れています。良心がないのです。イカサマだけなのです。
 
 

「あるかないか、答えは二つに一つ」と前置きされると、つい「あるかないか、可能性は半々だ」と錯覚してしまいがちである。
宗教勧誘では、こういう詭弁が使われることがあるので注意が必要である。

 
こういう詭弁で、楽山は、神を否定して優位に立ったつもりの反キリストです。出会わないのが何よりの幸いで、出会ってしまったら、できるだけ早く逃げるしかないです。サディストであり、良心の欠片もないのでしょう。楽山には、門口に待っているものがいるようです。
 
 (創世記、口語訳)
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世4:7、旧約聖書
 
 
神は、確率で存在の可能性を論じられる対象ではありません。よいものを何も示せないのに、神に恨みでもあるのか、神否定を書き続ける楽山は、確信犯で凶悪犯です。この先、救いとは何の関係もなく凶悪に相応しい経過を辿るのでしょう。信仰者と求道者を、どこまでも傷つける悪魔性です。
 
信仰者にとって信仰は命です。楽山の遊び半分の心霊趣味で語れることは何もありません。楽山の霊能者気取りや評論家気取りや、心霊や超常は、著しい的外れです。楽山は、一生、詭弁臭とペテン臭が取れないのではないかと思います。
 
神とキリスト教のことを、楽山が書くたびに、学習機能のないことが明らかになります。相変わらず、貧相な概念しか持っておらず、楽山の辻褄が合っても合わなくても、信仰とは何の関係もないことだけを確認することになります。楽山の、無知と無理解と、書き続ける無恥とに、うんざりするだけです。
 
楽山の気持ちが、超常~空想に行って、扱う次元が曖昧になり、言葉だけの引用をすることで、思考自体が迷路化して混乱し、前提も根拠もなく、思いついたままに書いています。楽山を読んで、楽山とともに、精神と文脈が弛緩してゆくのは、錯乱に陥る危険があり、非常に危険です。
 
 

   

               悪意のインチキ
 
 
(2022年05月23日)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
  祈り・永遠の命
 
過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴(つか)むことができようか
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜(たまわ)るなら
一生は一瞬でよいのです
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
生きてゆくと、学んだものが身に着いてきます。学ばなかった者は、ごまかしが身に貼りついて剥がせなくなります。楽山の嘘と詭弁は、一生続くのでしょう。臨終のときに、楽山は何を言うでしょう。「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」でしょうか。人間の性ではなく、楽山の性なのです。
 
 
 
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キリストの心2

 
  キリストの心2
 
 
キリストは、救われる人々に対して、物や肉体の奇跡をおこなっただけでしょうか。否であります。こんなことが出来るから従え、という救い主でしょうか。否であります。
 
確かにキリストは、神の権威をもって語ったかもしれない。物や肉体の奇跡も、私は、否定はしません。
しかし、それが、私が信仰者になった理由ではありません。
 
神の前の、正直と本気、それだけが信仰には必要です。キリストは、大きな働きをする正しい善人を選んで義とし、救ったでしょうか。否であります。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:2-5
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 
8:7-8
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9-11
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (マタイ所8:5-11、新約聖書
  
善人だから救った、ということではないことは明らかです。女性は、キリストの前にも、もはや、打ち殺されるだけの力なき小ささを、そのまま任せるしかない状況だったから、キリストは救ったのでしょう。キリストは、女性の心を洞察し思いやっています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20-21
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
エスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19、新約聖書
 
キリストに対して、衣の一部でもいいから触ろうとすることは、縋りつくような強引さではなく、端っこでもいいから、という深い信仰の敬虔です。
 
信仰が、辻褄合わせではなく、保険のように保証があるからでもなく、一途であり、その結果を問わないほど、他にないという本気から始まっていることを表しています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 
15:23-24
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25-27
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:21-28、新約聖書
 
女性は、他の誰も癒せなかった娘の病を癒されたい一心から、どこまでも低く遜る敬虔を弁えていたのでしょう。他に希望がなかったからです。このような一途な正直さだけが、キリストの心を動かしています。
 
キリストは、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」とまで言って、女性の食い下がるような救いへの渇望と、自分を小犬に喩えた女性の、低く低く遜(へりくだ)った心を見逃しませんでした。
 
この女性は、遜(へりくだ)るのが、とても上手です。何だか、断られないための言質を知っていたかのようですが、恐らく、言葉だけでなく、態度や表情にも、娘への愛情の一途さと必死さとともに、自分はどこまで低くてもいい、という敬虔が表れていたのだと思います。
 
本気の告白を、キリストが、そして、神が、無視しないことが顕れています。
 
一方、私の経験から、これみよがしの偽善者の、言葉だけの敬虔芝居は、実に臭くて醜いものです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6-7
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
エスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書
 
女性は、効率の悪いことをして、優れた働きとは、とても言えないのですが、キリストは、ご自身を愛するがゆえに精いっぱいだった女性の心を見逃しませんでした。
 
 
3つのエピソードに共通しているのは、救われたいという一途さと、そのために、"神の前に、どこまでも自分を低くできる敬虔"にあります。何よりも、救いが他にない、という深い悲しみからの自覚です。
 
敬虔は、静かではなく、穏やかでもなく、行いや主張が控えめなのでもなく、神の前に、いくらでも自分は低くてかまわないと、ありのままの自らを主の前に投げ出す情熱であります。そして、無力な自分を自覚し、神の前に正直に捧げることが、信仰において、いかに大切かを聖書は教えています。
 
すなわち、何よりも大事なことは、神の前に、正直だけを捧げることです。正直であれば、本気であれば、食い下がるような祈りでも、神は、無視しないということでしょう。
 
神様の前だから滅多なことは言えない、などと、立派そうな言葉で仕上げて飾るのは、信仰の義をけがすことであります。それは、カルトや偽善者が、いつもやっていることだからです。
 
信仰においては、言っていることが、行いが、立派だから救われる・・ではないことを学ぶべきです。
 
私たちは、キリストのために正しいことをして信仰の義を得るのではありません。信仰の義は、神のような正しさではなく、神に対する人間の身の程を弁えた態度や姿勢の正しさであります。そこにおいて、人の信仰の義は、絶対の神の義とは、明確に区別されているのです。
 
むしろ、折に触れて、罪を犯した可能性、つまり、間違えたかもしれない、嘘を吐いたかもしれない、自分を飾ったかもしれないことなども、気づいたときに、正直に告白して、赦されることで救われ、癒され、生きることが出来るのです。
 
