ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

嘘だと言う嘘

 
  嘘だと言う嘘
 
   『サピエンス全史(上)』
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12525068226.html
   楽山日記(a)2019-09-14 07:48:38
   (楽山)
   特にテーマは限定することなく、趣味的なことを、風の吹くまま気の向くままに書きます。
 
 
楽山は、性懲りもなく、宗教を、個人的に軽視するだけでなく、嘘、必要悪、ほのかな期待の灯、などと、揶揄しています。恐らく、宗教に対する強烈な嫌悪があると思います。しかし、自らは、自己中促進のアドラー教を宣伝していたのです。真っ当な信仰者の敵として批判してきました。
 
(楽山)
「はじめはざっと眺めるだけにするつもりだったのだが、予想以上に面白くて結局通読してしまった。ホモ・サピエンスが出現し、ネアンデルタール人が滅ぶ頃の話は興味深いし、大勢が参加する大きな社会をまとめるには神話が必要とされ、宗教、人権などもそのような役割を担っており、虚構であるとしてるのには驚かされた。いやそういう考え方があるのは前々から知っていたことではあるし別に驚きはしないが、それをあからさまに断言してしまうところに驚いた。著者はとてつもない勇者か、言論の自由がよほど尊重されるところに身を置いているか、それともその両方なのだろう。
宗教も、人権も、それから〇〇主義も、みんな神話、虚構であり、ざっくり言えば嘘っぱちだとしても、巷には必要悪という言葉もあるし、もう14歳の反抗期でもないので、大人はみんな嘘つきだなどと暴れる気にもならないし、現実なんてそんなもんさとニヒルなポーズを決めようとも思わないのであるが、それでも社会の基盤となる価値基準はすべて嘘だとされれば、若干、足下の地面が揺れているような不安定な感じがしないでもない。」
 
(楽山)

宗教も、人権も、それから〇〇主義も、みんな神話、虚構であり、ざっくり言えば嘘っぱちだとしても、巷には必要悪という言葉もあるし、

 
宗教を、嘘っぱちだと言い、必要悪だと言っています。
宗教に真実など、かけらもない、という考えでしょう。
この記事は、反信仰の記事ということです。
 
史実という事実は詳細には分からなくても、
楽山が、真実、特に、宗教的真実というものを理解していないということは、よく分かります。
事実とその証明ばかりを追って、何も生きるための収穫がないのは、心に何も受け取っていないからでしょう。
 
真実は生きるために必要なまこと、史実や事実であるかどうか、また、証明できるかなどは、関係ないのです。
 
嘘は、自分の利益のために言う偽り、楽山やシャロームが、ずっと言ってきたことです。
 
宗教は、必要悪でしょうか。楽山は、例えば、おとぎ話か空想の存在に拝んでお祭り騒ぎをすることを宗教と思っているようです。そういう者が、必要悪だと言えば、宗教は、慰めか気晴らしみたいな意味として考えているということです。そして、分かっているふうに、それを宣伝しているのが、この記事です。
 
(楽山)

社会の基盤となる価値基準はすべて嘘だとされれば、若干、足下の地面が揺れているような不安定な感じがしないでもない

 
楽山にとって、宗教は、足元の礎(いしずえ)ではありません。足下の地面が揺れているような気がする程度のもの、つまり、それは、楽山の思想の足腰が不安定で、ふらついているだけなのです。
 
すべて嘘・・とは、思い切ったものです。では、楽山の吐いてきた嘘や詭弁を考えるとき、楽山という存在も、楽山の言うことも、嘘という他はありません。成りすましの疑惑もあります。
 
このように嘘という悪いことを、「嘘だとされれば」と、他者のしわざにのみ当てはめ、実は自己中心に、被害者みたいに嘆いてみせるのは、楽山の技であり、ボロクソ節で、こき下ろすのは、シャロームであります。この者たちと何かを共有するならば、自己中心と訂正不能への虚無への堕落だと思います。
 
証明しろ、証拠はあるか、などと、しるしを求めてばかりの者は、聖書の話にもありますが、そのままでは、本当の命に至ることはありません。楽山のような人は、恐らく、言葉という石を並べて、ああでもない、こうでもないと、上から批評して、それで言い得たと終わってしまうだけでしょう。
 
それが知性だと思っているのでしょうが、足らざるを知らぬ、ということを、自らに当てはめたくない者は、宗教を言葉だけで対象として、けなす側に回り、少しばかり便利だと思ったアドラー教に惹かれて、自己中心を宣伝したりするのです。
 
真の宗教と信仰は、楽山の考え方ともアドラー教とも本質的に違うのです。真実を心に持たない者は、このように、幼稚な勘違いをして、遠慮も慎みもなく、軽しめとおとしめを公共の場に書いて、平気でいるのです。または、別の短絡として、シャロームのように、奇跡で守られているから、罪は気にしなくていい、などという世迷言を、だらしなく言い続けるしかなくなるのです。
 
神は、誰によっても、その存在も不在も証明されてはいません。だから信じても、絶えることのない希望として信じるのです。キリスト信仰は、多くの人を救い続けています。決して空想への逃避による慰めでも気晴らしでもありません。そのためには、滅多に起こらない超常の奇跡よりも、人間らしい思慮と情緒、そして、人間としての意志の正直さを必要とするのです。楽山には、それが無い。
 
 
(楽山)
「でも現実を直視するというのはある意味こういうことなんだろう。一寸先は闇は当然として、足下も地面があるのかないのか分からないくらいにゆらゆらしていて、まるでどでかいトコロテンの上にでもいるような心持ちがし、」
 
楽山は、何を血迷ったのか、アニメみたいなたとえを書いています。自分に救いがなくなると、読者を、地獄に落ちるんだと言って、脅したいのでしょうか。
 
(楽山)
「…と、まあ、深刻そうなことを書きつつも、こんな思いはごくまれにふとした弾みに一瞬の間だけうたかたのごとく心に浮かんで消えるだけで、大概は朝から晩まで何も考えず、くだらん冗談を言いながら、のほほんと気ままな生活を送ってるだけなんだから気楽なもんだね。」
 
楽山の、白々しい筆致です。この記事全体を、結びに至って、軽くして、半ば否定しているかのようです。その気楽さが、浅く軽い筆致となって、小学校の道徳のような月並みなことを、私が、ボンヤリ言語と呼んだ、焦点のない書き方で、クリスチャン芝居をしてみせたり、優しさアピールみたいなことを書いてくるところに、その底にある、どす黒いものを感じないではいられません。
 
(楽山)
「意を決して地面の下をのぞいてみれば何の支えもなく漆黒の闇が口を開いているだけというイメージ。そこに地獄の業火でも見えれば、やはり地獄はあったか、そんなら天国もあるんだろうとほのかな期待の灯をともすこともできなくもないだろうが、そんなささやかな期待もゆるされぬほどの底なしの闇があるだけ。怖ろし。」
 
