ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

弱さを誇る

 
  弱さを誇る
 
 
信仰によって与えられる力は生きる力であり
信仰による強さは忍耐強さである。
 
信仰による超能力のような霊力を信じるのはカルトであり
弱かったが今は強くなったと豪語するのもカルトである。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
12:9
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
 (2コリ12:9-10、新約聖書
 
「弱い時にこそ、わたしは強い」というこの教えについて、弱いから強い、弱さゆえに強い、という逆説をもって理解したことにしてはいけない。ましてや、豪語してはいけない。
 
何故なら、この逆説は、言葉上の辻褄合わせにしかなっていないので、信仰生活において、思い上がって罪を犯すことにはなっても、生きた働きを人に与えることはないからです。
 
パウロは、艱難に耐えることを語っています。つまり、強さとは、忍耐強さに他なりません。
 
弱いからこそ、主を知り、主を知ったからこそ、忍耐強くなるということです。
 
 
人間にとって
心霊に関係のあるような言葉には
聖霊、霊感、神来の興、インスピレーション、ひらめき、気づき、などがあります。
人間にありそうなこと、起こりそうなことから、なさそうなことまで、内容はバラバラでありながら、言葉は溢れています。
 
神が人に何を与えたかということは、キリスト信仰においては、神の秘密であり、人が確定することは出来ないのです。
 
神に感謝することはありますが、それは、自分の判断に過ぎないことを弁えるべきです。
 
起こったすべてのことが、神の恵みだと受け取れば、自分の気持ちに背くことになり、情緒面が、おかしくなるかもしれません。また、いいほうに、いいほうに、と解釈することは、いつか無理が来るはずです。そういうことに気づいていながら、それが信仰だと思い込んでいるなら、不幸としか言いようがありません。
 
それは、信仰の恵みではありません。考察や反省をしないなら、ただの思いこみからの多幸症です。
 
何故なら、成長が見込めないからです。前にも言ったように、心を固定してはいけないのです。心を動かないように自分ですることは、感動できなくなることです。そういう人は、しばしば、言葉の上だけで感動を捏造し芝居するようになるでしょう。
 
洞察力や、深い考察、などというものとも混同されてもいるようです。これらは、学習経過によって、人間にも起こりうることですが、つまり、人間の、ひらめきや、気づきなどは、心霊という言葉を使わなくても、持つことがあり、表れることがあります。しかし、それが、必ず起こるという保証がないことは、最初に気づいて、弁えておくべきことなのです。
 
 
上の聖句の、弱さとは、キリスト信仰においては、かなりはっきりしたものです。
つまり、人間の罪深さであり、不完全、不安定、変わりやすさ、くじけやすい脆さ、などを表していると思います。私は、神の完全に対する人の不完全という言い方をすることが多いです。
 
整ったつもりで、整っていない、しかも、それに気づかない、という性質が、人間にはあります。
いつもではないが、逆に言えば、整うのも、いつもではない、という真実なのです。
 
整えるつもりで、自分が、整ったと思うなら、その時の自分には、整わないところを指摘する判断はないわけです。何が言いたいかと言うと、総ての判断の根拠を自分の内部に置くことは間違っているということです。言い換えると、人間は絶対の基準を持ち得ず、外部に委ねるほかはない。
 
三者ということも人知においてはあっていいと思います。しかし、自分以外の判断を受け取るためには、同じように、それって正しい?・・が付きまといます。
 
で、どうするかは、前から言っているように、絶対ではなく、相対というのが分かりにくいなら、非絶対である自覚をもって、心の可動性・可変性を失わないようにしましょうということです。
 
そういう不完全性の自覚のために、誘惑に負けたりすることで、失敗する体験から、罪とか、足らざる自分に気づくことによって、信仰は始まります。自分の相対性・非絶対性・不完全性は、人間に与えられた気づきの恵みであり、個人的に、私は、それを、神という絶対を恐れることに求めています。
 
神の偉大さ、キリストの愛、罪の贖い、それら信条に関することを唱えるだけでは、人間が信じるに相応しいキリスト信仰になることはありません。罪の自覚を、形式的にではなく、実感するのでなければ、信仰者といっても、まだ、未熟であり、発育途上であります。つまり、総ての信仰者は、発育途上です。それが、神を恐れることなのです。
 
信仰歴が長い人には、良いことばかりに目を向けていると、同じような未熟に返ってしまう、という、いわゆる退行がおこり得るわけです。
 
いかに、日々、精いっぱいの正直をもって、祈り、悔い改めることが大切かということです。
 
 
カルトは、しばしば、一気に、悟り、一気に、平安の境地になることを主張し、しばしば、語気を強めて、豪語したり、脅しをかけたりする特徴を持ちます。地道な努力をしたくなくて、短絡しているわけです。豪語も、短絡であり、強く言いたいがために使うのでしょう。
 
それは、一つの言葉で、総てを言い表すことは出来ない、という共通の真実に共感できない特徴です。信仰においては、自らの言葉にも、成長の必要があることを理解しない者たちの所業です。
 
カルトは、反省、内省力に欠けて、人のことばかり言う自己中心があります。かつ、不都合を、人のせいにする傾向もあります。
 
カルトの言動は、偽善的であることが特徴であり、嘘を平気で吐く者もいます。
 
罪悪感を感じて、信仰に目覚めるのではなく、罪悪感を感じるのが嫌で、信仰によって清められたかのようなカルト信条もあります。
 
 
用語についてですが、私にとって、真実という言葉は、長い経過を経ても、変わらなかったという根拠によって、使う言葉です。絶対的ではないが、恐らく、否定されることはないだろうと言う推測の強さから判断しています。
 