 
救われるためには不完全の自覚が不可欠であり、信仰について、偉そうに、完全でないと信じないとか、信じたから完全だとか言う無神教カルトの得意顔が、毛ほどの価値もないことは明らかです。
 
 

    

               正直に反省と学習
 
 
(2020年05月12日)
(2022年05月22日、再録+加筆)
 
 
 
  見つめていたい
 
私の心に慈愛の目があったなら
あなたが私から何を奪っていくのか
静かに見つめていたい
私があなたから奪ったものを
あなたが取り返すのを見ていたい
 
あなたが私を嫌うなら
嫌われた裸のままの心で
どこが傷つくか見つめてみたい
 
あなたは傷つき
私も傷ついた
傷つけることで傷つき
傷つくことでわかるものがあるなら
あなたの心に同期して
傷が示すものを知りたいと思う
 
私がまだ泣けるなら
奪われなかったもののために
泣きたいと思う
 
すべて私が
まだ人間であるなら
あなたの心を癒すよりも
あなたの心を聞きたいと思う
 
耳を澄まして
あなたの傷ついた
あり方を知りたい
私の傷ついた
あり方を知るために
 
そしてゆっくりと
考えてみたい
人間はどのようにして
傷ついていくのかを
 
病める心の
癒えぬ部分の
こだわりに
言葉で上手にあてる
包帯を持たない
私の貧しさを
あなたが許せない分
私が傷つき
年老いていく姿を
今しずかに
見つめていたい
裁かれるときを待ちながら
 
 
  傷ついた犬
 
何か言いたそうな
傷がある
その傷を癒すために
なめつづける舌も傷ついている
それを見る眼も傷ついて
しばしば視線がそれている
うるんだ眼が揺れるたびに
流れる涙こそ傷を示すのに
歪んだ目から涙は見えない
ただどこを見ていいのか 探して
戸惑うように動く眼球
 
親から子へ
傷だけを相続した
兄と弟が
傷だけを共有した
互いに癒すこともできずに
 
傷でできている人間
同じ傷は一つとしてないから
痛みを通り越して
ありとあらゆる
あきらめを
諦めて
砂を受け入れている
あてるガーゼもない
巻く包帯もない
もう出血もしない
 
無数の傷を積み重ねて
人の形ができていて
遊んでいる
さらに傷つきながら
それが命と言いたげに
 
疲れて眠ろうとして
眠れない
粘液が乾いたので
見るに耐えない
傷口の中は暗く冷たそうだ
傷の縁が黒い血痕を残して
乱れている紅色
傷は笑っている
ぽっかり口を開けて
何か言いたげに
 
 
  遠い約束
 
あれは遠い約束
君は待っていたのかもしれない
きれいな人
ひょっとしたら辛かっただろうか
少しは痩せたりもしただろうか
まだ先生と呼ばれていた頃
花嫁募集と冷やかされていた頃だった
癒すために歩く道を
病人を乗せた自転車が
いつか追い越していくこと
恐れていたのかもしれない
折れたハンドル
潰れたタイヤの転倒に
どうしても君を
巻き添えにする気には
なれなかった
許せないなら許さなくていい
春の移り気な光を浴びて
忘れてくれたらと願っている
君が乗り越えるための低い壁
あるいは踏台
君は明日に向かって跳んだと信じている
きれいな人
あの日を償えるものなど何もないけれど
眠れない夜
素直に喜べない四季の移りに
うずくまっている座布団の顔
病み綴る日々の今
それがあの日に返す答だ
 
 
  もういい
 
電柱に凭(よ)り掛かり
地べたに腰を下ろして
膝を抱えて坐っている
ときに項垂(うなだ)れ
ときに遠くを
暮れ泥(なず)む空を見遣(みや)りながら
少し脹(ふく)れっ面の疲れた様子で
ジーパン姿の若さのまま
書きかけて止(や)めた文章の
最終行に背を向けて
もういい は いつも坐っている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
神を、悲劇が起こっているから、史実ではないから、などと、貧相な辻褄で、いないと語る愚かさは、受け取る器の貧困を、敬虔のない人格の荒廃を、神を恐れない傲慢を、自己中の思い込みから発して、詭弁と嘘を添えて、非人間の迷路へと、けがれた製氷の皿から砕けて落ちてゆく、暗黒の下水道です。
 
 
 
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楽山の自己顕示欲

 
  楽山の自己顕示欲
 
  『心經入門 彼岸からのメッセージ』平一著
  2022年05月19日 楽山日記(LD)
  http://mn266z.blog.jp/archives/32816312.html
   を批判。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が書くものには、自己顕示欲だけしか表れていないことを指摘することが批判となっています。雑な文章を書いて、本を読んだことにしてきますが、批評としても感想としても実質のないのが特徴です。
 
ふつうは、身近な問題からでも、真実について考察するのが人間だと思いますが、楽山には、そういう気がないのです。無条件で、読書家のインテリを気取っても空しい限りです。楽山には、身近な真実の実感がないのだろうと思います。
 
 

*概要
この間、無性に未知のスピリチュアルな本を読みたくなったので、積読本の中から本書を選んでみた。
ただ残念ながら無学なので、生命の木などを用いて般若心経の意味を読み解いているという大枠は察することはできても、細部についてはちんぷんかんぷんである。自分の無知無学無教養を痛感させられてしまった。とほほ。

 
「ちんぷんかんぷん」なのに、感想を書いて、考察せずに、読書家気取りの自己顕示欲だけ満足したい楽山です。「自分の無知無学無教養を痛感」したなら、反省・勉強・学習するはずですが、その経過も結果も書けないまま、宗教書をよんだぞ・・という自己顕示だけはしてくる楽山なのです。
 
 

*出会い
が、そんな中で、この部分に関しては思わず膝を打ってしまうほど合点がいって愉快だった。

人は、ネガテブな状にいてポジテブを思い、ポジテブな状にいては知らず知らずにネガテブを思っているものなのです。
古き賢者方は、このような状を「陰極まって陽となり、陽極まって陰となる」と言っています。
(『心經入門』平一著、ブイツーソリューション、2018年、p.111)
 」
一つの思いを強く持つほど、それとは反対の思いも強くなるだとか、上がり切れば、あとは下るしかなく、下がりきれば、あとは上がるしかないという考え方は、それぞれ知識として知ってはいたが、迂闊にもその二つを関連付けて考えたことはなかった。

 
だから、どうなのか、つまり、経験談も、考察も、書けない楽山です。「膝を打ってしまうほど合点がいって愉快」と書いています。何が愉快なのでしょう。何が結論なのでしょう、何が思想なのでしょう、どこが書くに値する感想文なのでしょう。皆無です。
 
