ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

心の理論2

 
  心の理論2
 
   楽山のブログ「楽山日記」
   親戚に笑われた話 (仏様の気持ちは分からない?)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41513954.html
    (ヤフー終了によって削除)
    楽山日記(LD)同名記事あり。
   http://mn266z.blog.jp/archives/17513119.html
   に対する私の批判「心の理論」
   https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
   を加筆して再録。
 
 
楽山の原点のような見当違いの曲解です。心理学を、著しく歪曲して、心霊の話にしています。
 
楽山は、まだ、何かを人に教えられると思っているのでしょうか。今回、「心の理論」という学問的な話を、楽山自らの霊感みたいな経験を正当化する曲解によって、書いてきています。理路の読解力のなさが明らかとなり、インチキも甚だしい、というところを見てほしいと思います。
 
先ず、心の理論について引用しておきます。
 
心の理論(ウィキペディアより)
他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである。
この能力があるため、人は一般に他人にも心が宿っていると見なすことができ(他人への心の帰属)、他人にも心のはたらきを理解し(心的状態の理解)、それに基づいて他人の行動を予測することができる(行動の予測)。
哲学者ダニエル・デネットは子供が「心の理論」を持つと言えるためには、他者がその知識に基づいて真であったり、偽であったりする志向や信念をもつことを理解する能力、すなわち誤信念を理解することが必要であると示唆した。これに基づきハインツ・ヴィマーとジョゼフ・パーナーは心の理論の有無を調べるための課題を提案した。これを誤信念課題(False-belief task)という。この課題を解くためには、前述したように他人が自分とは違う誤った信念(誤信念)を持つことを理解できなければならない。
 
マクシ課題
 
1.マクシは、母親が買い物袋をあける手伝いをしている。
2.彼らはチョコレートを<緑の棚>に入れる。
3.マクシが遊びに行った後、母親はチョコレートを取り出して、今度は<青の棚>に戻す。
4.母親が卵を買うために出て行ったあと、マクシが遊び場から戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」と質問する。正解は「緑の棚」だが、心の理論の発達が遅れている場合は「青の棚」と答える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96
 
最初、何のことか、よく分かりませんでしたが、「誤信念を理解すること」というのは、誤信念の存在を正当化することではなく、誤信念を他者が持っているということを理解することのようです。ゆえに、直観的であっても理路があるから、理論というのでしょう。
 
批判というのは、多くの場合、そのような誤った信念があることを発見し、その根拠と理解によって為されるものです。楽山の引用した「心の理論」は、まさに、例えば、ここでは、楽山の誤信念を批判する根拠と理路を表しています。
 
マクシ課題について:
 
注意してほしいのは、問われていることが「チョコレートがどこにあるか」ではなく、「チョコレートがどこにあるとマクシが思っているか」というところです。
 
マクシは遊びに出ていたので、母親がチョコレートを<青の箱>に入れたことを知りません。したがって、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」という質問の正解は、「緑の箱」です。マクシは、誤った信念を持つ例として書かれています。
 
「心の理論」は、そういう、子供の発達過程での、誰でも分かるような、極めてシンプルな理路が書いてあるのです。
 
最初、児童心理学の話かと思っていましたが、それだけではなく、心理学の話であり、さらに、"誤信念" は、思い込みや、先入観、固定観念、カルト妄想にも関係してくる話であり、広く思想形成に関わってくる話だと思います。
 
正解することは、他者(マクシ)が誤った信念(誤信念)を持つことを理解しているということであり、つまり、これを心の理論が発達していると言い、発達していない人は、「緑の箱」に入っていることしか知らないマクシの思考を考えることが出来ず、今「青の箱」にあるからと、そのまま「青の箱」と答えてしまう、ということです。
 
学問の理路の話であって、霊感とも、宗教とも、何の関係もないのです。
 
心の理論とは、他者という存在の心の正誤を知るということであり、それが出来ないのは、前にシャロームが、やたら言っていた、一種の自他未分化だろう、という話なのです。
 
ところが、楽山は、そのことを理解せず、自分の極めて怪しい霊感みたいなもの?を、正当化する話に持っていきます。やめておけばいいのに、ここが、都合の悪いことを無視して反省しない人の、何の意味もないのに、実に執拗な、煩わしい執着となっているのでしょう。
 
誤信念を持つこと、広く、誤解することは、誰にでもあることです。しかし、楽山の場合、事実を知らされても、誤信念を、訂正することが出来ない、というところに、重大な問題があるのです。それゆえに、楽山は、心理学の話を、心霊の話にしてしまうのです。
 
こういう、楽山には発達障害のようなものが前提となって、病質によって訂正不能の嘘吐きとなっています。事実を事実として受け取れず、自己中の妄想話に置き換えてしまうのです。
 
楽山は、アドラー教に従って、気に入らなければ無視して、全く改めずに、また同じような手練手管で書いてくる見苦しさであり、人間性をなくしてゆく方向へと、どんどん進んでいるのでしょう。次に引用するところの楽山の言い分は、目を覆わんばかりです。
 

先日は、お彼岸だったので親戚の家に行ったら、ちょっとしたやりとりが切っ掛けで爆笑されてしまった。その内容は、大体こんな感じ…。
自分 (仏間から、居間に戻る)
おば「仏様、拝んだかい?」
自分「うん、よろこんでたよ」
おば「えっ?」
自分「拝んだら、仏様が『ありがとう』ってよろこんでた」
おば「仏様、よろこんでたんだ!? ふははははっ…」 (親戚一同爆笑)

 
親戚の人は、奇想天外のことを言う楽山を笑っています。
 

自分は多少冗談っぽい言い方をしたので、笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった。

 
常識的に、おばさんたちが笑ったのは、楽山が冗談っぽい言い方をしたからではありません。魔法のように現実離れしたことを言う楽山に呆れたから笑ったのです。つまり、なに、バカなことを言ってるの、という笑いでしょう。
 
こういうときの病質者の解釈は、自己正当化のために異様です。楽山は、笑われたことから感じることや考えることが出来ない人だと分かる部分です。
 
カルトの萌芽を感じます。楽山は、自分のことを、仏様の気持ちが分かるっぽい?、と言っているのです。この時点で、自分の誤信念を、訂正できなかったのが、今日の楽山を形成しているような気さえします。
 
楽山は、「笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった」と、わざとらしい丁寧語で書いていますが、恐らく、こういう場面で、本音は、お前たちには分からないんだ・・と心のうちに笑って、慢心してゆく楽山の病質形成が表れているように思えます。既に、自分は霊能者という妄想が表れているのです。
 
楽山は、楽山の書いた2年に及ぶ文章から、目覚めや、感動を、人に与えたことはないと思います。おばさんたちが感じないっぽいことを異常のように楽山は言っていますが、中身もなく、感じたと言っている楽山のほうが病気であります。
 

もっとも仏様が何を考えているかなんて本当のところは分からないことだけど、仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。こういう感覚は、やはり個人差が大きいのだろうか。

 
楽山は、仏様が何を考えているかなんて本当のところは分からない、と言っておきながら、仏様が喜んでいるか、悲しんでるか、怒ってるかは感じるものだ、と言っています。つまり、仏様の心を自分は感じるから分かるんだ、と言っているのです。
 
こういう、いい加減なところから、カルトの詭弁は始まります。楽山は、知りえないはずの超常の存在である仏様を、自分の視野で分かったことにしてしまっています。それこそ、超常を飲食できる自分が表れています。それは、そのまま、誇大妄想であります。
 
楽山が、キリスト教の神を、自分の幼稚な先入観の固定観念で云々して否定してしまう原初的病因が、ここにあるのです。
 
いい加減と言うより、楽山が、仏間の仏像について、「仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。」というのは、とても、気味悪く、怖い話だと思います。
 
楽山は、そのまま心が成長せず、体だけ成長して、大人になっても、同じような考え方で、宗教と信仰を、上から見ているということです。
 
楽山は、自分には、心霊が分かるっぽい、という、特別な感性があるんだ、と言いたいのかもしれないが、その誤信念からの超常意識が、訂正されず、人格形成に影響して、病質形成に至っていることを暗示している体験話になっています。
 
楽山は、笑われて恥をかいて、よほど悔しかったのでしょうか、神仏を恐れもしないで、神仏と自分の自他未分化のまま、神秘の世界に入り込める自分を自慢するかのように、また、婉曲表現で自己正当化して、我を張っているのです。楽山という人の、カルト体質の原点を思わせる話です。
 

ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。

 
楽山は、「霊感の一種」「相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないか」などと言っています。ここで、既に、日常を超常に結びつける妄想が、訂正不能に形成されているのです。
 
「心の理論」を、勝手に延長して、神仏を、分かる、あるいは、感じることと、受け取っているようです。しかし、これは、全くの誤謬であり、妄想的曲解であります。「心の理論」の延長線上に、霊感によるような神仏理解は、全くないのです。全面的に楽山の危険な妄想です。
 
