ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

飲兵衛さんの思い出+

 
飲兵衛さんの思い出。再録+
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12448086748.html
 
 
  飲兵衛さんの思い出
 
 
昔学生の頃
バイクで帰ってきて
路地へゆっくり入ったところで
赤いお鼻の
飲兵衛(のんべえ)さんが
バイクに近寄ってきて
紙切れのようなものを差し出して
訳の分からないことを
たいそう不機嫌そうに言うもので
うるさいから無視して進もうと
エンジンを吹かし始めたら
怒ってバイクの前に
立ち塞(ふさ)がってしまった
 
腹が立ったが顔を見ると
やり場のないものが
鬱積(うっせき)しているらしい
どうしよう
このままでは帰れない
無理にバイクを前進させれば
ぶつけて怪我(けが)をさせるか
喧嘩(けんか)になって
こちらが怪我するかも知れない
 
しかたないと諦(あきら)めて
エンジンを止めて紙切れを見た
数字が書いてあった
電話番号のようでもあるが
よく分からない
近くの通りの公衆電話のことなど
首をかしげながら話していると
顔が和(なご)んできた
のに気づいた
 
最後にはニコニコ
笑って通してくれた
気づいた
怒った飲兵衛の話など
まともに聞く人はいなかった
皆ごまかして逃げるか
力ずくで押しのけるか
 
しかしこの飲兵衛さん
にだってプライドがあった
あちこちで角を立てながら
さらに傷つきながら
求めていたのだ聞き手を
 
関わるまいと逃げる人
から聞く人へ
キーを回して
エンジンを止めるという行為
それは聞き手になりますよという
こちらの意思表示になった?
 
あのとき思った
案外、精神科医に向いている
かもしれないという見込み
は見事に外れたが
患者になってしまった今は思う
心を病んでいる人も
それぞれの精神の
受け皿を持っている
 
 
(1999年06月26日)
-------------------------------------------------
思いがけず、自分が和ませた、癒したかのような
気持ちになっていましたが、
飲兵衛さんもいろいろです。乱暴な人もいるかもしれません。
たまたま、そういう飲兵衛さんに出会ったひとときの間、
そういう出会いによって私が、ある意味、
思いがけず、和んだ、癒された、つまり、
そういう飲兵衛さんがいて、よかった、ほっとした、
という思い出かもしれないと今は思っています。
 
 
  武装
 
 
正直と正直は
解決を見出すかもしれない。
 
飾りと飾りは
どこまで行っても飾りだ。
 
偽りと偽りは
どこまで行っても偽りだ。
 
偽りと正直は
加害者と被害者を生む。
 
怒りと怒りは
衝突して何も見出さない。
 
怒りは一時的だが
根に持つと怨念になる。
 
大切なのは基本的に
正直をもって武装しておくことだろう。
 
 
(2020年03月26日)
 
 
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さかのぼる矛盾+

 
 
 さかのぼる矛盾
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12448602201.html
 再録+
 
 
いたはずの先祖から
幾千年の恨みの坂を
今をさかのぼり
いずれ上らねばならぬ
 
経験は否定できない
個人にとっては真実になりうる
経験から与えられ考えたことは否定できない
しかしあまりに
出る杭は打たれて
マイナスの経験が繰り返されると
あらゆるものから身を引くことが真実になってくる
信じて待ち望むことが罪に思われてくる
御国に至ることも辞退すべきではないのか
 
母は恵方巻きを買ってきた
母と私で2本ずつ
恵方ってどこにあるんだろう
恵方に辿り着く確信があるわけでもなく
母は縁起を担ぐ
担いでおかないと不安な気分になるのだろう
母は南のほうを向いて弱った顎で
ぉんぐぉんぐと食らいつく
のどに詰まらせはせぬかと母を気にかけながら
私はむしゃむしゃと食卓でむさぼる
 
恵方というか
御国に辿り着かせてくださいと
祈ることも傲慢に思えてきて
この世の生が苦痛とともに
早く終わりますようにと
祈る先に神はいないが
神は的外れの罪の祈りを聞いておられることを
神ゆえに人がいて
人ゆえに神がいることを
諦めきれずに
大いに矛盾して
否定できない経験と
大いに矛盾して
呂律(ろれつ)の回らぬ祈り
 