楽山が、「意を決して」何かを言うのを一度も見たことはありません。楽山は、いつも、曖昧で、結論にも判断にもならないことを言ってきました。あるいは、小学校の説教のような当たり前のことを書いてきました。
 
今度は、ホラーみたいに書いて、お伽噺で結ぼうとしています。どこまで宗教と信仰の的を外し続けるのでしょう。全く宗教人にとっては迷惑です。「怖ろし」いのは、楽山のことです。
 
(楽山)
>地獄の業火でも見れば
 
楽山は、見ることなど考えていないと思います。神聖を毛ほども恐れていない体質です。
 
(楽山)
>地獄はあったか、そんなら天国もあるんだろうとほのかな期待の灯をともす
>ささやかな期待
 
地獄も天国もマンガかアニメほどにも表せていない楽山にとっては、冷やかしのための題材に過ぎないようです。天国は、気休めのような引用の言い方で語られるところではありません。
 
信仰者にとって、ほのかな期待でもなく、ささやかな期待でもなく、生きている今、希望し、考える必要のある切実なテーマであります。楽山は、心が無いために、それを受け取れず、開き直って揶揄したいだけなのです。
 
信仰の立場から言えば、天国について詳細は知りません。しかし、信仰によって、祈りによって、癒しを感じるとき、天国を垣間見ているのかもしれません。それは、時々の感動であり癒しであり慰めであります。ほのかでもなく、ささやかでもなく、それは、真剣に信仰しているものにとって、なくてはならないものなのです。
 
楽山は、いつも底なしの闇を見ているのでしょう。そして、共感に見せかけて、人を誘っているのでしょう。弱っているなら、救いを求めるはずですが、楽山の一貫して変わらない姿勢は、天国も神聖も、上から見下ろすスーパーバイザーの視線で、気安く批評しているに過ぎません。それは、決して成り立ちません。天国も神聖も、上から下を見る視線では、決して見えてはこないからです。
 
(楽山)
「ところで手元にある本の帯には、「種の繁栄か、個の幸福か―」なんて言葉があるけど、その方面の本を読んでみると群淘汰は微妙な状況にあるらしいが、これは純粋に科学的な知見によるだけでなく、全体主義をタブーとし個人の尊重をよしとする昨今の政治的な空気との関連はないのだろうか。なんか全くの無関係でもないような…まあこんなのは愚問ではあり勘ぐりすぎであろうが、ちょっと気にならないこともない。」
 
(楽山)
全体主義をタブーとし個人の尊重をよしとする昨今の政治的な空気
 
楽山は、いったい、いつの政治的な空気を語っているのでしょう。国民の無関心と、いい言葉はいい意味に受け取るという単純さの蔓延によって、政治が、一方的な方向に、さらに独裁に向かいつつあることが、思慮深い人々によって叫ばれていることを知らないのでしょうか。むしろ、危惧されるのは、全体主義であり、個人の尊厳と自由と生存権が侵害されてゆく危惧なのです。楽山は、何も分かっていないし、分かろうともしていないようです。
 
このように、ズレまくったセンスで物を言うのが、今までの、そして、今回の、楽山の言論の筆致と中身なのです。本から言葉づらだけを拾ってきて、一度も暫定的な結論にも至らず、また、現実を見て、正当な判断をすることも出来ない人です。なのに、何の遠慮も慎みもなく、謙遜も敬虔もなく、いつもボンヤリ言語でごまかしながら、発するほうだけは、まともなつもりで、宗教や思想について、図々しく書いてくるのです。この執拗な図々しさは、よく言われる図々しさとは全然異なって、体質のように染みついていて訂正不能であり、稀であり、カルト的であり、悪質です。
 
私は、楽山とシャロームを、的外れ応答しかしてこないために相手を疲れさせるだけなので、ネットにおける疲労物質と呼んでいます。詭弁を弄し、話を恣意的に逸らし、ご機嫌取りに世辞を言い、人を大事にしているかのような優しい振る舞いの見せかけの狡猾さだけは持っていて、そこから、広まれば人格を壊すようなカルト思想を書いてくるのです。表れ方は違っても、この二人は、よく似ていることから、易坊を加えて、成りすましを疑っています。
 
 
(2019年09月16日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

生存権

 
  生存権
 
 
政治は何のためにあるのでしょう、この国の仕組みは何のためにあるのでしょう、法制度は何のためにあるのでしょう、警察は何のためにあるのでしょう、自衛力は何のためでしょう、あらゆる種まきと収穫は何のためにあるのでしょう、詐欺ではない正当な商業は何のためにあるのでしょう、あらゆる土木や建設の工事は何のためにあるのでしょう、あえて自然を壊し流通をよくすることがあるのは何のためでしょう、あらゆる楽しみは何のためにあるのでしょう、総ての医療は何のためにあるのでしょう、総てのお金は何のためにあるのでしょう、総ての勇気と価値ある働きは何のためにあるのでしょう、
 
生存権のためです。
 
日本国憲法第25条第1項
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 
私たち国民が生きるためです、生存するためです、私たちは動物ではないのだから目的と生き甲斐をもって生きるためです。決して一部の人々だけが笑って生きるためではなく、もれなく国民全員が活気をもって生きるためなのです。その権利こそが、生存権、と考えるべきなのです。
 
総ての理念と政策は、直接間接に、生存権を守る方向に向かっていなければなりません。その方向性において是非を判断するべきであります。
 
生存権は、国家の唯一の正当な成立条件だと思います。
 
 
 生存権について(2)
 
 
国家は国民の生存権を守るために存在し、
そのためのみに存在する。
 
生存権を守ろうとしない国家なら、
愛する必要はない。
愛国心は元々国が間違っているときに、
それを批判する精神を含む。
 
生存権とは:
 (1)生物学的生存権
 (2)存在権:尊厳を持って生きる権利
 (3)生活権:生き甲斐・目的などを持って生きる権利
 「尊厳」「生き甲斐」「目的」などは個人によって違うので
国家が直接与えられるものではない。
国家が守るべきものは(1)~(3)を可能にするために必要な
経済的また制度的基盤である。
 
生存権が、上記の(1)~(3)であり、
 (2)と(3)のように個人によって多様であるのだから、
 独裁政治の「逆らわなければ食わしてやる」といったものは、
 言うまでもないが、生存権を守ることにはならない。
 
生存権について前に書き込んだこと:
 「生存権を守れずして何が国家か
 と前に書きました。私は
 この権利に特にこだわっています。
 生存権:(1)生物学的生存権
 (2)存在権:尊厳を持って生きる権利
 (3)生活権:目的や生き甲斐を持って
  生きられる権利
理想としてではなく実際に
生存権を守れるか
という観点から具体的に考えてみると、
ある程度、様々な主義主張の
無理や嘘も見えてくるような気もします。
 