つまり、楽山は、最初に述べた「心の理論」を、全く理解しないまま妄想に結びつけています。そして、楽山自身は、誤信念を持っていることに、今も、まるで気づいていないということです。
 
心の理論は、少しも誤信念を正当化してはいません。誤りは誤りと書いてあるのを、楽山は曲解して、誤信念の神がかりを、心霊によって正当化しようとしているのです。意図的ならば、悪質な詐欺の企みと言えるでしょう。
 

ただこの感覚は、すごくリアリティーがあるので、人類が進化の過程で獲得した「心の理論」による錯覚にすぎないと割り切ってしまえないのが難しいところである。どうもこの辺りの問題は、一生解決できなそうだ。〈了〉

 
楽山は、自らの神がかった感覚にリアリティーがあると言っています。さらに、それを、人類が進化の過程で獲得した、ゆえに、錯覚だと割り切れない、と言っています。恐怖です。
 
そう言ったにもかかわらず、一生解決できない、などと言い訳して、見せかけの謙譲を装っているのです。こういう騙し文句を出してくることを忘れないでください。どうか警戒して、決して好意的に近づかないでください。
 
知恵と良心の足らない霊能者気取りの自他未分化の者が、自己顕示欲から、自分の霊能は学問に基づいていると言いたくて、詭弁を弄すると、こういうことを平気で言ってくるのです。この記事の虚偽性は、恐ろしいものがあります。
 
念のために申し上げますが、楽山の言に、洞察も、有益性も、深い理解も、一度も見られたことはありません。楽山の言うことは何の役にも立たないと思います。通念的な固定観念から、嘘と詭弁で、超常に飛んでゆく妄想家、それが楽山です。
 

*参考
「心の理論」という言葉は、何となしにスピっぽい雰囲気があるけど、検索してみるとそっち系の言葉というわけでもないらしい。専門家ではないので確かなことは言えないけど。

 
心理学である「心の理論」に、スピっぽい雰囲気など、皆無であります。確かなことは言えないと言いながら、上では、自分の霊感みたいなもの?を進化とまで正当化しているのです。騙されないでください。
 
最初に引用し説明したように、私が上記のウィキペディアの記事で見る限り、「心の理論」は、全くスピリチュアルとは関係のない心理学の話です。
 

心の理論(こころのりろん、英: Theory of Mind, ToM)は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96

 
正常ならば、そういう、他者の誤信念の推測と判断が出来るようになる、という話です。それを理解できない楽山は、全く学問的ではないところの、霊感話に変えてしまっているのです。宗教と信仰を語る者として、完全に失格であり、恥ずかしい妄想的自己愛性の病質者です。
 

心の理論とは、他者の心を類推し、理解する能力である。特に発達心理学において、乳幼児を対象にさまざまな研究が行われるようになった。ヒトおよびヒト以外の動物が心の理論を持っているかどうかについては、誤信念課題によって調べられる。この課題で他者の信念についての質問に正答することができた場合に、心の理論を持っていると結論される。一般的に4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる。自閉症患者では障害が認められる。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96

 
これだけネットから引用しておきながら、楽山は、その意を全く理解していません。自閉症患者と同等の障害なのでしょうか。
 
4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる、という、誤信念についての課題を、楽山は、自己正当化に使うほどに、正答が出来ていないのです。楽山は、最後の文をどう読んだのでしょう。「自閉症患者では障害が認められる。」・・私は、故意のペテンか、カルトに陥りやすい自他未分化だと思います。こういう心性のままであることは、怖いと言ってよいでしょう。
 
以上より、楽山は、心の理論を持っていないと判断できるでしょう。危険人物です。
 

進化心理学と「心の理論」が神と同様にプラシーボ効果を見出すのだろうか?
https://placebo.co.jp/placeblog/theory-of-mind/

 
このサイトに書いていること:
 

意図や目的を持った知的行為者(=神)を明確に心に描く人なら、こう推論する(物語る)かもしれません。「治癒が得られたのは、神が本来持つ機能(奇跡)のおかげである」
https://placebo.co.jp/placeblog/theory-of-mind/

 
キリスト教は、全知全能の神を説いていますが、それは、治癒が神の機能だというためではありません。神を信じれば、病気が魔法のように治るでしょうか、そんな理路も教理も、否です。今の時代の少なくとも滅多に物や肉体の奇跡が起こっていないという現実が、その根拠になるでしょう。
 
キリスト者が信じている神は、信じれば病気を治してくれるご利益の神ではありません。したがって、信仰は、プラシーボ効果でもありません。楽山という心を持たない者の妄想です。
 
楽山は、とても幼稚な神を想定して、それよりも、という、学問の味付けをしたつもりの一種のカルト思想を宣伝しています。警鐘として、はっきり繰り返します。楽山に騙されないでください。行き着くところは、極めて危険です。
 
楽山は、シャロームと同様に、無反省に妄想正当化のために詭弁を弄するペテン師であり、宗教についても、学問についても、語る資格などないと思います。
 
キリスト信仰の立場からは、明確な敵対者として、反キリストとして意識して、私のブログ等々を介して、警戒情報を敷衍してゆくしかありません。どうか、楽山を相手にしないでください。楽山に関わらないでください。楽山に近寄らないでください。危険です。
 
 
キリスト教とキリスト信仰は、むしろ、この地上に溢れている嘘八百のカルト的妄想に囚われることからも、楽山のような軟派カルト宣伝者からも、人間を解放し、人間の学習と成長を促し、より人間として相応しい温もりと潤いを求めるためにあるのです。
 
キリスト信仰は、けっして神がかりの感覚や奇跡や境地などではなく、人間として学びながら歩んでゆく地道で一途な道です。その歩みを支えるのは、聖書を読むことからの、キリストからの愛であり、キリストへの愛であります。
 
 

    f:id:stdsts:20210302000256p:plain

              理路と詭弁
 
 
(2019年03月31日アップ、同日一部修正)
(2021年03月02日、加筆して再録)
 
 
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楽山の心無い芝居

 
  楽山の心無い芝居
 
 「鬼滅の刃」と「スピリチュアリズム
 2021年02月28日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28222993.html
 
 
楽山の精神年齢の低さが表れています。
 

鬼滅の刃」を通読してみた。その基本設定は予想以上にスピリチュアリズムと重なるところが多かった。

 
鬼滅の刃」 → スピリチュアリズム の流れで、宗教・信仰を語って現実離れしてきた楽山を信用しないでください。人生を趣味で片づけようとする者です。
 

たとえば、この辺り。
人は生まれ変わる。
人は単身で生まれ変わるのでなく、ソウルメイトがいる。

 
生まれ変わりとは、既に、話が超常のことになっています。一方、楽山は、心・精神の生まれ変わりであるところの、魂の奇跡を、何も考えることが出来ません。そういう記事を書けない楽山です。
 

利他的な生き方の推奨。
感謝の大切さ。

 
どこでも聞かれる当たり前の倫理・道徳です。これで、楽山は何を確認するのでしょうか。総て、楽山が裏切って、悪用してきたことです。楽山の白々しさに、背筋が寒くなります。
 
>非難、難詰では、人は変わらない。怒り、自己正当化を生むばかり。
 
批判を非難していますが、反省しない者は、何を言われても変わらず悪と偽善に走る、ということが、まさに、楽山を通して実証されてきたのです。
 
楽山のような偽善者は、「自己正当化」のように、自分が言われたこと、言われそうなことを、わざと書いてきます。何度も書いてきます。
 
この記事も、今までの記事も、楽山の自己正当化→誇大化が動機であります。それだけを言ってきたようなものです。楽山は、人のことなどには、何の関心もない男だと判断しています。きれいごとを並べれば、人は騙されてくれると思って、舐めきっているのでしょう。
 
良心を持たない者は、やさしい言葉でも、批判でも、変わらないでしょう。だから、誰も近づかないようにと、私は批判を書いて、資料としてゆくしかありません。
 

人は、やさしさ(愛)によってこそ変わる。
圧倒的な善意(愛)には誰も抗うことはできない。

 
優しさ芝居で、人の優しさを利用して、悪意と偽善を企んできたのが、楽山です。圧倒的な愛について、楽山が語るのは、犯罪人がニヤニヤ笑いながら説教をするようなものです。
 
(ネットより)
難詰(読み)ナンキツ
[名](スル)手きびしく非難すること。きびしく問いつめること。「不注意を難詰する」
https://kotobank.jp/word/%E9%9B%A3%E8%A9%B0-590405
 