とても運が悪く階段のように
道を逸れてゆく阿弥陀クジなのかもしれない
 
主よ
私はそんなに良い人間ではありません
 
先祖を裏切り
父を裏切り
母を裏切り
人を裏切り
自らの矛盾をさらに裏切り
 
唇を切れるほど噛みしめながら
一歩一歩
絡みつく情の杭と
曲がった知の釘を
怒気の足裏に踏みひしぎ
幾千年の坂を上る
 
(2011年02月04日)
(2020年03月21日、一部修正)
 
 
  宿命と使命
 
 
幾千年の坂など
上れるわけもないのに
 
上る宿命を感じている
 
その坂以外に道はないかのように
 
引かれるような
引き裂かれるような
 
私は母に似ているがコピーではない
私は父に似ているがコピーではない
という当たり前のことなのだが
 
コピーではない自由も
既に織り込み済みであるかのような
血の筋の末端に居て
 
否定できないものが
私を縛るだけでなく
私を導いているのかもしれない
 
神はご存知であるが
私は何も知らない
 
罪の系譜
病の系譜
 
私がどうやって
福音の系譜にいるかと言えば
 
もし信仰がなくて
福音の系譜にいなければ
今、生きてはいないだろう
という否定の否定でしかないが
 
コピーではない自由も
既に織り込み済みの
それこそ父よりも母よりも
神に信頼しようとするのは
 
父と母の性格の中で
良くないものを私は既に持っていて
良いものを持っているかは不明であり
そこから逃れたい気持ちでもあったのか
 
神への全面的な信頼は
父への母への
他者へのそして自分への
全面的な信頼を否定し
依存を否定したいのか
 
しかし
そういう既知と不明からの自由や
コピーではない自由よりも
否定よりも否定の否定よりも大切なことは
 
他者よりも自分よりも大きな存在の命のもとで
地上における自我の必死と必滅の理(ことわり)よりも
神の存在ゆえに
人のわざの絶対を否定したのちには
人のわざの相対を生かすことだろう
 
人の絶対は慢心し訂正不能を好むが
人の相対は努力して成長することを好むからだ
 
 
(2020年03月25日)
 
 
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捏造の文脈

 
  捏造の文脈
 
 2020年03月23日
 教と幸福の関係について(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24060313.html
 
 
ウィキペディアには本の著者は哲学者・心理学者と書いてあるのに、楽山は、心霊主義と言って、著者 W・ジェイムズという人の本を多く引用する記事を書いて、批判を無視して、連作のように、自己正当化に専念しているようです。
 
(ネットより)
ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA
 

(楽山)「著者の文章の背後には評判通りの心霊主義的な思想が深く根を下ろしているようだ。」
 
(私)「ウィキペには、W・ジェイムズは、哲学者、心理学者と書いてありますが、霊が分かるっぽい?楽山は、心霊主義と言っています。」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12575215059.html
 」
 
少しでも自分に有利な言葉を見つけようとして、見つけたつもりの曲解の自己愛に基づいて、詭弁を重ねています。まさに、そういう欺瞞の態度こそが、楽山の本質的な魔性を証明することになります。
 
カルトに警戒を呼びかける文脈を作りながら、こういうことを書いている自分は大丈夫ですよ、という印象を与えようとしています。根腐れのわざ、と言っておきます。いちばん危ない人が、自分を除外して呼びかけている、という気色の悪い文脈です。
 
こういう捏造の文脈に対しては、もし警戒を呼びかける心の持ち主なら今までの情報操作と詭弁と嘘などは無かったはず、という根拠において全否定するべきです。今まで楽山の書いてきたことが、この記事のインチキを証明しているのです。意地で連作している感じが、臭い。
 

たしかに、こういう考え方をしている宗教信者は多いと思う。もっとも私が知っている宗教信者というのは大方は幸福の科学の信者のことだけど。

宗教と幸福とがこのような関係にあるとすれば、人々が宗教的信仰の与える幸福をばその宗教的信仰の真理であることの証拠と見なすに至るのも、驚くにあたらないであろう。もしある信条がある人に幸福感を与えるものであれば、その人がその信条を奉ぜざるをえなくなるのは当然であるといっていい。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.122)
 」