真理という言葉は、万能・不変のニュアンスが強いため、神の真理として、神聖なものとして、人が得たり、人に与えられたりするものとしては、私個人は使わないようにしています。
 
 
(2020年02月20日)
 
 
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アドラー教について(17)

 
  アドラー教について(17)
 
 ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン)
  2019-03-15  
 人の心を深読みすれば、お互いに不幸になるだけ❗️
https://www.adlersalon.com/entry/2019/03/15/%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%BF%83%E3%82%92%E6%B7%B1%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%80%81%E3%81%8A%E4%BA%92%E3%81%84%E3%81%AB%E4%B8%8D%E5%B9%B8%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%A0%E3%81%91
 
 
なんだか、人同士のつきあいを、何かの駆け引きのように考えている節があります。人間関係を、冷たい説教の言葉の理屈で断定的に見なしながら交わるのは嫌だな、という感想をいだきました。
 

他人の心を読みすぎれば、あなたが振り回されてしまいます。
あなたは他人の心を込めて読もうとし過ぎては、あなた自身が振り回されてしまい疲れ果ててしまった経験はありませんか?
他人を思いやること、人への優しさを持つことは生きていく上で非常に重要なものですが、他人の心を深読みしすぎてあなたが振り回されてしまってはいけません。

 
深読みがよくないのは、それで、関係をこじらせたりするから、深読みしすぎたと思うのでしょうが、実際には、深く読み取ってなどいないからです。
 
つまり、人間は、他人の心を、深く、詳しく、正確に、読み取ることはできない、という自覚が必要でしょう。
 

人には、他人の心を察する能力があり、この能力は周囲の人達と良好な関係を保つ為に必要となる大切なものです。
この頃元気の無い友人がいたとします。
そんな時に何か困っていたり、悩んでいるのかな?と相手の心中を察することで、優しい気持ちで「何か困っていたら相談してね」と声をかけることができます。
こうしたやり取りを通して、人と人は信頼関係を構築していくことができます。

 
実際、相談してきたら、どうしますか。その人の、状況、心理など、詳しくは知りえないのだから、深読み、実際は浅読みを深読みと勘違いするような、ここのサイトがやるような、濃密で断定的なアドバイスをしようとすると、こじれることになるでしょう。
 
事情を知ろうとして問い詰めないこと、あなたはこう思っているけど云々・・みたいな分かってるふうにならないことが大切です。実際、相手について分かったつもりでも、それは、自分の世界のことで、相手の世界を知ったわけではありません。相手について分かるのは一部だけなのです。そこから推測しているに過ぎないのです。
 
ひどいのになると、ある日、唐突に、向いてないと思うね、などと、何様のつもりだと言いたくなるようなネガティブな言い方をしてアドバイスしたつもりでいる者もいました。・・あんたが、オレの、何を知っているというのだ・・と言いたくなることがありました。その頃、私は、対人緊張があって、しかも、突然のことで、唖然(あぜん)として、その場では何も言えなかった、という悔しさが残っています。
 

しかし、他人の心を読みすぎないようにしましょう。
アドラーは、感情的なやり取りよりも、理性的なやり取りをするべきとしています。
言葉以外で、人と人は正確な意思疎通を図ることはできません。相手の心を言葉ではなく忖度だけで推し量ろうとすることは、度が過ぎれば押し付けにもなりえてしまうのです。

 
読み過ぎではなく、読むことができていないのに、読んだつもりになると自己中心の説教臭さになりやすいということを自覚するべきでしょう。度が過ぎてはいけない、ではなく、正確には出来ない自分、ということなのです。
 
他者の気持ち、悩み、アドラー教で言うところの課題など、読み取るには限界が厳然とあり、どこが境界かも、いつもはっきり分かるわけではない、という自覚があれば、こちらの言い方に、その自覚が表れるでしょう。断定、押し付け、決めつけは、しなくなるでしょう。
 

思いやりのはずであった、他人の心を読むこいう行為であなた自身が振り回されては心をかき乱してしまうのではいけません。

 
他人の心を読む、などという自覚ではなく、話を聞かせてもらって、共感できることについて意見を言う、という姿勢を持つべきです。ブログ主は、また、強すぎる言い方をしています。
 

前述の元気の無い人を見て、「何か悩みでもあるのかな?もしかして私のことを迷惑だと思っているのかな?…」などと邪推して余計なことまで考えてしまいがちです。
こんな風に考えていれば、あなたがどんどん落ち込んでしまうだけで良い事は一つもありません。

 
余計な勘繰りというのは「私のことを迷惑だと思っているのかな?」という発言で邪推の例となることではなく、むしろ、他人の心を読んでいる、という思い上がった自覚がもたらすものでしょう。心を読むのではなく、心を思いやって、できることをする、ということしかないのです。
 

アドラーは他者貢献は幸せになる為に必要であるとしていますが、そこに自己犠牲が伴ってはいけないとしています。

 
特定の人に依存しているかのように、のめり込むことがいけないのです。他者のために思い計らうことは、多少とも自己犠牲を伴います。人間愛の本質です。自己を全く犠牲にしないようにして、などと考えて、他者貢献は出来ないと思います。
 
他者貢献はするが、自己犠牲はしない、というのは、ええかっこしいの辻褄合わせでしょう。
 

つまり、誰が元気の無い人、悩んでいそうな人を見ても、「何か困ってるのかな?」くらいで相手の心を読むのはやめておきましょう。

 
それだけだと、他者貢献にはなっていないのではないでしょうか。言葉だけ、やさしい人っていますけど、偽善的な印象になりやすく、なんだ、あれは、と思われるんじゃないでしょうか。
 