国家は組織だから
生き甲斐を直接与えることは出来ない。
しかし(1)~(3)の土台を作ることが
国家というものの根本ではないのか。
自由・人権・内政・外交あらゆるものが
生存権に関わっており、
生存権が前提である。私は
国というものの根本を
そこから考えてるべきだろう。
 
実現のためには国民、特に富裕者の大半が
その意欲を持っていなければなければならないが、
結果として、たとい無駄であっても、
その精神性を問うてみる政治家は現れないのかと、
一縷の、そして恐らく最後の、人類への期待を
この国と人間の世界に託してみたいわけであります。
 
金持ちの中にも社会に貢献したいという
気持ちを持っている人はいるだろうと思う。
もしいなければ話は終わりである。
 
でも金持ちの中には貧乏人と直接
関わりたくない人がいるだろうと思う。
卑しい人で変に依存されたら困るとか・・・だろうか。
卑しいから貧乏になるのか、
貧乏だから卑しくなるのか・・・
恐らく、私は、後者が多いだろうと思うし、それよりも
貧乏でも卑しくない人が多いと思っている。
 
一部を持って全体を判断してはいけない。
 
この国をどうしたいですか :
桁外れの金持ちと底なしの貧乏人が同居していて
心のすさんだ人が多くなり
自殺と人殺しが多くて治安も悪くなって
身を守るために自警団が必要になりそうな国ですか。
全体を改善するためには
大義のためには
弱者の犠牲は止むを得ないと考える国ですか。
 
貧富の差は、必ず生じるのだから
目指すべきなのは、
貧乏人がいなくなる社会ではなく、
貧乏人が元気でいられる社会です。
 
幸福になるための最低限の土台として
先ず衣食住とお金と
相談できる人間関係のある社会を
実現する方向性を持ち、
そのために具体的に努力している国と社会です。
 
 
 生存権について(3)
 
 
私たち人間の命は、一人一人、皆、この地上のどこかに、できちゃったものです。また、私たちは、一人一人、荒野に山頂に海の上に産み落とされるのではなく、大方、人間の集まりのコミュニティまたは人間社会の中に産み落とされます。
 
人々の中に生まれた私たちは、当然、人々から役に立つ人材として期待されます。生まれた子が望む前に、生まれたところの周りが役に立ってほしいと望むのならば、人々、すなわち、取り巻く社会は、生まれた一人一人を生存させる義務を負い、生まれた人は生存する権利を有する、と考えるべきでしょう。それが、生存権だと考えてみます。つまり、たとえ誰かのうっかりで、自分の意志ではなく生まれてきた私たちであったとしても、もれなく、生きる権利があるということです。
 
生存権を有するということは、人間の世界で生存して何らかの役割を期待されていることだから、それが具体的に何であるのか分からないあいだから、生きる権利とともに、生きて役に立とうとするための、また、役に立つために成長するための努力は義務でもあるでしょう。それは、法律で定められる以前から、自覚する必要としてあるのだろうと思います。
  
生存権というと、かわいそうな人がいるからお恵みを施して極貧の人たちも生きながらえるようにしてあげましょう、という、憐れみを施す慈善事業、そして国の中心ではない周辺事業と同じように結び付ける考え方のような傾向を感じます。はたして、生存ということは、もれなく一人一人全部なのに、まるでその気のある人がやればいい、という特別の憐れみのように、こぼれ落ちそうな周辺に置かれていてよいのでしょうか。中心ではないのでしょうか。
 
私たちは、生まれたくて生まれたわけではありません。まったく、他者の、すなわち、親の望みのみに従って、確率的に生まれてきたのです。このように、人間の命の始まりは、自分のためではなく、親のためにあるのです。それを尊いものとして、自分のために、人間世界のために、育てるのが生存権を守ることであります。したがって、そこには、生きる価値も、また、生きるには必要な糧も、含まれて、生存権なのです。
  
ですから、すべての政(まつりごと)の基本を、生存権に置くべきだと主張したいのです。すべての政策というものを考えてみると、外交も、経済も、防衛も、あらゆる法律も、そのために考えるのは、交渉するのは、何のためかということを考えると、結局、国民の生存権、さらに広げて、この国に今住んでいる人々の生存権に、結局、深く関わっていて、それ以上ではない、ということを申し上げたいのです。
  
すべての政策というものが、統計や数や理屈ではなく、生存権、即ち、私たちを含む全ての人が、健康で文化的な最低限度またはそれ以上の生活を営むためには、という視点でとらえない限り、成立しているとは言えない。つまり、結論を、金額ではなく、統計の数でもなく、法制度でもなく、論理的整合性のみでもなく、これで、人間が人間らしい生き方ができるか、という観点から改めて見てみる、ということを言いたいのです。
  
むしろ、法制度およびあらゆる政策は、そこを踏んでいないと、自己正当化の言い逃れや詭弁や、人間離れしたもの、さらにはもっと怖い勘定に変わってゆくでしょう。そこから生えてくるのは、人間感情の特に罪悪感の鈍麻、命の軽視、猟奇的犯罪、反社会的無差別の宗教じみた犯罪、そして戦争、などになってゆくでしょう。
  
思想の理屈倒れや、論理や統計の辻褄合わせや数合わせや、大事な人間的条件の見逃しや、人間無視の短絡や、ときに発せられるところの人間とは思えない暴言などを、予防して、かつ、政治の言葉を実のあるものにするために必要なのが、人間に本源的に与えられたところの、生存権であろうと思っています。生まれてきたからには、生きましょう、生きられる社会を作りましょう、その時その時の事柄について、どうでしょう、人間が、生きてゆくことが、無視されていないでしょうか、という問いを前提にするべきだと思います。
  
生存権
 1.生物学的生存権:最低限の衣食住。
 2.存在権:尊厳をもって存在し生きられる権利。尊いと見なされる扱いを受ける権利。
 3.生活権;生き甲斐、あるいは、目的、などを持って意味のある生き方のできる権利。
と書いたことがあります。
 
上のほうにも書いたと思いますが、尊厳、生き甲斐、目的、といったようなことは、政治が法制度と財源をもって直接に与えられるものではありません。政治の目的は、そのような理念の実現を可能にする法的経済的基盤を提供することにあります。実際には、生存を与えることのできる力は、心ある人間関係における人間力しかない思います。大人になっても継続して勉強が必要になります。あらゆる人間の活動は法制度の条文に留まることなく、人間ならば・・というところまで、視野を持っておく必要があります。
  
 国家は国民の生存権を守るために存在し、
 そのためのみに存在する。
 
 
(2017年11月22日、あるいは、それ以前)
 
 
(2019年09月15日、修正加筆して一つの記事にしてます)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

アドラー心理学:キリスト信仰の立場から

 
  アドラー心理学:キリスト信仰の立場から
 
   アドラー心理学サロン
   https://www.adlersalon.com/entry/2019/09/13/045019
    2019-09-13  
 
 
私は、キリスト者ですが、キリスト信仰においても、人からの自由、ということは言われます。しかし、ここで語られていることは、人を無視した自分勝手ということのようです。
 