「ポジテブ」と「ネガテブ」、「一つの思い」と「反対の思い」、という問題に、「上がり切れば、あとは下る」「下がりきれば、あとは上がるしかない」と、安い物理みたいに上がり下がりとして書いています。しかも「関連付けて考え」ていません。
 
病質によって、気取りだけでインテリっぽく見せて、読書をしたことにして文章を書けば、読者は騙されると自己満悦から思い込んでいるのです。読者にヒントも何も与えない文章となっています。ただの知識不足ではなく、自分の都合のよいところだけをつまんで褒めるだけの駄文です。
 
恐らく、楽山は、自身の、ポジティブにも、ネガティブにも、全く気づいていないと思います。どれだけ迷惑をかけても、批判されても、相変わらず図々しく書いてくるところが、むしろ、病質の証拠となって積み重なってゆきます。
 
楽山はダークネスであり、公開できるようなネガもポジもありません。全てを煙に巻いて、明確な主張も思想も、また、一人前の人格も、持ち得ていないのです。だから、安易な肯定も、意地悪な否定も、みな自己を表すだけで、大人としての責任を負うことがないのです。
 
 

本書は自分には難しすぎたが、これに気付かせられたのは有り難い。感謝。本というものはその全てを理解できなくても、ハッとさせられる一文と出会えたなら、それだけで自分には満足ある。

 
「難しすぎた」のに、「気付かせられた」「ハッとさせられる」と言っています。あとは、「有り難い」「満足ある」と褒め言葉です。考察がないのです。楽山の文章に共通している受けねらいのインテリ気取りで、肯定を書き、否定を書き、その根拠を示さず、自己満足するだけの筆致です。
 
 
 
  映画『ゴースト・イン・ザ・ファミリー 新しい家族』
  2022-05-19 楽山日記(a)
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12743654706.html
   を批判。
 
 
書くものには、それを書く動機が表れます。楽山の書くものには自己顕示欲が表れ、顕示されたものが、楽山の不純な動機とともに、欲望と見栄以外何もないことを表します。自己愛妄想による気取りが加わって、いっそう悲惨になっています。
 
丁寧語が楽山の武器です。婉曲表現のボンヤリ言語と、謙虚芝居のトホホ言語で騙してきます。病的ナルシストは、犯罪傾向の強いサイコパスと同類です。今までの数々の偽り、ここで、まとも芝居、今さら、醜いだけです。
 
 

『ゴースト・イン・ザ・ファミリー 新しい家族』を見た。
あらすじは、深く心の傷ついている男の幽霊が、同じく傷ついている女の子と出会い、仲良しになり、やがて家族ぐるみの付き合いをするようになり、お互いに助け合い、前向きに生きてゆくというものである。登場人物はみんな良い人ばかりなので、安心して見れていい。

 
「みんな良い人ばかり」が、幽霊と仲良くできるでしょうか。楽山を「安心して」見ないでください。そんな幽霊より、どんな幽霊より、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は怖い人です。楽山は「助け合」うことが出来ず、助ける芝居で、傷つけてゆきます。
 
楽山のご馳走は、自身の優位性を感じることです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の、うわべの謙虚そうな言葉に騙されないでください。楽山の害に遭うと、人格が弱って、鈍くなり、破壊される恐れがあります。出会わないことだけが幸運という楽山です。
 
 

こんな風に、幽霊と仲良しになって、みなで楽しくご飯が食べられたら幸せだろうな(笑

 
楽山は、自分が、自己愛性人格障害のために「みなで楽しくご飯が食べられ」ないものだから、人ならぬ「幽霊と仲良し」になりたいのだそうです。どういう、ご飯の食べ方をするのでしょう。人肉に食らいつく悪霊のホラー映画のようになりたいのでしょうか。それで「笑」って楽しいのでしょうか。
 
楽山は、幽霊と仲良しになって、いっしょにご飯を食べたいのだそうです。映画はフィクションだから、楽しめますが、楽山はリアルな病的ナルシストです。間違っても楽山と仲良しになってはいけません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、深く心を傷つける男だからです。
 
楽山は、一種の化け物です。だから、人々の間ではなく、幽霊とともに食事などという発想になります。実際には、霊が分かるっぽい?自覚の、超常心霊マニアであって、病質とともに、人間性を大の苦手にしている楽山です。だから、楽山は、人間的な情緒を、まるで感じることが出来ません。
 
 

    

       ブレーキの効かない自己顕示欲
 
 
(2022年05月21日)
 
 
 
  宿業と運命
 
性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり
 
運命は天にあり
宿業は我にあり
 
我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し
 
あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり
 
 
  罪のらくだ
 
「右の頬を打たれたら・・・」
左の頬をぶん殴ってやる
か逃げるだろう
「みだらな思いで女を見た者はすでに姦淫を・・・」
みだらな思いで女を見たことのない者は
性欲の異常か病気だろう
「敵を愛し・・・」
本当に敵と思ったら
愛せるはずはないものを
「我らに罪を犯すものを我らが許すごとく・・・」
許せることもあれば
許せないこともある
許すべきではないと思うことさえある
許したつもりの心の裏側に
隠された軽蔑、あばかれるごとく・・・
 
主よ、あなたの教えを守らなければ
罪人なのでしょうか
御国へ至る道はないのでしょうか
 
主よ、許されて御国へ至る道を知らしめたまえ
まことに私は罪人です
繰り返し繰り返し
主の教えを破るばかりか
それ以上の罪を犯し
さほど金持ちではありませんが
針の穴に向かって突進する
愚かなラク
主よ、あなたに許されるより救いはなく
小さな針の前で途方に暮れて
とうとう針を飲み込んで
毒を飲み込んで、瀕死の
みすぼらしいラク
あるいはヒトです
 
 
  家の階段
 
数えきれない
数えることもない
上り下りする我が家の階段
最近まで九十度だと思っていた
途中で百八十度曲がる
引っ越しのとき狭くて机を運べなかった
階段の下がトイレ
トイレの天井に段差がついている
急で足を引っ掛けでもしたら
足を踏み外したら大けがか
ただでは済むまい
蟹股でゆっくり降りる登る
二階の方が温度が高い
夏は上れば熱気で体力も気力も失せてゆく
 
古びて汚れてますます狭く不気味
一階は降りるたび別の部屋
どこか違ってる我が身の置き所
通気がない先が見えない
登ったら最後降りられないときが来る
昇天か地獄か永遠か
それに近い上り下りの過去と未来
のりを合わせれば空疎な旅
遠い遠い
長い長い
 