他人が「何に」悩み、困っているのかは本人から聞かないと分からないものであるとして割り切り、あなたで勝手に悪い方へ考え巡らせないようにしましょう。
辛そうな人には優しく声をかけること、必要な援助をすることができることを伝えてあげれば良いのです。
人は人に援助はできても、それ以上のことはできません。

 
私は、好意的なよそよそしさ、というのが、双方の自立した付き合いの、弁えの言葉としては気に入っています。私にできることがあればします、ということしか言えないはずだからです。そのとき、援助、できること、というのには、実行できて、かつ、折に触れて説明できる具体性がなければいけません。言葉だけでは、偽善になってしまいます。
 
そうすれば、一方で、人間が、他者のために出来ることには限りがあることを知るでしょう。そのことによって、人間の不完全性、罪の性質、などを知ることにもなるでしょう。他者とのかかわりは、まさに、自分の成長のためでもあります。
 
ゆえに、他者に関わるときには、特に、うんちくもないのに、やたら説教をしたがるカルト臭い人とかもいますから、よくよく選んで、人間性がおかしくなっているようなところは、避けるようにしてほしいと思います。
 

アドラーの考え方で言うならば、困難を克服しようとするかしないかは他人の課題であり、あなたの課題ではないため、本質的にはあなたにはどうにもできないということです。

 
課題、課題と、アドラー教にこだわる言葉遣いを、私は好みません。人間関係は、誰の課題などという言葉の割り切りで語れるものではないからです。言葉は、万能ではありません。
 
人間にとって、言葉は仮の暗号です。心は存在の波動のようなものです。言葉は固定できますが、心は固定できません。無理に、心を固定しようとすれば、知らないうちに自らの心に痼(しこ)りと亀裂が生まれます。
 
言葉と心が、不変に一致するということはありません。その時その場で、技(わざ)としてではなく、わが身を省みて努力と工夫を必要とするのが、人間の言葉です。
 
人間関係を考える上では、言葉にこだわらない柔軟な思考と情緒の活性が必要です。大切なのは心ですから、心構えも、一通りの言葉では、とうてい表されるものではないと思います。その場で、その時に、表す言葉を、直感して、かつ、考えるアクティブな作業が必要です。
 
アクティブが、柔和につながります。パッシブな固定は、盲信につながります。
 
他人の課題、自分の課題、という分離を、神のお告げみたいに、絶対化していると、批判的に見る目を失って、正しいはずだからと現象をこじつけるようになるでしょう。さらには、同じことを繰り返し、そうでないときは、気に入らないことは無視しましょう、というような、自己中の典型に堕してしまいます。
 
 
 近況: 母入院。
 
 (2月18日午前5:05現在)
昨日、夕刻、介護施設から電話があって、母が、39度の発熱があって、肺炎の疑いで、市内の総合病院に入院になりました。今すぐ、危篤ということではないようですが、ひょっとしたら、ブログお休みになる日があるかもしれません。今日、入院手続きをしに行きます。
 
介護施設からの入院は、去年6月、尿路感染で入院して、二度目になります。あの時も、39度の発熱があったそうですが、2日経ってから同じように入院手続きに行ったときには、本人は、熱も下がって、病室のベッドで、笑っていました。今回、もし、肺炎だったら、ちょっと厄介かな。
 
 (18日午後1時半現在)
入院手続きに言って、ハンコを忘れてしまって、また、行かねばなりません。何をやっているのやら。
母は、ベッドで抗生物質の点滴と酸素吸入を受けながら、熱も下がって、意識清明で、痰まじりの咳が出るようですが、見た目は回復しつつあるようです。
 
 
(2020年02月19日)
 
 
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叱責か思いやりか

 
  叱責か思いやりか
 
 
次の2つの記事において
似たようなことを感じたので記事にしてみます。
 
マリヤとマルタの愛(加筆・再録)・・(1)
2019-04-22 11:14:25
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12456044029.html
 
you should not ・・(2)
2020-01-18 00:21:21
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12567822463.html
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:38
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
10:39
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
10:40
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
10:41
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
10:42
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
  (ルカ10:38-42、新約聖書
 
(1)と引用聖句で、キリストがマルタに言ったことは、
(2)の you should not に似ているかもしれないと感じました。
私の英語の正確さは、さておき・・の話ですが。(汗)
 
聖句の、キリストからマルタへの言葉は、
キリストの思い煩いについての癒やしを言葉を思い出すなら、
あなたは思いわずらうべきではありません
という戒めとして守ろうとするのではなく
 
心を取り乱しているマルタを見て
私の接待のためにそんなにあくせくしなくてもいいのに
という、いたわりの意味として受け取るべきだと思います。
 
記事にも書きましたが、この聖句は、
単に "なんじおもいわずらうなかれ" だけではなく
 
心を取り乱すほど思い煩うくらいなら持て成しはほどほどでいい、
なんなら、しなくてもいい、という意味ではないかと思いました。
 
キリストのやや硬めに翻訳されている言葉は、キリストゆえに、思いやりと寛容の言葉として受け取るようにしたほうがいいと思います。キリストの権威ある言い方は、その、いと高き権威からの、ゆるがない慈愛なのです。キリストの権威は、カルトや地上の権威のように頭ごなしに戒め叱りつけるのとは、全く違うものです。
 
となると、この聖句がある理由は、キリストが、マリヤが良いほうを選んだと言っても、マリヤのようにキリストのそばでうっとりしていることが良い信仰だと言っているのではなく、
 