 
ここでは、まず、"幸福感"という言葉を用いて、楽山は、騙す騙されるということを読者の意識から除外したいようです。しかし、カルトについては、刷り込み、イメージ操作、やさしい言葉、夢物語、おとぎ話、詭弁、脅迫、によって、"騙(だま)す"ということを除外しては語れないものです。カルトの幸福感は偽りです。
 

たとえば、信者からこういう話を聞かされるのは珍しいことではない。
「自分はこの宗教を信じてから幸福になった。この宗教は本物だ」
「この教えを実践したら幸福になった。この教えは本物だ」
でも本当なら、宗教の正邪と幸不幸とは別問題であり、正しい宗教を信じたら幸福になり、間違った宗教を信じたら不幸になるとはかぎらず、正しい宗教を信じていてもよくないことが起きたり、間違った宗教を信じていても幸福感に包まれることはありえるだろうし、

 
幸福感は主観であり、騙されているときの異常な気分からも生じ得るもの、そして、経過によっては大いに揺らぎ得るものです。そのことを無視して、正しくなくても幸福になればいい、というような感覚を植え付けようとする詭弁です。
 

また人が何を幸福と感じるかは人それぞれ異なっているのだから、自分がA教で幸福感を得たとしても、他の人もA教で同じだけの幸福感を得られるとは必ずしもいえないことだ。

 
これは、信仰は"人それぞれ"、ということを悪用して、幸福になるのだったら、いいじゃないか、という自己正当化の詭弁です。カルトは、幸福感のまま、人を犯罪に誘導する、ということは、危惧として、また、事件として、明らかになっているのです。
 
いかなる言い訳も無駄となった事態に、さらに、悪あがきをしている楽山の底が見えてきます。寒気がします。
 

人は宗教に凝ってしまうとそんな簡単な理屈も分からなくなってしまうことがあるから困る。

 
楽山は、前に何度も書いたことですが、軟派カルトの宣伝者です。被害者面と傍観者面と批評家面と丁寧語とボンヤリ言語が、楽山の騙しのテクニックなのです。
 
宗教も、信仰も、理屈も、情緒も、人間について言葉以上の深い理解の欠けている楽山の、詭弁による自己正当化なのです。今、この記事で、誰よりも困らせているのは、楽山その人です。
 

実を言えば自分も宗教にはまり込んでしまっていた時期はそんな風になっていたのだから恥ずかしい。

 
何も変わっていません。今もカルト宣伝者です。証拠は、破たんした理路に、気づかない感受性に、ここまでずっと表れてきました。そして、ここでも詭弁を武器としていることで、いっそう、明らかです。
 
どこまでも、批評するかのような芝居で、どこまでも、自己正当化を図っていますが、もはや、総て無駄なのです。汚い本性が、ずっと、表れているのです。本人だけが気づかない、あるいは、知らぬふりをしている。身の毛が弥立ちます。
 

これも一種のマインドコントロールなのだろうけれども、宗教を信じてしまったがために思考力、判断力が低下してしまうこともあるし、ここはよくよく気をつけたい。

 
楽山は、自分も前にカルト信者だったが、今は、大丈夫だから、気をつけてください、みたいなことを言いたいのでしょうか。誰よりも、楽山に気を奪われないようにきをつけてください。
 
ヤケクソ状態に近いのであれば、いっそう危険です。決して関わり合いにならないでください。平静を装っても、楽山は、カンシャク玉か、ネズミ花火のような状態です。ますます人間性を失って、見境がなくなり、節操を失うプロセスにあります。
 
私が楽山について言ってきたところの、カルトによって思考力判断力が低下する、ということを、逆手にとって、よくよく気をつけたい、などと言っています。気をつけたいなら、楽山は、背筋の寒くなるような騙しの詭弁をやめなさい。書くのをやめなさい。
 
被害者意識をもって、気をつけたい、などと言っても、騙し続けてきたのは、今までの記事とコメントの文脈から、楽山であることが、とっくに明らかになっているのです。
 
楽山という、ネットの臭い臭いネズミは、断末魔でしょうか、バーゲンでしょうか、嘘吐きパリピでしょうか、何も応えることなく突っ走って、まっすぐ物を見る目を失って、くるくる這いまわっています。
 