>幸せはいつも自分の中にある
 
幸せというものに、人との関わりはないのでしょうか。
誰かと分かち合いたいという幸せはないのでしょうか。
 
>自分の外側には幸せは存在しません。
 
自分ではない人の幸せを願うことが自分の幸せにつながる人間関係があるでしょう。
その人とは、いつも一体のように噛み合うでしょうか。そうではないし、
そうではなくても、特定の他者の幸せが自分の幸せということはありうるでしょう。
感じるのは自分だからと、断言して、誤解と曲解に陥りやすいところです。
 

つまり、他人や物によって幸せになることはできないということです。

 
他者や他者の持っているものが、助けになること、良きものを共有したり、共感したりすることは、ありうることです。それらは、幸せの大切な要素です。
 

どういうことかと言いますと、人はそれぞれ違う世界を見ており、これまでの経験や知識も違えば、性格も完成も何もかもが違うのです。

 
自分ではないということは、違うということは、
無視しなさい、ということに結びつくわけではありません。
むしろ、関わることで、自分にはない良い影響を受けることもあるでしょう。
 

誰かにとっては悪い人があなたにとっての善人であることもあれば、あなたにとっての善人が誰かにとっては悪人であることもあるのです。
また、ある物が誰かにとっては良い物でも、あなたにとっては悪い物であったりもします。

 
そうでない場合もあるということでしょう。一方を主張しすぎです。
また、人の判断は、状況と時間によって、変わりうるものです。
変わりうるということは、ある時点で決めつけて固定してはいけないということです。
 

それでいて、あなたの欲しいものだって子供の頃から今まで、何度も変わってきているはず。

 
欲しいものや好みだけでなく、人間は変わりうる生き物です。人間は、何が大切かという考え方も内容も、成長によって、変わりうるのです。
 
このことから、ある一時点で、気に入らないものを無視する、と決めるのは危険だと言わざるを得ません。無視したものは帰っては来ません。無視してよいと言うことの暴言たるゆえんです。
 

つまり、結論から言うと何が自分にとって大切なことで、どんな人が自分に合うのかをよく知る為に、あなたがすべきことは「自分を知る」ことなのです。

 
自分を知るために、他者の意見を参考にするというのは、当然、あって不思議はないのです。
 

もちろん、前述の通り人は年を追うごとに、経験を積み重ねるごとに趣味嗜好が変わっていきます。
ただ、本質的な変わらない性格や感性は中には存在します。

 
自分の性格と感性は変わらないでしょうか。まるで生まれてきたときに決まっているような言い方ですが、そうではありません。人間は、様々な影響を受けて、学習によって、あるいは、無自覚に自然に、性格も感性も変化し成長する生き物です。そして、影響を与える最も大切な存在は、他の人間であります。
 
人間は、他者との関係において、成長をしますが、もちろん、悪い影響もあります。それを見極めるにも、学習と成長は大事なのです。あるときの一度の決定で対処して、総てが変わって良くなるということは期待できません。
 
イドの快楽かエゴの自我の勝手で、これが正しいと、訂正不能に決めてしまうと、超自我も理性も、倫理も宗教も、働かなくなる危険を考えるべきでしょう。自分を訂正不能の恣意の単方向に曲げて固めてゆくかどうかも、決めるのは自分なのです。
 

自分をよく知ることで、外側に存在する人や物に何を見出せるのかを知りましょう。
もちろん、定期的に更新されていきますので、定期的に自分との対話をする必要はあります。
他人は本人の為に生きているのであって、あなたの為に生きてくれることはありえません。
自分の思い通りになる人なんて、この世界に存在しないのです。

 
自分の思い通りになる人がいるという思い込みに向かって言っているようだが、他者からの影響について、極端な全否定の言い方だと思います。極端な事例をもって一般を語ってはいけません。
 
他者が助けてくれることもありますし、良い影響を与えることもあるのです。この地上に生きるということは、極端な思い込みに走って解決するようなものではありません。
 

自分の求めるがままに振る舞わせることはできても、その人の思考から来る本心までを変えることは、どんな権力があっても不可能なのです。

 
このことは、他者を無視することの、関係ないことでしょう。
もともと他者を変えるという話ではないはずです。
 

また、物欲から何かを欲しがって、いざそれを手に入れたとなればすぐに飽きて別の物、もしくはより多くを手にしたいと考えるのが人間です。
あなたも、憧れのブランド品の財布やバッグを手に入れた途端に、数日後には手元にある苦労して手に入れた物がどうでも良くなった経験があるのではないでしょうか?
つまり、人間の欲望は尽きることがないのです。

 
それでいて、気に入らないことを無視することを勧めるのは矛盾しています。気に入ったことだけ求め、受け取るわけです。人間の欲望は尽きることがないのに。
 

要するに、良い人や悪い人、良い物や悪い物があるのではなくて、自分がどう思うのか次第なのです。
世界はあるがままに存在しているのであって、誰の為にも存在してはおりません。

 
世界はあるがままだから、考えてもしょうがない、という理路は成り立ちません。
総ての人間のあるがままは、影響し合うことで世界を成り立たせています。
よかれあしかれです。例えばカルトは、結局、多くの人を不幸にします。
まるで、この世界に善も悪もないという言い方は現実無視と言うべきです。
このように、アドラー心理学は、自己中心に現実を無視してゆく危険があります。
 

この世界そのものは、誰にも優しくはないのです。

 
この世界そのものを、優しいとか優しくないとか決めつけるのは間違っています。そんなに、はっきり言えるような世界ではありません。
 

だからこそ、自分をよく知って自分が住みやすい世界を自分の中に見出して、自分にやれることをやって実現する努力が大切なのです。

 
自分に凝り固まっていると、だんだん、誰とも本気で話が通じなくなるでしょう。
 

不幸な人とは、一言で言えば「人生で何も見出せなかった人」であると表現できます。
幸せは自分の中にしか無く、外の他人や物が自分を幸せにしてくれることはありえないのです。
他人や物に執着して「あれヤダこれやだ」言って自分のやれることを放棄してる人は欠乏感に苛まれたまま人生を終えてしまうのです。

 
気に入らないことを無視し続けていれば、反省機能が働かず、気持ちの良いことだけを求めるようになるでしょう。待っているのは凝り固まりであり、捨てられるのが学習と反省と成長です。
 
また、不穏当にも、明らかに他者の行為で不幸になる場合を、無視しています。
どうも、いろいろ、無視して、無視し過ぎて、極端に走っているところがありそうです。
 

他人が自分をどう思うのかを気にしていることも、他人に執着していることになります。
他人に、自分の意図通りに自分のことを思って欲しいという承認欲求から、他人に対して「こうして欲しい、ああして欲しい」と願うことは、他人への執着が強いと言えるのです。
「他人が自分をどう思うのかは、他人の課題であって自分の課題ではない」と、アドラー心理学の「課題の分離」の考え方を持って、他人への執着心を抑えていくことは、自分らしく生きるのに必要なことなのです。