自らの罪を悔い、反省をはじめると、守護する霊の姿を見、その声を聞くようになる。

 
自らの罪を悔いず、反省もせず、霊が分かるっぽい気でいるのが、楽山であります。とうとう幻聴も始まったのでしょうか。善には善の種が、信仰には信仰の種が必要です。切っ掛けとなる体験のことですが、楽山には、自らを偉く見せるような、でっち上げの体験と、だまし言葉があるだけなのです。
 
>悪いことをすれば天国には行けず、地獄に行くことになる。
 
よく言われる通念的な話です。単に悪といえば浅い話になってしまうことを、楽山は弁えていないのです。何も学んでいないことが表れています。
 
>地獄は強要されるのでなく、自ら納得して行く。
 
説明もなく何を言っているのでしょう。楽山には、何も学ぶ気もないことが、楽山の気安い高慢な妄想的言語に表れています。このような言葉だけで、何かを表したような気分になる楽山です。この思い上がりには、逆に言葉自体がけがされてゆくでしょう。あらゆる努力を怠って、人も言葉も、鼻先で笑っている者の言だと思います。
 

主人公は決して自分を見失わない。権威、権力、恐怖…などには屈せず、自らの内なる声に従う。
個性尊重。自分らしさを保ち、かつ他人の個性も認める。
愛に飢え、貪欲な鬼は、口が強調された姿となる。その姿はその心によって決まる。
その他いろいろ。

 
楽山は、プラスを言いマイナスを言い、断定していないから責任はないなどと言う、元々、自分を持っていない人です。自分の代わりに、欲望の自我の企みで書いています。
 
楽山の自分らしさは、今までのところ、無反省・無責任・無理解・無神経・偽善者・嘘吐き・詭弁屋・無視・不感不応、など、・・でしかなかったのです。このような自我は、人を傷つけるだけです。保たれてはたまりません。悔いないなら、一刻も早く、何も言えないほど縮んでください。
 

スピリチュアリズム的な世界観は極めて特殊でもなく、多方面に広まってもいるので、「鬼滅の刃」のなかにスピリチュアリズム的なところがあっても別段不思議はないのではあるが、なにはともあれ、スピリチュアリズムに共感する人であれば、血飛沫が飛ぶようなアクションは大の苦手というのでもない限りは、本作に感動できるにちがいないと思う。

 
アニメとスピリチュアリズムを同一視する楽山は、結局、そのレベルでしか宗教と信仰を語れないのです。楽山は、哲学・思想・宗教・信仰を全く理解できないからです。それで、楽山は、執拗に、同一視したいのでしょうが、既に、ボロボロの理路・妄想・自己中・自己愛が表れてきたのであり、一切の弁解はボロ布のようなものであり、今さら、何も成り立ちません。
 

主人公のやさしさに触れて、鬼が自らの罪を自覚し、見失っていた自己を取り戻し、改心していく場面はもちろん、このやさしさは鬼のみならず、仲間たちをも良い方に変えてゆくところは本当に素晴らしく、

 
こういうところにしか褒め言葉を当てられない楽山です。触れて、自覚し、取り戻し、改心していく、これらは、すべて、楽山にはできないために、楽山が嘘と詭弁で裏切ってきたことなのです。
 
まさに、今、この記事も、そういう嘘であります。真実を追求しているつもりの、楽山という、いい大人が褒めまくって書いていますが、楽山は、ホラーアニメに依存しているのでしょうか。
 
真実を追求している本当の大人なら、趣味以上に書くことではないのです。
 

「愛こそはすべて」ということがよく分かるようになっているし、スピリチュアリズム的な考え方はあちこちに散りばめられているし、スピリチュアルなことに関心のある人にはお勧めの作品である。

 
「愛こそすべて」が分かるなら、今までの楽山は、なかったはずです。大袈裟な豪語をすれば、信用されるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山が自分で言って、逆に、楽山の行状がそれを否定し、楽山の言葉が、まさに、楽山自身を責めている記事であります。楽山に、何かを「お勧め」などする資格はないです。
 
楽山の見当違いの妄想世界から、お勧めされては、実に迷惑です。ほんとうに、台詞の白々しさが、ひどい。楽山のようにだけは、ならないでください。
 
 

      f:id:stdsts:20210228234542p:plain

            どんづまりの地獄
 
 
(2021年03月01日、同日一部修正)
 
 
  楽山のツイートです。
 

心機一転★こも楽山
@komo266
·35分
おススメ書籍、ちょこっと読みました。 

悪魔が嫌うことは、
・正直(嘘はつかない)
・勤勉(コツコツ努力する)
・明朗活発(明るく積極的)
 」
とのことですね。
書籍後半では、謙虚、無執着、恨まないなども挙げられてた。
これらは総裁も出来てないし、言うは易し行うは難しだと思いました。😊

午後4:40 · 2021年2月28日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1365929829703372801

 
楽山は、平気で、数えきれない嘘を吐いてきました。
人間関係のベースとなる普通に正直であることを、まず、楽山は守る気がないのです。
楽山には、傲慢で、霊が分かるっぽい自我への異常な執着、そして、その体質ゆえに誰からも信頼されないことに対する人間と社会に対する根深い怨念があるのだろうと推測しています。
 
楽山は、努力が大嫌いです。霊が分かるっぽい?霊能者気取りだから、人の言うことを聞いて考えることを全くしないのです。すなわち、無反省・無理解・無責任・無神経です。
 
楽山が嘘を吐いて平気なのは、陰険であり、決して明るくはないです。
楽山は性悪で、陰気に悪と偽善を企み実行してきました。
楽山は、鈍麻・鈍感・不感不応だから、不都合を無視するのです。
 
楽山は、嘘を言うは易し、正直も、最小限の善も、行うは難し~しないよ・・なのです。
 
前に、楽山は、親族に、仏様が喜んでいると言ったら笑われたことがあり、親族が仏様の気持ちが分からないっぽすぎるのには驚いた、というようなことを書いていました。
 
楽山が、仏様と言っているのは、仏像、仏壇のことでしょうか、仏陀のことでしょうか、ご先祖様のことでしょうか、いずれにしても、こういう小児期の異常感覚に、今も支配されて、霊能者気取りになっているのでしょうか。
 
もし、楽山が、超常の存在の気持ちが分かる本物の霊能者なら、嘘と詭弁にまみれた今までの有り様は、むしろ、ありえないわけです。即ち、嘘で出来ている楽山は、霊能者どころか人間として成り立っていません。
 
楽山を、信用しないでください。相手にしないでください。楽山に関わらないでください。近づかないでください。お願いします。約2年間、私は、そう言い続けています。
 

心機一転★こも楽山
@komo266
集団リンチの様相を呈していたのも酷いけど、
政治家なら、自分の発言の一部を切り取られ、非難されることがあるのは承知しているはずなのに、この罠にはまる政治家があとを絶たないのも酷いですね。
こういう無防備さ、不用心さの原因を探る論考も掲載されてるのだろうか。
午後5:31 · 2021年2月28日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1365942671190106113

 
楽山は、自分の発言が批判されているのは承知のはずなのに、無視し続けているのは酷い話です。
 
こういう楽山の、無視による防備と、影響を考えず、反省することもなく、責任を負うこともないという原因は、楽山の自己愛性の体質にあるのでしょう。
 
楽山は、嘘で飾れば、白々しさが表れ、苦言を呈すれば、自分が当てはまる、という無間地獄の様相です。それでも、自覚がなく、平気を装うのが、体質的異常者なのです。
 
 
 面白いドラマ、アニメ
 (『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』、『ゆるキャン△』など)
 2021-02-28 楽山日記(a)
 https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12659452424.html
 

『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』は、第一回では学芸会的過ぎると思ったのだが、つい第二回も見てしまい、それ以降すっかりハマってしまった(笑)。毎回、泣かされ、笑わされている。
ゆるキャン△』はタイトルだけは知っていたが、第一回を見てすぐハマった。アニメもおもしろい。こういう雰囲気はすきだ。
進撃の巨人』も盛り上がっているし、面白いドラマ、アニメがたくさんあってうれしいぞ。

 
批判されている最中に、批判されていることに無頓着でいられる。無視して、ドラマやアニメの趣味の記事を平気で書いていられる。しかも、びくともしないぞとでも言っているような余裕ありげの「(笑)」「うれしいぞ」という文言を付けてくる。これが、楽山という人です。問題を何も感じないのです。
 
 
(2021年03月01日、同日追加)
 
 
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(古い記事は載っていません)
 
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楽山のネトウヨ

 
  楽山のネトウヨ
 
 『国民の歴史』西尾幹二
 2021年02月27日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28212508.html
 
 
ネトウヨ楽山の登場です。著者は、東大文学部卒の、右翼の思想家です。有名人といってよいでしょう。生きている有名人の本の引用、ネトウヨなら無断でしていいのでしょうか。
 