腐った根性が、出没ではなく、ずうっと、無実を装う素知らぬ顔のままだから、平気を装う醜い姿で芝居がかって、結局、ますます深い深い悪意を示すことになります。
 
こういう人の書く文章は、意味を汲み取ろうとしてはいけません。伝えようとしているのは、意味ではなく、無節操な支配欲ですから、まともな理路も情緒も表れてはいません。
 
騙(だま)しの悪だくみだけが、隙(すき)あらば、袖(そで)からも、裾(すそ)からも、ずけずけと無遠慮に入り込もうとする貪欲の病原が、臭く息荒く流涎しているだけの様相です。
 
 
学んだこと:
 
正直という人間の真実を失った者は、やがて、自分自身をも隠すようになるだろう。
そしてついには自分自身をも失ってしまうだろう。
 
 
(2020年03月24日、同日一部修正)
 
 
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他者の口を利用

 
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 2020年03月22日
 神との対話の危険性(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24047881.html
 
 
楽山は、自分の霊感を主張して止みません。しかし、楽山は、霊感の働く人であるならばありえないような、無理解、異なる意見に対する不感不応、理路の破綻と情緒の欠落、などの人間的欠陥だけが露呈してきた経過です。もはや、悪意以外何もないのでしょう。それで、また、人格を自ら破壊してゆくのです。
 

下の文章によると神の言葉は耳に聞こえるのではなく、心にうかんでくるのだという。

神は、わたしにとってはまったくの実在である。わたしは神に語りかける、するとしばしば答えを得る。わたしが神に指図をこうと、わたしがそれまで懐いていたのとはまったく違った思想が、突如として、わたしの心にうかんでくる。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.111)
 」
これは体験者の手記として、本書に引用されているものなので孫引きになってしまうのではあるが、こういう風に、霊的存在の声が聞こえるのでなく、その思いが直に心に伝わってくるという話は、その相手が神、高級霊、守護霊、生霊などの違いはあれども、他所でも読んだり、聞いたりしたことはある。

 
引用書籍の人が、どういう体験をしたのか、事実なのか、比喩的に表現しているのかは分かりません。しかし、今まで記事とコメントを見てきた楽山については、カルトが自身を言い表すのに、全く説得力が無いために、超常や神聖や心霊の体験を持ち出して騙すしかないという習性を考えれば、楽山や、シャロームなどは、全くのインチキであることしか表れていません。
 

たとえば、某スピリチュアル系のブログで、自分の心にうかんだ思いについてよくよく吟味してみれば、それが自分の思いではなく、自分以外の存在(指導霊、守護霊、生霊、悪霊など)の思いであることが分かるということを書いているのを読んだことがある。このブログ主は、そのようにして心の中の他者との対話を試みているようだった。霊好きの人のなかには、毎日、霊と話しているという人がいたりするけれども、こういう心の中での対話をそのようにとらえている場合も少なくなさそうだ。

 
直感、直観、インスピレーション、ひらめき、思いつき、そして、理解に至るまで、人間の精神活動は、複雑ですが、楽山は、人が書いているからと、霊の分類まであげて、見せびらかします。つまり、説得力のないことを、他者の口で補おうとする醜さです。
 
都合の良い他者の口を正しいとして取り上げ、都合の悪い他者の口を無視するのは、まさに、カルトの精神であります。
 
この、人が書いていると楽山が言うことも、指導、守護、導き、誘惑など、心に起こっている活動や作用を分けてみたのかもしれない、ということを、楽山は、考えることが出来ないのです。
 
楽山には、可能性がありません。断定だけを暗示的に繰り返しています。そもそも人格が、既に、自己中絶対の方向に進行性に病んでいるからです。
 

タロット占いをする知人も、これと似たことを話していた。この人の占いはよく当たっていたので、その理由を問うと、何となく分かるのだという。カードのケースにある説明には、カードの意味について抽象的かつ簡潔にしか書いていないのに、なぜカードの意味をそんな風に具体的かつ詳細に語れるのかを問うても答えは同じで、何となく分かるのだという。どうも語るべき言葉が自然と心にうかんでくるらしい。