 
「嫌われる勇気」に関係していると思いますが、誰に嫌われても平気でいられるでしょうか。愛する人に嫌われても平気でいられる人になりたいのでしょうか。自分らしさが人間離れする恐れを考えるべきであり、それが、知性と感性そして人格として、自分らしいかどうか考えてほしいところです。
 

「他人がどう思うのか?」を気にせずに、相対的に他人との比較を止めることも重要です。

 
こういうことを言ってしまって、好ましい人を参考にする、ということをしなくなる危険を感じないのでしょうか。参考に出来る人というのは、自分にない良いものを持っている人ですが、それは、比較することで分かることなのです。だんだん、他者を全部無視しろと言っているような筆致です。
 
それに、他者との比較は、するまいと思っても、してしまうものです。それを、するなというのは、超人的無視力を養えと言っているに等しいでしょう。相対的という言い方はおざなりです。
 
このことは、当たり前のこととして、比較にこだわって、うじうじしているときに、言ってあげること、つまり、人と比べても仕方ないだろう、で済ませることなんです。
 

「世間では~」、「一般的には~」、「みんなが~」などといった考え方をしていると、それはあなた自身の考えではなくて、総じて他人の考え方や価値観に従っていることと同じになってしまいます。
たしかに、自分にとっては何のこだわりも興味も無いことを決めるような場合など、時と場合によっては一番選ばれているものを選ぶことは、過ちを避けることに繋がります。
しかし、何でもかんでも自分の意見や価値観を持たずして「みんなが良いと思っていること」や「みんなが悪いと思っていること」に従ってしまうことは、やはり「自分にとって何が大切なのか?」という自分の中で見出すべきものを曖昧にしてしまう恐れがあります。

 
自分の意見や価値観を持つことは、他者との関わりや比較やその情報を得て学習することなしにはできないと思います。他者からの自由を説きながら、学習も反省も出来なくなる恐れがあります。
 
私が相手をしたアドラー教を宣伝していた者は、曖昧なことばかり言いながら、執拗に他者の意見をおとしめてきました。言葉だけにこだわって理屈をこねていると、人間の心のブレーキが利かなくなり、極論を詭弁で言い張るようになります。そこには人間としての感性と思慮が失われた有り様が表れます。
 
その者たちは、人の言ったことの中で、言い返せるところだけ、言い返して、都合の悪いところは無視してゆくのです。したがって全体の文脈が保てず、一部をあげつらって全体を言い得たつもりになってしまいます。把握力が、鍛えていないために、劣化し、それに気づかないか、それもまた無視しているようです。
 

あなたも今一度「自分はどういう考え方をして、何を大切にしているのか?」を吟味して、自分の中で大切なことを見出してみるようにしてはいかがでしょうか。

 
何を糧に吟味するのでしょう。自分の感じたことを是とするのでしょうか。不都合なものを無視して、都合の良いものだけで満たされた精神で?
 

自分が文字通り、ずっと無我夢中になってのめり込めることが見つかれば、それはとても幸せなことです。

 
当たり前のことです。しかし、ここでも、人の迷惑にならない範囲で、という、当然の制限が無視されているようです。人の迷惑も無視してゆくのは幸せではないはずです。
 
 

 
キリスト信仰の、人からの自由は、古くは、迫害者を意識して唱えられたのかもしれません。しかし、この世と、神との、二つに同時に仕えることはできない、という聖句は、今も生きているのです。讃美歌には、世の友われらを捨て去るときも祈りに答えて慰め給わん、・・だったか。
 
嫌われる自由というのは、ひるがえって、なんてやつだと、相手にされなくなってゆくので、近づきたい人や愛する人には、行使してはいけない。でないと、広がって、誰からも、話にならない、とんでもない自己中、と見なされるでしょう。また、世辞だけ言って気遣ったつもりの者もいましたが、真の気遣いの必要を無視しないように。
 
気に入らないことは、心を病むほどには気にしなくていい、ということです。思い煩うな、という聖句があります。気になっても解決しないことは、保留してください。無視してしまうと、学習にならず、反省にもつながりません。無視ではなく、いったん離れて休んで、気が向いたら思い出す、という保留によって反省放棄や学習放棄を避けてください。
 
自分の意見や感性を絶対としてはいけない。絶対の意見や感じ方で凝り固まることは、いっとき、楽になっても、結局、人格を、感情鈍麻と浅薄な思考によって、破壊してゆきます。人間は、一生涯、反省し学習し成長する必要があります。
 
人間の感じること、人間の判断すること、また、人間らしさ、というものは、成長という時間的にも、及ぶ範囲という空間的にも、決して絶対的ではありません。一時の思いに短絡して、全体を決めつけて、長い一生を無にすることのないように、人に向かって語る人は、よくよく考えてほしいと思います。そして、反省して修正可能であってください。それが、成長可能ということです。
 
この記事は、どうも、対人関係のトラブルと、他者の存在を、混同しているように思われます。筆者のブロガーは、何か、対人関係で、ひどい目にあったのかもしれません。だからと言って、学習するのに、本だけ、読むだけ、見るだけ、というわけにはいきません。動かないものだけでなく、動く心を持っているならば、他者を避けてばかりはいられないでしょう。仲間ぼめだけでは成長はありませんから。
 
好かれても好かれなくても、嫌っても嫌われても、この世の他者は関わってきます。対人関係が苦手なら、苦手なりの関わり方がありそうです。そのことについて、私は、決して得意ではありませんが、努めるしかなく、十分ではないけれど、無視すればよい、という短絡で、感じない人や考えない人にはなりたくありません。成長を考えれば、必要と不要が、総て最初から分けられる性質のものではないと知るべきです。
 
課題の分離というけれど、生身の人間は、人間の心は、分離できません。言葉の認識だけ分離しようとしても、他者へ行使すれば、分離されたことに対応する反応が返ってくるだけです。私も、そのように反応した他者の側であったこともあります。反応への相手の反応が、恐ろしく鈍く、身勝手であったことを覚えています。
 
私たちは、生きて、常に刺激を受け、反応しているのです。そういう割り切れない関係が止むことは、死ぬまでないのです。一気に解決よりは、むしろ、折々の、心の癒しを考えるべきでしょう。
 
 
(2019年09月14日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

アドラー教とカルト

 
  アドラー教とカルト
 
 
気に入らないことは無視しましょう・・これがアドラー心理学の教えの一つです。
教えている時点で、学問ではなく宗教だということも、前に書きました。
しかも、人間性を考えてゆくと、明らかな欠陥があります。
それは、その教えに従うと、徹底した自己中心に陥り、学習しない人になることです。
ゆえに、アドラー心理学は、現時点で、アドラー教というカルトと判断しています。
 