*心に残った箇所
『国民の歴史』は、新しい歴史教科書をつくる会がよく話題にされていた頃に一度通読したきりで、今はもう巻頭の写真をみて円空はすごいと思ったことくらいしか記憶に残っていないので、ひさしぶりに読み返してみた。通史というより、歴史エッセイ集のような体裁なので、どこから読み始めてもよいのはありがたい。宗教絡みでは二点ほど心に残った箇所があったので、ここにメモしておく。

 
読みやすさを強調し、「メモしておく」、というのは、だから、自分は、ちゃんと読んだ、読めた、ということを言いたい楽山のやり方です。実際には、理路と読解の両方に欠陥があります。
 

*聖なるもの
まず一つは、「GODを「神」と訳した間違い」にある「大樹の下にただずむのは私も好きだが、ときに言いしれぬ、ぞっとする恐ろしさを覚えることがある」(平成11年 p.387)という文章だ。この感覚は自分にもある。大樹はもちろん、海山川岩石にも同様の感じを受けることはある。
著者によれば、「この「ぞっとする恐ろしさ」が、他でもない、ルードルフ・オットーの有名な「聖なるもの」の定義に属する。「戦慄すべきもの」あるいは「薄気味わるいもの」あるいは「妖怪的なもの」の感覚から聖なるものの領域の気配がはじまるというのである」(p.387)とのことである。オットーの『聖なるもの』は読もう読もうと思いつつも読んでいなかったのではあるが、こういう話を聞くとますます読みたくなってくる。

 
嘘を吐いている楽山には、神に「ぞっとする恐ろしさ」が強いのだろうと思ったら、楽山の思うつぼです。「戦慄すべきもの」ならば、今までのような、自己中で妄想的な安易さで神を否定することはないでしょう。
 
また、有名人の言葉を借りているだけであり、実際は「薄気味悪いもの」とも感じていないのが楽山です。楽山は、都合の悪い感情は切り捨てて、快感だけを貪ってきたことが、今までの筆致に表れています。
 

キリスト教の敗北
もう一つは、「キリスト教の敗北」についてである。著者によれば、ザビエルは日本での布教活動においては、民衆にむかってキリスト教を知らずに死んだ祖父母らは救われないと「断固厳しい断定をし」(p.396)たのだったが、近年の「第二回ヴァチカン公会議」では「世界の情勢にあわせて世俗化の傾向を強め、異なる宗教との妥協と調和を図る方向へ教義を改訂した」(p.395)としており、これは「キリスト教の敗北」だというのである。これに対してはドイツ人から「あなたの方が私たちよりもずっとキリスト教徒だ」と評され、大笑いになったそうだ。

 
楽山は、キリスト教の勝利、神の勝利が分かるのでしょうか。何も分からないと思います。であれば、キリスト教の敗北も分からないはずです。信仰について何も知らないくせに、またしても、身の程知らずを露呈する楽山です。
 
異教との調和は、どういう異教かにもよるでしょう。自分が舐める飴ばかり漁っている楽山の手に負えるような問題ではないのです。すべて、ケースバイケースです。それを、一般的に語ろうとして、「キリスト教の敗北」と言っている楽山は、大笑いではなく、最初から、愚昧を自ら表しているようなものです。
 
(ネットより)
愚昧(ぐまい):おろかで道理に暗いこと。
https://kotobank.jp/word/%E6%84%9A%E6%98%A7-484905
 

著者の宗教観は、「こうした原理主義的な自己への明確な規定は、宗教の本来の性格からしてあたりまえのことであり、すべてを曖昧にする寛容さのほうがむしろ例外である。非寛容は宗教の特性ですらある」(p.395)というものらしいので、上のような結論になるのも当然ではある。

 
どういうキリスト教を見ているのでしょう。個人の心の中の宗教は、信仰としてしか生きていないものです。それは、結局、他者には分からないもので、神との秘密でもあります。
 
宗教の組織的なことを歴史的に見て、それで宗教を語ったつもりの人は、信仰に触れていないのだから、何が当然なのか、分からないはずです。
 
一部の愚昧な楽山のような者だけが、自らの惨憺たる敗北の履歴には気づかずに、「キリスト教の敗北」などと軽軽に言ってしまうのです。
 

*宗教と人情
ちなみに自分はどんな宗教観をもっているかといえば、下のような文章に感動するクチである。

ああ、そん時近藤先生に、
「多喜二は天国にいるべか」
 って聞いたら、
「あのね、お母さん。聖書には『この小さき者になしたるは、すなわち我になしたるなり』という言葉があるんですよ。チマさんからも聞いていますが、多喜二さんはずいぶんたくさんの貧しい人に、いろいろ親切にして上げたそうですよね。『小さき者』というのは、貧しい人ということですね。名もない貧しい人に親切にすることは、イエスさまに親切にすることなんですよ。多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」
 うれしかったなあ。多喜二に会える。多喜二に会える。うれしかったなあ。
(『母』三浦綾子著、角川書店〈角川文庫〉、平成21年、p.214)
 」
これは小林多喜二の母が、洗礼を受けておらずキリスト信者ではない多喜二は天国に行けたかを心配したところ、親切な人なら信者でなくても天国にいないわけがないといってもらって慰められるという場面だけども、自分にはこれこそ宗教の役割であるように思われる。ただここでは「多喜二さんは天国にいる」と言い切らず、「多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」と若干含みを持たせてるところは、著者の微妙な立ち位置が想像されるのではあるが。

 
「多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」は、人間としての明確な肯定だと思います。楽山は、情緒面の欠陥から、含みを持たせていると受け取っています。
 
激励することが大切な場面でしょうから、日頃の楽山のような雑な言い方はせず、自分はどう思うかを、ちゃんと言い表しています。楽山は、何を言っているのでしょう。
 
(ネットより)
含みを持たせる
読み方:ふくみをもたせる
直接には言い表されてはいないが、表現の中に秘められた意味合いを持っている様子。
https://www.weblio.jp/content/%E5%90%AB%E3%81%BF%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%9F%E3%81%9B%E3%82%8B
 

宗教と人としての情緒が完全に重なっていれば上のような問題は生じないのだろうけれども、そういうことはまずないのだから、情緒豊かな人ほど宗教を信じようとする場合は、宗教と人情のどちらをとるかという問題から逃れることはできず、やっかいである。この点、多くの日本人が無宗教なのは賢明なことだと思う。

 
宗教と人情という2つの言葉による、楽山の、楽山のための、楽山だけの、独り遊びです。いつも楽山がやっていることです。楽山の言葉に、感動の要素が一切ないのは、このような理路の自己中心による破たんがあるからです。
 
その破たんした言葉で、無宗教を賢明だと言っていますが、これは、そのまま、自分は賢明な人だと自慢しているのだから、背筋が寒くなるのです。こういう婉曲に、だまされないでください。
 
「宗教と人情のどちらをとるか」「多くの日本人が無宗教なのは賢明なことだ」・・頭がおかしいとしか思えません。よほど、戒律的、妄想的な、カルトだけを、宗教だと思っているようです。馬脚をあらわすとは、このこと。
 
キリスト信仰の情は、聖書からの、キリストご自身の深い共感に反応して発達します。
 
宗教と人情が重なっていないと言っています。違うのだそうです。それを最も如実に感じるのは、楽山においてであります。
 
景色と水が違うと言っているような的外れです。必ずしも背反しないものを、重なっているものを、崩壊した理路で分けて、どっちだと聞いているようなものです。
 
なぜなら、楽山においては、宗教は超常の怪奇物語に過ぎず、また、楽山には、人としての情がないからです。宗教も、情も、理路も、まるで知らない楽山だからでしょう。
 
当然、楽山の書くものに、そういう冷血と的外れは表れてくるのです。言葉は、楽山には、喧嘩のときに投げる石以上ではないのでしょう。
 
今日も、鬼畜の所業をやめない楽山です。人としての情のない男が、情を語ろうとして、自ら仕掛けた罠につかまってしまう例でしょう。楽山の言は、質の悪い独り言、楽山だけに返ってゆきます。
 
人生の、いろいろなシーンで、雫のように表れてくる真実の欠片を、ことごとく見逃してきたところの、いつもながらの楽山らしい棘だけで出来ている筆致でした。
 
深い情緒は、神への恐れから敬虔の必然として生まれてきます。
 
神を恐れないところからは豪語と虚偽と悪口が生まれてきます。
 
 

    f:id:stdsts:20210227234446j:plain

       非情の沼
 
 
(2021年02月28日、同日一部修正)
 
 
楽山のリツイートです。
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
·22時間
冷たい言葉は、相手の心だけでなく自分自身の心も冷たくし、温かい言葉は、相手の心だけでなく自分自身の心も温めます。心を冷やさないように、温かな心でぐっすり眠れるように、冷たい言葉を避け、温かい言葉を選んで話しまょう。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。
午後11:32 · 2021年2月26日·Twitter Web App
https://twitter.com/hiroshisj/status/1365308649325752323