 
楽山は、よほど、人に影響を受けやすい人格のようです。あるいは、人の口を利用しなくては、何も語れないのでしょうか。こういう情けない有り様も、楽山の知性?と感性?が、実は、欲望だけによることを物語っているのです。
 

自分は世界には人知ではうかがい知れぬ不思議なことがあっても別におかしくはないと思うので、オカルト、神秘主義を頭ごなしに否定しようとは思わないのではあるが、心の中での対話は、心の健康のためにはよくないという話は聞くし、霊的存在との対話にハマり込んでしまうと段々とその命令に逆らえなくなり、やがては自分の人生を乗っ取られたり、現実にこの世で生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れがあるという話も聞いたことはある。実際自分もこの手の注意の大切さを実感した経験がないでもない。

 
オカルトを否定しないだけでなく、むしろ、自分に当てはめている楽山ですが、そのことを「否定しようとは思わない」という言い方で、客観に見せかけて、受け入れさせようとするのが、楽山の、ボンヤリ言語、という、とても卑怯な細工なのです。
 
「生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れ」というのは、「注意の大切さを実感した経験がないでもない」と言って、つまり、自分は霊能者だ、という印象操作の、ボンヤリ言語のインチキのやり方だということを忘れないでください。どんどん、怪しさが増します。
 
昔、見かけたことのある、お祭り騒ぎの乗りみたいに、祭りの出店でタコの入ってないタコ焼きを売るような、下品なインチキ商売だということを、楽山自身が、次々に表しています。
 
楽山やシャロームのような人物が、いちばん、真実を追求しる人たちを、自分のインチキレベルにおとしめたり、カウンセリングする人たちの邪魔をしたりする悪魔性の、でき損ない半端人間なのです。
 

世の中には霊好きな人…この手のことにどうしてものめり込んでしまわないではいられない人もいるだろうけれども、一般的にはそういうことはほどほどにしておいた方が無難だろうし、できればはじめから近付かないのが一番だろう。触らぬ神に祟りなしというのは本当だと思う。

 
霊好きな人と、まるで他人事のように言っていますが、霊に固執してきたのは楽山です。というより、触らぬ神に祟りなしと言うなら、霊のことなど、書かなければよいのです。ここは、ある意味、批判者に対する脅迫とも受け取れるでしょう。ヤバい本性です。
 
知情意の整わない者が、自己愛が高じて、自分は特別なんだと思い込みたくて、数々の思慮と情緒の破綻を指摘されても、他者に笑われても、なお、お気楽に、霊が分かるっぽい自分を、安易に短絡した記事を書いて、霊を聞くことはあるんだ、などと吹聴しているだけなのです。
 
何故なら、霊が分かるっぽい楽山は、まるで、人間が分かっていない。さらに、人間の信仰が分かっていない。理路が詭弁だらけで通っていない。情緒が鈍くて、感受することが、いずれも幼稚な夢物語かお飛び話のたぐいになっています。
 
かつ、楽山は、そのことを全く反省せず、学習せず、自分が特別ということだけにしがみついているので、成長のない訂正不能の穴グラに居て、過大な自己愛によって、ひたすら、発信だけを繰り返して、恥に恥を重ねていることに気づかないでいます。どこにも届かない妄想世界の作り話ですから、騙される人が出てこないように、私は、批判記事を書いています。
 
こういう、見かけだけ優しい易しいボンヤリ言語で、詭弁、印象操作、刷り込み、マインドコントロール、というのが、知らずに感染して、いつのまにか同じような人格破壊の病巣に進行してゆく、という楽山のやり方です。
 
楽山は、決して、スピリチュアルを云々できる人ではありません。要・警戒、というより、要・全否定だと思います。社会の敵としての特徴がそろっています。
 
決して、楽山の言を、吸い込んだり飲み込んだりしないでください。既に受け入れてしまった人は、できるだけ早く、汚物入れか何かに吐き出してください。
 
楽山の影響下にいることは、とても危険です。楽山は、ボンヤリ言語で、どこが詭弁や誘導であるか、ちょっと読んだだけでは分かりにくい書き方をするからです。
 
 
(2020年03月23日、同日一部修正)
 