生きている限り、いろいろな世事が付きまとうわけですが、マルタのように世事に追われている人のために、日常のことで思い煩うくらいならキリストのそばにいることを思いなさい、つまり、私たちにとっては、祈ることのほうが大切、ということを言っているような気がします。
 
おもてなしは、訪れた人に対して、喜びをもってすることであって、思い煩いの種になるなら本末転倒、という常識的道理もありますが、
 
あるいは、キリストだからと、できるだけ持て成すのは大切だが、そのことで、取り乱すくらいなら、マリヤのように、むしろ、それこそ、持て成しは出来なくても、キリストのそばにいて、離れないでいるほうが大切、ということだろうと思います。
 
キリストをもてなすことなど、何も出来ない状況で、正直な告白のみによって、救いを与えられた人がいることを思い出すべきでしょう。・・姦淫の罪を犯した女性、着物に触れた女性、パンくずと小犬の喩えを語ってキリストに食い下がった女性、十字架上の犯罪人、などなど。
 
持て成しが不十分でも信仰は十分続きますが、持て成しを完璧にしようとするあまり思い煩いが支配してしまうなら信仰ではなくなる可能性があるからでしょう。
 
信仰が強迫観念になって疲労を強いるようになってはいけない、ということで、どちらが大切かという問題として聖句も語られているわけです。
 
つまり、できないことまでやろうとしないで、
できることをする、というのが信仰の、あるべき行ないということでしょう。
 
できないことをしようと心を痛めても思い煩いが深くなるばかりだから、
 
何かをしたいならば、あるいは、するべきだと思うときには、
できることをする、できないことはしない、思いわずらう必要はないのですが、
ここが、強迫的になって、思い煩いや、八つ当たりになりやすい、という聖句でしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳、抜粋)
・・思いわずらうな。・・あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。・・・信仰の薄い者たちよ。・・・あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
 (マタイ6:25-34より抜粋、新約聖書
 
 
(2020年02月18日)
 
 
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言葉と波動

 
  心の波動
 
 
心を表し伝えるために言葉を使います。
このブログもそうです。
しかし、私たちが罪深いように
人間の心を表すために使う人間の言葉も罪深く
心を、いつも、
間違いなく正確に言葉にすることは不可能です。
 
心を表すために対応させている言葉は
それこそ人それぞれの学習経過により
微妙に、時に、著しく
人によって違うものを伝えてしまい
誤解と曲解を生じます。
 
 
心と言葉が正確な対応でないゆえに
言葉に対応させているつもりの心は
言葉を確定することによって確定されるものではない。
 
言葉は心を託す暗号の一つで
言葉で対応するための心は
喩えるなら波動のようなものだろう。
 
固定した形を持つ言葉と
揺れ動く現象である波動を持つ心
一対一の対応などしようがないのである。

  
心の波は振幅を持っていて
言葉および感覚可能な媒体によって
あるとき感動という大きな波を生じても
別の時には振幅は減衰している。
 
感動は、いつも新しく
過去の感動は、感動したという記憶に過ぎず
感動そのものではない。
 
ゆえに、感動を伴うべきこと
例えば信仰において
言葉としての信条を唱えるのは
記憶を強化するが
感動を強化しない。
ゆえに、信仰を強化しない。
 
感動、癒し、慰め、恵み、赦し、などの
信仰にとって、なくてはならないものは
言葉の反復によっては強化されない。
 
しかし、私たちは、
信仰を表すのに言葉しか持たない。
 
言葉に関わることで
信仰を新たにすることについて
聖書は、端的に述べている。
"悔い改めなさい"と。
 
悔い改めることは
求道者が信仰者になる時だけではない。
信仰者の信仰生活の主軸である。
何故なら
それは祈りに他ならないからだ。
 
私たちは地上で完全になることはない。
ということは、気づかぬうちに罪を犯している。
だから私たちは精いっぱい正直に祈る必要があり
それこそが悔い改めである。
 
悔い改めによって
改めて学習することが
信仰の成長である。
 
私たち信仰者は悟ってなどいない。
神の前には、いつも恥ずかしい存在なのだ。
その恥じらいを敬虔と呼ぶ。
 
恥を知らない者になってはいけない。
 
祈りも不完全である。
祈りも恥ずかしい言葉である。
祈りが完全になることはない。
 
しかし、いかに不完全で恥ずかしくても
繰り返し、折に触れて、正直に、祈る必要があるのは
私たちが、不完全の自覚を持つゆえにこそ
神は、その寛容をもって、神の民である私たちが祈るのを
いつも待っておられるからだ。
 
祈りは、人から、神への、唯一の音信である。
 
 
(2020年02月17日、同日一部修正)
 
 
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覚せい(剤、罪)

 
  覚醒(剤、罪)
 
 