 
記事の流れの中では冷血が明らかであるのに、場面場面に、丁寧語で、温もりを捏造する者もいます。
 
そういう者に温かい言葉を使うと、ますます、つけあがり、温もりを装うでしょう。そのような温もり芝居だけの、自分納得だけの世界に住んでいる者がいるのだから、暖かい言葉を使いましょう、という説教は、現実の中で、あまりに単純で、あまりに通念的な説教として記録されることになるのです。
 
今回、まさに、そういう者が、このツイートを引用しています。
 
 
(2021年02月28日)
 
 
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善悪と判断2

 
  善悪と判断2
 
 私の前の記事「できることを」
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12577093969.html
 の続きのようなものですが
 
 
アメリカのドラマで、よく聞く台詞です。
 " Do the right thing. "
正しいことをしなさい、やるべきことをしなさい、という意味でしょう。とてもシンプルな言葉だなと思いますが、この台詞に文句を言うつもりはありません。日本でも、日本語で似たようなことは言われるでしょう。
 
 
私たちは、自分でも、社会についても、個人の利益や幸福を妨げることを、悪いことだとを判断しているようです。そこには、加害者がいて、悪人と呼んでいます。そして、自分なりに陰性の感情をいだきます。
 
しかし、私たちは、自分のこと以外では、被害者と加害者について、詳しい経過や、その心の有り様を、知っているわけではありません。
 
つまり、その時その場で、善悪の判断をしているのであって、その判断は相対的だが、それで、行動が必要ならば、行動の基準としています。そうしちゃいけないという理由はありません。というより、そうするしかないわけです。
 
ただ、本当に、どこも間違いのない善悪の判断になっているか、その判断には誤りが全くないか、ということについては、私たちは、完璧な根拠を持ち得ません。総ての状況と、総ての影響を、知っているわけではないからです。
 
人間が、判断して、行動するときの、判断は自分でするしかなく、その判断について、誤りの可能性を自覚しているでしょうか。
 
だから、正しい信仰を、ということではありません。信仰者においても、人間としての善悪の判断は、同じです。
 
むしろ、信仰者であるなら、神の絶対に対しての、人間の非絶対性つまり相対性を自覚しているはずですから、非信仰者よりも、よりいっそう、自分の判断に、神に対する恐れをいだいて、決めつけようとする傾向を抑制するのでなければ、信仰に生きているとは言えないはずです。
 
人間は、絶対正しいから実行するのではなく、それしか考えられないから行動するのです。
 
 
ですから、信仰について、信仰者のキリスト教的通念的道徳を押し付けてはいけない、ということは言えるでしょう。信仰は、神と人の関係、キリストと人の関係であり、道徳的行動はそれに伴うものであって、それに勝るものでも匹敵するものでもありません。人の義は不完全です。
 
ゆえに、神が人に与える義は、信仰義認であって、行為義認ではないのです。
 
さらには、丁寧で控えめで、人を責めたりしない、という、これもキリスト教的な通念的道徳となると、殆ど、意味を持たなくなるでしょう。これらのうわべの態度は、むしろ、信仰とは無関係に、人が、単純なイメージで、生み出した先入観に過ぎません。
 
前から言っているように、聖句から、悪口を言ってはいけない、という道徳を語るには注意が必要です。批判のことを悪口というのは、カルトには必発と言っていいほど見られる言いがかりからです。そして、信仰者自身が批判されたときに、信仰者も、思いやすく、言いやすいことだからです。
 
批判には根拠があることを何度も言ってきました。しかし、批判は絶対ではありません。批判だけでなく、人間の言うこともすることも、絶対の正しさではありません。
 
人は、自らの言動の影響を、最後まで追うことは出来ません。ゆえに、良かれと思って言って、逆に傷つけるということが起こり得るわけです。
 
つまり、批判を含め、あらゆる意見は、それを否定し改めさせるほどの優れた意見によって、修正される余地を残している弁え、それが、敬虔であります。最終的には、神に任されるべきことであり、人は、そのことを自覚していなくてはいけません。
 
そういう、動きうる心が大事だということです。
 
 
動かなくなった心は、停滞してゆきます。そして、人間の不完全性すなわち罪の性質によって、そういう心は、停滞にとどまらず歪曲したり固着したりする恐れがあります。いつのまにか、無条件に、それこそ、実際は快楽原則の不快という原始反応のみによって、他者を否定したり、退けたりするようになる恐れがあります。
 
揺るがない信仰、というものを、勘違いしないでください。救いのありがたさに満たされ、そこに満たされた信仰は、信仰の確信のつもりで、ときに、動く心を失ってしまって、観念のように固定されて、逆に、感謝や讃美のお芝居をさせるようになるからです。
 
揺るがない信仰というのは、忍耐強い信仰のことです。動くゆえに、喜怒哀楽が起きて、悲哀や苦難に忍耐が必要だからです。
 
 
判断し行動することには、人間として、疑問の余地がありません。そうするしかないことです。
 
ゆえにこそ、神を恐れるならば、自分で、善悪の"絶対"基準を作らないことが大事です。
 
絶対でなくても、判断することは出来ますし、行動することも出来ます。その思いや行為や、経過と結果は、祈りにおいて、神に捧げられるべきものなのです。そこで、信仰についても、行為についても、内省力が保たれるでしょう。
 
前から言っていますが、信仰は、神と人との双方向です。祈りは、人から神への唯一の音信であり、神に対する発言であります。
 
その信仰の姿勢こそが、立派に完全になりたい、という、人間の思いこみの欲望から、また、悪意や憎しみから、人間を救うのであって、それゆえに、私たちは敬虔でありうるのです。
 
双方向と言っても、神様やキリストや聖霊が、人と同じように、ひょいひょい顕れて、言葉で教えてくれるわけではありません。神聖の臨在の体験を声高に豪語する向きには注意が必要です。自分が神聖な特別の者になりたがる欲望が働いている恐れがあります。
 
天国に行き、神聖になって、永遠になって、神のようにに聖なる者になる、などということは、人間には分からないことであります。神に任されることです。ましてや、生きている地上では、神聖に近づくよりも、神聖との違いを弁えるべきです。
 
しかしながら、人間として、信仰者として、正直な祈りによって、心が洗われるような、神妙な気持ちになるような、気が済むような、重荷が取れるような、安らかになるような、そういう体験を持ったことのある人は、少なくないと思います。
 
それが、少なくとも、人生の終わる時まで、同伴者がおられることによる癒しであり、人間の側から分かる祈りの効用です。神秘は神の秘密として知りえなくても、癒しの体験は、信仰を通して、人にも分かることです。
 
それが、ただの気休めでないことは、祈りの信仰によって生きてゆく人が、数えきれないほどいる、そして、いたことが、証しとなっているからであります。
 
いかなる人間も、人間の判断も、絶対ではありません。神の前に、自分が絶対ではないことを表すために、精いっぱい正直に告白する祈りこそが、信仰において最も大切な、悔い改めなのです。悔い改めとは、世俗ではなく、神のほうを向く、すなわち、祈ることです。
 
 

     f:id:stdsts:20210226235932p:plain

            神のほうを
 
 
(2020年02月27日)
 
 
楽山の、意地悪な自己中リツイートについては、前にも批判しましたが、いくつか、さかのぼって見てみると、もっとありました。ちょこちょこと、人の口を借りて、・・姑息です。
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
·2月22日
自分を見失いそうになるほど忙しいとき、苦しいときは、ちょっと無理をしてでも、自分が好きなことをするための時間をつくりましょう。自分が本当にしたいこと、心の底から望んでいることさえ忘れなければ、自分を見失うことはありません。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。
午後11:56 · 2021年2月22日·Twitter Web App
https://twitter.com/hiroshisj/status/1363865167658770434

 
忙しくなくても、自分を見失っている楽山です。だから、深く考えもせずに、他者の口を利用します。
 
「本当にしたいこと」という一般的な言い方で正当化してしまうとき、楽山のような自己愛の病質者が、同じように、「心の底から望んでいること」というのは、空恐ろしい敵意と悪意であります。楽山は、神の祝福から、最も遠い人です。
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
無神論bot
@AtheismBotJP
·2月23日
コメディアンに宗教をジョークにするのをやめさせたいって?だったら宗教がこんなに素晴らしいネタの宝庫でいるのをやめたらいいんじゃないかな。トム・バラード(オーストラリアのコメディアン)
午後5:53 · 2021年2月23日·twittbot.net
https://twitter.com/AtheismBotJP/status/1364136293081354242