 
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うそのまま

 
  うそのまま
 
 ありのままの自分でいること(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
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 楽山日記(LD)
 
 
反省・修正をする気がない者は、びくともしないと言いたげに、びくともしないことこそが不自然極まりないところでも、いっそう、自分を張ってくるものです。
 
今までの2年にわたる経過から、いくら飾っても、いくら謙虚や中庸を装っても、既に、数々の嘘や詭弁がバレているのに、楽山は、その恥ずかしさを感受できないのだろうと判断しています。
 
仏様の心が分かるっぽいと言ったり、発達心理学を心霊の話にしたり、哲学者を心霊学者と言ったり、語っている詭弁が循環論法の矛盾を来たしたり、愚かさを積み上げてゆく不感不応の醜態。
 

最近は、ありのままの自分でいることをよしとする考え方に共感するようになっているのだが、どうやらこの考え方は随分古くからあるらしい。

このように本能的に自然のままに反応すること、このようにあらゆる道徳的な詭弁や強弁から解放されていること、これが古代の異教徒的感情に一種の威厳を与えて人を感動させるのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.135)
 」

 
嘘吐きを止めない楽山です。飾ることを止めない楽山です。ありのままを善しとするなら、上にあげたような今までの経過は無かったはずです。
 
また、嘘を吐いています。"道徳的な詭弁"など、あり得ません。詭弁は、嘘の一種であり、道徳に反することです。うっかり受け入れたりしないでください。どこまでも狡猾な楽山です。
 
楽山にとっては、自然のままであることは、道徳から解放され、悪意をもって、嘘を吐き、詭弁に専念することのようです。
 
シャロームにおいてそうであったように、理路の崩壊が、さらに進んでいるようです。だんだんケダモノの言い張りになってゆくでしょう。その分、楽山の偽善の証拠が資料としてそろって、批判はシンプルになってゆくでしょう。
 

ちなみに、これと似た考えは、佐々木丸美の小説『雪の断章』においてもっと踏み込んだ形で詩的に表現されている。

私は雪の言葉を聞いた。
裏切りがあるから信じ、崩れるから積むのでしょう、溶けるから降るように。
降ることも溶けることも自然の意思で行為は同じ。なぜ積むのが大切で崩れるのが哀しいの? 信じることよりも裏切ることの方がなぜいけないの? 同じ心から生まれたものに正しいとか正しくないとかってそれはどういう意味なの?
(『雪の断章』佐々木丸美著、講談社、昭和56年、p.120)
 」

 
楽山の意志表示のようです。既に、ケダモノなのでしょうか。思考も情緒も意志もない雪という自然現象のお伽噺の因果に喩えている悪の台詞を、変わっているから気持ちがいいのでしょうか、真実であるかのように語ります。
 
裏切ることも、同じ人間の心から生まれているからいいんだ、正しいとか正しくないとかないんだ、とでも言いたいようです。恐らく、楽山には、基本的な節操・分別さえもないのでしょう。
 
思考と情緒と意志を常識として持っている人間は、こういう、善悪の判断を拒否して自己正当化を謀(はか)るような、愚かで乱暴で、かつ、人間としての無思慮を証明するような悪の言葉には、同意しないはずです。
 

恥ずかしながら自分は元々は堅苦しい主義や封建的道徳よりは、情緒で判断する傾向が強い方であったが、

 
楽山は、情緒というよりも、快楽原則で判断していると思います。楽山は、思考だけでなく、情緒的感性も壊れているということが、随所に表れているからです。
 
情緒的判断の対比に、「堅苦しい主義や封建的道徳」としか書けないところに、まともな道徳による判断の欠如が、真実に目を向けないことが、さらに自慢として、表れています。
 
主義や道徳は、堅苦しかったり、封建的であったりするものばかりではないでしょう。人間ならば守るべき節操というものがあります。楽山には、それがないから、詭弁で自己正当化するしかなくなっているのです。楽山日記は、悪意の産物です。
 

宗教に凝るようになってからは何事もその宗教の規定する是非善悪によって判断し、実際の行動はもちろん、ものの見方や考え方、喜怒哀楽などの感情さえもコントロールしようとするようになっていったのだった。しかも自分のそれだけでなく、周囲の人に対してもそうしようとしていた。いってみれば典型的なマインドコントロールというやつである。