どんなときも どんなときも
僕が僕らしくあるために
「好きなものは好き!」と
言える気持ち抱きしめてたい
 」
  
 実行した。皮肉な歌詞になった。
 

本当に 本当に(〇が)大好きだったから
もう(●なんて)しないなんて 言わないよ絶対
 」
  
 開き直りに聞こえてしまう。
 
 
自分の歌に斬られてしまう。
 
 
あの顔は
犯罪者になると救いがたいものになると
気づかないとは
やはり成功者の傲慢か。
天才気取りの万能妄想か。
 
一度はゆるされる。
やり直しも立ち直りも出来る。
二度、三度、・・となると
見捨てて関わらない人が増えてゆく
ということくらい気づいてほしい。
 
覚せい剤
幻覚妄想を来たして行動化しやすく
感情と思考が鈍麻して精神病状態となりやすい。
 
その人の顔の中で最悪の人相になり
目つきが悪くなり冷たく鈍い表情になってゆく。
 
歯並びのことは言わぬが
 
どんなときも、うっそぴょ~ん、
みたいな深刻味のない顔に見えるだろう。
 
覚せい剤中毒が
精神病より悪いのは
それ専用の薬がないことです。
 
罪悪感もなくなって
短絡的な行動に結び付きやすく
被害妄想から犯罪に結びつきやすいことです。
 
ブサイクの星、落ちた。
 
ブサイクゆえの恵みの節操、守れず、堕ちた。
 
 
  近況・一
 
私は、ADSL回線を使っています。ここ2年ほど、NTTから、光回線に帰る勧めが、封書と電話でしばしばありました。私としては、母のこともあり、私の健康問題もあるので、あまり、変化を望んでいません。
 
去年、電話で、ADSLが、12月までと言われ、次には1月31日、次には3月1日と言ってきたので、接続サーバーに問い合わせたところ、2023年1月31日ということで、あまり見ていなかったNTTからの書類を見ても同じでした。
 
プロバイダーからの返事:
「ご指摘の通り、NTT西日本様では「フレッツ・ADSL」の提供終了を
 発表されていますが、終了日は2023年1月31日でございます。
 まだ3年近くありますので、弊社からの特別なご案内は控えております。
 昨今、光接続の勧誘は増大しており、中にはNTTを騙る業者もありますので、
 十分ご注意くださいますようお願い申し上げます。」
とのこと。
 
NTTが、いい加減なことをしているか、変な業者か詐欺かもしれないと、警戒しています。
 
 
  近況・二
 
介護施設に入所している母は、前に記事にも書きましたが、月に一回、職員が、家に連れてきて、午前中から夕方まで一時帰宅をするのと、そうでないときは、月に一回、市内の総合病院に、母は、介護施設職員が連れて行って、私は私で行って、そこで、私が付き添って受診し、終わると電話して、介護職員が迎えに来る、ということになっています。
 
認知症のほうは、隠れていることもありますが、話し出すと、やはり壊れた記憶をつなぎ合わせたような現実検討の出来ない話をします。今月、母は、97歳、私は、66歳になります。母は、体力的に弱ってきて、車椅子でないと移動ができない状態になっています。母と私、老老で、私のほうは、あまり思いつめないようにして、何とか生きているという感じになっています。
 
そう言う私は、顔面の帯状疱疹からの後遺症として神経痛らしい痛みと痒みがあり、顔がイタイ?という状態で、鎮痛剤をほぼ毎日服用しています。最近、不整脈が出てくるようになりました。また、元々、小1からの弁膜症があるので、無理は出来ません。酒の飲み過ぎは良くないようで、できるだけ控えるようにはしていますが、なかなかで、憂さもあり、日本酒換算で1~2合くらいの飲酒をしてしまいます。久しぶりに飲んだビールが美味しい。
 
私の衰えと言えば、頭は相変わらずぼうっとして、耳は遠くなり、テレビの音量が18だったのが20になり22になり、目は薄くなり、テレビの文字が読めないことが多くなり、鼻は炎症で拡大し、口は歯が欠けて唇が不安定になり口の中に侵入しようとしてきます。一つだけ、幸いにも、冬で室温も低くなって、コバエの発生と私の鼻の穴への突撃は少なくなりました。年年歳歳、まるで、衰えにおいて、母を追いかけているようです。汚い話で、失礼。
 
私個人としては、恐らく結局は孤独死になるでしょう。このブログも唐突に終わるでしょう。あんまり楽しい人生でもなかったし、死ぬなら死ぬで仕方ないという気持ちもあって、なるようになれで、ネットとテレビくらいで、あまり外には出ず、わりと呑気に過ごしてはいます。
 
税金と介護保険料などが、疎かになっていて、まとまるときついなと思いながら、そのうち、私と母と兄と、たまった分、小さくない出費になりそうです。
 
私は、もともと親戚とは疎遠ですが、母は、疎遠になっている親戚のことやお墓のことなど気にして、終活しているつもりでしょう、死んだ後のことを心配している様子ですが、もはや、今の母には、どうにもなりません。
 
元々不精な私の暮らしは、一応、実家である母のマンションの4階で、母が入所してから、独り留守番という暮らしが続いていて、意欲と体力が目立って落ちてきている中で、信仰の必要性が、だんだん、大きくなりそうな日々を過ごしています。
 
 
(2020年02月16日)
 
 
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汚い読書

 
  汚い読書
 
 2020年02月11日
 理想の世界の存在と現象世界との関係について
 (『宗教的経験の諸相』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/23483194.html
 楽山日記(LD)
 
 
読書という行為にも、ある種の人間においては、汚い、と言わざるを得ないことがあるようです。
 

しばらく積読にしたまま放置していた『宗教的経験の諸相(上)』を開いてみたら、冒頭の原著序に著者の結論は論考の最後にあるといかにももっともな助言があったので、根がどこまでもせっかちかつ単純にできている自分としてはさっそく著者の言う通りにしないわけにはいられず、下巻の後記を確認してみた。なかなかに難解な文章ではあるけれども、三歩進んで二歩下がるようにして文字を追うならば、幸いなことにおぼろげながらではありつつも著者の思想は理解できなくもない。有体に言えば著者の文章の背後には評判通りの心霊主義的な思想が深く根を下ろしているようだ。