 
このツイートを選んで引用して、楽山が言いたいことは明らかです。宗教なんてお笑いのネタだと揶揄したいわけです。底意地の悪さが、引用にも出てくる例でしょう。
 
宗教の勘違いがもたらす、おかしな話というのは、恐らく、いっぱいあるでしょう。しかし、それは、勘違いによって起こるものであり、楽山のように、本来の宗教の根本を好きなように揶揄していい、悪口を言って否定していい、ということの根拠には決してなりません。
 
楽山は、悲劇が起こるから神はない、霊が分かるっぽい自分が偉くなれないから神はいない、と言っているに等しいことを、今まで、ずっと書いてきたのです。言い換えれば、神はいない、自分は偉い、と言っているようなものです。そう思わせるような丁寧な詭弁を、楽山は、数え切れないほど書いてきたのです。
 
楽山は、実に、自分の家には柱も床も塀も焼け焦げているのに、隣りの家が、汚いと言い、貧乏だと言って、笑っているような人です。放っておくと町が焼けてしまいます。
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
陣内 侘助
@muAscLTeYb2WlXo
·2月23日
画像:
君らの神の正気は
一体どこの誰が
保証してくれるのだね?
https://twitter.com/muAscLTeYb2WlXo/status/1364214657032937479

 
神の正気は、楽山とは何の関係もないわけです。
つまり、楽山などに全能者の心配は無用です。
 
楽山は自らの正気を疑うべきです。
神も、人も、誰も、保証しないからです。
 
 
(2021年02月27日)
 
 
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楽山の偽り

 
  楽山の偽り
 
 2021年02月25日
 楽山の「幸福とは何だろう?ブログ」
 大川裕太氏のこと(宏洋と広報チャンネル)
 http://mmknky21.blog.jp/archives/8790872.html
  抜粋して批判
 
 
楽山は、自説ではなくて批判なら、自分が書いてもいいだろうと思うのでしょうか。評論家気取り全開といっていい筆致です。誰に対する批判であれ、自己愛の身勝手さで書いている楽山には、批判する資格はないと思います。
 
楽山の、約2年半の履歴が、言論者~批判者としての楽山を否定しています。
 
「あるまい」「なかろうか」「難しいだろう」「有効な教訓だと思う」というようなアドバイス的な書き方をしている楽山は、反省もせず、責任も負わずに書いてくる人です。
 
楽山は、誰の忠告も、誰も批判も、受け取らず、聞かず、無視して、書いているということを忘れてはいけません。むしろ、このような受け狙いの丁寧語をボンヤリ言語と呼んで警戒しています。バランスがとれているように見せかける柔和芝居に、どうか、だまされないでください。
 

*双方の動画を見て思ったこと
広報チャンネルの「確証がないのに変なタイトルをつけて名誉棄損してる」という主張は正論だと思う。タイトルの最後に「?」をつけておけば、確たる証拠もなしに何を言ってもいいというわけでもあるまい。

 
確証もなく、根拠もなく、初歩的な理解もなく、確たる証拠もなしに、キリスト教の悪口を、印象操作と詭弁で広めようとしてきた厚顔無恥の楽山は、誰に対しても、アドバイスできるような人ではありません。楽山が使う批判の言葉は、楽山に返ってゆきます。
 

ただ広報チャンネルは、本人でもないのに女性問題はないと断言して大丈夫なのだろうか。こういうことは秘め事であって他人には分からぬことであろうし、断言は本人にしかできないのではなかろうか。

 
もちろん本人でもないし、信者でもないのに、神はいないと、刷り込もうとしてきたのが楽山です。いい加減に信じるのが望ましい宗教というようなことを言ってきたこともあり、全くの無理解で、著しく宗教と信仰の的を外したクレームで、いちゃもんをつけてきたのが楽山です。楽山の無知のシリーズには、批判を当てるしかありません。楽山は、あらゆる問題を無視する人です。
 

教団内の自由恋愛については、宏洋氏の話に驚きはない。大川隆法の結婚相手は一度目も二度目も信者職員だ。その子供たちも、宏洋氏以外はみな、HSの信者や職員と結婚してる。このことからすると、大川家の面々は、信者職員を恋愛および結婚の対象としては見ていないと言い切ることは難しいだろう。

 
「信者職員を恋愛および結婚の対象としては見て」はいけないと、楽山は言いたいのでしょうか。そう見ているのが事実なのに、見ていないと言うことが間違いだと言っているのでしょうか。
 
楽山は、平気で嘘を吐いて、せいぜい、st問題とか言って、おとしめの言葉を返してくることしかできない人です。そういう体質しか持っていないと判断しています。付き合えば、いつか、逆らって苦言を呈したときに、ひどい目に遭います。
 
恐ろしい自分信仰を、バランスが取れていると思い込んで、さらに、責任逃れのために、批判して、のちに、賛同めいたことを言う、というような、いい加減さで、ごまかしているネットの猥雑なワームの一人だと判断しています。
 
批判に答えることなく、批判を受け取ることもなく、ふつうを装って、書いてくる楽山の、目的は、今も不明ですが、楽山については、主張も、結局、不明であります。
 
楽山は、子供のときからの霊が分かるっぽい自覚から、宗教を離れて自分の言に従うことを欲しているようですから、既に、カルト教祖気取りなのかもしれません。カルトの犠牲者ではないと思います。
 
今言っていることの責任を、いっさい負う気がない、ということだけは忘れないでほしいと思います。まともに反応できる心がないのです。過去には、心理学の話を、霊の話にすり替えて、成り立たない非合理の妄想を、分かったふうに、吹聴していました。
 

古い話ではあるが、フライデー騒動のときに、支部で「マスコミはお金と異性問題を攻めてくるから注意してください」という指導があったことを今でもよく覚えているけれども、こういうスキャンダルを聞くと、これは今でも有効な教訓だと思う。

 
楽山が、批判を無視して書いてくることを心に留めて、注意してください。楽山は、大きなスキャンダルと萌芽として、準備状態なのかもしれませんし、上から物を言う立場に快感を感じているだけなのかもしれません。
 
楽山の言は、スキャンダルではなく、一途に災いであり、不祥事なのです。楽山からは有益な教訓は出てきません。益を奪うものであって、益を与えられるものではないのです。
 
楽山は、柔和なインテリ気取りで書いてきますが、真実の追求に必要な節操も理路も弁えておらず、情感も共感も持ち得ない病質者です。
 
ボンヤリ言語と呼んでいる婉曲表現の丁寧語と、トホホ言語と呼んでいる謙譲・反省芝居で、まともに見せかけてきます。楽山において、バランスは、書く動機において、既に、壊れています。
 
こういう楽山の見かけの腰の低さは、詐欺師の勧誘に似ているとともに、インチキ占い師や、インチキ商売の勧誘に、よく見られるものであります。さらに狡猾かもしれません。
 
こちらとしては、もはや、無理解と無責任だけをネチネチ返してきて過剰な疲労しか与えない楽山に対しては、直接のコメントの遣り取りをする愚を避けて、専ら批判記事をブログに書くことにして、偽善者の資料としてゆくつもりです。
 
 

     f:id:stdsts:20210225233544j:plain

         偽りの柔和芝居
 
 
(2021年02月26日)
 
 
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赦すこと2

 
  赦すこと2
 
 
私が最初に牧師から習ったのは、罪の赦しは、許可ではなく、赦免のことだ、ということでした。だから、漢字では、許す、ではなく、赦す、を使うのでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:14
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
6:15
もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
 (マタイ6:14-15、新約聖書
 
過ちも罪ですから、罪を赦すことについての、赦しなさい、という、キリストの教えです。過ちだと自覚がある場合です。
 
赦されない罪があります。
過ちだと、あるいは、罪だという自覚のない場合です。
罪だと思っていないならば、赦す、ということ自体が無意味です。
 
一つは
気づいていない場合。赦すと言われても何の事だかわかりません。
もう一つは
偽善という罪。罪を犯しながら、罪を隠して善に見せかける罪です。キリストの敵となった者たちは、そういう者たちでした。彼らは、赦しを求めないので、赦すことが意味を持ちません。
 
さて、罪を赦されたら、どうなるでしょう。赦された、ああよかった、これで、清廉潔白になったと思うでしょうか。・・そう思うなら、そう思うことが、罪であります。
 
赦しは、また、これからも罪を犯すであろう罪人としての弁えを学習することです。人間は、この地上では、清廉潔白にはなりません。赦されることで心の解放感はあるでしょう。しかし、ああよかった、と言って安穏とするのは、信仰の態度ではありません。
 
人間の立場から見ると、赦されることよりも、赦しを神に求めることのほうに、生き方の学習があります。したがって、罪を犯しても大丈夫と学ぶのではなく、罪を犯す自分を知ることであります。その学習があるからこそ、私たちは、赦されることを求めるのです。
 
 
キリストの十字架の贖いによって、罪に死んだから、罪はない、などと信じている偽善者もいるようですが、そのような者は、反キリストの役割を果たしているだけなのです。罪はないと信じ込んだ人間がどうなるかということを考え推測して否定するということができないだけの偽善者です。
 