 
楽山を、間違っても、HSというカルトを克服した人などとは、思わないでください。楽山が、ずっとしてきていることこそ、カルト宣伝と質的に何も変わらないことなのです。
 

でも近頃は、その反動のせいか、それとも元々の性質に戻ったせいか、宗教の価値観に自分を合わせようと躍起になるよりも、生来の情緒を取り戻し、その情緒に素直でありたいと思うようになってきている。

 
反省みたいに言っていますが、何ごとも自分の規定する是非善悪によって判断し、人に対しても、ボンヤリ言語で暗示して、マインドコントロールしようとしている経過が、楽山日記です。
 
また、こういうところでは、きれいごとしか書けないのも、楽山の特徴です。超常の心霊好みで詭弁家で人間離れしたいことばかり書いている楽山のどこに、取り戻せる「生来の情緒」があると言うのでしょう。楽山は、霊感を自慢したいだけだと思います。
 
楽山の変わらぬ性質として、過去の間違いを決して認めないことです。反省しているなら、もはや、嘘を吐いたりも詭弁を弄することも、しないはずからです。
 
楽山の反省の弁は、自身を低くする謙虚とは対極にあるもので、自分はこんなに柔和だと見せかけるための、白々しい芝居の、嘘っぱちです。
 
具体的に間違いを認めて反省するのではなく、そして修正するのではなく、曖昧に「生来の情緒を取り戻し」などと言っているのは、またしても、有能な人間だと自慢したいだけなのです。
 
楽山は、ずっと、狂った情緒のままに、反省せず、整わない詭弁を弄しているだけです。
 

こういう態度はかつての自分のようにすべてを宗教的規範に合致させないではいられない熱心な宗教信者からは毛嫌いされ、時には退転者、落伍者の烙印を押されてしまうものではあるけれども、自分はこの過程において、信仰を捨てることで真の信仰を得るとか、修行を放擲することで修業目的が達成されるということを経験できたのはよかった。

 
楽山は、自身を宗教的規範に合致させることなど、恐らく、無かったのではないかと思います。楽山の記事は、ずっと、自己中精神、自身の霊感自慢でした。楽山が信じて、訂正不能なのは、自己顕示欲による心霊わかるっぽい自慢からの我欲に過ぎません。
 

自分を向上させようとするときは、「~ねばならぬ」という理想にこだわり、努力することも必要な場合もあるのだろうけれども、これとは別にありのままの自分に正直になり、自然体でいることも大事なのだと思う。

 
むしろ、逆に、人間から、当為、即ち「ねばならぬ」や「するべき」の追求を除いてしまったら、楽山のような、嘘吐きの、極めて傍迷惑な人になるということです。
 
当為は、理想ではなく、人間が節操を保つために現実に必要なものです。そのために、人間は、真実を追求し、当為を考え、反省し、修正し、成長するのです。楽山は、それを否定しています。
 
楽山の、きれいごとのボンヤリ言語「ありのままの自分に正直になり、自然体でいること」は、良心も感性も思慮も捨てて、ケダモノになることを意味しています。
 
警戒してください。楽山は、ちょうど、「狼と少年」という童話と逆の、狼は来ないから、自身はまともだから、今のままで安心、と言っているようなものです。楽山自身が狼だからです。
 
 
(2020年03月22日、同日一部修正)
 
 
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ピタゴラスの定理

 
  ピタゴラスの定理
   図形で証明する方法の1つ。
   (再録、図を描き直しました。)
 
 
ピタゴラスの定理三平方の定理
の証明方法は多数あるらしいですが
 
誰でも描いてみる下図
 
正方形3つ

f:id:stdsts:20200321002756p:plain

上2つの正方形の面積の和が
下の2つの長方形の面積の和=下の1つの正方形の面積
となることを図形によって示して証明します。

 

f:id:stdsts:20200321002445p:plain

 
 
(2020年03月21日)
 