気に入らないことを、心に留めて、日を改めて考えることで、新たな気づきを得ることがあります。
 
それを無視するということは、たとえれば、善人か悪人か、会って益のある人か、ない人か、それが、はっきり分からないまま、追い返すようなものです。
 
気に入らないこととは何でしょう。まず、悪口が思い浮かびます。
しかし、あるときに悪口が、全部、有害だと断定できるでしょうか。
多くの人は、悪口と批判を、混同しているのです。
 
正常な批判は、根拠を示し、人道に基づいています。
不備や欠点や見逃しているところを指摘するのが批判です。
 
悪口は、おとしめるだけで、根拠がありません。
 
カルトは、批判されると、雨あられのごとく、悪口を返してきます。
カルトは、妄想に立脚していて、根拠が無いので、弁明が出来ないために、
悪口か詭弁しか返せないのです。
否定されると、怒る以外に、反応が出来なくて、
人によっては、罵詈雑言で、人によっては、ねちねちと遠回しに、
わざと分かりにくいことや、受け取りようのないことを言って、
迷路に誘い、疲労させて、退かせようとします。
カルトは、安易に受け入れる人だけを好むからです。
 
私の知っているカルトは、平気で嘘を吐く人でした。
そして、それを責められると、気に入らないから無視するのです。
つまり自己主張はするが、何も聞いていない人です。
 
ここでは、カルトには、事件を起こしニュースになる前の、
これを多くの人が信じたら、被害者が出るだろうという予想をも含みます。
 
私が相手をしたカルトは、
賛同を得るためには、世辞を言って、褒めまくる人でした。
そして、まるで、子どもに説教するような、丁寧語を弄しました。
分かりやすいだろう、というわけです。
やさしいお人柄と思われたいわけです。
そのような言説では、深い考察が出来ないのは明らかです。
でも、浅薄であっても、やさしいからと受けいれる人は騙されているわけです。
 
いい言葉は、いい意味に受け取りましょう、という、
思いやり?や、素直さ?に見せかけたものが流行っているような気がします。
 
本当の思いやりは、愛に通じるものですから、安易なものではないでしょう。
 
しかも、気に入らないことを無視するアドラー教においては、
気に入られそうなことしか言わなくなるような、例えば、
世辞であるとか、丁寧語とか、幼稚な言葉遣いとかが、メインになってくるでしょう。
無視される側には立ちたくないからです。
 
しかし、世辞ばかり言っていたのでは、真実は明らかにはならないのです。
多くの真実は、世辞などの丁寧語の遣り取りで得られることはなく、
ときには、衝突してでも、時間をかけて、
それこそ、テーマによっては一生のスパンで、継続して、考えるべきことが多いです。
そういうテーマに、小学校の道徳のような幼稚な言葉を当てて、
言い得た気分になっている者がいるということです。
 
真実は単純だからと、
まるで、深く考えるな、深く考えるな、と言って
無視を勧めるようなカルトを警戒してください。関わらないでください。
カルトの言う単純さは、思考停止による短絡に過ぎません。
誰にとっても、思考停止は、有害です。
 
だから、もう一度書いておきます。
気に入らないことを、心に留めて、日を改めて考えることで、新たな気づきを得ることがあります。
その可能性を、無視という心の暴力によって切り捨てれば、新しいものは何も生まれません。
 
無視することは、問題意識を持たないことですから、何の解決にもなりません。
無視すれば、そこから先の思考はありません。つまり深い思考がなくなります。
 
そして、知性としての思考のみならず、
思考が短絡するようになると、情緒的な感受も鈍くなります。
思考によって深められた洞察と理解の可能性そして未知への期待が、
無視によって、いっしょに放棄されるからです。
 
無視するということは、なかったことにすることですから、
次に話のテーマにするとき、また、同じ無視を繰り返さないといけないことになり、
未知が、いつまでも、未知のまま、ゴミ箱に捨てられ続けることなのです。
 
人に批判されることが大嫌いな人の便法として、実際には、
その場しのぎとして、逃避として、唱えられている無視という短絡は、
人間を、深みのない鈍い人格に変えてゆきます。
しかも怒りっぽさだけは、心の内側に、負債のように溜まってゆくのです。
 
つまり、前にも書きましたが、
無視するということは、学習と成長を拒否することです。
人間の健全な心の活動を妨げる宗教はカルトです。
 
無視することではなく、そのとき不快であるなら、保留することです。
無かったことにするのではなく、題材として残しておくことです。
いわば、無視は暴力、保留は非暴力なのです。
 
一人で、心に余裕のあるときに考えてみてもいいでしょう。
別の人と話し合うのもいいでしょう。
心と頭の中を、経験を織り交ぜて、転がしてゆくうちに、
問題は、解決しなくても、整理され、処理されて、
対立軸となるか、糧となるか、何らかの形に収束してゆくでしょう。
それが正常な思考、正常な人間性だと思います。
 
 
(2019年09月13日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

教えを拒む者

 
  教えを拒む者
 
 
今まで、書いてきたことではありますが
 
例えば情欲の聖句
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書
 
この教えを、情欲をいだくなという教えとして、守れる人、いません。
 
思春期以降、男性は、女性を、情欲をいだいてみることを避けられません。
それが人間だからです。
 
だから、まあ、できるだけ守りましょう・・??
 
そんな安っぽい道徳など、キリストは言っていないと思います。
 
神のレベルの無罪が欲しいなら、こういうことだ、という教えです。
守れるか、守れないだろう、守っていると思う者は偽善者だと。
 
守れるものは一人もいない。すなわち、罪なき人は一人もいない
という教えだと思います。
 
総ての人は、罪ある人であり、赦しが必要である。
これが教えの本質だと思います。
 
この解釈を知らない人たちは、なおも、気安い自らの、そして社会通念的な解釈をもって、キリスト信仰を世間話のように語るでしょう。それで分かったつもりなら、偽善と言ってよいのです。
 
 
神に対しては、正直以外、何も通用しないと、何度も書いてきました。
つまり、精いっぱい正直であれば、神は寛容をもって赦してくださるでしょう。
許可ではなく、赦免です。神は人の弱さをご存知だからです。
 
だから、人が自分で正当化したり加減したりしてはいけません。
ましてや、そこに、神聖の御名を付けてはいけないと思います。
 
罪と偽善を、讃美の上塗りで誤魔化せないのと同じです。神は既にご存知です。
人の思う善は、巡り巡って、罪になるかもしれないという可能性。
 
つまり、人の罪は、人が思っている以上に深く、様々に影響を与えることがあります。私たち人間の頭で、罪を限定してはいけません。私たちには、自分の行為の影響を果てまで追う能力はないのです。
 
だから、讃美するより大事なのは、罪を甘く見ないことです。いかに、正直な自分を神の前に捧げられるか、そこに、人間の罪とその赦しと救いの本質があることを知ってください。
 