人は、他者の罪を赦すべきか、という問題については、上のほうにあげたように、赦すことが無意味である場合があります。気づかない人は、気づかせる、または、気づくことを待つしかないのでしょう。
 
しかし、キリスト信仰を、自己中心に考えて、あるいは、何も考えないで、何でも赦される、または、赦されることを求めてさえないか、最初から信仰が嘘である場合も含めて、決して、赦してはいけません。偽善と反キリストを増長させるだけです。それは、神に対する罪になります。
 
そういう者を、批判することが苦手なら、無理して批判する必要はありません。神に与えられた務めは、人それぞれです。ただ、批判は、悪口とは違うし、批判する気のある人が、批判しなければいけない場合があることは、承知してください。批判対象にしかならない者がいます。
 
その者は、いつも他者を下に見て、自分を高めるために、教えたがります。放置すれば、会う人ごとに嘘を吹き込み、その人を洗脳して人格をおとしめてゆきます。
 
凶悪カルトとカルト支援者は、悔い改めより、赦しが先だと言っていました。悔い改めは、祈りによる罪の告白です。罪を認めないで隠して、平気で嘘を吐いている者が、どうして赦されるでしょう。どの罪を赦せというのでしょう。どんな罪も、告白しないまま赦されるなら、地上は、偽善者の楽園になるでしょう。そんなことも分からない愚か者が、実際に、いるのです。
 
カルトは、批判者に対しては、いたずらに決めつけることを繰り返して、疲労させ、批判者の人格を破壊してゆきます。こういうことは、宗教が絡むとき、カルトが絡むとき、とても醜悪な遣り取りになりますから、批判というものは、自分を、ある程度は、コントロールできる人がするべきことです。
 
何でもかんでも総ての罪を赦すのがキリスト教の理想などということでは、決して、ありません。むしろ、罪の自覚があるから赦しが意味を持つのです。罪を認めて、神の前に告白して、罪を犯しやすい自分の性質を反省することで、思い上がりが抑えられ、それゆえに、罪を赦される恵みに気づくことができるのです。
 
何でも赦してくれる神?を信じているカルトは、罪人の自覚を全く持たないで、神に対しても、極めて、お気楽に構えており、平気で罪を犯し、嘘を吐いて、偽善者となり、神のしもべたる自身を永遠に弁えないまま、罪業の穴へ、ぬるぬると滑り落ちてゆくでしょう。
 
悔い改めより赦しが先だなどという詭弁を弄する者は、悔い改めなくても赦されるという我欲からの妄想欲求が、そう言わせているだけです。
 
罪の自覚のない者に、赦しを与えることは、いったい何を赦されるのか悟ることもないのだから、赦すこと自体が無意味です。悔い改めない者に、赦しを与えれば、勝手放題の地獄が開かれるだけです。
 
 
罪の自覚があり、それを神に対して正直に告白することで、世俗や我執から、神へと、自らの向きを正すことが悔い改めです。そのために祈りの機会が与えられているのです。
 
 

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           赦す
 
 
(2020年02月)
(2021年02月25日、加筆して再録)
 
 
 ※ 前の記事に補足
 
信仰者が、聖書の言葉から、弱いからこそ強い、という逆説を、理解不十分なまま、説明せずに豪語すると、生き馬の目を抜くように、反キリストから、それこそ、キリスト教の嘘と偽善だと言われ、広められるでしょう。
 
(ネットより)
生き馬の目を抜く
【読み】 いきうまのめをぬく
【意味】 生き馬の目を抜くとは、すばしっこく人を出し抜き、抜け目がなくて油断できないさまのたとえ。
http://kotowaza-allguide.com/i/ikiumanome.html
 
強いのは、いつも神であります。神のみであります。神が憐れむのは、弱さを知っている人であります。ゆえに、神の憐れみがあるから、信仰者は忍耐強いということの、逆説の真実なのです。ゆえに、豪語していいような性質の言葉ではありません。
 
私たちは、神でもなく、キリストでもなく、預言者でもないのだから、力比べは、いけません。
 
世の中には、信仰を、超常奇跡物語としてしか見ていない人もいるようだから、少なくとも、私たちキリスト信仰者は、神の業であって人には手に負えない超常奇跡ではなく、人が人として生きてゆくために必要な、そして、人間であれば理解可能な、愛に通じる共感を受け取り、神とは違う低さと罪深さという弁えを学ぶ姿勢を忘れないで、祈りの信仰生活を送ることが大切です。
 
 
 ※ 批判における厳しい表現について
 
まじめなことを淡々と書いている記事は、一般の読者に対しては、十分ではなくても、意志の伝達として成り立ちます。
 
しかし、私の批判対象は、批判をスルーすると公言していますし、言葉も理路も理解する能力も失っている人なので、普通の批判をしても何も受け取らないでしょうし、気にもしないでしょうし、脅威にならないから、読むことさえしないでしょう。
 
厳しい表現や、辛辣な比喩は、文章の中で目立ちます。ゆえに、批判対象だけでなく、一般に、何を言っているか気になる、ということがあります。
 
無反省と無責任そして体質的に鈍感なあるために、無視してくる批判対象に対して、表現を大人しくすることは、むしろ、こちら側の体面を守ろうといる傾向があります。
 
それに、破綻した理路と要領を得ない筆致や詭弁を見続けることは、ストレスがたまってくるという、こちらの精神衛生の問題でもあります。
 
即ち、辛辣な比喩など、厳しい表現は、激情に駆られて用いるのではなく、激情を治めるために用いるという意味があります。
 
というわけで、今まで、批判対象に向けてきた辛辣な比喩をあげると、亡者、ヒト型生物、疲労物質、放屁、排泄物、糞尿、病原、寄生虫、害虫、ゴキブリ、ドブネズミ、狂犬、等々あります。とうてい全部は思い出せません。
 
なお、嘘吐き、詭弁屋、精神詐欺師、偽善者、病質者、人格障害、高等感情鈍麻、サイコパスエナジーバンパイア、などは、比喩表現ではありません。
 
以前、キリスト教系カルトの者が、私の批判に対して、それこそボロクソに、個人情報まで持ち出して、ギャーギャー吠えるように、罵詈雑言を連発してきたことがあります。それを読んで、私は、この人はギャーギャー言っているんだ・・としか受け取れませんでした。辛辣な表現も、質が問われることを、そのとき思いました。あまりひどいので、サーバーに報告したところ、相手の記事が削除されることもありました。
 
一方、病質者の書くところの、大人しく見せかける文章は、大方、概念的な言葉や熟語を並べただけのものであり、そこに、生活者としての実感が表れていない、という特徴があります。つまり、概念遊び、即ち、机上の空論なのです。
 
そういう文章は、書いた人に学習意欲も真摯さも向上心も反省力も見られないから、繰り返し読まされるほどに、うんざりするか、がっかりするか、ろくな気持ちにならない、ゆえに、疲れるという体験だけを与える文章になります。
 
また、過去の非を認めないまま、きれいごとを書いてくれば、それだけで、嘘吐きだと分かるわけです。人間の歩みとして、成り立っていないからです。パンツに漏らしたウンコを洗わず拭かないでいて、ニオイが、むわ~と伝わってくるようなものなのです。
 
 
(2021年02月25日)
 
 
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弱さを誇る2

 
  弱さを誇る2
 
 
信仰によって与えられる力は生きる力であり
信仰による強さは忍耐強さである。
 
信仰による超能力のような霊力を信じるのはカルトであり
弱かったが今は強くなったと豪語するのもカルトである。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
12:9
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
 (2コリ12:9-10、新約聖書
 
「弱い時にこそ、わたしは強い」というこの教えについて、弱いから強い、弱さゆえに強い、という逆説をもって理解したことにしてはいけない。ましてや、豪語してはいけない。
 
何故なら、単なる逆説と受け取ってしまうと、言葉上の辻褄合わせにしかなっていないので、信仰生活において、思い上がることにはなっても、生きた働きを人に与えることはないからです。
 
弱い時に、何か奇跡が起こって超常的なパワーで強くなるという話ではありません。弱くあるということ自体が、祈りに通じると言うことであり、そこで、癒されて、学ぶことが出来るということです。 
 
パウロは、艱難に耐えることを語っています。つまり、強さとは、忍耐強さに他なりません。
 
弱いからこそ、主を知り、主を知ったからこそ、忍耐強くなるということです。
 
 
人間にとって、心霊に関係のあるような言葉は、例えば、聖霊、霊感、神来の興、インスピレーション、ひらめき、気づき、などがあります。人間にありそうなこと、起こりそうなことから、なさそうなことまで、内容はバラバラでありながら、言葉は溢れています。
 