 
  どこへ
 
「はい」はどこへ行った
「いいえ」はどこへ行った
煙草片手に
小石混じりに糸を引く道
食の道行き辿り辿れば
見果てぬ先に数知れず
「はい」は胃炎に
「いいえ」は灰に
食の日月よ見上げれば
いつから満ち欠けて
みな我に返るというのか
吐き出すものは身に降りかかる
煙が気道をしめつける
「はい」をどこへやった
「いいえ」をどこへやった
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
楽山の書いてきたものは、誰にとっても、ヒントにも、糧にも、参考にもなりません。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)による自己顕示欲への執着が、ちびちびと、お漏らしをしてきます。不潔な排泄を、いつまでも失禁してくるのも病質ゆえでしょう。
 
 
 
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楽山の神噛み2

 
  楽山の神噛み2
 
 神に通じる祈りとは?(『神皇正統記北畠親房著)
 2021年05月08日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/29025258.html
  改めて批判。
 
 
楽山は、祈りません。ただ、あの神、この神と、批評して回るのです。したがって、救いの「す」の字も与えられることはありません。神について少しでも知りたいという求める動機ではなく、神々を見物して知ったことにしたいだけなのです。楽山は、知りもしない神に噛みついているだけなのです。
 
最近の楽山は、自分の言葉が成り立たないものだから、書かない時の原始反応として、引用が大部分を占めるようになっています。同じことです。引用部分の内容とつながりから、楽山が何を暗示しようとしているかを考えます。そこに、曲解に基づく作為と悪意が満ちているからです。
 
 

神皇正統記』を読んでいたら、祈りについて書いてあったのでメモしておきたい。

天照大神はただ正直だけを御心としていらっしゃる。
(『神皇正統記北畠親房著、松村武夫訳、教育社、1990年、p.109)
 」

皇太神・豊愛の太神が倭姫命に神がかりして託宣なさったことは「人というものは元来神に通じた霊妙なものである。したがって心神(正直な心)を失ってはいけない。神は誠意をもって祈る者にまず現れ、神の冥加はまず第一に正直な者の上に加えられる」ということであった。
(同上、p.109)
 」
これは「心だに誠の道にかなひなばいのらずとても神やまもらむ(菅原道真)」に通じるものがありそうだ。

 
楽山は、正直ということを語るのに、人間としての当たり前に理解できる正直では分かったことにならず、「神に通じた霊妙なもの」というのを持ち出してきます。楽山は「正直」は神霊でないといけないと思っているようです。人として当たり前の正直が、楽山には成り立っていないからでしょう。
 
楽山は、次には、「いのらずとても神やまもらむ」、つまり、祈らなくても神は守ってくれるだろう、と引用しています。しかし、楽山は、人間として、誠の道に、ことごとく背いているのです。
 
楽山は、気安く何が「通じる」と言うのでしょう。自分を見ない者が、いくら、キレイごとを言っても、その偽りのキレイさ?が、逆に、自分を斬ってくるという例になります。
 
こういう自動的な返り討ちブーメランは、楽山の常態です。まともぶれば、まともぶるほど、自分が自分の言葉にズタズタに斬られてゆくのです。呆れるほど、いつまでも、気づかない楽山です。
 
 

私事ながら随分前に、とある宗教の信者だったころに信仰のことで悩んだことがあった。「自分はこの宗教はどこかおかしいと感じるようになってきており、信じきることができていない。信じきろうと努力しても、どこかおかしいという思いを消し去ることはできない。教祖は信仰の綱を手放せば地獄に堕ちるとしている。自分は地獄に堕ちるのだろうか…」と。

 
また、正義ぶって、まとも芝居をしています。軽々しい楽山劇場ですが、いちばん、おかしいのは、ずっと嘘吐きの、楽山なのです。しかも、関わると、関わった相手をも、壊してゆきます。
 
「自分は地獄に堕ちるのだろうか」・・あざとい楽山の、お悩み芝居です。言葉だけで、深刻味が、まるでありません。楽山の、こういう台詞を真に受けて、巻き込まれないようにしてください。楽山は、既に、この世の地獄にいるのです。だから、言葉も、心も、信仰も、嘘だらけです。
 
 

最後はこういう結論となった。「信じきれないないなら、信じきれないとするしかない。もし神様がすべてを見通せる正しい存在なら、信じきれていないのに信じきっているふりをするより、信じきれないものは信じきれないと正直になる方をよしとしてくれるだろう。

 
恐ろしい詭弁です。信じていない楽山は、その本質的な自己愛の性根から、正直の欠片もないモンスターです。楽山は、詭弁で、ごまかしていますが、楽山は、信じ切れない正直ではなく、信じる心が、まるでない、ウソッピ物語なのです。これで、自分は正しいと思い込んでいるホラーなのです。
 
 

もし信仰の綱を手放したら地獄に堕ちるとしても、信じていると嘘をついて天国に行くより、信じられないと正直にいって地獄に堕とされる方がましでもある。少なくとも自分の心に正直でいる限りは、どこにいたって気がとがめることもないだろう」。

 
信じられないのではなく、体質的な悪と偽善のために、信じる気など最初から無いのが、楽山です。これで、正直な自分を表したつもりなのです。いったい誰に、嘘つき楽山が「信じられないと正直に」言って、受け入れられると思っているのでしょう。神は、全てを既に見抜いているのです。
 
楽山は、一言も正直のない手遅れ地獄にいて、それで「気がとがめることもない」のだそうです。大嘘です。良心が無い凶悪性の証明でしょう。狼が来たと嘘を吐いていると、本当に狼が来たとき、誰も信じてくれなくて、狼に食われてしまうという「狼と少年」の嘘吐き少年そのままでしょう。
 
信仰芝居も、お祈り芝居も、神否定も、反宗教・反キリストも、様々、ほしいままに、三文芝居で欺いてきて、今さら「信じられない正直」などと都合のよい捏造で言われても、笑止だけでなく、地獄へのガイダンスに過ぎません。悪魔のプレゼンです。堕ちるなら、独りで堕ちてください。
 
 

いくら正直であることが大切だといっても、世の中は決して嘘はつかず、正直でありさえすればよいというほどは単純ではあるまいが、信仰という自らの心の内に関することについては自らに嘘をついて誤魔化すよりも、正直でいる方がいいと思うので、自分としてはこの結論に満足している次第である。

 
信仰の正直は、神の前の正直です。神は、決して嘘を吐いてはいけない相手だということです。それは、自らの信用問題と存在についてのことです。楽山は、そこを踏みにじっているわけです。楽山は、神を呪うかのように嫌っていて、舐めていて、神をもだませると思う身の程知らずなのです。
 