神の寛容さこそ、人間でも信仰の義を与えるという神の秘密にあります。神秘があることだけでも知っておれば、結果が善であれ、罪であれ、赦しと救いが成就されるでしょう。辻褄合わせなどせずに、神の前に、祈りにおいては、精いっぱい、正直であってください。
 
神が人を見捨てないということは、何をやらかしても赦されることではなく、神のほうから約束を反故にはしないということです。正直な祈りを、先でも後でも、いつも待っておられるのです。
 
正直な告白こそが、悔い改めなのです。シャロームや楽山のような、悔い改めより赦しが先などと言う愚か者もいるようですが、神の寛容を、何をやらかしても赦されると決まっているような詭弁で置き換えてはいけません。そういう者は、いくら神が寛容でも、自分で救いを拒んでいるのです。
 
もう一度、言います。正直な告白こそが悔い改めです。それを神は待っておられるのです。
 
その根拠となる理由は、人間にとっては、
絶対の正しさは手に負えず、努めても、そのとき判断しているに過ぎず、
正しさとして、神に捧げられるものを、人間は持ち得ず、
そのことは、・・俺が、絶対の正しさ?とんでもない・・と、分かることなのです。
 
罪人である人間には、信仰?によって、神?が神だと分かる・・なんてありえません。
それは、カルトの神?に過ぎません。
そういうところの弁えにおいてのみ、キリスト信仰は厳格であります。
言うまでもなく、そこを外すと、カルトに堕してゆくからです。
 
神の前では、ただ、精いっぱいの正直だけが、人間が努めて、手に負えるものなのです。
 
聖書を、特に新約聖書を読むときに、このことを忘れないようにしてください。
 
人間は、真理を知っていると思い込みやすいのです。そうではなく、真理を知り得ないからこその、神の寛容であり、キリストの愛なのです。神の真理を知ることではなく、神の真理を知り得ない自分の人間としての立場を弁えることであり、これが、神の真理に対する、人間の真実だと思います。
 
超常の神の真理や奇跡の救い主イエス・キリストを強く信じようとすればするほど、人間は、自らの描く想像を神の意志だと思い込みやすくなり、それを真理としてしまいます。
 
人間は、神を正しく思い描くことなど出来ないのに、思い描いてしまいます。それは、避けられないことですが、本当の神ではなく、こうあったらしいという人自らの想像に過ぎないことを知りながらも、唯一の希望として祈らないではおれない自分を知ることこそが、キリスト信仰とカルトを分ける決定的な相違点なのです。
 
信仰は、喜びのみを求める心に芽生えることはありません。
そういう者の祈りは、感謝と讃美さえも、欲望と偽善の自慢に過ぎなくなるでしょう。
 
信仰は、存在する悲しみのうちより、人間の心の、よみがえりとして与えられます。
 
私たち信仰者は、聖書に描かれたキリストに従うのではなく、聖書に描かれたキリストを想うことで自らの不完全を知って、決して絶対ではない自らの解釈と判断であることを弁えながら、日々の祈りにおいて、悔い改め、すなわち、精いっぱい正直な祈りを捧げ、完全の境地ではなく、不完全だが成長可能な人生の道を歩むのがキリスト信仰であることを知る人間、即ち、キリスト者であります。(洗礼の有無は、現状のキリスト教をめぐる有り様を見れば、もはや、決定的なものとは言えないと思います。)
 
 
(2019年09月12日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
古い記事は載っていません。
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
古い記事もインポート済み。
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

わたし

 
   わたし
 
 
私は
亡き叔母と
今も長い入院生活の兄が統合失調症なので
また、私が中学生のとき、兄が、
病識のある状態から病識のない妄想状態へ変わるのを
目の前で見たので
(その当時は「狂った」と思っていました)
  
兄のためにではなく
私の疾病恐怖のために
この病気が目の仇となって
精神科医のみならず医者としても
一般常識的な適性は全くありませんでしたが
精神科の医者を目指すためだけに医学部に進みました。
  
人前でろくに物も言えない私には
無謀なことでしたが
私自身も発病するならその前に
精神科の医者の臭いを嗅いでおくんだ
という
統合失調症古くは精神分裂病という病気を
睨みつける視線のみが懐深くありました。
それしかありませんでした。
  
私の対人緊張の強い性格に対して
精神科医として不適の烙印を押した人も
少なくとも二人いて、私は傷つきましたが、
通念的な適性においては正解なのでしょう。
高校のときからそれは知っていました。
  
なんとか医者の資格を得ても
結局、不眠症と鬱になって
12年間お世話になった病院を辞めてしまいました。
多くの迷惑を病院にかけてしまいました。
  
病気とは?正常とは?という問いを抱えながら
精神病院の医者として生きるという人生は
不適応傾向の私には困難でしたけれど
まことに身勝手で申し訳ないが
後悔はしていません。
それで気が済んだということです。
  
私は、希死念慮を慢性的にいだきながら
洗礼後今に至るまでを支えてくださった神様に感謝して
仕事を辞めたのち
ちょうどネットの時代が来たので
ホームページに、メーリングリストに、
そしてこのブログに
あくまで私の信仰と神への思いとして
信仰についての記事を書いてきました。
  
私は、小学校一年で患ったリウマチ熱のために
大動脈弁逆流(AR)という弁膜症で
最近は心臓の予備力の低下を痛感しています。
おもな症状は動悸と不整脈です。
  
そういうことがあるので
生涯独身で未経験のまま死ぬ
ということにも諦めのような納得をしています。
  
さらに免疫が低下したのでしょうか
帯状疱疹を患い
しかも後遺症としての神経痛なのか
なかなか顔面痛が治らず
毎日鎮痛剤を服用してごまかしています。
  
外にも殆ど出ることなく
認知症介護施設にいる母の家
つまり実家の諫早のマンションの4階に住んで
実家をゴミ屋敷に変えてゆくような暮らしです。
  
ネットをあちこち巡ることと
ブログを書くことが唯一の楽しみであり
季節を液晶の中の画像で味わうという不自然さで
体力の衰えと痛みのために
 
 気は済みましたから
 御心でしたら
 痛みと痒みと苦しみを取り去ってください。
 そして眠るように意識を失わせ
 御許へ逝かせてください。
  
という祈りをほぼ毎日のようにしています。
 (ひどいですね)
  
今後いつまでブログを書けるかどうか分かりません。
今までは下書きを毎日のように書いて
何日分かは投稿予定分がまだあるという状況でしたが、
この記事で、それもありません。
 
(実際には、この記事の後も、たくさんの記事を書きました。謝。)
 
成り行きは神がお決めになることですから分かりませんが
そろそろ・・という思いもあって
今さらのように私事を書いております。
  
たいへんお世話になりました。
ここ半年ほどでしょうか、
こちらからのアクセスも増やして、
アクセスしてくださる方も増えました。
感謝いたします。拝。
  
ハレルヤ
  
(2018年06月22日、同日一部修正)
(2018年07月16日)・・?
  