 
(ネット検索)
ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA
 
ウィキペには、W・ジェイムズは、哲学者、心理学者と書いてありますが、霊が分かるっぽい?楽山は、心霊主義と言っています。
 
「著者の思想は理解できなくもない」というのは、楽山が、自分の霊能力を誇示するのに、都合の良い文章が見つかったということに過ぎません。楽山は、自己顕示欲という偏りによって、冷静な読書が出来なくなっているようです。楽山の解釈は理解によるものではないと思います。
 

まず著者は、思想家を自然主義者と超自然主義者とに分け、次に超自然主義者を洗練された超自然主義と愚かしい超自然主義とに分け、前者は理想の世界とこの世界とを交わることのないものとし、

 
こういう分け方は、その学者の説であって、本当に分けられるかどうかは、別であります。評価というものは、多くのことを説明しうるか、また、その説明が新しい理解を促すかということになるのです。
 

後者は理想の世界とこの世界とは交わることのないものではなく、理想の世界からの何らかの影響をこの世界が受ける可能性は否定しないというものであるらしい。そして著者は自らを愚かしい方の超自然主義に属するであろうとしている。

 
楽山の筆致は、いつものように、曖昧なボンヤリ言語ですから、はっきり言っていませんが、理想の世界というのは、上に書いてあるように、超自然の世界のことなのでしょう。つまり、読んだ本が、楽山の大好きな心霊の世界を言っていると楽山は思い込んでいるようです。
 
そして、現実の世界が何らかの影響を受ける、というのは、霊が分かるっぽい楽山自身を正当化しして、自分は特別な存在だと思いこみたいからなのでしょう。
 
"心の理論"でも、似たような、超常を自分に引き寄せる?かのような解釈をして、私は、それが、実に幼稚な空想と言うべき誤謬であることを指摘しました。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
 
また、奇跡の話においては、とんでもない理路の詭弁があり、楽山の理路の検証能力と常識的な理路の組み立てが破壊されていることを指摘しました。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12562025912.html
 
そのようなことがあって、楽山が人に自説を信じさせるには、詭弁などの騙しのテクニックを使うしかないし、使ってきたし、これからも使うだろう、という判断になっているのです。
 
超自然は、現実に影響しても、超自然つまり超常なのだから、その影響の仕方など、人間に分かることはない、ということを考えないで、自分を超常の影響を受けて驚くべきわざを知り、かつ、行なう人だと思い込みたいのでしょう。
 
しかし、影響を受けるということは、この世界に影響するような超常世界がある可能性という考え方ですから、一般的な可能性の話であって、我欲と我執のナルシシスト楽山の思い込み超能力を指示も支持もしてなどいないのです。こういうところにでも、楽山は、自己愛によって本の話を自分に引き寄せ、自分を高めようとしてくるのです。
 

また著者は数多の宗教的経験が証明していることはただ一つであって、それは人は自己よりも大きいあるものと合一し、それによって平安を得ることが可能だということであるという。あるものとは自己の内の自己を超えたもののことを言っているのか、自己の内とも自己の外ともいえる理想的ですべてを受容しうるもののことを言っているのかどうも判然としないところもなくもないが、心霊主義的な解釈によればそれがなにを指しているか、そう悩むことなくおおよその意味は了解できそうではある。

 
人文科学の学者の主張というのは、自然科学の法則や定理と違って、大方、決定的な結論に至ることはありません。説として、説得力と信頼度によって、一定の位置を占めるだけなのです。
 
にもかかわらず、楽山は、自分に都合の良い主張を、自分に当てはめて、しかも、暗示的な表現で、実は、決めつけているのです。これが、カルト的な偽霊能者の自覚と自尊に囚われた楽山の書物アサリの目的なのでしょう。
 
このような目的で、本を、冷静に読んだとは全く言えませんし、ますます、カルト精神に、学者の名前まで利用して巻き込もうとしているのでしょうか。まるで、超能力者とか高名な学者とかを気取る子どもが、実際は、九九を覚えられず、掛け算を何度も間違えている格好です。
 
人間としての身の程を弁えないということは、本当に人格を偏らせ、破壊してゆきます。
 

とはいえ当然ながらそれを体現し、実感として知ることは誰にでも即日可能というわけではないだろうが、一応の知識として記憶にとどめるだけであればその意欲さえ保持しているならば誰にでも可能のはずではある。

 
即日可能というわけではないだろうと言っていることに注意するべきでしょう。直ぐには無理だが、いつの日か、超常からの影響を悟ることができるだろうという可能性を自分に当てはめているのです。自分が霊が分かるっぽい超能力者?であることの意欲を保持することを正当化しています。
 
同時に、楽山が、ボンヤリ言語で、今まで、いかなる狡い詭弁や、婉曲表現で、キリスト教とキリスト信仰をおとしめてきたかを考えれば、この人だけは、霊の力など身につけてほしくないと願わざるを得ません。
 
楽山は、なんとか、自分はちゃんとしていて、柔和で、超常の霊の恵みに値する能力と、客観性を併せ持ちうる、ということを暗示したいようだが、いっさいは無意味です。
 
何故なら、楽山の、霊の話、"心の理論"の理解、聖書理解、奇跡についての話、いずれも、あきれるほど、幼稚な誤謬に過ぎなかったからです。学問までも悪用する楽山が表れているだけです。
 

最近はどうももっぱら超のつかない自然の世界のことに興味は限定されがちであり、実在界とも呼ばれることがあるだろう理想世界の方面の事柄については以前ほどの関心は持ち得ぬようになり、さらにはそういう課題が存在することさえも忘れていることも増えてきていたのではあるが、