さすが地獄の大根役者そして偽善者です。「この結論に満足している」と自画自賛しています。楽山は「自らに嘘をついて」いるのではなく、他者に嘘を吐いて、だましてきたのです。しかも、神にも嘘を吐いて、それで通ると思っているのです。近づいてはいけません。
 
楽山の心に信仰はなく、もはや悪意と虚偽性だけをもって、こういう詭弁を仕掛けてくるのです。信仰者が、神の前に正直であるべきということの、対極にいて、あざ笑っているのが、楽山です。いつまでも、嘘で、ごまかそうとしてくることが、悪魔性を証明しています。寒い寒い楽山の世界です。
 
 
 
 幸福実現党の移民政策
 2021年05月08日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 http://mmknky21.blog.jp/archives/9439241.html
   を改めて批判。
 
 
楽山は、批判ツイートの管理人かアドバイザーにでもなってるつもりでしょうか。楽山には、批判する資格もなく、批判を云々する資格もありません。
 
楽山は、嘘と詭弁で刷り込むだけの自己愛性の欠陥人格です。楽山は、何を言われても、反省もしなければ、責任を負うこともありません。この楽山のようなやり方は、言論には通用しません。楽山は、早く消えてほしいだけの偽善者です。
 
 

*移民政策
幸福実現党の移民政策について、及川幸久氏がツイートしていた。

及川さん
移民万歳だけ改めてください!
そしたら応援したいです!
 」

返信
及川幸久 香港加油
@oikawa_yukihisa
実は幸福実現党は移民万歳ではないんです。10年以上前にそういう主張をしたのは確かですが、その中身は逆で、今の自民党の緩すぎる移民政策を批判し、移民受け入れの厳しい基準を主張しています。とくに反日国からの受け入れは。
 」
これには疑問に思うことを、一つ、二つ呟いてみたけれども、いまのところ回答なし。残念。

 
楽山には関わらないでください。回答があってもなくても、楽山は、ずっと、冷酷で、かつ、残忍な人です。それ以外、何もない人です。楽山は、いつも、ゲーム感覚だと思います。
 
 

*疑問(一)
疑問内容についてここでも書いておくと、まず一つは移民受け入れには厳しい基準を設けるということは、移民を抑制する方向に行くはずなのに、そうはならず移民一億人をめざすというように移民拡大に向かうのはチグハグではないかということである。
また移民一億人をめざしながら、移民万歳ではないというのもチグハグだ。
ニッポン繁栄 8つの提言【3】めざせ!人口3億人国家

 
「チグハグ」?・・楽山自身は、無反省と無責任で、裏切って、けなして、面白がっているだけです。何を、他者のことを、一人前の評論家人みたいに言っているのでしょう。そんな資格はありません。むしろ、楽山は、真面目な言論を、おとしめ、あざ笑い、けがしてゆく妨害者です。
 
 

*疑問(二)
もう一つは、移民は一億人に限定せず、二億人でも大歓迎としていたが、それについて及川氏はどう考えるかということ、またこれは党の政策として今も変わらないか、もし変わっているなら何故変わったか教えてほしいということ。
下の動画では、55分過ぎから一億人移民が議論になっており、57分過ぎには移民は二億人でも大歓迎という発言も出ている。

 
こういう問題は、荒唐無稽ですから、空想の理屈遊びができるのでしょうか。楽山は小理屈をこねていますが、テーマが倫理や道徳や人間性や良心や共感するべきことになると、楽山は、心が無いので、まるで、破れた障子のようなことしか書けなくなります。バラバラで、ピラピラで、フラフラなのです。
 
 

*疑問(三)
ついでにもう一つ疑問を書くと、幸福実現党が提案する移民選定の基準は、深刻な人権問題に発展するのではないかということである。

 
偉そうに書いていますが、他者の人権も尊厳も、屁とも思っていないのが、楽山です。ましてや、神の全能など、何も知りませんし、信じてもいません。約3年間、楽山の書くものに、その卑怯さは、次から次へと表れてきました。
 
 

反日国からの移民は認めないだとか、英語圏の白人の移民を期待するだとか、国籍、人種によって選定することは果たして許されることだろうか。また移民には日本国への忠誠を誓わせる…つまりは反日思想を持った移民は認めないということであろうけれども、これは思想信条によって人に対する扱いを変えることになるのではあるまいか。
幸福実現党はこの辺りのことについては見直す必要があると思う。

 
趣味で茶々を入れてくる楽山の目的は、正義でも人道でもなく、評論家みたいに書いて、そう見られることが、悪魔性の悦楽だからです。「見直す必要がある」などと他者に言う資格はありません。
 
楽山は、A級戦犯に賛同しているネトウヨです。しかも、しっかりした思想も信条もありません。いわゆる、荒らし的な、いちゃもん屋です。だから、単方向で、何を言われても、平気で無視します。誰に憎まれても不思議ではないと思います。
 
そのことが、もたらすのは、無反省と無責任で、真面目な議論や批判において、自分が追及されると無視して、逃げるだけなので、話にならず、何の役にも立たないということです。そういうことを、平気で、長く続けているわけです。よく、ぶん殴られもせずに済んでいるものです。
 
 

      

                   嘘は飾っても嘘
 
 
(2021年05月09日)
(2022年05月20日、再録+加筆)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
 
  愛して
 
二十代から数えて
二十年の凹凸を噛んで
出来上がった顔が弱っている
さしのべた手をかすめて
わずかの小銭が通り抜けた
歪んだ顔を隠す
愛してもいないのに
 
二十年の空白を吸いきれずに
出来上がった変質者がふらついている
その辺り昔話でいっぱい
作り話でいっぱい
もう一杯と
暗い路地に足の裏を残しながら歩いていく
歩く後ろから世界は崩れていく
前は暗闇
 
どちらを選ぶか
どちらを選んでいるか十年後
路地に人影はなく
多くの足跡乱れて
入り組んだ空白から
もれた明かりが凹凸を噛む
愛してもいないのに
 
 
  ぶらぶら
 
逆さになって
ひっくりかえった
夢を笑う
花を摘み
逆さにして
ぶらぶらと振る
何かを吹き
何かに吹かれて
みんな自分だったと
苦い実を噛む
濁った汁がしみて痛い
 
細かく雑草が揺れるほどの風
受けて少し逆流する
寒けが空っぽの気道を舞う
何を恐れている
それとも憎んでいる
咳き込むほどに渇き
荒れて
濁った痰に癒されるのは
肉体に似て
退いてゆくもの
しかし方角が違う
そちらへ行けば
逆さになって
ぶらぶらになって
 