神が人に何を与えるかということは、キリスト信仰においては、神の秘密であり、人が確定することは出来ないのです。
 
神に感謝することはありますが、それは、自分の判断に過ぎないことを弁えるべきです。
 
起こったすべてのことが、神の恵みだと受け取れば、自分の気持ちに背くことになり、情緒面が、おかしくなるかもしれません。また、いいほうに、いいほうに、と解釈することは、いつか無理が来るはずです。そういうことに気づいていながら、それが信仰だと思い込んでいるなら、不幸としか言いようがありません。
 
それは、信仰の恵みではありません。考察や反省をしないなら、ただの思いこみからの多幸症です。
 
何故なら、成長が見込めないからです。前にも言ったように、心を固定してはいけないのです。心を動かないように自分ですることは、感動できなくなることです。そういう人は、しばしば、言葉の上だけで感動を捏造し、感謝や讃美の芝居をするようになるでしょう。
 
信仰は、洞察力や、深い考察、などというものとも混同されてもいるようです。これらは、学習経過によって、人間にも起こりうることですが、つまり、人間の、ひらめきや、気づきなどは、心霊という言葉を使わなくても、持つことがあり、表れることがあります。しかし、それが、必ず起こるという保証がないことは、最初に気づいて、弁えておくべきことなのです。
 
 
上の聖句の、弱さとは、キリスト信仰においては、かなりはっきりしたものです。
 
つまり、人間の罪深さであり、不完全、不安定、変わりやすさ、くじけやすい脆さ、などを表していると思います。私は、神の完全に対する人の不完全という言い方をすることが多いです。
 
整ったつもりで、整っていない、しかも、それに気づかない、という性質が、人間にはあります。
いつもではないが、逆に言えば、整うのも、いつもではない、という真実なのです。
 
信仰について、整えるつもりで、自分が、整ったと思うなら、その時の自分には、整わないところを指摘する判断はないわけです。人間は絶対の基準を持ち得ず、外部に委ねるほかはない。そして、その外部の基準を見ることはない。それは、究極的に、神だからです。
 
三者ということも人知においてはあっていいと思います。しかし、自分以外の判断を受け取るためには、同じように、それって正しい?・・が付きまといます。
 
で、どうするかは、前から言っているように、絶対ではなく、相対というのが分かりにくいなら、非絶対である自覚をもって、心の可動性・可変性を失わないようにしましょうということです。
 
そういう不完全性の自覚のために、誘惑に負けたりすることで、失敗する体験から、罪とか、足らざる自分に気づくことによって、信仰は始まります。自分の相対性・非絶対性・不完全性は、人間に与えられた気づきの恵みであり、個人的に、私は、それを、神という絶対を恐れることと同値であると考えています。
 
神の偉大さ、キリストの愛、罪の贖い、それら信条に関することを唱えるだけでは、人間が信じるに相応しいキリスト信仰になることはありません。罪の自覚を、形式的にではなく、実感するのでなければ、信仰者といっても、まだ、未熟であり、発育途上であります。つまり、総ての信仰者は、発育途上です。それが、神を恐れることなのです。
 
信仰者が、良いことばかりに目を向けていると、未熟に戻ってしまう、という、いわゆる退行がおこり得るわけです。
 
いかに、日々、精いっぱいの正直をもって祈ることが大切かということです。
 
 
カルトは、しばしば、一気に、悟り、一気に、平安の境地に至ることを主張し、しばしば、語気を強めて、豪語したり、脅しをかけたりする特徴を持ちます。地道な努力をしたくなくて、短絡しているわけです。豪語も、短絡であり、強く言いたいがために使うのでしょう。
 
カルトの短絡は、一つの言葉で、総てを言い表すことは出来ない、という共通の真実に共感できない特徴です。信仰においては、自らの言葉にも、成長の必要がある、という人の真実を理解しないゆえの所業です。
 
カルトは、反省、内省力に欠けていて、人のことばかり言う自己中心があります。かつ、不都合を、人のせいにする傾向もあります。
 
カルトの言動は、偽善的であることが特徴であり、嘘を平気で吐く者もいます。
 
罪悪感を感じて、信仰に目覚めるのではなく、罪悪感を感じるのが嫌で、信仰によって清められたかのような気になっているカルトもいます。
 
 
カルトは、大方、分かっているつもりになっている。
 
私たち信仰者は、分かっていないことを知っている。
 
 
用語についてですが、私にとって、真実という言葉は、長い経過を経ても、変わらなかったという根拠によって、使う言葉です。絶対的ではないが、恐らく、否定されることはないだろうと言う推測の強さから判断しています。
 
真理という言葉は、万能・不変のニュアンスが強いため、神の真理として、神聖なものとして、人が得たり、人に与えられたりするものとしては、私個人は使わないようにしています。
 
神の真理から、私たちは人の真実を受け取ります。真実は、人とともに、成長します。
 
( ※ この「真理」と「真実」という言葉の使い分けは、私個人の解釈です。)
 
 

   f:id:stdsts:20210223234028p:plain

            真理と真実
 
 
(2020年02月20日)
(2021年02月24日、再録+加筆)
 
 
※ 
 
一応の信仰についての理路のようなものもあります。そこから、楽山の嘘がバレてきました。
 
無責任・無神経の楽山は、ある時、反キリストの言を吐き、別の時には、クリスチャンの祈りみたいなことを書いてきました。
 
キリスト者(クリスチャン)は、祈りを書くことはありますが、反キリストの言を吐くことはありません。この時点で、楽山がキリスト者あるいはキリスト者側ではないことが明らかとなりますから、クリスチャンみたいな祈りのほうは、芝居であり、真っ赤な嘘だと分かるのです。
 
そういう書き方しかしてこなかったから、振り回される方は、悪口をダイレクトに言われる以上に疲労して、うんざりして、何だこいつは?ということになって、全否定し、人格の問題を考えるしかなくなるわけです。
 
宗教についての楽山の記事においても、他者の言葉を借りてきたり、幼稚な無神論もどきを気取って言ってきたり、ときには、逆に信仰を認めるようなことを書いたりして、ふらふらして、しかも、断定しないから責任はない、などと言う始末です。まさに、楽山の言は、なかなか拡散しない放屁のようなものです。
 
余談ですが、楽山の言よりも、例えば、ゴルゴ13の台詞のほうが、ごまかしが通用しないというストーリー上の意味では、よほど、インパクトと説得力があります。
 
 
 楽山のリツイートですが
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
ゲイの精神科医Tomy
@PdoctorTomy
人生にレールなんかないわよ。
どこに進んでもいい原っぱよ。
でも勝手に自分のレール作って、「脱線した!」って思い込む人もいる。
脱線なんかしてないから!
午後7:03 · 2021年2月23日·Twitter for Android
https://twitter.com/PdoctorTomy/status/1364153786390904832

 
楽山は、なぜ、このツイートを載せるのでしょう。ゲイに興味があるのでしょうか。リツイートだけで何も書かなければ、伝わりません。伝えようという気があるのでしょうか。
 
またしても、楽山は、ボンヤリ言語の手段として、人の言葉で、ほのめかし、暗示して、人に伝えるのではなく、自分が、書くだけで、引用するだけで、いい感じになって納得したいだけなのでしょう。実に、伝える努力など全然しない人のようです。
 
しかし、自己正当化ばかりしてきた楽山ですから、そこから考えると、「レールなんかない」「「脱線した!」って思いこむ」「脱線なんかしてないから」、という文言によって、楽山は、それこそ、脱線なんかしてない、自分は正しい!・・とでも叫びたいのでしょうか。
 
楽山は、無反省・無責任の体質から、改善しようとも思わず、訂正不能であることを、人の言葉を借りて、脱線じゃないと思い込みたいのでしょうか。つまり、今回も、自己正当化を、他者の言葉に責任を負わせて、やっているだけなのでしょう。酷い脱線であり、自他の破壊であります。
 
楽山が、無反省・無責任・無理解・無神経で、自分が何も整っていないのに他者を批判すること、自己愛からの自己正当化で訂正不能であること、宗教への悪口と賛同の両方書いて責任問題は生じないと言って何も改めない姿勢であること、・・これらから考えるに、楽山は、どこで脱線したかも分からなくなっている状況だと思います。
 
ゲイがどうこうという問題ではなく、楽山の問題なのです。今までの読書と同じように、なんだか味方のように、都合のよいところだけを引用して、他者を巻き込むのはやめるべきです。自己満足するだけのために、他者の言葉を引用するのは、見苦しいだけです。
 
楽山が、自身の問題を受け止めず、非を認める姿勢を持たないのであれば、いつまでも、どこまでも、分からないまま、脱線は、さらに、ひどくなり、自分が壊れるだけでなく、人に迷惑をかけ続け、疲労を与え続けるのでしょう。
 
 
(2021年02月24日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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