たわいなくても、自分で考えたことは大切にします。失礼。
 
 
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危険人物

 
  危険人物
 
 
危険人物とは
犯罪性の強い人でしょうか。
 
犯罪性の強い人は
日頃から乱暴であれば気づかれやすいでしょう。
 
しかし本当に恐ろしい者は
そういう印象から遠いところにあります。
 
聖書では
偽善者と言われています。
守っている
知っている
分かっている
見えている
という確信に満ちて
しばしば教えたがり
出来た人物と言われるのが大好きです。
 
自己愛性人格障害とか
ナルシシストとか言われます。
反社会性人格障害とか
サイコパスという言葉もあります。
 
文字通り自己愛が強く
自我を自分で砕くことが出来ず
自分の不備や欠点を決して認めず
罪悪感がなく反省せず
あらゆることを自己中心にしか考えず
 
あらゆる不都合において
自分を責めることが出来ず
人のせいにします。
 
ときに丁寧語や幼児語のような
平易な言葉で表し
そのことを精神療法であるかのように
広めようとします。
 
自己顕示欲が強く
気障(きざ)で衒奇(げんき)的で
"ひらめき"を誇示して
 
繊細な神経を持っているかのように
一見、上品に振る舞いますが
 
高等感情が無いために
人に対する思いやりや配慮に欠けていて
 
ネガティブな忠告をすることを遠慮せず
あらゆる深謀遠慮が不可能で
差し出がましいからと自制することがなく
相手が傷つくことを配慮して遠慮したりが出来ません。
 
特に自らの失敗を処理できずに
弱そうに見える誰かに対して
情報不足や無遠慮などお構いなしに
不向きや不適正のマイナスの忠告めいたことをして
アドバイスしたのだからと
いいことをしたかのように自己満悦します。
 
「向かないと思うね、うん」
「ひらめきとしてね」
などという「ね」付きの気色悪い丁寧語には
十分注意しておく必要があります。
 
実際は侮辱であり
受けた側は長くトラウマとさえなりかねないので
そういう人ととは
まともな付き合いなどしないことです。
できるなら遠く離れて関わらないことです。
 
出くわしたり何か言われたときは
そういう人だと分かったときも
逃げるしかありません。
あるいは言い返すことも出来そうですが
言い返しても根腐れなので変わりません。
 
偉そうな態度と併せて
謙虚そうな芝居をしますから
うわべの評価は一定しませんが
一度被害に遭うと一生忘れることはないでしょう。
 
自分を責めることが出来ない人です。
責められると、いつでも
腹いせの復讐を考えるような
原始反応しかできない人です。
 
勝ち負けと快楽原則で世渡りをしていて
人に勝つこと負けないこと優ることを生き甲斐とします。
その前提で謙譲芝居をしてインテリぶっています。
 
褒められることを快感としますが
人格的に欠陥があるので、多く失敗します。
それらを知られることを何よりも恐れています。
 
欠点を隠すことしか出来ず
生産的に反省し修正することが出来ません。
 
中身がなく、思想は通念的で独創性がないので
気取った言い方で、うわべ賢そうに見せかけますが
正体が分かれば、いちばん、つまらない人
そして、嫌われる人なのです。
 
人格者として一定の尊敬を得ている場合もありますが
実際は、偽善者であり、人間らしい温もりがなく
冷淡で、笑いか、不快と憎しみだけの快楽原則ですから
しんみり悲しむことが出来ません。
代わりに、共感の芝居をするだけの大根役者です。
 
彼らは、宗教・教育・医療など
人の命や人生を左右する仕事についてはいけない人です。
 
しかし実際、数式だけは得意だったり
口だけ達者だったりすることがあり
医者だったり、医学生だったり、教師だったり
ある程度の知的職業についていることもあります。
 
しかし人の悲しみに共感することが出来ないのです。
対等の立場においての共感や同情を感じることができず
いつも上から下へ見下ろして教えを施してあげる態度であり
人には反省が必要などと白々しく言いますが
自らの非を認めず反省することなどありません。
 
最悪である偽善者は
不快を感じても
悲しみを感じない人。
 
いつも丁寧で礼儀正しい外面を持ち
言動の乱暴さとは比例しません。
 
彼らは
演技と思い付きの
気の利いた言い方をして
慢心して
・・腐っています・・
 
 
(2020年03月20日)
 
 
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