後ろを向いた眼球を
旅人の姿に隠して
ぶらさがって
空へ落ちかかっている
この世を
そんなものだと
眺めながら
誰にも会わず
去っていったあいつ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
楽山は、うまくいかないと、落ち込む代わりに怒り、敵意と悪意を増幅するのでしょう。生きるエネルギーとして最低の自家発電に終始します。だから、怒りを表出せず、怨念を燃やす体質なのでしょう。それは生き方ではなく、自滅の刃であることにも気づかないようです。
 
 
 
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楽山の正当化の詭弁2

 
  楽山の正当化の詭弁2
 
 尊い信仰とは? (榎本保郎『旧約聖書一日一章』)
 2013年02月16日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512101.html
   古い記事ですが、改めて批判。
 
 
楽山が、愛について、信仰について、一生懸命について、さらに、自己責任について、述べていますが、大方、自分を正当化するための詭弁に過ぎません。今まで3年余りの経過から、楽山に人を教える資格はありません。楽山は、反省しない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
 


尊いのは愛によって働く信仰だけである。
(榎本保郎『旧約聖書一日一章』主婦の友社、昭和62年、p.190)
 」
著者はただ信仰が尊いとしているのではなくて、愛によって働く信仰だけが尊いと強調しているのが印象的だ。そして著者はその愛のあり方を次のように書いている。 

 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、愛や共感といった高等感情を持ちません。文章に表れたことがないからです。代わりに、言葉だけを振り回してきます。2013年頃から続いていることが分かります。
 
 


私たちは、強い者が弱い者の弱さをになうことにおいて、すなわち愛において連帯に生きることがすすめられている。
(同上、p.190))
 」
これは自分にとって耳に痛い言葉だ。自分はかつて、ある宗教教団(幸福の科学)に所属しているとき、弱い者の弱さをになうことをしていなかった。弱い者いじめがあっても、それをいじめとわからなかったり、傍観者になってしまっていた。ここは今思い出しても心苦しい。反省しないと……。

 
楽山は「弱い者の弱さを」あざ笑い、だまし、操るペテン師です。つまり、根拠のない病質的優越の自覚から、弱い者いじめをして悦ぶ人格障害者です。丁寧語にだまされないでください。「心苦しい。反省しないと」・・嘘です。9年後の2022年、楽山は、何も変わっていないことが証拠です。
 
 
 
 一生懸命に頑張ることの大切さ
 2013年02月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512108.html
 
 

アンチが必死すぎるとして嘲笑う記事を見ました。二つのブログに、同種の記事が一つずつありますね。
一人ではなくて、二人がそういう発言をしたということでしょうか……。わたしは、アンチはアンチとして一生懸命に頑張ればいいし、信者は信者として一生懸命に頑張ればいいと思ってます。それぞれが、それぞれの立場で頑張ればそれでいいと思ってます。

 
どうして、楽山が、いいかどうかを判断するのでしょう。楽山は、判断され裁かれる立場です。また、人の言うことを全然聞いていない人です。偽善者であり、高みに立って、おとしめること、だますことに、専念してきた楽山です。
 
楽山は、いつも、"それではよくない" モデルなのです。小学校の道徳のような「一生懸命に頑張ればいい」では、何のアドバイスにもならないと思いますが、楽山は、言い得たつもりでしょうか、「それでいい」などと、何を、満足しているのでしょう。
 
 

また、日本がこういう風になったのは、一生懸命に頑張る人を嘲笑う風潮や、一生懸命に頑張ることをはずかしいと思う風潮が広まったことも一因にあると思ってます。

 
今度は、評論家気取りですが、楽山に、上のような風潮を語る資格はありません。楽山は、思いつきで書いているだけです。真に受けないでください。糧(かて)になるような深い洞察を、楽山が書いたことなど一度もないのです。
 
楽山こそ、「一生懸命に頑張る人を嘲笑う」人です。他者を、あざ笑って遊んでいる自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。むしろ、あざ笑いながら、詭弁の無神教カルトを広めているのです。心底は、アンチではないと思います。
 
 

ついこの間、サッカー元日本代表のキング・カズは、日本人へのメッセージとして、一生懸命に頑張ることを説いていました。トルシエ元日本代表監督も、日本に来て驚いたことの一つとして、選手たちが一生懸命に頑張ることを恥ずかしがってることを挙げていたそうです。

 
「一生懸命に頑張ること」・・シンプルな教訓ですが、楽山が、いちばん嫌いで、一度もしたことのないことだろうと思います。楽山は、正常に頑張るのではなく、一生懸命、自己正当化と自己満悦~陶酔~悦楽を求めて、他者を欺いてきました。
 
 

ロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』では、ゴッドフリートという人物が、何をもって英雄とするかという問いに対して、自分の為し得る限りを尽くした人が英雄だと答えてます。誰にもできないことを成し遂げた者ではなくて、自分の全力を尽くした者こそが英雄だというのです。

 
楽山は、妄想的勘違いで、あるいは、意図的に、有名人の言葉を、悪用して説教します。楽山自身の言葉としては、当たり前のことしか言いません。そして、いちばん怠けているのが楽山です。楽山は、全力でも半端でも、冗談半分でも、悪意の執拗さをもって混乱させ、異常な疲労を与えます。
 
 

幸福の科学ではたしか、幕末維新のころの志士たちは、討幕派でも、佐幕派でも、立場はどうあれ、その心の状態によって、死後の行先が分かれたのではなかったでしょうか。

 
「心の状態によって、死後の行く先が分かれ」るのでしょうか。楽山は「死後の行先」が分かるのでしょうか。霊能者気取りです。それとも、楽山は、嘘と詭弁、即ち、心の乱れから、地獄へ行くんだと言っているのでしょうか。
 
 

とするならば、何を為したかよりも、どういう立場に立っていたかよりも、純に、一途に、全力で頑張るということは、幸福の科学の価値観によっても、とても大切なことではないでしょうか。アンチが必死すぎるを嘲笑う信者さんには、真面目に一生懸命に生きることについて、よく考えてみてほしいと思います。

 
楽山には、しんみり共感する心がありません。だから、ねちねちと下手な理屈をこねてきました。それで、思路を混乱させ、ごまかし、疲労させ、衰弱させ、相手がものを言えなくなった時点で、疲れたんじゃないですか?・・などと白々しいことを言いながら快感を得る、とても狡猾な異常人格です。
 
 