 
真っ赤な嘘とは、このことです。この記事も、それまでの記事も、自分を飾るためだけに書いてきたとしか思えないものです。ナルシシストの自己顕示欲と、それに全く値しない楽山の実態だけが浮き彫りになってきた経過です。
 

やはりこういう文章を読むとなんとなしに懐かしい心持がしないではいられないのだからおかしなものだ。やはり自分では意識することもない心のどこかではそれを欲し続けているということなのかもしれぬ。

 
楽山の霊が分かるっぽい自覚を指示する材料は何もないにもかかわらず、楽山は、自分は悟って教える立場なんだ、特別なんだ、特別なんだと、藁(わら)をつかもうとして、いつも失敗してきました。今も変わらないのは、それだけ、我執が訂正不能に無反省に執拗に粘着していることだけなのです。
 

結局のところ、理想は外にあるとは限らず、もしそれが中にあるというならばそれがふさわしい時にいずれは浮上し影響力を行使するようなるであろうし、

 
このように、理想が中にあることを自分で言っています。狡猾なのは、自分の霊力と言わず、理想を主語として、中にあるという言い方をして、一般的な事柄に見せかけて、自分を高めようとする哀れな醜態をさらしていることです。
 
今までのことを知らない人なら、うっかり受け入れてしまいそうな表現を使うのが、楽山の詭弁家たるゆえんなのです。
 
ここは、楽山自身のことを書いているのですから、実際に言いたいのは、心霊の力が自分の中にあって、いずれ浮上し影響力を行使するようになる、という妄想的な予言?をしているわけです。
 
いつの日か、自己中しか持たない楽山が、霊能者として脚光を浴びると夢見ているなら、寒気のすることです。霊能というものが存在するとしても、楽山なんぞの手に負えるような安っぽいものではないでしょうから。
 

それならそれを信頼して無理に力むことなく、自然体で寛ぎつつ待つというのが自分には合っているということなのだろう。

 
楽山やシャロームなどの易坊類は、自然体を全く知りません。
 
彼らが書いてくる文章は、よく読めば、いつも不自然であり、文脈がつながらず、無根拠で一方的であったり、詭弁であったり、印象操作であったり、何を言いたいのか分からなかったり、言うまでもない当たり前のことであったり、おとぎ話か空想か妄想であったり、作為的にバカ丁寧であったり、わざとらしい芝居がかったものであったり、奇奇怪怪なものになっています。
 
自然というより、不全か憮然あるいは悲惨と言うべきでしょう。しかも、本人は、まともなつもりで、いい文章を書いているつもりで、載せてくるのです。
 
楽山は、今まで、あらゆる詭弁を弄して、婉曲的に、ボンヤリ言語で、キリスト教には負の、心霊と超常には正の、印象の刷り込みをしてきました。それらは、全部、どこにも通用しないような無理を通そうとしたものです。"自然体で寛ぎつつ"などと、よく言えたものです。真っ赤な嘘。
 
中身がないのに、ぼうっとしたまま、空を見上げて、口を開けて、良いものが降ってくるのを、待っている姿勢です。これは、もともと、恵みばかりを欲しがる信仰の誤った姿勢に当てるたとえだったのですが、ここで、楽山にぴったり当てはまるとは、むしろ驚きです。
 
ここまで執拗に、詭弁を弄して、印象操作を弄して、自己顕示してくる楽山に対しては、やはり、自己愛性人格障害、という見方をせざるを得ないのかもしれません。シャロームに対する判断と極めて近い判断になりますから、体質的なものか、それとも、悪意ある企みか、いすれであるかにかかわらず、決して近づいてはいけない人格です。
 
楽山に合っていること、楽山がするべきことを言うなら、だましの細工をしないこと、自らの置かれている立場を弁えること、今までのことを悔いて反省すること、これらは人間として当然のことですが、それができないならば、黙ることしかありません。しかし、楽山は黙らないようですから、逐一、批判を貼りつけるしかないでしょう。
 
 
(2020年02月15日)
 
 
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情性欠如の悪意

 
  情性欠如の悪意
 
 アドラー教について(16)コメント欄
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5454171.html#comments
 批判対象:シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、正常な感情を持っていないと思います。かつ、前に言って、否定されたような、白々しい嘘を、また、書いてくるのです。もろに、恐ろしい男です。
 

17. st5402さん こんにちは 吾輩の名は名無しの猫です。
 2020年02月13日 17:58
>>12

「誰のことでしょう。荒らしと言い張り、批判ではなく悪口をいっぱい書いたのは、シャロームのお仲間とお味方に他なりません。」
 」
 荒らしと言い張り、批判ではなく悪口をいっぱい書いた人がたくさんいたことを認め、覚えているようですね。
その人たちは名無しの猫のブログのお仲間でもお味方でもありませんが、ご自分にはお仲間、お味方と言えるような人が一人もいないのでカルト呼ばわりするために仲間味方と決めつけているだけ。

 
私にお仲間お味方がいないからではなく、あなたシャロームという人は、本当の思いやりや、人間らしい共感性がないから、友人を作れないからです。結社のような仲間で、共謀者がいるだけだろうと判断しているということです。
 

ブログでの出会いの初めのころ、この人なら良き理解者になられると思って猫のお付き合いをしていた哲学、哲学者であるブロガーVさんのことを思い出すために、また紹介しますね。
はじめは私の期待通り良い交流ができていましたが、その方が猫の考えを支持されると、豹変し、その方がブログのプロフィールに書いておられた個人情報によって、その方の仕事先にまで常軌を逸した人格攻撃をし、その方の心を深く苦しめ、傷つけ、ノイローゼ状態にまで追い込んでしまったのです。