 睨む(にらむ)
 懐(ふところ)
 烙印(らくいん)
 痒み(かゆみ)
 諦め(あきらめ)
 御許(みもと)
 
 
(2019年09月11日、一部修正して再録)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
古い記事は載っていません。
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
古い記事もインポート済み。
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

トラウマ

 
  「トラウマ」
    http://st5402jp.livedoor.blog/archives/110529.html
   
 
 
※ 
前に書いてもいますが、今回は、2つの記事にわたって、少し、私の個人的な事情を書いておきます。不快に感じる人が多いだろうと思います。発散です。

私の母は、認知症介護施設にいます。私の兄は、私が中学校の時に発症した統合失調症で、今も入院中です。私は、兄の病気を治そうと思って精神科医を目指したのではなく、遺伝素因からの疾病恐怖のために精神科を目指しました。私の性格は、統合失調症病前性格に当てはまるところがあるからです。
 
 
トラウマ:
博多駅地下の喫茶店にて
  
 なに考えてるの
 
 何言ってるの
 
 子供みたい
 
 頭、よかったじゃない、(過去形)
 
 学生さん
 
 嫌な人なら結婚しないよ、ね、
 
  ・・・
 
 君は賢き笑みを浮かべ、隣の子供を諭すように、あやすように
 
 (ときどき、今も、自分が
 あの駅の前に突っ立っているような気がする。)
  
  
彼は「精神科には向かないと思うね、うん」と言った:
 
 (何様のつもり?
  
  思い出した。昔、
  実験のテキストに載っていた設問
  
  君は、そんなに甘くない、とか言われたという。
  つまり不正解
  それで、ある日、私に
  教官に何か言われなかった?と聞いてきた
 
  私は、いいです、と言われたと。
  つまり幸いに、正解だった
 
  私が逆の立場なら、
  正解を知っている人がそばにいれば
  必ずそれをを尋ねるだろう。
  不正解のままでは嫌だから。
  
  しかし君は
  自分の不正解の解き方を語って
  ああだからこうだから、こうだと思うよ。
  それで話を終わらせた。
  
  つまり君は・・
 ・・正解を必要としない人なのだ。
  真実を必要とせず
  自分の納得だけで満足できる人
  
 だから平気で
 青二才の君が青二才の私に
 求めてもいないのに忠告をする。
 しかも、向かないというネガティブな忠告を。
 
 それで平気でいられる。
 
 私は、対人緊張のため、何も言い返せなかった。)
 
 
名のある精神科の講師:
 
机に腰かけて講義をしたり、
自分は人とは違んだよという雰囲気を出す人
母校の精神科医局にて面接を受ける。
 
 なぜ精神科を?
  
 にんげんの、こ、こころに、き、きょうみがあって・・
 
 (氷を当てて舐め上げるような視線)
  
 対人緊張のある人は、精神科には向かない
 ・・ひらめきとしてね・・じゃわたしはこれで。
  
 人を斬る言葉として、ひらめきとしてね、を使う人は初めて見ました。
 
 こういう人の、こういう一言で、人生の可能性が閉ざされることもあるんだな・・
 
 私には、確かに対人緊張症があります。
 しかし、この人は、自分が緊張させていることに全く気づいていない。
 かつ、誰かを面接すれば、自分も面接されていることにも気づいていない。
 あるとき、対人緊張があれば、一生ずっと緊張しっぱなしだと思っている。
 だから平気で、ひらめきとしてね、と言って、あっさり去ってゆけるのだろう。
 
 ・・この人は、精神科医ではない・・と思った。
 
 
この二人、ずっと医者として正常人として常識人として生きてゆく?・・
 
  ・・くそくらえ・・
 
 
 私が福岡からバイクで半日かかって熊本に行って民間の精神病院に潜り込む2~4年以上前の、
 まるで現在進行形のように時々浮かんでくる三つの、トラウマと、殴られるより悪い話。
 
 卒業後、大学を離れ、12年を一応、民間の精神病院の
 精神科医として過ごしたのち不眠症のために挫折。
 しかし、それで、ようやく気が済んだ。
 
 10年も同じ病院に入れば、私のような者でも、馴染んでくれる患者さんがいる
 と思えたことが、唯一の収穫でした。
 
 
※ 
トラウマというのは、現時点で現実的な関わりが全くなくてもストレスを与えてくるので、見苦しいけれど、たまに発散しなくてはいけないことがあります。
2番目と3番目の二人は、上のことなど、覚えてもいないでしょう。今も、一人は小児科医として、もう一人は精神療法医として、診療を続けているのです。二人とも、自己愛のために、細かい配慮に欠ける人だと、のちに判断しています。二人が、アドラー心理学、つまり、私が批判している自己中製造カルトのアドラー教に関係あるかどうかは知りません。
※ 
私は、運動神経が鈍いにもかかわらず、25歳のときに二輪の限定免許を取って、阿蘇や天草方面にチョイ乗りしていました。3番目の医局の講師が、講義で、オートバイで疾走する夢には、頑固な性的欲求不満が隠れていることがある、と言っていました。確かに欲求不満はありますが、夢ではなく、実際に乗っていたので、欲求不満を発散していたのでしょう。3番目の講師は、君たちは知らないだろうけれど、という感じで、人が言わないようなことをポショポショ小声で言うのが好きな人でした。柔らかい口のわりに、他の先生も言っていましたが、頭の中は、ガチガチに硬い人だと思います。

通念的な、口が上手で社交的な人が精神科の医師に向いているということがあり、2番目の同僚は、それが私にないから、向かないと言ったのでしょう。口だけは優しくて心がカチンカチンに硬い人がいます。面接に自信を持っていたようですが、精神科の患者に優しい言葉でも掛けたのでしょうか、早速、依存されて、会議室まで彼の名を呼びながら入ってくるという、面接しないよりもまずいことになったことがあります。

精神科の面接をしていて、心に弱点を持つ人に接して、考えたことがあります。依存されないために大事なことは、好意的な、よそよそしさを持つ、ということです。あなたはあなた、私は私、でも、できることはしますよ、というスタンスを持つことが大切だろうと思っています。これは、精神的な距離の問題ですが、距離という言い方をしなくても、当然のことなのです。下手に、できもしないような誠実で親密な好意を表すことは、かえって、患者さんの心を傷つけてしまいます。

ということですが、私も、予想はしていたとはいえ、不眠症のために、精神科の医者という職業を全うできなかったし、自分の家庭を持つことも出来なかった失格者です。根に持ってもしかたないし、この歳で先の心配もしようがなくなって、今は、できることをやって、お祈りして、もう、大半は、ぼあっと、のんびりもしているんだろうと思っています。失礼いたしました。
 
 
(2018年07月16日)
 
(2019年09月10日、再録、若干修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
古い記事は載っていません。
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
古い記事もインポート済み。
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
ブログ村ランキングリンク:
 INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html