ちなみに、ジナ・サーミナラ著『転生の秘密』には、他人を嘲笑する罪と、そのカルマについて記されていたかと思います。興味がある方は調べてみたらいかがでしょうか。

 
「他人を嘲笑する罪」・・まさに、楽山の罪です。楽山は、カルマというより精神病質です。だから、笑いと怒り、あざ笑いと怨念しか持っていないと思います。楽山と接触しないでください。交流しようなどと思わないでください。楽山は、誰にとっても、まさに、精神衛生上、有害です。
 
 
 
 「幸福の科学」の自己責任論について
 2013年02月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512109.html
 
 

幸福の科学」の自己責任論について、思うところを書いてみた 
・ 自己責任論は、私的な問題のみならず、公的な問題にまで適用しようとするとおかしなことになりがち。なぜなら、公的な問題を、私的な責任問題としてしまうなら、公的な問題は解決されないままに放置されることになるから。

 
自己責任は、私的とか公的とはではなく、罪を犯したら、負うべき自分の責任です。そこを、公的とか、私的とかに分けるのは、楽山の詭弁の操作なのです。放置されるのではなく、楽山が、楽山の責任を放棄しているということです。論点を逸らそうとしています。
 
その自己責任を全く負わないのが、楽山です。反対を言って、賛成も言って、断定していないから、責任問題は生じない、などと言っていました。言論の精神が、全く出来ておらず、反省もせず、いい加減な前提で物を言い、悦に入るのです。責任を負えないほど不出来だということです。
 
 

たとえば、
危険な道路で事故が多発しているとき、
事故に遭うかどうかは、
各人の運転技術の問題であり、自己責任だとすれば、
危険な道路はいつまで経っても危険なまま放置されてしまう。 

 
楽山個人の罪、即ち、私的な問題を、公的な問題にすり替えているのは、楽山のほうでしょう。楽山の、この詭弁の意図は、自己責任を、まわりくどく、ごまかして、回避したいだけなのです。責任があるか、誰にあるか、楽山にある・・そのことを全く受け取らず、我執と鼻糞だけが深い楽山です。
 
 

・ 自己責任論は、
反省のための心構えではあっても、必ずしも事実とは限らない。
何らかの問題が発生した場合、
すべての責任は一方にあり、他方にはまったく責任がないという事例は少ない。
その割合は、3:7、2:8などいろいろだろうが、大概は、当事者双方に責任がある。
自己責任論は、こういう現実を承知した上で、
反省の動機づけとして、
あえて、いったんはすべての責任を引き受けようとしているだけである。
必ずしもすべての責任がその人にあるというわけではない。

 
自己責任論に、事実かどうかが問題でしょうか。ひどい的外れを言っています。楽山は、責められたとき、相手も悪い、というより、相手が悪いというほうなのでしょう。それこそが、罪悪感がなく、不祥事を人のせいにするサイコパスの特徴です。婉曲表現に、だまされないでください。
 
楽山は、楽山の言論の責任者であります。しかし、責任感と節操において、犯罪者と言ってよい人です。楽山の責任逃れは、ますます、執拗に、まわりくどく、人をおとしめる悪意だけになって、傲慢不遜になるでしょう。楽山が、長い間、平静を装って書いていられることが、そもそも、異常であります。
 
 

・ 自己責任論はマインドコントロールに悪用され得る。
たとえば、
宗教教団において、自己責任論を徹底すれば、
信者は自分を責めることはできても、
教祖や教団の責任を追及することはできなくなる。

 
自分をまともに見せるマインドコントロールこそ、楽山が、丁寧語と曖昧表現のボンヤリ言語によってやってきたことです。コントロールが、相手を楽山の下に置くことであり、でなければ、混乱して去らせるのが目的です。性根が、よほど、腐っていなければ出来ないことです。
 
 

・ 既にいろいろなところで指摘されているように、
自己責任論は本来、自分に対して適用するものである。
より詳しく言えば、
自と他の関係において、
自分に対して、「すべての責任は自分にある」というものであって、
相手方に対して、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
また、
他と他の関係について、
三者の立場から、どちらか一方に向かって、
「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。

 
何でしょう、「いろいろなところで指摘されている」と言って、ごまかしています。つまり、楽山は、相手に分かるような理路を組み立てられないのです。代わりに、相手の精神を混乱させ疲労させるために、はっきりせず、説明できないような、曖昧な表現が特徴です。中身の無いのが特徴です。
 
まわりくどくて、すぐに否定できそうにないような、絡まった網のような無意味な言葉の辻褄を、楽山は仕掛けてきます。そこで、こちらが、考え込んでしまうと、楽山の思うつぼです。楽山の言は、ことごとく、切り捨ててください。楽山は、分かって書いてなどいないのです。
 
 

以上
自己責任論というものは
いつでも、どこでも、誰にでも適用できるわけでもなく、
さらには使い方を間違えば、人を深く傷つけることにもなりかねず
毒性も強く、その扱いには細心の注意が必要なのではないかと思う

 
自己責任は、はっきり言って、論ではありません。言動に責任を負うという大人の道徳です。それを、「適用できるわけでもなく」という曖昧な部分否定で、言い訳したつもりなのです。背伸びした人格が節操を失うと、こういう狡い惑わしの言い逃れをするということです。実に醜い所業です。
 
 

幸福の科学の界隈では
自己責任論によって
他者を責め、裁こうとする事例が少なくないようなので
自分なりの考えを書いてみた次第である。

 
自己責任を問われべきは、楽山です。嘘、詭弁、偏向した思想~妄想、ブレーキの利かない自己顕示欲、鈍麻した直観と直感、良心の欠如、洞察力と説得力の欠如、無反省、無責任、無神経、無情・冷酷、固定した自己中心、という知性と感性の欠陥は、長く肯定的に接していると伝染する危険があります。
 
楽山を理解しようなどと思ってはいけません。楽山は、自分を理解させるための、いかなる言論も持ち合わせていません。込み入った詭弁の辻褄に嵌らないように、決して、楽山に接触しないでください。決して、楽山に近づかないでください。それが、誰にとっても、精神衛生上、必要なことです。
 
 

      

                 無責任 無反省
 
 
(2022年02月16日)
(2022年05月19日、再録+加筆)
 
 
 
  縊死(いし)
 