 
前に書いて、私が否定したことです。シャロームは悪魔性によって、私の発言を覚えず、また、私のせいにするために、デマ宣伝として書いてきています。
 
もう一度言いますが、私は、vさんの仕事先を知りません。したがって、vさんの仕事先に人格攻撃をするなど、不可能です。
 
シャロームの、この有り様は、精神症状の妄想なのでしょうか。あるいは認知症でしょうか。それよりも、悪意が増悪しているということは言えるでしょう。良心の欠片もないから、恥ずかしさも罪悪感も感じないで、嘘を吐くことができるのです。
 
ひょっとして、あなた、vさんを、傷つけたり殺したり自殺に追い込んだりしてないでしょうね。今回の重なる嘘によって、そういうことも考えざるを得なくなります。
 
vさんは、神学者で、キリスト教も理解していたようですし、信仰の、そして、人間の、相対性も分かっていたと思います。シャロームなどとは、永遠に交わる必然を持たない人でした。しかし、何故か、シャロームに、調子合わせをしました。それで、私は、vさんのブログを去りました。
 
そのことが、vさん自身に、どう影響したかは、私は去ったのだから知りません。しかし、何よりも、vさんは、シャロームのような自己中虚言癖の妄想サイコパスであるシャロームに近づいてはいけなかったのです。
 
vさんに、シャロームから離れられない事情があったのかどうか、これも、私は知りません。
 
シャロームのインテリ気取りと違って、インテリであるvさんは、シャロームの妄想に耐えられる人ではないような気がします。
 
シャロームは、長生きすれば、いつかは、完全に壊れて、高い確率で、犯罪者にもなりうると思っています。シャロームは、故意に、悪いことをして、故意に、それを隠す人です。無反省、情性欠如の人です。
 
シャロームは、あらゆるところで災いの原因になるだろうと思います。あなたシャロームのような人が、キリストの群れの中にいて、何かを教えようとするなら、人格を破壊される犠牲者が、必ず出てくるでしょう。
 
私は、vさんのブログを去りましたから、あとのことは知りませんが、
「仕事先にまで常軌を逸した人格攻撃をし、その方の心を深く苦しめ、傷つけ、ノイローゼ状態にまで追い込んでしまった」のは、あなたシャロームではないのですか。あなたの体質的欠陥を考えれば、十分、起こり得ることです。
 

10年以上前のメーリング・リスト時代にもすでに同じような問題を招いていた時に猫との初めての出会いがあり、名無しの猫も理解者としてかかわり始めたのですが、もう10年ひと昔はるか以前の出来事になります。

 
その時に、あなたは、メールで、決して謝罪してはいけない、と言いました。そのことが心に引っかかり、考えることになりました。そして、あなたシャロームが、本心からは、決して謝罪も後悔も反省もしない人だということが分かったのです。
 

思いがけないyahoo ブログが閉鎖されなければ、きっとストカーとして今も猫のブログに付き纏っていたことでしょう。

 
あなたシャロームが、悪意の伝染をやめない限り、批判は続くということです。しかも、今は、あなたのほうから、批判の題材を提供しているわけです。逃れられない悪意のループに、あなたは、嵌りこんでいるのでしょう。だから、前に言ったことを、また、書いてくるのです。
 
あなたシャロームを、悪魔を忌み嫌うように嫌い、かつ、できることをしながら、あなたシャロームの裁きを、ただ、神のみに任せ、できることをしながら、日々祈ることにします。
 
恐ろしい男、シャローム。その体質は、明らかになりました。
 

不思議ですね。まったく思いかけずyahooブログの閉鎖となったのですから。
今は

「性懲りもなく、また、コメントを書いてくる名無しの荒らしシャロームです。
今回は、デマ宣伝を交えて、荒らしてきました。崖っぷち感があります。」
 」
となってしまったのです。
見えざる御手の御業です。
おかしいですね。

 
シャロームは、開き直って、「となって」と、デマ宣伝を交えて荒らしたことを認めるのでしょうか。それとも、いつもの、言葉の理路が分からないだけなのでしょうか。
 
そして、あきれたことに、シャロームは、ヤフーの終了が、私の批判からシャロームを救うための神のわざだと思いたいようです。
 
このように、狂った反キリストは、起こったことを、全部、自分の都合の良い神?のわざだと思うことで、守られ妄想を強化してゆく病理なのです。
 
シャロームが、信仰者なんて、とんでもないのです。
 

いまだ名無しの猫は気の向くままひょっこり
これからも、いつか顔を見せるでしょう。
お楽しみに!
ニャ~オ!

 
こういう、おふざけが、通用しない話と状況であることを、シャロームは、全く自覚できないのです。人間とは思えません。
 
このように、人を食ったような態度で、ニャ~お!、などと平気で言うことが、シャロームの食行動なのかもしれません。そうして、シャロームの傲慢な腹は膨らむのでしょう。
 
こういうことだから、信仰を、ふざけ半分で、妄想的に語り、笑いながら、近づく人格を破壊し、かつ、そのことを、別の人のせい、つまり、私のせいにする、ということも平気でやるだろう、ということが分かる発言です。今に始まったことではありません。人を殺して笑っていられる者に、つまり、サイコパスに、しばしば共通して見られることだと思います。
 
約9年間、シャロームを批判してきて、私が学習してきたのは、シャロームのような者に、心を動揺させてはいけないということです。シャロームに、エネルギーを使わない書き方を、少しずつ学んできたような気はしています。のんびり、かつ、手加減せずに、批判してゆくことに、努めてゆきたいと思います。
 
 
(2020年02月14日、同日一部修正)
 
 
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