幾人かの自殺者が残していったものは
あまりにも急な沈黙に終わってしまって
動機も理由も結局は不明のまま
明確に語れる者は誰もいなくて
噂だけが死臭のように漂ってはくるが
口の中でムニャムニャ
聞こうとして聞くに憚(はばか)り
そのムニャムニャが胸の底まで沈んでいって
さらに病みながら片隅にあるばかり
キリスト者とはいえ自分の場合は
自殺しない保証は何もないから
せめて「ごめんなさい」と祈りともつかぬ
最後の独り言を今更のように戯言を
そのときには呟くしかないのだろうか
すべては自分の責任において
首を括り首を吊る
責任と意志
いつの日からか
我が身から出たものは
いずれ我が身に返ってくる
その顔が溢血点や鬱血や
腐乱や浮腫でどんなに醜くても
正視しなければならない
と気づいたときから
自分で自分の首を絞める
という縊死は
繰り返される日常の中にある
 
 
  暴力
 
無駄なのだ
少しばかり言い回しを変えたところで
他者に向かって吐かれた以上
紙の上だろうが
電子の上だろうが
それで軽くなるものなど何もないのだ
名前も住所も明らかな一人が
名前も住所も明らかなもう一人に
面と向かって吐く
のと同じ重さを背負わされるのだ
だから無駄なのだ
いつか吐かれたものが
どのような姿であれ返ってきて
自らを切り刻むのを
蝕むのを止めることなど
もはや誰にもできはしないのだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
最初に気づいたのが、楽山の無反省と無責任でした。こちらの言うことを受け取って、考えて、返すということが、楽山は、全くできません。話を逸らして屁理屈をこねるか、前と同じようなことを繰り返すかになります。ゆえに、話が進まず混乱して疲れます。楽山との議論は、最初に諦めるべきことです。
 
 
 
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敬虔5

 
  敬虔5
  (過去記事「謙遜」を修正アップ)
 
 
例えば元気で熱心な信仰者に、ありがちな発言として、
「「神のうちに生き、動き、存在している」という視点に立つとき、私たちの存在の意味や価値を謙遜に見極めることができる」
というのを聞いたか読んだかしたことがあります。
 
折に触れて、自分について、神の意志は?と考えるのは、信仰者としては当然ですが、「御心、測りがたし」の思いがあるからこそ、最終的な真偽や正邪を、神の運びに任せる敬虔がありうるのであります。私たち信仰者は、不完全です。
 
「見極めることが出来る」ならば、神の意思を確信することになるから、それは敬虔とは違います。そこに敬虔はないです。ゆえに、この場合「謙遜」は、取って付けたような虚飾に過ぎません。私たち信仰者は、不完全なのです。
 
また「神の導き」「キリストによる罪の贖い」「聖霊の注ぎ」などという言葉、即ち、聖書語を、まるで公式のように、常套句のように繰り返し使い、それで信仰を伝えたつもりになるのは、信仰ではなく、ただの思い上がりです。
 
そういう間違いの起こる理由は「聖書の真理だから」という信念であり、その信念については、説明できる経験からの実感と実体がないままなのは慢心であり、そう覚えているだけであるなら、信仰の言葉にはならないということです。
 
その時その場で、与えられている人間としての経験と知性や感性などを働かせることなく、聖書的な言葉を並べて伝えた気持ちになってしまう。いずれの場合も謙虚・謙遜・へりくだる姿勢・敬虔とは無縁であり、カルトなどに、よく見られる高慢であります。
 
聖書が「生ける神の言葉」であっても、それを受け取り、伝えようとする人は、人の言葉しか持ち合わせておらず、神と違って不完全なのだから、人が人に伝えるべき「生ける人の言葉」としては、伝える努力が及ばないこともあることを知っておくべきでしょう。
 
伝わらないときに、彼には恵みがなかった、などと相手のせいにするのは、もはや、偽善者の言であります。聖書は真理でも、言葉だけ実感のないまま語って、神の導きにお任せしますと、反省も努力もせずにいたら、責任放棄であり自己満足なのです。
 
人と人が互いに、表す言葉の拙さを共感し共有する意識が必要であります。いかなる言葉も、いつも実感を持てるとは限りません。祈りとともに、努力を続けることが信仰生活なのです。敬虔はそこにあるのであって、実感のないまま繰り返される聖句や信仰の言葉の数にあるのではないからです。
 
 

 
よくある信仰についての勘違いですが、罪は赦されたから罪なき者となったのではなく、罪人だったけど悔い改めたので罪が無くなったのでもありません。
 
信仰者は、罪を犯しても正直に祈ることで赦されて生きる道を与えられたのです。
 
この地上の世に生きてきて、信仰を与えられている我が身を振り返って、自らの来し方を思い、行く末を考えるならば、自分がそんなに立派になったとは考えられないのが正常であり、見違えるような聖となって罪が無いなどと信じることは、直観的にあり得ないと分かるはずなのです。
 
私たちキリスト信仰者は、信仰によって思い上がるのではなく、信仰によって敬虔を学ばなければいけません。信仰者は感動をもって成長する道を与えられたのであって、何もかもが良くなって完全になるなんていうのはカルトか多幸症の高揚気分に過ぎません。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変であり、私たち人間は、それらの神の性質を持ち得ないことを知ることで、救い主イエス・キリストとの、同伴と共感の絆(きずな)を持ち得るのであります。
 
神を恐れるとは、完全なる全能の神の存在によって、不完全で小さい人が自らの尊大と傲慢を砕かれ、それゆえに柔和になることです。言い換えれば、神のもとで生きる砕かれた魂という新たな尊厳を与えられることであります。
 
 

   

             敬虔 砕かれた魂
 
 
(2011年)(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年05月18日、再録+加筆)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
(90年代か)
 
 
  去り際の願い
 
いくつかの微笑と
数々の哀しげな顔や
苦悩の表情が
私とともにあって
それらが皆
去り際の人間の顔として
私とともに流れてきて
私は今ここにある
(どこか)
私はどこに
いざなわれるのだろう
いったい私の去り際に
(いつか)
どんな顔を
誰に向けるのだろう
 
願わくは
眠りに入る刹那のような
安らぎとともにあらんことを
ぬるい夢に流れてゆく
私の呆(ほう)けた顔が
その時だけは雲間から淡く
広がる光の中に
小さくきらめく
雫(しずく)のようであらんことを
何よりも無邪気ならんことを
 
(90年代か)
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先
たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
 
(かなり昔の作)
※ ♪は、讃美歌の歌詞です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
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1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
謙譲、謙遜、謙虚、ということから、最も遠いのが楽山です。しかし、そう見せる芝居をしてきます。それで安心して受け入れると、罠にはまることになります。曖昧で語尾の否定肯定を濁すボンヤリ言語、謙譲芝居のセリフであるトホホ言語と呼んでいます。責任逃れと隠し事で出来ている楽山です。
 
 
 
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